渋沢史料館
                  

明治維新の結果、日本の行政体系は廃藩置県をはじめとして、上から下までくまなく塗り替えられた。
幕府がたおれてから、町奉行所が官僚機構としての東京府となり、名主の制度が廃され江戸町会所が市民協力機構としての東京会議所となっても、そこには庶民生活の世話役的な性格が相変わらずであった。
明治8年には、第一国立銀行頭取の渋沢栄一も東京会議所の委員になっているが、当時の首脳は時代をよく見抜いて、窮民救済の養育院を上野に仮設したり、日雇会社を設けて道路の補修をしたりするだけでなく、市民必須の公共施設として、街灯の建設から青山、染井、雑司が谷、谷中など9ヶ所におよぶ共同墓地の開設管理、さらに商業実務教育のために商法講習所を運営するなど、幅広い公益事業をおこなった。東京会議所は、資金の涸渇と東京府庁との方針がしばしば合わず活動が拘束されることから明治9年12月に解散した。

渋沢らは首都の実業家を一丸とした世論代表機関としての東京商法会議所を明治11年に設立した。その設立の事情は2つあり、1つは外国との貿易を振興する必要からであり、もう1つは幕末に列強諸国と結んだ条約があとになって不平等条約であったことがわかってきたため、治外法権の撤廃と関税自主権の回復を促進するため、列強諸国に日本の立場を主張するため、商工業者の多数が集合して協議する仕組みの世論機関を必要とした。

列強諸国に不平等条約改正を主張するためには世論が必要である。その世論をつくる場所を形式的につくろうとし、明治11年に商法会議所の設立となったのである。

渋沢ら実業を国の基と先見していた先覚者たちにとって、武家支配の時代が終わったとはいえ、士農工商の序列観念が根強く残っていた明治の初期、商法会議所の設立は実業立国への環境づくりでもあった。

明治12年に東京商法会議所に日米友好にかかわる大仕事が飛び込んできた。
それはグラント将軍の接待である。南北戦争における北軍総司令官で、第18代米国大統領のユリシーズ・S・グラント将軍は、大統領を退任した後、夫人と令息をともなって世界一周旅行をおこなっていた。明治12年7月8日の夜、当時唯一の洋式建築であった虎ノ門の工部大学校講堂を会場として歓迎の大夜会が開かれた。

グラント将軍が王子・飛鳥山の渋沢家を訪問:
                       

             

グラント将軍を個人の私宅に招待しなくては西洋式礼儀にかなわぬということになり、グラント将軍が王子・飛鳥山の渋沢家を訪問したのは8月5日であった。西洋料理は精養軒の出張で撃剣試合や柔術試合などの余興で将軍一行の人々が機嫌よく談笑された。
その後明治天皇とともに上野公園で日本の伝統技芸を見物してから1週間後明治12年9月2日郵船で日本を去った。将軍は帰国後日本滞在・日本人の資質につき満足したことを周囲に喧伝し不平等条約改正に尽力した。


            澁澤榮一(しぶさわ えいいち)
                        天保11年2月13日(1840年3月16日) - 1931年(昭和6年)11月11日):

武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)に父・市郎右衛門、母・エイの長男として生まれた。幕末から大正初期に活躍した日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父といわれる。

澁澤家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける豪農だった。原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。市三郎も父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行った。14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この時の経験がヨーロッパ時代の経済システムを吸収しやすい素地を作り出し、後の現実的な合理主義思想につながったといわれる。
勤皇派が凋落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕えることになる。主君の慶喜が将軍となったのに伴い幕臣となり、パリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の弟・徳川昭武の随員として御勘定格陸軍付調役の肩書を得て、フランスへと渡航する。パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、慶喜の弟・徳川昭武はパリに留学するものの、大政奉還に伴い、慶応4年(1868年)5月には新政府から帰国を命じられる。

1867年パリ万博では、日本からの日本美術の出展が話題を呼び、Japanism(日本趣味)という運動が起こった。ルネサンスに匹敵する美意識の改革を引き起こしたと言われ、アール・ヌーヴォーの作家たちにも強い影響を与えたとされる。江戸時代、日本の漆器は世界的に有名で、japan という名で知られていたし、江戸末期には、広重や北斎の浮世絵がヨーロッパへと伝わり、ゴッホやマネなどの印象派の画家に大きな影響を与えた。Japanismという言葉の登場は、そのような日本の文化的影響力を映し出していたのかもしれない。

渋沢栄一は、フランスで学んだ株式会社制度を実践するため、及び新政府からの拝借金返済の為、明治2年(1869年)1月、静岡にて商法会所を設立するが、大隈重信に説得され、10月に大蔵省に入省する。

1916年(大正5年)に『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた。 『論語と算盤』にはその理念が端的に次のように述べられている。

参考文献: 渋沢栄一 日本を創った実業人 東京商工会議所・編 講談社
        NHK トラッドジャパン5


幕末の大老井伊直弼の日本開国と安政の大獄・桜田門外の変とそれからの明治維新:

島原の乱のあと三代将軍徳川家光によって鎖国令が出されて以来、わが国では長崎の出島に限ってオランダ人と中国人の商業活動が幕府役人の監督下に認められていただけであった。その間、欧州諸国では産業革命で大きくなった生産力のために、商品市場の拡大をめざして東南アジアやインドをまたたく間に征服し、清国にも侵略をすすめていた。19世紀の中頃にこうした植民地活動の先頭にたっていたのは英国であったが、日本に最初にやってきたのは米国であった。1853年の夏(嘉永六年六月)ペリーが艦隊をひきいて浦賀に開港を求める米国大統領の国書を携え来航(黒船騒動)した。米国側からこれをみると、米国の主要な狙いは清国貿易のための中継港や重要な産業となっていた捕鯨の補給基地また台風避難の場所が必要となっていた。

そこで日本に目をつけ、対日使節を数回にわたって派遣したがうまくいかず、翌年安政元年再び9隻の艦隊とともに現れて、武力を背景に日米和親条約の調印にこぎつけた。この条約の内容は下田,箱館両港を開き、米国船に水、食料、蒸気船の石炭など船中の欠乏物質を日本役人の手によって供給する程度の内容であった。
これに続き英、露、蘭との和親条約もできた。

日本との貿易に期待をかけていた米国商人には、和親条約に貿易に関する規定がまったくなかったため不評判であった。国内世論をみて米国政府は日本との間に通商の道を開くことに再び力をいれた。ペリー提督らの推挙で東洋貿易に経験豊かで人格見識もすぐれた52歳の商人タウンゼント・ハリスが選ばれた。

日米和親条約にある”必要な場合には領事をおくことができる”という付帯条項によりハリスは領事として安政3年(1856)下田にやってきた。幕府は老中堀田正睦(まさよし)を外国御用取扱いとして専任させた。ハリスは攘夷論のうずまくなか身の危険をかえりみずに江戸に進出し、堀田に世界列国の大勢より説き起こして鎖国政策の通らない時代になっていること、通商交易が互いに利益のあること、また欧州列国の恫喝のもと清国が不利な通商条約を強いられており、その前にまず米国と公正妥当な通商条約を結び諸外国の強圧を先制することこそ日本にとって急務の大事であると力説した。幕府執行部は開港貿易に消極的であったが世界情勢を理解するにつれ開国派になっていった。

しかし局外では鎖国主義に執着するものが多く、とくに徳川御三家の1人である水戸斉昭が幕府執行部の開国方針に反対し鎖国攘夷強く訴えた。


当時の18名の大大名のうち14名が鎖国攘夷派、全国300諸侯のうち開国に賛成なのは90名しかいなかった。それまで幕府の言いなりであった朝廷も攘夷派勢力に支援され開国の勅許を与えず幕府と対立した。開国か攘夷かで国内が騒然となるなか大老職についた井伊直弼は朝廷の勅許またずに安政5カ国条約の調印を強行しさらに攘夷急進派に対し安政の大獄といわれる弾圧を行った。在職2年足らずで桜田門外の変で横死した。

井伊直弼のあと幕府は老中安藤信正のもと攘夷の実行を朝廷に約束してしまう。しかし朝廷も馬関戦争や薩英戦争で外国武力の強大さを知るようになり御前会議を開き各国との条約を勅許した。その後幕府が倒れ明治新政府の時代となる。

幕末の大老井伊直弼の日本開国と安政の大獄・桜田門外の変とそれからの明治維新について。

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