男は、唯、歩いていただけであった。
夜の小道は、息を呑むほど、暗い。
暗いが、それでいいと思っている。
日の無い世界では、これが当たり前なのだ。
一面を闇に明け渡した、その世界では何も無い。
何も、無い。
あるのは、ただ、自分の鼓動と風が鳴る音。
月の無い、夜。
此の辺りでは、人との繋がりを無くしては生きてゆけない。
米を採る者、野菜を作るもの、魚を捕る者、家を建てる者。
それぞれには役割というものがあり、其れを交換して補いあっているからだ。
小さいながら、仕切られた社会。
その小さな村には男が居た。
身の丈が高い、すらりとした美丈夫だ。
男は、人を殺した。
その両の掌は紅く染まり、その眼は闇を愛した。
故、村、という社会、からは逸脱したのだ。
そして、男は夜道を歩く。
月の無い夜というものは風さえも冷たく暗く感じるものか。
先刻から方向すら失うほどの闇の中で彷徨う男は
前方、少なくとも、己の身体が向いている方から幽かな光が射しているように思えて
誘われる様にふらふらと近づいていく。
ああ、光、だ。
其処には、薄ぼんやりとした輪郭の一人の男が立っていた。
真の闇の中で、輪郭が見えるはずも無い。
まるで、薄衣を纏うようにその輪郭を顕わにした姿は、美しかった。
灯りを、持っているのだろうか。
否。
ゆらゆらと揺れる様な姿の中には、灯りなど、見えない。
ああ、やはり。
彼自身が、光を纏っているのだろう。
だとするなら、やはり。
「…アヤカシ」
呟く声に、光を纏う妖は薄く笑った。
「「……良い声を、しておる」」
その髪は薄く透けて通りの向こうが見えるようだ。
衣はしゃらり、と風に音を波立たせては揺れる。
その、儚い掌を広げると白く透けそうな指をつい、と挙げて男を指した。
紅く、濡れた様な瞳が、麗しい。
「アヤカシが、何用だ?」
微動だにせず、見据えたままで告げると、目の前で不思議そうに首を傾げている。
さらり、と長い髪が肩から滑り落ちて見る間にうねる。
それ自体、生きている様に。
「「…驚いた。未だ、自分の意思で話して居るのか?」」
ゆらり、ゆらり、風に乗るように光が近づいてくる。
自分の意思で、とは何だ。
こうして、立っている。
歩いていた、話をしている。
自分の意思で、此処まで来たのだ。
其れが、どうした。
「何用か、と、訊いておる」
近い光が己を照らすようで、居心地が悪い。
同時に妖の貌が明らかになる。
白磁の肌に大きな瞳。
先ほど、紅く見えていたのは、気のせいであったか。
近く見える瞳の色は、琥珀。
髪も、瞳も、琥珀。
ほう、と紅く染まる唇だけが、艶めいていて。
それは、それは。
「ああ、美しいな。…此の世のモノでは在るまいて」
艶やかに微笑む妖は、嬉しそうに頷くと、細い指先を遣い
纏う光を繭の様に紡いで珠と成した。
「「…其処の者。己の身、我におくれ…」」
此の身、ひとつだ。
「好きにすれば、よかろう」
ただし。
ただし。
「何か、差し出せ」
等価交換、と云う物だ。
目には見えぬもの、手には取れぬもの。
其れでも、確かに、其処に在るもの。
「其れと、引き換えに」
「「…ほう」」
手の中で珠は妖しい色をしている。
ああ、美しい。
透き通る様な、琥珀色。
「ならば、此の魂までも、与えよう」
どうせなら、其の身、だけでは無く。
「「良いのか?魂までも、という事は即ち…」」
我に、囚われると云う事。
喩え、身が消えても。
魂は、囚われた儘だ。
「「面白い、面白い。…では、我は話を与えよう」」
誰も知らぬ、誰でも知っている、其れで居て、新しく旧い。
極上の、言葉遊びじゃ。
しゃらり、髪が頬に触れる。
しゃらり、指が唇に触れる。
ぞくり。
珠が、魂に、触れる。
「アリス…」
約束通りに。
器が変わっても、魂まで捕らわれたまま。
「火村?」
其の細い、指先が物語を紡ぐ。
魂と引き換えに、極上の悦びを。
「……続き、気になるな」
「よかった。面白いからな!楽しみにしとって」
其れは、其れは、美しい琥珀色の、契。
Author by emi