ちゃぷり、ちゃぷり。
水の、音…。
頭のどこかで水音が聴こえて意識が浮上していくのを感じた。
そのどこか懐かしいような音に酷く安堵して、
言いがたい安堵感を覚えたオレの胸元に
湿った気配を感じてまた少し浮上する。
瞳に映った見慣れた天井が、ここが火村の部屋なのだと知らせていた。
「んっ…」
ゆっくりと重い瞼を持ち上げていくと、
漆黒の瞳が凄く近いところで揺れていて少し驚いた。
「…え?」
「アリス…、大丈夫か?」
何が、と言って起き上がろうとして躰を走る痛みに息を呑んで、
ああ、と思い出す。
そうだ。そうだったんだ…。
「ん…、大丈夫、や」
そっと触れるタオルの感触に火村が汚れた躰を清めていてくれたのだと知って、
慌てて起き上がろうとしたが思いの他ダメージが大きいらしくせいぜい腕を上げるのが関の山だった。
いいから、と優しく拭ってくれる火村にどうしようもない罪悪感を感じて
視界が滲んでしまいそうなのを必死で隠した。
だって、キミは―――。
「…ごめん、な。火村、オレ…」
「…アリス?いいんだ、動けねぇんだろ?」
あり得ないくらいの痴態を繰り広げている間、
あまり機嫌のよくなかったように思えた火村の顔がどうしても見られなくて
柔らかい感触で胸元を拭ってくれている火村の手ばかりを見つめてしまう。
なんて言ったらいいんだろう。
行為の最中で見せたキミの辛そうな表情は、
如実にキミの気持ちを表していたのだから
私が言うべきことなんてひとつしかないだろうに・・・。
きっと酔った上での軽いはずみの様なものだろう?
それなのに、その手を拒まずにあまつさえ受け入れて快感に啼いて
浅ましく求めたのはオレの独りよがりなんだろうから。
言うべきことなんて、ひとつしか無いんだ。
どうか―。
「…ごめん、火村」
「だから、イイって。お前が謝る事なんてねぇだろう?
それに…俺も無茶した自覚はあるしな」
「やって…」
綺麗に拭い去ると乾いた毛布が掛けられて、
素肌に触れるその感触がとても心地よかった。
と、ふいに温もりが前髪を掻き揚げて額に優しく触れる。
その優しい温もりにがまんしていた涙が零れてしまいそうで、
溢れないように必死で見上げた視線の先に先ほど見えた漆黒の瞳が揺れていた。
なんで、火村の瞳が揺れているんだろう。
涙で滲んだ瞳越しで揺れて見えるのだろうか…。
でも。
でも、なんで心配そうな、不安そうな顔をしているの?
どきりとするほど、真摯な表情に声を飲み込んだオレに
申し訳なさそうに火村が呟くのを驚いて聞いていた。
「すまない、アリス。酔っていたとはいえ、
嬉しさのあまりかなり無茶しちまったな…。大丈夫か?」
「…え?」
「身体、大丈夫か?いや、やっぱ、辛いよな」
「え、あ…、大丈夫、やけど…」
火村の言い方があまりにも心配そうにしているから、
覗き込んでくる瞳がどこまでも優しくてそれなのに不安そうに揺れているから、
きっと聞き間違えたのだろうと思った。
嬉しいって、言ったのだろうか。
何が嬉しかったんだろうか。
そんな事、分からないけど…。
分からないけど、気になってしまうよ。
さっきまでの饒舌が嘘のように意識とは別のところで
口が支配されていてどうしても動かせない。
聞いてみたいのに、聞きたいのに。
声がうまく出てこないのだ。
黙ったままのオレを見て何を思ったのか、
手にしていたタオルを洗面器に戻すと遠くに押しやって、
あろうことか横たわったオレの隣に火村が身を滑り込ませてきた。
動けないとはいえ、まだ全裸の躰にぴたりと寄せられた火村の躰も半裸で。
温もりが触れ合っているのも構わない様子で、腕さえ回してくれる。
意図が、読めない―。
「…火村?」
「あ、どっか痛いのか?大丈夫か、アリス」
わけが分からなくて疑問形で名前を呼んだオレに
慌てた様子の火村が、そっと頬に掌を沿わせておろおろとする様を
呆然と眺めるほかに何も出来なかった。
だって、どうしてなのか分からないからだ。
「ちが、う…。大丈夫。なんで、も、ないよ」
「そっか。明日は休みだろ?ゆっくり寝てろよな」
うん、と頷くことしか出来ないじゃないか。
「おやすみ、アリス…」
「…おやすみ」
耳元に囁かれた呪文のような言葉は何処までも柔らかくて、
啄ばむように落とされた口付けは甘くて優しい。
おやすみのキスなんて、果たしてどんな意味を持つのか知らない。
知らないけれど、回された腕の温かさは確かに感じているし、
寄せられた胸の鼓動はソレが夢などではないと告げている。
他でもない、火村。
キミの腕の中に居るんだ。
優しく包み込まれる様にして抱かれて眠れるなんて。
それ自体が夢のようなことなのに、夢、
では無い現実のものとして存在しているのが怖いよ。
もしかしたら、優しい口付けも柔らかい声も温かい抱擁も、
望みが見せる都合のよい錯覚なのかもしれない。
だから、なんで、と聞いてしまったら
壊れてしまうのかもしれないと思うと怖いのだ。
だから、聞かないで居たい。
せめて、朝が来るまでは幸せな錯覚の中でまどろんでいたいんだ。
火村。キミが好きだ、と言ったらどう思うのだろう?
切り捨てられた彼女達のように、オレも捨て置かれるのだろうか。
だから、今だけはキミの腕の中で眠っていたい。
キミの腕の中に囚われて居たい。
ソレが喩え。錯覚でも、勘違いでもいいから。
以前サイトにアップしていた物を再アップです。
Author by emi