「兄さん…」
意味があるわけでもない、呼びかけた訳でもない。
呟きにも似た細い光彦の言葉にさえきちんと視線を合わせて
陽一郎が優しく微笑む。
その、深い蒼み懸かった瞳に見つめられて光彦は胸の奥が震えるのを感じた。
光彦は、兄と二人きりで過ごす蜜月の時間が何よりも好きだ。
普段の陽一郎とは違う、寛いで限りなく自然体の兄が好きだ。
自分にだけ見せる恋人としての兄が…とても愛おしくて。
「昔の兄さんを知っている人に会いましたよ」
ふいに出た言葉は、告げるつもりの無い言葉であったはずだったのに
どうしてこうも駄目なんだろうか、と光彦は少しだけ反省する。
それでも、紡いでしまった言葉は無かったことには出来ないし、
聡明な兄のことだ。誤魔化したところで光彦の真意など
またたくまに把握してしまうだろう、と半ばあきらめにも似た境地で
開き直る事にした。
「京都で、か…」
訝しげに答える陽一郎は、柔らかな光彦の髪に絡めて
遊ばせていた指を止める掛けたが、その感覚を失う事を厭うて、
兄の肩口に預けたまま、光彦が頭をすり寄せるようにして囁く。
「ええ、京都府警に居た頃に大変お世話になった、と」
「御老体ではなくて、か?誰かな…」
再び、動き出した指先の感覚に安心感を覚え
光彦は顔を上げて兄を覗き込むように見た。
深い瞳を交えて見つめあう。
「瞳が…目の色が似ているんだそうですよ」
だから分かったみたいです。名前も覚えていましたし…。
後半はまるで不安を切り取った様な
不安定な掠れるような呟きになってしまったのが少し気恥ずかしい。
(もしかしたら…)
嫌な考えが頭の中を占領して、
光彦は俯き絡めた兄の手を見つめる。
二人の間には記憶に残るような「何か」があったのではないだろうか?
それは、眩暈を覚えるような嫉妬で、それを感じてからは
依頼をそっちのけで京都から急ぎ帰宅してしまった感が否めない。
不安になって、無性に陽一郎に会いたくなった。
子供じみた、嫉妬だ。
わかっていたのに、頭ではわかっているのに
どうしても、気持ちが先走ってしまった。
(でも…いざ目の前にすると何も聞けないんだよなぁ)
信じていない訳でもないし、そもそも、光彦とこうなる前の
出来ことなのだから信じるも何もないのだが、それでも。
陽一郎の答えが怖かったのだ。
胸を貸した天然色を纏う光彦が、なにやら思いつめたような
感じで額を摺り寄せてくる幼さの残る仕草をたまらなく愛おしく感じながらも
陽一郎は光彦の憂鬱の原因を探る。
(京都…御老体がらみだとすると、祭りの後始末の件か…)
光彦が懸念しているのは、おそらく陽一郎の過去に
「何か」があったのではないか、ということ。
その人物に「何か」をにおわせることを言われたのかもしれない。
だとしたら…。
触り心地のよい髪に絡めていた手をそのまま光彦の顎へと
回して上を向かせ、至近距離で光彦の顔を覗き込むと、
遠慮がちに目を合わせてくる。
どこか定まらない潤んだ瞳。
(目が似ているだと?この瞳を見つめたのか)
光彦が過去に自分と何かあったのではないのかという
危惧を抱いて嫉妬するだけの条件を持った誰かが、
この扇情的な瞳を覗いたのだ。そう考えるだけで、
独占欲を刺激され、このまま光彦を捕らえて離したくなくなる。
(いっそ、このまま自分の傍で閉じ込めていられたら…)
「…にいさん?」
兄の双眸に捕らえられて、居た堪れなくなった光彦が問うのに
浅ましい独占欲に駆られそうになる己の私心がじわじわと其の形を潜めてゆく。
「光彦が心配しているようなことは、何もないよ」
「…え?」
だから安心しなさい、と触れるだけの優しい口付けをしてやると、
嬉しそうにはにかんで光彦は頬を紅く染める。
「だって…」
尚も言いかける光彦の唇を塞ぎながら囁く。
「心配なのは、私のほうだよ…」
何度も何度も口付けをされて、触れているだけの軽いキスに
やがて光彦は甘い痺れを感じて全身から力が抜けていく感覚に堕ちていく。
「そいつに何かされなかっただろうね?」
とろん、と体重を預けてきた光彦の耳朶に囁きかけると、
んっ、と身をすくめる光彦が可愛くて、深く深く貪り、無意識に強く抱き締めていた。
「…っは、な、なにかって…?」
唇は欲に濡れ、瞳は潤み、頬には朱が差す。
吐く息を甘く染めている無防備な姿に陽一郎はため息をついた。
たおやかな光彦の腰に手を回し、きつく抱きしめる。
ともすれば、流されて掻き消されてしまいそうな光彦。
抱きとめていなければ、自分の手が届かない場所へと
いってしまいそうな、危機感をどうしても拭えないでいる。
バカバカしいほど固執した想いだ。
それでも。
「光彦…どこにもいくな」
陽一郎の切なげな低い声にうっとりとしながら光彦は逞しい背中に手を回した。
呆れるくらい自分に執着してくれる兄の気持ちに
躰の芯から不思議と満たされていくのを感じる。
たまらなく愛おしいと思う。
狂おしいほどのこの気持ちがきっとあなたの足かせになるのだろう。
わかっていても、つまらないことにも嫉妬して心をかき乱され
もっときつく何も考えられないくらいに縛って欲しいとさえ願う。
浅ましい自分。
愚かな、自分。
でも、それでも、愛しているのだ。
息も出来ないくらいに、きつく。
どこにもいけないくらいの束縛を。
(兄さん…愛してる…)
言葉に出来ない想いのたけを回した腕に込めて。
知っているよ、と。
抱擁に応える光彦に、陽一郎がそっと囁いた言葉は
掠れ微かで届く事はなかった。
以前、サイトにアップしていたお話に手直しをしたものです。原作(ちょっとタイトルが思い出せませんが京都祇園のお話だったような・・・)からの後日談ねつ造です。
Author by emi