小川洋子

 

『博士の愛した数式』 小川洋子/新潮社

きな(花日和vol.15)

 「読み終わって鳥肌が立った本は久しぶりだった」友人がそう言って貸してくれました。彼女と私は 性格も本の好みもまるで違うのですが、この本に関しては同じでした。私も最後の一行で鳥肌が・・・。読み終えてすぐ、自分でも購入しました。
ずっと手元に置いておきたくて。

 1992年3月。「私」は30前のシングルマザー。通いの家政婦として働きながら、10歳の息子と暮らしています。その「私」が新しくお世話をすることになったのが64歳の「博士」。
 博士は優秀な数学者だったのですが、17年前の交通事故で 脳に回復不能なダメージを負っています。彼の記憶の蓄積は、事故当時(1975年)で止まっており、それ以降の記憶は80分ぶんしか保てないのです。81分後にはゼロに、75年まで戻ってしまう記憶。
 そのため博士の洋服には、たくさんのメモ用紙がクリップで留められています。博士は「忘れてはならないこと」をメモに書き、みの虫のように身体に留めているのです。身体に留めておかないと、「どこにメモを置いたか」はもとより、「メモを書いたこと」さえも忘れてしまうから。メモの中でもっとも古いと思われるものには、こうあります。 「僕の記憶は80分しかもたない」
 博士と「私」、そして息子の「ルート」(博士がつけたニックネーム)の3人は、奇妙で暖かく 切ない交流をもつようになっていきます。

 何年かに一度、「珠玉の物語」に出会うことがあります。たとえばサン=テグジュペリの『星の王子様』、ポール・ギャリコの『愛のサーカス』、澁澤龍彦の『高丘親王航海記』、大島弓子の『グーグーだって猫である』・・・。それらに、またひとつ新しい仲間がくわわりました。
 世の中は思い通りにはいかなくて、命ははかなく、変わらないものなど何ひとつなくて。それでもなお、変わらないものを求める気持ちだけが、たったひとつの「変わらないもの」なのかもしれません。それでも、いま この時こそが永遠なんだと思う瞬間・・・永遠の一瞬は確かに存在します。その永遠の一瞬を追体験したくて、私は物語を読むのかもしれません。ほんとうに珠玉の一冊でした。


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