ジェリー・スピネッリ

  1. スターガール
  2. ひねり屋
 

『スターガール』ジェリー・スピネッリ/千葉茂樹 訳/理論社

スウ(2003.7.5)
●個性って何だ!?
スターガールには思ったより共感できた。
確かにかなり個性的すぎて、自分の価値観を相手におしつけているけど、結局空気の読めない不器用な悪気の無い子、という感じで憎めない。彼女がこのままでいいなんて思わないけれど、「いまどきのひと」についてしまった油脂のようなこだわりのようなものを全部そぎおとしたのが彼女のような存在なのかな、と感じた。

「よかれと思って大失敗」が多く、「面白いから飽きない」と言われた相手には大抵ふられている私には、下手するといつの間にか嫌われているかもしれないという恐怖感を思い起こさせてかなり辛い部分もあった。
スターガールは今まで集団生活をした事が無いのだから、学校に通うことで「そっとしておく思いやりもある、自分にとっていい事は、他人も良いとは限らない」という事を覚えて成長してゆくといいと思った。
私には、まわりの子の視野狭窄具合のほうが大げさに感じた。
理解できないものに対する拒絶の反応が、日本人ではなくアメリカでも同じなのだなあと分かって軽いショックがあった。
バスケの試合にみんなが熱狂するきっかけを作ったのは彼女なのに、それに気づかないで負けた事をたったひとりのせいにするというのは納得いかなかった。

彼女には、もっと人の気持ちを考えられるようになって欲しいと思ったけれど、そうしようと思うことで彼女自身のすばらしい個性が消え、ひとの顔色をうかがい怯えるような子にはなって欲しくなかった。でも、レオの「そのグループに属するということは、みんなと同じにしなきゃいけない」という言葉は、危ないと感じた。もっと他に言いようがあるでしょう、とじれったかった。
レオは唯一スターガールにバランス感覚を教えてあげられる存在だと思っていたのに、一番肝心なところで「惚れた弱み」の恋愛問題にすり替わった場面が残念だった。もっと「誰からのプレゼントかわかるのって、すばらしいことさ」という言葉も深く掘り下げて欲しかった。
掲示板の一件はレオにとって大打撃だったのは分かるけど、私からみるとこの「恋愛問題にすり替え事件」によって導かれた因果応報のような気がしてしまう。
レオはスターガールの何が好きになったのだろうか。この二人がやがて別れるのも当然の成り行きだ。

アーチーは彼女が変わる必要は全くないと思っていたみたいだ。ちょっとでも押さえつけることは、彼女の輝きを失わせることになる、と気づいていたのかもしれない。でもそのせいで彼女が随分生き難くなるという事も分かっていたと思うのだけど。
いや、彼女が彼女のやりたいようにやっている間は生き難くなかったのかもしれない。一番痛々しかったのはスターガールがスーザンになって「普通の」女の子になろう、皆に好かれよう、と必死になっているところだった。
皆に無視されても疎まれても、ウクレレでハッピーバースデーを歌っている間は幸せだったのかも。「皆に無視されてつらい」と思っていたらそんな行動は出来ないはずなので。レオもつらい気持ちを彼女と共有出来ていたらもうちょっと立場が見出せたのかもしれない。

とにかく「自分だったら彼女とどう接するか」と考え込まずにはいられない。
彼女に対して全面的に拒絶するか、全てを愛するかどちらかしか無いように見えるけれど、この圧倒的な個性を分かりやすい普通の少年レオの視点で語った事で、スターガールが100%賛美の対象という訳ではない事が分かる。
この"どこか欠落している困った人、だけど魅力的な存在"を絶賛するのでもないけど、ただ受け容れることも出来たんだよ、と言われているような気がした。


「ひねり屋」ジェリー・スピネッリ/千葉茂樹訳 理論社

スウ(2003/10/09)

●親の気づき
ずいぶんひどい話なので最初から読むのが嫌になってしまった。男の子たちの仲間になりたくて自分に嘘をついていたパーカーだったけど、やっぱり抑えきれなくて一人で泣いてしまうところなんかとてもやりきれない感じだった。
鳩を殺すお祭りがあるという事はショックだけど、やっぱり「ハタから見ると異常でもその世界にいる時はそれが常識」というのはよくある事で、そこから異なる価値観で逸脱しようとするのはかなり勇気がいる。
これは何も男の子の、ましてや子供の世界だけのことじゃない。
だからパーカーはずい分勇気のある子だと思う。

これは子供たちだけの世界から描いているから、大人社会ではその祭りに参加しなかったら白眼視されるのか等という事までは解らない。ただ10歳の少年にしてみれば、お父さんがシューターで優勝したことがあって、鳩は羽根のついたドブネズミだなんて教えてこられただけで、追い詰められるには十分だろう。

子供は大人から見るとほんのささいな事でも大問題としてひとりで抱え込んでしまう。
それをくみ取りこまやかな愛情で支えることが、大人の、親のしてやれる事、しなくてはいけない事なのだろう。

『スターガール』と違って語り手が主人公のパーカーの立場からなので、お母さんお父さんの"気づき""気遣い"によって救われる場面が入っている。それが読み手をほっとさせるところだ。ドロシーやヘンリーも、自分は決して間違ってはいない、という精神的な救いになっている。それがなかったらパーカーがどんな風に成長して行ったんだろうと思うと恐ろしい。
現実にはそういう子供は多いのかもしれないけれど。


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