お知らせ と ミニエッセイ

2012.2.9
つれづれ日記も、去年の個展告知から更新しておりませんでしたが、
このたび、ブログを開設いたしました。
今後はこちらの方に最新情報などを載せていきたいと思いますので、
よろしくお願いいたします。
アドレスはhttp://ameblo.jp/m-heavensfieldとなっております。


2010.11.5
5月からすっかりつれづれ日記の更新をしておりませんでしたが・・・
前回予告した個展の日程に変更が生じたため、お知らせいたします。

1月の開催予定だったのが、6月30日(木)〜7月5日(火)に変更になりました。
諸々の事情により、やむを得ず・・・ですが、
その分より良い展示ができるような予感が!
と希望がわいています。

天野雅子個展「黄金の門」
2011年6月30日〜7月5日
池袋オレンジギャラリー


2010.11.19
絵を描く行為というのは私にとってほとんど祈りに近いものである。
なぜなら描いているときの心の状態が無であり、一つのある境地に達しているからである。
そこは真に純粋な創造と表現の場であり、思考も、方法論も一切介在しないのである。
ほとんどの画家は恐らくある種の方法論を持っていて、
下地はこれ、色の出し方、マチエールの作り方はこれ、
というモノの中で少々モチーフを変えただけの「シリーズ絵画」を
主に展示のために生産しているが、
それは私の言うひとつの「祈り」ではなく描くための描く行為であるようにみえる。
私の場合、まず描きたいという気持ちになるモチーフ(すなわち心を表現しうるモチーフ)
に出会うか、ドンと一つの映像(完成された絵)が降りてくるか、
でしか制作という行為が生まれないのである。
そして表現する段階においては「考えているひま」はない。
なのでどの絵を見ても自分で「よくぞこんな風に描けたなー」と
人ごとのように感心することもあるし、だいたい振り返る事は出来るが、
どうやって描いたのか、どのようにしてその描き方を考え出したのか、覚えていないのである。
要は絵によって、内容によってすべての方法が変わってくるので、
毎回一から学んでいるような心持ちなのである。
だからいつまでたっても「手癖」が着かなくて良い反面、絵に取りかかるときは
「どうやって描くんだったかしら?」と一瞬おもう。
が、すでに完成型がみえているときは自然に出来上がっていくのだから面白い。
当然その状態になるためには考えずに出てくる、
身についた技術は必要だし持っていなければならない。
その点、幸いにも私は心と手先が完全に一体化出来ていると感じる。
当然まだまだ技術は発展途上だが、、。でも技術しかないような、内容のない、
心も精神性も感じられないつまらない絵だけは描きたくないし見たくもない。
少なくとも私は偶然に頼ったりせず、本物を創りたいと思っている。
だから毎日日課みたいにイーゼルに向かうとか、年に何枚描くのだ、
とかいうことはあり得ないし、数が少ないのは仕方のないことかもしれない。
完全に純粋な創造を保つためには。。。


『光と闇』

私は常々、なぜひとが闇を嫌うのか不思議に思っている。
なぜかというと私は絵画制作において人の内面にある光をテーマとしているが

要するに光を描くには闇がなければ描けないからである。
禅問答みたいな話だが、もしかしたら光を描くために闇「を」描いているのかもしれず
また闇を描くために光を描いているのかも。
でもどちらにしろ、どちらかが欠けていてはお話にならない。
そもそもこの世界において陰と陽、二つの相反するようにみえるものは決して一つでは
存在できないのである。
光が上で闇は忌み嫌うべきモノという考えは一体いつ、どこから来たのだろう。
二つで一つ、同列に考えられてしかるべきものがいつの間にか別れた概念となっている。
でも絵を描くという行為を通して改めて実感すると、
世の中の仕組みとはこんなにシンプルなのかと今更ながら非常に感慨深い。


在るということ

この世に存在するということ自体、非存在にはなれないという。
我々の肉体はいつか滅びるかもしれない。しかしながらどうなのか。
それらを形作っている意識、またはエネルギーそのものは、、、。
絶滅した動植物に関しても、彼らの魂はどこか別の次元には存在していると
私は考える。なにせ、この我々が存在している宇宙という「場」は11次元まで
存在すると言われており、それら一つ一つがパラレルワールドになっているのだ。
なんて果てしないことだろう。
周波数が違うだけで見えないし聞こえない。この三次元の地球ですらあることなのだから
より複雑な次元になったら一体この宇宙はどんな風に見えるのだろうか。


『神殿』

自分の心の中には美しい神殿が建っている。

むしろ心の内側に壮大な宇宙があって、その中に神殿も建っていると言った方が
いいのかもしれないが。
その神殿は天空の雲に中に、あるいは透き通った水の底に静かに揺らめいていたりする。
もしくは形すらなくただ感じるものにすぎない場合もある。
いずれにせよそれらはすべて自らの「聖なる」もしくは「神としての」領域の象徴であり
居場所であり、いまだその全貌は計り知れない「場」なのである。
しかし「そこ」は常に美しく、私のための場所であると知りながらも、常に憧憬をもって
眺めているのであり、また見上げているのであってそこに住むことは出来ないのである。
なせなら今はこの地上にいるからである。
けれども確実に「そこ」は私の中心であると言える。
その「場」の主は確実に私なのである。


美とは

美とは底知れぬ自我の中でふいに見つけるほのかな光であり
暗闇に光る一つの星である。
広大かつ薄暗い己という宇宙に於いて何をもって「我は」と言えるのか。
それらの光をみつけ、また集めてようやく「これが己である」と言えるのではないか。
つまり美を収集するということは自らを拾い集めることであり、
唯一の自己発見のすべであるのかもしれぬ。
そこに美を見いだし発見するということはそれが己の反映であるからではないのか。

すべての美を含んだ宇宙を知るということは究極的には自分を知るという行為に
他ならないのだ。


『モチベーション』

絵を描き続けるモチベーションとは?という質問を受けた。
それは己を知るということ。自己探求に他ならない。
自分(一人の人間)とはすなわち宇宙の表現であるからして
非常にとらえどころなくまた広大で無限である。
だから「つづく」のである。
自分を完全に「知る」ことができたら地上における芸術活動はおそらく存在しえないし
人間自体、存在しないのではないだろうか。
人が人であるということ自体自己探求であると思うしそれは芸術家においても例外でなく、
その活動というものはその人が己とは何かを探る過程であるから。
絵を描くということが純粋に行われる場合、その行為は無心で行われる。
観念的なモノは存在できない。だからこそ真のむきだしの自分の表現となる。
すなわち思考や思想もない。

そうなると個性がなくなるように思えるかもしれないが、
むしろ逆で、そういったものを一つ一つ脱いでいった状態こそ
本当の純粋な核としての自分が現れるのであり
その結果生まれた表現を通して、自分を見つけられるのではないだろうか。
本来の自分とは余計なモノをとりさった状態なのだ。
だからこそ真に人を、自らを癒すことができる。
人は私の作品を通して自分の内面を見つけるのである。



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