追いかけた背中はいつまでも近くならなかった。
手を伸ばせば届きそうなのに、届かない距離。
それはまるで蜃気楼。
ちょっとした光の加減で消えてしまう。
Miraggio
ハッとなってボクは目覚めた。
「夢・・・・」
小さく呟きながら窓の外を見る。
まだ暗い。月が出ているからそんなに遅い時間ではないと思う。
窓を開け放つ。
開け放たれた窓から夜風が吹きこむ。ひんやりとした夜の空気が部屋に満ちる。
改めて、月を見上げる。
白銀色の綺麗な三日月。淡い光を放って辺りを照らすその姿は、どことなく儚げで寂しい感じがする。
・・・完全に頭が起きてしまった。
「よっと・・・」
小さな掛け声とともにベッドから起き上がり、近くにあった服を着て、ボクは部屋から出た。
散歩がてら歩いて十分ほどのところにある湖まで行くことに決めた。
薄暗い廊下を抜け、玄関へ。玄関から外へ。寮の人たちを起こさないよう忍び足で歩く。
ふふっ・・・なんだか不思議な感じだ。
いつもと同じ風景が『夜』だというだけで全く違う印象をボクに与える。
角を曲がったところで、いきなりボクの目の前に人が現れた。
「ふえぇぇぇ!?」
こんな時間に起きて(しかもここを歩いて)いる人がいるなんて思わなかったから、驚いて変な声を上げてしまった。
一体誰だよ!まったく・・・
「・・・ってなんだ。キミかぁ。驚かせないでよ。」
そこにいたのはボクのよく知る人物だった。
「驚いたのはこっちだ。馬鹿。夜中に大声出すんじゃねぇ!」
相変わらず口が悪い。
だいたい馬鹿っていう方が馬鹿なんだよ!
「ボクは馬鹿じゃないもん!」
「ほぅ・・・。万年補習組がよくいうぜ」
「じ、実技では一番だもん!」
ボクはキミみたいに頭良くないから大変なんだよ!
「ま、せいぜい頑張るんだな。」
むぅ・・・・。
・・・・反論できないのが悔しい。
「そんなことよりさ」
「あ?」
「キミはなんでこんなとこにいるのさ。」
「・・・・そういうお前はどうなんだよ。」
「ボク?ボクは目がさめちゃったから湖まで散歩しに。キミは?」
「・・・・なんとなく」
なんとなくで夜歩きかぁ・・・・いったいどんな生活してるんだろ?
「月が・・・綺麗だったからな」
あぁ、成程。ボクは納得した。
「どこに行くの?」
「・・・・別に」
「じゃあ、一緒にいこっ」
そう言って強引に引っ張る。こうすればキミは口ではぶつぶつ言いながらも、ちゃんとついてきてくれる。
昔だったら、きっと振り払われていた。
この差が嬉しい。君と一緒にいられることが、とても嬉しい。そんなこと、君には言わないけど。
しばらく歩くと湖が見えてきた。
水面に月明かりが反射して、とても綺麗だ。まるで、湖の中にもう一つの世界があるよう・・・。
「綺麗だね!」
「・・・・・あぁ」
キミの視線は水面に注がれている。
何かを考えるようにして水面を見つめる姿は、なぜか、どことなく幻想的で、ボクは思わず見とれていた。
「?なんだよ。さっきから人の顔じろじろ見やがって」
どのくらいたったのだろう。そう、言われてボクはやっと我に返った。
「なん・・・・」
何でもない。と言おうとして、ボクはなぜか口をつぐんだ。
「?」
次の瞬間ボクの口から出てきた言葉は
「大好きなんだ」
自分でも驚くようなことだった。
「は?」
いきなり言われて、何のことかわからない、という風に首をかしげるキミ。
「月か?湖か?」
「ううん。どっちでもないよ」
しかし、
「じゃあなんだってんだよ」
ボクの口はそこで止まらなかった。
「ボクが、キミを、大好きだってこと」
「な、何を突然・・・」
明らかに狼狽するキミ。
「キミは、ボクのことどう思ってるの?」
追い詰めるように言うボク。
「どうって・・・」
「ボクのこと、好き?嫌い?」
嫌いじゃない。と言うあいまいな答えは許さない。
そう言われて言葉をなくしたキミは、困ったように下を向いた。そしてそれから、何を決心したのか「悪い」と言った。
「なんで?答えになってないよ」
ここまで来たら後には引けない。引けば絶対後悔する。後悔だけはしたくない。
「だめなんだ」
「どうして?」
キミは軽く瞠目して、自らの掌を見つめた。
白くて、綺麗な手。
「俺は・・・俺は誰かを傷つけることでしか生きていけない。俺の手は他人の血で赤く染まっている。これまでも、これからも」
そう言った君の声には自嘲と虚無が混在していた。
「俺はお前が・・・好きだ。でも、一緒にはいられない。一緒にいれば、俺はきっとお前の周りにいる奴を傷つける。傷つけて、殺してしまう」
「・・・・・・・・・」
「そんな奴が誰かを『幸せ』にできるはずがない。ましてや、『幸せ』になるなんて許されない」
だからだめなんだ、と君は笑う。
困ったように。諦めたように。
その様子に、ボクはだんだん腹が立ってきた。
「キミはずるいよ・・・」
「・・・・・・・・・」
ボクは大きく息を吸う。
「そんなんじゃいつになっても幸せになんかなれないじゃないか!」
力いっぱい叫んだ。
ここが湖でよかったと思う。他の人の迷惑にならないから。
「人を傷つけたから、傷つけるから幸せになっちゃいけない?そんなことあるわけないじゃないか!
誰でもみんな人を傷つけたり、人に傷つけられたりするんだ!」
涙で景色が歪む。ボクは袖で強引に涙をぬぐった。
「キミはキミの知らない誰かを傷つけるのが恐いんじゃない!誰かを傷つけて、ボクが傷つくのが恐いんでしょ!
ボクが傷ついて、自分が傷つくのが恐いんでしょ!
そんなのずるいよ!」
一気にまくし立てる。
肩で息をしているのが自分でもわかる。
「キミが人を傷つけないようにボクが見張っててあげる。
ボクにはキミのこれまでしてきたことを全部帳消しにするような能力はないけど、ボクはキミのそばにいて、キミを見守っててあげる」
キミが幸せでいられるように。
だってボクはとっても運がいいんだよ?
キミの不幸なんか塗りつぶしちゃうくらい。
だから・・・
「そんな理由で逃げないでよ・・・!」
Φ
ボクが何であんなことを言ったのか。
あの時はわからなかった。
ただ、ただ、必死で・・・でも、今ならわかる。
ボクは怖かったんだ。
だって、湖を見つめているキミはあまりにも浮世離れしていて、触れたら消えてしまいそうだったから。
捕まえていなくちゃって思ったんだ。
キミが蜃気楼になって消えてしまわないように。
今は、もう大丈夫。
どんなに空が綺麗でも、どんなに水が澄んでいても。
キミが夢幻となることはないのだから・・・。
作:白螺
2010.09.25