『プリンス近衛殺人事件』 V.A.アルハンゲリスキー/瀧澤一郎訳/新潮社

スウ (2002/7月)
●シベリアの虚空をさまよう 日本人抑留者の霊に捧げる本

推理小説でもないのに、この邦題は大失敗なんじゃないかと最初は思った。ノンフィクションの割には感情的な文体で、あまり好みではないなぁとも。

でも、おしまいまで読んでみるとこの著者が感情的にならざるを得なかった訳が分かったような気がした。
この題名も奇をてらったものではなく、旧ソ連が国家がかりでなんの罪咎も無い人間(たち)を拉致監禁のすえ殺害し、その事実を隠し、情報をねじまげ誤魔化し、ミステリーとも言える藪の中へ覆い隠してしまった"事件"の事だからだというのが分かる。(原題は「 Kto ubil Printsa Konoe?」)

シベリア強制抑留者は定説では60万、そのうち6万人が死亡ということになっているらしいが、実際はこれをはるかに上回り、原爆が2個落ちたに等しいおびただしい死者が出たという。

二千キロの移動を徒歩で強いられ食料・水・休憩は一切なし、13万2千人を移送する臨時宿舎は32人分しか作らなかった、と聞くとそのでたらめさがよく分かる。
夏服のまま厳冬のシベリアで鉄道建設などに使役され、骨さえ帰国できなかった民間人や兵士たちの労苦や無念さを思うと、家族に手紙を書くことも出来た近衛文隆氏はまだ恵まれていたと感じてしまう。

問題なのは、その悲惨さもさることながらソ連(ロシア)の情報ごまかしに日本が乗ってしまっていること。
こういった本を求めて読まない限り、あまり意識することが無い問題になってしまっている。
解決する見込みの無い北方領土返還問題より、強制抑留者への補償問題のほうがずっと重要で急務だということが、この本を読むとよくわかる。

それにしても、私は女なのでどうしても近衛正子夫人の気持ちを思わずにはいられない。
新婚わずか10ヶ月で夫を戦場へ見送り、戦争が終っても帰ってこない夫を待ち続けて11年間。早く帰って来てもらわなくては子供も出来なくなってしまうと苦しい思いもしただろう。

文隆氏からの ―なつかしいマコ。変わりないだらうね。 から始まる手紙には、二人の愛情の深さがにじみ出ていて本当に胸がつまる思いがした。
―マコ、11年の長い間よく待ちとおしてくれたね。唯ゝ感謝あるのみ。帰ったらマコの労苦に報いる為何でもしてあげよう―

―ボチも一ヶの人間として正しく生きたい。今の所これがボチの生活信条だ。―
厳しい検閲で真実が記せなかった状況下でも、高潔な人柄がよく分かることばの数々だった。
内容:近衛文麿元首相の長男である近衛文隆陸軍中尉が、終戦後満州でソ連軍に抑留されて獄中死するまでのノンフィクション。
文隆氏は作戦を知るどころか戦闘行為もしていなかったのに対ソ重大戦犯に仕立て上げられ、裁判すらなく25年の実刑判決を下されます。

彼だけでなく兵隊捕虜・一般人抑留者に対する扱い、スターリンの決定もでたらめを極め、抑留者の悲惨さは前後に絶する状態であったことが膨大な資料に基づき実証されています。
著者経歴もすさまじいもの。図書館でみつけたら、「訳者あとがき」だけでも一読をお薦めします。


『ニューヨーク』ベヴァリー・スワーリング/村上博基 訳/集英社

スウ(2005/04/21)

●因縁の血脈と外科医のド根性
ニューヨークの、だいたい17世紀中頃〜18世紀末にかけて、つまり先住民との争いをしつつ入植してからイギリスから独立するあたりまで。歴史に基づくフィクションというだけじゃなく、当時の医療・外科医の地位や努力などが具体的で物語に生きていて面白かった。

オランダから苦労してニューヨークに渡ってきたイギリス人の外科医の兄と調薬師の妹の、因縁の血脈を追う形で物語は進んでいく。
この時代の医者とは内科医の事で、外科医は床屋と同じ身分だったとか、麻酔や輸血さえ出来れば助けられるであろう外科手術も当時は夢のまた夢、まして輸血など悪魔の仕業として糾弾された事。今なら小学生でも知っている血液型が合わなければ輸血できないなんて事も、当時は「やってみなきゃわからない」事だったとか、いわゆる予防接種が禁止されていたり、内科医のやることは瀉血・発砲・下剤のみだったとか、挙げるとキリが無いくらい興味深かった。

話の中で私にとって印象的だったのは、やっぱり女性の立場や大変さ。
兄や父の意思で勝手に結婚させられたり、どんなに才能があっても医者にはなれなかったり。そして、望まない妊娠。避妊なんて無かった時代だから妊娠したら嫌でも生むしか無いし、無理に中絶しようとすれば死にかねない。男は種を植えっぱなしで中絶を大罪としていた。
普通に結婚していたとしても、「10人産んで6人生きている」とか「結婚してから毎年妊娠していたが、生まれたのは最後の三人だけ」という文章が頻繁に出てきて、目も当てられない生存率の悪さ。やはりなんだかんだ言っても現代医学に感謝なのだ。出生率の低下は女性が自分の人生をある程度自由に出来るようになった結果でもあるのだなと思った。
強姦されると即妊娠という安直さはなんだかな、という気がしたけれど、まあドラマチックにする上でも利用されるものだからしょうがない。

この物語の主役、といったら何だろうと考えた時「血」が頭に浮かんだ。
因縁の血脈、蛭により瀉血、外科手術で流れる血、中絶による失血死、出たとこ勝負の輸血。

兄妹の因縁の血脈は、展開がドラマチックな割にはそれに拘らず話がどんどん進んで行くのが却って好感が持てた。主軸の人間が次々と変わり人物が増えて大変だけど、ひとつひとつの区切りに締りがあり面白かったので飽きなかった。ただ、最後のほうはあまり人物の気持ちに共感する程では無くなって、終わり方が気になって読むという感じだったけれど。

どうやって収束するのかしらと思っていたけれど、エピローグ前の最後の数行にニヤリ。民主主義のある一面を捉えていてスルドイ。

「おれが思うのに・・・めざすは民主主義だな」
「民主主義?衆愚から票をあつめた悪党による政治か。冗談じゃない。ご免こうむる」


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