ここではむろいけ園地の(自然,歴史)の概略を述べます。

概要(自然,歴史)


むろいけの航空写真



大阪府は1987年

北生駒地域の土砂採取跡地(室池北部地区)を緑に回復することを基本として
野外リクレェーション施設の整備と隣接した金剛生駒国定公園「室池集団施設地区」 を対象に室池の水と緑を一体的に活用した自然公園施設として整備を図り、
市・府民が、自然に親しみながらスポーツ,リクレェーション、学習など、
多様な文化活動を行う拠点として都市近郊の自然公園にふさわしい
「緑の文化園」の整備を図る。

という"緑の文化園計画"を発表しました。


整備については府と民間事業者、施設管理と運営及び利用促進については緑の文化園管理運営協議会が
おこなうとしています。その後、約4年を経て平成3年(1991年4月)、四條畷市蓬莱の丘陵地に、
「見て、触れて遊べる自然が待っている」をキャッチフレーズにした、
総面積119haの緑の文化園がオープンしました。
本園は、四条畷神社、権現の滝、住吉神社、飯盛山などが近くに位置し、水の澄んだ室池、
コナラ,クヌギなどの落葉樹林中の木製自然観察道、四季折々に美しい草花が咲き乱れる散歩道、
野鳥観察台、展望台などの自然を親しむ施設を有する"水辺自然園"、
スポーツ施設、セミナー室、リクレェーション施設、宿泊施設などが完備されている"緑の文化園"、
主に子供達が安心して遊べる砂場、滑り台、ブランコ、アスレチック設備を有する"森の宝島"
の3つのゾーンからなっていて今では年間をとおして、府民の憩いの場として親しまれています。


本ホームページはこの"むろいけ"を中心として作成されていますが、
"むろいけ"の歴史について少しみて見ていきましょう。


現在の室池は古池、中ヶ池、砂溜池、新池の総称で、総面積が18.7ヘクタールの広さを持つ池のことですが、
以下の古文書によれば、冬の厳しい寒さの頃にはこの清らかな水が氷となったものを切り出し、
山間の室に貯蔵し、これを夏に京都まで運搬したことが記録されています。


そもそも氷室なるものを作り出すにいたった、きっかけは紀元720年に編集された『日本書紀』によりますと、
"仁徳天皇六十二年の条に額田大中彦皇子が闘鶏(つげ)狩りに来られたとき、光るものを発見され・・・
 ・・・天然氷の貯氷庫、即ち氷室であることがわかった。"とされています。
また同じく仁徳天皇の条に「盧(いお)のうちに地を深く掘り、カヤなどを敷いてそこに氷をたくわえた」
と記されています。この当時、氷は<ひ>と呼ばれており、削氷(けずりひ)は饗宴の献立のなかに
加えられていたようです。また「熱き月に当りて水、酒に漬して用ふ」とありますが、
食用の他に遺体の防腐用や、氷の厚さによりその年の豊凶を占ったりしていたようです。


『延喜式』(920年)に「讃良郡氷室一処」とあり、室池は、 江戸期まで氷室池(ひむろいけ)と 呼ばれていました。
氷室とは、 氷を貯えるところをいいます。この地名は、枚方、交野にもあります。
山深く夏でもひんやりとしており、 冬の間に池の氷を切り出し、"室(むろ)"に貯蔵しておきます。
それを夏になって取出し、 天皇に献上したのです。また『延喜式』によると
讃良に氷室が二カ所設けられているとありこれは飯盛山付近で、
讃良北御室が室池、南御室は龍間と考えられています。
実際竜間東谷には、大正時代末まで氷をとっていたという池が残っていますが、
氷は荷車で中垣内におろし、船で大阪へ送っていたようです。


この氷室については長屋王(生没年 西暦676または684?〜729)邸跡発掘調査により出土した木簡に
「都祁氷室・・・氷 月日・・・数量」が記されていることより史実が証明されています。
人造氷が日本で造られるようになったのは、明治10年。大阪・横浜で同時期に売られ始めました。

その6年後、東京に製氷会社が設立され、生産は年々増加していきましたから
千数百年続いた氷室の役目は明治時代早々に終わったのです。


ところで"むろいけ"の古池、中ヶ池、砂溜池、新池は全て奈良時代から存在したのであろうか?
ということですが、江戸時代後期の有名な史実"上郷の庄屋専右衛門が私財と生命を賭けて
、安政5年(西暦1858年)7月25日新室池を完成した。"とあるを考慮すると
古池、中ヶ池、砂溜池は奈良時代、新池は江戸時代に出来たということになります。


因みに標高約270mにある室池は、四條畷の上水源の大部分を賄っていましたが、
平成10年4月からは淀川の水に切り換えたので、室池の水は使わなくなりました。