私は、何故、泣いているのだろう。
哀しい?辛い?…ああ、寂しい?
手を、離さないでいれば。
キミを、失わずにすんだのかもしれない。
あまりにも、大切なキミを…。
無くさずに済んだのかも、しれない。
笑う声が聴こえて、はっと顔を上げた。
どうしたのか、と訝しげに首を傾げる君に、なんでもないよ、と微笑むと幸せそうに頷いた。
同じ家で暮らし始めてどのくらいが経っただろう。
同じ夜を過ごして、いくつの季節を越えてきたのだろう。
幸せ、なのだろう。
…幸せ、だったのだ。
今でも、昨日の日の事のように記憶は鮮明に残ったままだ。
残暑も盛りを超えて、夕闇に吹く風は冷たく、心地よかった。
府警からの呼び出しも無く、のんびりと過ごした休日に取って置きのワインをあけて、窓からそよぐ風に暫し
会話も無い、それでいて不思議と心地よい時間を堪能していた。
…沈黙を破ったのはキミだったな、火村。
今思えば、ほろ酔いだったのだろうか。
いつになく饒舌だったキミが齎した沈黙を、それが持つ意味を、考えるでもなく感じていた私は、同じように何も話さずに
ただ、時間が燻るように流れていくのに身を任せていた。
じっと見つめるキミの視線に居心地が悪い、そんな風には微塵も思わなかった。
ただ、どうしていいのかわからない、何を言ったらいいのか、わからなかっただけなんだ。
真摯な瞳は、いつものようなからかいを滲ませたものでも、無機質なものでも無く
今まで見た中でだれより、なにより、熱く真っ直ぐな思いを映し出していた。
キミは気がついていたかな、火村。
キミの唇がそっと、言葉を告げたとき、私が震える指先を必死で隠していたことを。
途中から、心臓の音がやけに大きくて、ともすれば息をすることすら忘れてしまいそうなほど
全身の血流が荒れ狂ったうねりとなって私を支配していたことを、ねえ、知っていた?
ぐわんぐわんと、意味を成さない音だけが頭の中で響き渡って、動けなかった。
その場で、意識を保って座っていることだけで、精一杯だったんだ。
…誤解、しないで欲しい。
呆然としていたが、嫌悪からそうしていたのではない。
動かなかった、のでは無く、動けなかったんだ。
―アリス…?
優しく尋ねるキミに、何を言ってあげればよかったんだろう。
―ごめん、な…。もう二度と、困らせたりしない、から…。
辛そうに、哀しそうに、それでも必死で微笑をくれるキミに、何をしてあげられたのだろう。
―だから、笑ってくれないか。
頷いて、笑って、微笑んで、大丈夫だよ、嬉しいよ、と。
言えていたら、どんなによかっただろうか。
恐る恐る、そっと壊れ物に触れるように伸ばされたキミの手を振り払わずに
繋がった掌を離さずにいれば、涙の意味も、履き違えなくて済んだのかも知れない。
ああ、そうだ。
私は、泣いていたんだな。
キミは、それを拭おうとした、だけ、なのに…。
拭えなかったのは、涙、だけじゃ、無かった。
手を、伸ばせば、届く位置にいつもキミは居たのに
伸ばされた手を、振り払って離してしまったのは、私のほうなんだ。
だから、私は…。
キミを、失ったのだろうか。
誰よりも、強くて、誰よりも繊細で脆いと、知っていたはずなのに
キミよりも遥かに脆弱な私の心が、守ろうとしていたキミを深く傷つけてしまった。
無くした時間は、戻らない。
失くした信頼は、戻らない。
亡くした相手は、戻らないからだ。
あの日、私が居ないフィールドでキミは全てを諦めてしまったのかな。
…避けなかったのだ、と、聞いた。
まるで、諦めているかのように動かずに居たのだと。
失って、その存在の余りある意味に気がついて、素直ではなかった自分に、
つまらない柵にとらわれていた自分に嫌気が差して絶望して、嘆きのあまり自失して書けなくなった。
すれ違ったまま、時は流れて私は書くことをも失った…、
いや、書きたいと思う心を、失ったので、書かないわけではない。
現実はそれを許さない。
書かなければ、いけないからだ。
「やっぱり、なんか変よ?大丈夫なの?」
「だいじょぶ?ぱぱ」
ああ、大丈夫だ。
だって、私は生きているのだから。
傍らには心配そうに寄りそう妻である君が居て、足元には抱きつくようにした娘が居る。
依然として書くことをやめたわけではない私は、生きるために物語を紡ぐ。
幸せ、なのだ。
そして、誰よりも幸せになれるはずだったのだ。
…火村。キミを、幸せに出来た、筈だったのに。
小気味のよい、あの綺麗なイントネーションも。
耳障りのよい、馴染みの低音も。
いつだって傍に在った、独特の紫煙の香りも。
今は、もう、居ない。
私は、いつだって誰かと一緒に居るのに、限りなく独り、なのだ。
キミが居ない、この世界では。