例えば本当なら太陽の光がさんさんと入ってくるはずのガラス窓に、家具を置いてしまえば、そこは暗くなってしまいます。
洋服ダンスの前に段ボール箱を積んでしまったら、洋服ダンスが開かないでしょ。中の洋服が出せないです。
これが「死んだ空間」であります。
作業机の上にモノを散らかしぱなしにしていたら、作業は出来ないですよね。
これが「死んだ空間」です。
作業机の上には普段は何も置いておかない。これが「生きる空間」です。
玄関に出しっぱなしの靴は「死んだ空間」
靴は下駄箱にしまいましょう。すると、玄関の「空間は生きて」くるんじゃないでしょうか。
茶室の床の間には、客人を迎える時には花を飾り、
客人が来ないときには、【何もない】状態が空間としては「生きている」んだと思います。
亭主も客人もいないのに枯れた花が置き去りにされていたのでは興ざめです。
モノが異常に豊富になってしまった現代は、
「死んだ空間」がやたらと目についてしまいます。
死んだ空間には腐敗した空気や妖気が漂います。
禅宗の「無」の境地にも似た現象なのかもしれません。
子供の頃に自分の部屋をあてがってもらい、
日曜日になると一生懸命掃除をして塵一つ残さず仕上げた、
あの閉じられた空間は実に「生きている空間」だった。
免許取立てで、あたらしい車を完璧に掃除して仕上げた
あの空間は実に「神聖な空間」だった。
仕事場にはある程度の広さをあてがってもらい、
自宅も、そこそこ余裕のある広さを確保した今、
ありがたみが薄くなってしまい、
どうも「死んでる空間」の存在が気になって仕方ありません。
淀んだ空間が精神をも淀ませてしまっています。
コレハ、ヨクナイコトダ。
時間も同様。
15分、30分、を大切に使っていた、若い頃の観念が薄らいでしまっています。
特に、どうでもいいような、つまらない時の過ごし方に関してのシャープな感覚が鈍っています。
仕事場でも本当にどうでもいいような死んでる仕事が多くて、
給料を頂いているので完遂しておりますが、
「死んだ時間」の何と多いことか?
何事も表裏一体なので、
必ずなにか得ることはある、というのはわかってはいるのですが
もう人生も半ばを過ぎて、
「死んだ時間」を費やしている余裕もだんだん厳しくなってまいりました。
これからの人生、どうやって
「生きてる時間」を活用していくか。大きな課題です。
増田三男先生も
「時間がもっと欲しい」と日頃おっしゃっていました。
【死んだ空間 死んでる時間】の対として
【生きる空間 生きてる時間】を提唱する次第であります。
死んだ空間、死んでる時間よ さらばじゃ!
