宮部みゆき

「模倣犯」宮部みゆき/小学館

スウ (花日和Vol.15)

上巻は読んでいてとにかく疲れた。
消耗した、という感じ。ものすごい感動、というよりはテハヌーさんがおっしゃった「揺さぶられた」というのが一番しっくりくる。

犯人が、殺す前に被害者自身からその人のエピソードを聞きだし、「私はモノではない、人格を備えたひとりの人間だ」と必死に主張させてゆくのだけれど、まさに作者自身がそれを逐一やっていて、目撃者、被害者、遺族、記者、それぞれの思いや状況を事細かに見せつけ、その人たちの不幸・不運・人生に共感したり一定の思い入れを持たざるを得ないように仕向けられてしまう。
悲惨なニュースを聞いてどんよりと気持ちが沈むあの感じを、ボディーブローのように、ローキックのように繰り出され、倒れないけど相当効いてしまう。

そういう中で、最悪の主犯であるピースこと網川浩一の内面からの語り、生い立ちだけが語られない。従犯であり連続誘拐殺人のきっかけともなった栗橋浩美ですら、幼い頃からの"かわいそうな"生い立ちをかなり詳しく栗橋自身に回想させているので、いつ"ピースの巻"がはじまるのだろうと期待すらしていた。しかしそれはすっぽりと無視されている。勿論、外側から見た複雑な家庭事情、"生まれない方が良かった子供"であることなどから想像することは出来るけれど、あくまで他人の目から見た確認事項だ。

なぜか、と考えた時、これは必要ないことなのだな、と思った。
つまり人殺しの人間のクズの"言い分"なんて聞く必要がない、という事だ。
最初に犠牲者として名前があがった古川鞠子の祖父、有馬義男の最後のなげき、「(この事件は)終わってなんかいねえよ。鞠子を返してくれよ。たった一人の孫娘だったんだ。返してくれよ」という場面に行き当るとき、"どんな悲しい生い立ちだろうと何だろうと、いたずらに人を殺していい理由なんてない、こいつの心に少しでも添ってやる必要なんてどこにもない"と言われているような気がした。


--たとえお節介でも--

人は外見やその場だけの状況で勝手に他人を定義づける、という場面もよく出てくる。そうして人は他人にラベルを貼って分かりやすい棚に整理しながら生きている、と。
それを大きく置き換えると、網川浩一が自分以外の他人を”大衆”とか”駒”とか顔のないモノとして捉えていたことにも繋がる。

この本の中で、身近な人の様子がおかしかったとき、気づいても言ってくるまではそっとしておこうと放っておいて(または見守って)、良かったことはひとつもない。
今は人との距離のとり方が難しくて、誰だって余計なお節介だと言われたくない。それでもせめて身近で大切な人には、気づいて問う、という最低限のことを忘れないようにしなくては、と改めて感じた。
そして具体的な解決方法があろうとなかろうと、”あなたには味方がいる”と気づいてもらう事自体が重要なのだ。


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