ふに、ふに。
指先で感じる柔らかさに
アリスは独り、ため息を吐く。
ああ、またか。
無意識に唇を押してしまう。
いつもの、アレの始まりだ。
「ああ、チュウがしたい」
なんだか無性にしたくなる、そんな時があるのだ。
冬になると唇が荒れる。
空気が乾燥しているからだろう、かさっと
音が出そうな位、かさついて
ほおっておくと亀裂が入って切れてしまう。
乾いているのが気になって、舐めて湿らそうものなら
より一層酷い事になる。潤うのは一瞬だけ。
見る間に乾いて、舐める前より突っ張ってしまう。
唇が切れると案外、うっとおしい。
作家という職、一本でやっていけるようになってからというもの
締切前等、家に籠ってしまう事も多くなった。
そうなると、人と話す機会もあまり無い。
あまり、というかまったく人と話さないように
なるアリスにとって、唇が切れていようがいまいが
関係ないように思えるが、たとえば熱いコーヒーを
飲もうとした時、無意識に欠伸をしたとき。
そんな時、思い出したように痛みを伝えるそれは
無ければ無い方がいいに決まってる。
だから。
唇が切れたりしないよう気を使う事にした。
乾燥してかさついている所で急に引っ張るから
切れるのだ。それを避けたいなら、潤せばいい。
至極単純だが、極めて効果的。
アリスが選んだ行動は、リップクリームを塗る事。
リップ、といっても女子が選ぶような
カラフルでかわいらしいモノでは無く
定番中の定番、みどりのアレだ。
すう、と浸みこむメンソールも実は好きで
そんなに乾いた感じがしなくても、気分転換で
塗ってみたりする。
そんな訳で、冬だって潤っている自分の唇を
先ほどから指先で押しては溜息を吐いていた。
これはアリスの癖だ。
癖と言うか、ある衝動に駆られた時にしてしまう、
いわば前兆の様なもの。
キス、がしたい―…。
学生の頃、無性にソレをしたくなった。
…キス。
鳥が啄ばむように、軽い触れるだけの
ちゅ。ちゅ。ではなく
もっと、キスしている!感が丸出しのキス。
下唇に吸いつくように、その唇を挟みこんで食む。
はむはむ、と食んで、挟んだまま差し出した舌で
れろ、と舐める。舐めて、挟んで、味わって。
舌を伸ばして、上唇まで。
伸ばした舌で舐めながら、上唇を挟んで、
歯で柔らかく甘く、噛む。
噛んで、舐める。
じっくり、唇の感触を確かめたらやっと、ちゅ、と
啄ばむ様なキスをするのだ。
濡れた唇を合わせて、時折、舐めて。
我慢しきれなくなって、熟れた様に熱い舌先を
歯列に沿って侵入させる。
ぞワぞワと、背筋に痺れが走るまま
舌を絡めて、甘噛みして、深く口付ける。
「…はぁ」
きっと、堪らんやろな。
キス、したい。だからといって
女の子のふくよかな身体に触れたいとか
温もりに包まれたいとか、そんな事は思わない。
ただ、キスがしたいだけなのだ。
それも、濃厚で痺れて、蕩けてしまう位の、キスを。
でも。
ただの知り合いどころか、たとえ付き合っている子が
居たとしても、濃いキスだけをかます度胸などアリスには無い。
だから、欲求が満たされず、悶々として…
「…ぅう」
溜息ばかりが出る。
それでも、キスしたくて仕方ない時期は
1週間もすればいつの間にか立ち消えになっている
事が多かった。2、3日で治る事もあった。
その間、じっと我慢していればいいだけの事。
だったのに。
「…も、…はぁ」
今度の波は大きくて、1週間が経とうとも
2週間が経とうとも、ちっとも消えていかない
妙な欲求に、もはや限界点を突破しそうだった。
そんな折。
週末のバイトが急に休みになり、予定の合わなかった
火村から部屋で飲まないか、と誘いを受けた。
悶々として、いつもより暗いアリスを気遣ってくれたのだろうか。
ええヤツ…。
こっそり、胸の中で感謝しつつも、気分転換になるしな、と
いつになく多めの缶を持ちこんで臨んだ部屋飲み。
箍が、外れるってのはこんな感じなんや…。
ほどよく酔いが回った頭で、アリスはぼんやりと思っていた。
ちゅ、ちゅ…。
「…んっ」
くちゃ、…。
「ぁ…、は、…ぁ」
きっかけが何だったのか、なんて。
記憶の渦に呑まれたままだけれど、
火村と交わすキスは望んだとおりに深くて
熱くて、痺れて、蕩けて。
貪る様に合わせた唇は、一時だって離れる事を
望まないから…。
上がる息。
「…ぅ、んっ…」
漏れる吐息。
のぼせた頭と、廻るアルコール、
離れない唇から、奪われていく酸素。
「…リス!」
ぼんやりと、薄れていく意識の中で火村の声を
聞いていた気がした。
結局、酔いが回った上、あまりに夢中でした
口付けに呼吸まで奪われて、酸欠に近い状態で
意識を手放したまま、気が付いた時には
日が高く昇っていた。
「ああ、起きたか?アリス、何か、飲むか」
「…はよーさん。水…」
まだ、ぽやん、とするアリスに笑いかける火村は
いつもと変わらなくて、でも、あんなに溜まっていた
キスしたい衝動はきれいさっぱり消えていて。
なんだかよくわからないけど、
妙にすっきりしていたのを覚えている。
それから、キスがしたいなぁ、と思うと
なるべくさり気なく火村を誘う事にした。
さり気なく、さり気なくというのはあくまでも
アリスの言い分。
したいなぁ、と思っていても、あからさまに誘う
事など到底できなくて、いつだって飲んだ延長線上で
記憶が曖昧になる頃、夢中で交わすのだ。
当たり前だが、火村から仕掛けて来る事も無く。
煮詰まって、仕方なくなって、アリスが仕掛ける。
はじめのうちは、火村が何を考えているのか
わからなくて(まぁ、それは今でもわからないけど)
正直、戸惑ったりもしたけれど、アリスが
切羽詰まってキスしてきたからと言って
翌朝から火村の態度が変わるなんて事も無く。
そんな相変わらず、の火村を見ていたら
悩んでいるのも、気にならなくなってきた。
嫌なら嫌、言うやろ。
あまりに自分勝手な言い分かもしれないが。
「…でも、やめられへん」
むに、むに。
今でもこうして、時折襲いかかる衝動は
結局、別の形で昇華されてしまったけれど。
『週末、暇か?』
少しかさついた唇とか、ぴり、と舌に触る
煙草の刺激とか、自分より温かい舌とか。
指を絡める、髪の硬さとか。
背を撫ぜる、大きな掌とか。
もう、そういった全ての物が足りないと思える。
ひっくるめてのキス、が。したいのだ。
もう他の誰かとのキスなんかじゃこの衝動はおさまりっこないだろう。
「あれやな、まんまと嵌ったゆうやつや」
そう独りごちて携帯を置いた。
いつかの夜、堪らなくて、寄せた唇。
たったそれだけ、だったけれど。
そんな偶然、ある訳も無いのだ。
『1回だけ』
20年目になんとなく20のお題より
Author by emi