でも、3編読んでいくうちに次第に慣れてくる。この人はこういうのを書くひとなのね、整然たる理屈を求めてはいけないのね、たまに出てくる非常に美しい描写が素敵ね、でも触感まで伝わるキモチわるい描写もこともなげにいきなり出てくるわね。よく分からないけど何か意味がありそうに思うわ、これが分からないなんて芸術を解さない輩だと言われそうだわ、ピカソも分からない奴だろうとバレてしまうわ。ああいやだわこまったわ。
結論として簡単に言うと、「慣れるとけっこうハマル」かも。
自分でも気付かない、どっちでもいいような本音が、混沌として現実に染み出してゆく世界を見た気がする。
「ぼくだめなの」「ぼくいろいろだめなの」そう言って饒舌になるところ、
「そんな事恥ずかしいから言わないで」と怒るところ、
「あ」という口のかたちをして夜の中に消えてしまうところ、
何回でも小さな手で頬を叩くところ、
「おなかすいたよ」「梨ちょうだい」「梨」「梨」
そして 「だめだけど、行くね」
かわいくて、切なくて、何回も読み返した。だめな自分を省みる。私はこういう弱さに弱いのだな、と思った。
この本はぜんたいに、ストーリーがどうのこうのと言うより情景のしっとり感、心の動きのこまやかさを味わうのがいい。
『星の光は昔の光』も良かった。
「むかしのひかりいまいずこ」
えび男くんのお母さんが作ったハンバーグが食べてみたい。
悲しいことがあって、すこうし、大人になってしまったえび男くんが悲しい。”わたし”が、大人の目線でヘンになぐさめたりしないところもいい。
それと、最初はこころよかったくまの礼儀正しさも、最後にはその礼儀正しさゆえに切なかったです。
お暇な方は→テーマ「たべもの」に出てきた食べ物の書き出しもあります。
●風太(2002/11/25)
川上弘美『神様』どうしょうはまってしまいました。もうよかったです〜!
芥川賞受賞の際「文芸春秋」に載った『蛇を踏む』の時はあまりピンとこなかったのに、これはもう〜もろ好みです。
筋なんて関係ない、異世界というほどではないけどどことなくずれた感覚がたまらない。
まさにスウさまのおっしゃるとおり「こともなげに異常」な世界。
私もスウさまと同じく「夏休み」が一番好き!
もうもう可愛くって!!(さっきからもうもうってウシか、私は。ああ、語彙力のなさよ)
それで一転「離さない」にはぞおーっとしました。こわかったようー。
「会社に行き家に帰り食事をとり…」と、句読点もなくたたみかける表現に参った。
このひとの擬音といい独特な表現に魅入られそうです。
はづきも読み始めてすぐ「どうしよう、すごく好きだ」と途方にくれていました。
これ図書館の本なので、早急に文庫を買おうと思ってます。佐野洋子の解説も読みたいし。
蛇の出てくる話で芥川賞を頂いたので、とたんに「蛇は好きなんですか」と聞かれるようになった。
蛇はあんがい好きである。
あんがい好きだが、抱きしめて眠りたいというほどのものではない。
以前にトガゲの出てくる話も書いているので、「爬虫類が好きなんですか」という聞かれ方をすることもある。
爬虫類もあんがい好きである。
あんがい好きだが、これも、ふところに入れて歩きたいというほどのものではない。
墓の出てくる話を書いたこともある。
「墓が好きなんですか」と聞く人は、まだいなくて、つまり墓は好き嫌いという範疇のものではないのだろう。
墓は、実はずいぶん好きなのである。
これはエッセイの導入部で、ここから話が展開していくわけです。意表をつく形でひきこまれてしまうのです。
この人の文章は、言葉も、いまは失われたよき日本語がつかわれており、そんななかに「メール」「インターネット」など現代の言葉が混じっていて、昔のものと今のものが融合したような、一種不思議な感じを受けます。
そして、川上さん自身はいわば流行の先端をいくタイプではないらしいが、「ポケベルの音は、わりと好きだし、茶髪の似合う人が茶髪にしてるのはなんとなく理に適ったことなのだと、思う。」と書いているように、自分とはちがう他人、価値観も受け容れる度量のあるひとだと思いました。批判や非難の多いこの世の中で、心地よい文章でした。
もしかすると、自分というものを確立してこそ、他人の自分との違いを認め、受け容れることができるのかも、と思ったりもしました。
●スウ
"わたし"が一人語りするお話「神様」は、ファンタジーのようで、微妙に違う、実感を伴った切なさあり胸にすっと染み込んでくるようです。確かにまるさんが言った様に、”自分とはちがう他人、価値観も受け容れ”ています。それも、とびきり変わったものに対して、ごく自然に。
たとえば、雄の成熟した熊が三つ隣に引越してきて、ご近所に引越しそばを配ります。"わたし"は、「ずいぶんな気の使いようだ」と思いつつ「くまであるから、やはりいろいろとまわりに対する配慮が必要なのだろう」とおもったりします。
梨園で手伝いをしている時に白い毛で覆われた小さくて変な生き物が出て来たときは、「この三匹、何なんですか」と原田さんに聞きたくなっても、「三匹を目の前に聞くことはためらわれた」と、全くの異物である三匹に気を使ったりしています。
他には亡くなった叔父さんの霊が、河童が、人魚が、壺から「ご主人さまあ」と女の子etcが出てきます。
そのどれもに、“わたし“は、一番の驚きでも「転校生がきた」レベルで済まし、普通に会話したり、連れ立ってお出かけしたりします。
生き難い世の中を、それでも生きているものたちの切なさ痛ましさを、暗くならず、押し付けがましくなく、妙に励ますのでもない。
あるがままを受け入れてそっと手をつなぐような優しさが、いいなあと思います。
●花太郎(「神様」私も読みました)
童話のような、身近にありそうな、でも絶対ありえない、不思議な世界観に、少しずつなじんでいってしまう自分がいました。今、長男に「早く寝ないと鬼が来るよ!!」とおどす(?)と急にあわててふとんにもぐりこんで、じーっと耳をすましているのですが、今の彼にとっては、きっとこの小説のストーリーは全部リアリティーを持った「現実」なんだろうなと感じます。
スウさんの「あるがままを受け入れてそっと手をつなぐような優しさ」 まるさんの「自分とは違う他人、価値感も受け容れる」・・・に納得しきり。自分の子供たちも、そういう子に育って欲しい。そうすればいじめなんてないハズですものね。
●スウ
>そうすればいじめなんてないハズですものね。
そうですね。そしてその気持ちがあれば、戦争も起らないのかもしれませんね。
私は答えない。何も言わずに、土下座でもするのがいちばん似合っているように思うからである。しかし、そんな自己満足なことをしても誰も喜ばない。
大げさな困惑も浮き足立った気持ちもない、「三郎のほうが大事になってしまった」という感情だけがどうしようもなく無造作に投げ出されているように感じる。
この話の中で気になってしまったのは、雛型が小さい時に読んでいた”小人が長い長い冒険をする話”。私としては『ホビットの冒険』か『指輪物語』だわ、と勝手に決めてうれしくなってしまう。他に読んでいた本と違って題名が書いていないので物語の類型として書いていただけかもしれないけど。
「冒険」とか「物語」と言えば、始まりがあってちゃんと終わりがあるものだ。
この本が、熱愛の対象となった三郎が、やがて小さな雛型に戻ってしまうとゆき子が気づくきっかけとして描かれている所が、ポイントのような気がした。
こういう話に何かの解釈や理屈をあてはめようとするのは野暮だとは思う。
でも、「物語」ということの意味を強く意識しながら読んでいたので、最後の一行が胸に沁みた。
これが、生きながらえるということなのかもしれない、と思いながら、もう一度三郎のことを思い出そうとしたが、すでに三郎は、物語の中のものになってしまっているのであった。
それにしても、私は30も年上の老人と言ってもいい男性が恋愛対象になるとはちょっと考えにくい。でもこのセンセイとツキコさんの相性がいいことはとても納得できるし、センセイをいとおしく感じることはできた。
センセイは「恋愛を前提としたおつきあいして、いただけますでしょうか」と言った。普通それはちょっとヘンに聞こえるものだけど、ここではむしろ妥当な言葉であり、センセイの生真面目で折り目正しい生き方と、残された時間の少ないひとが言うかなり思い切った言葉なのだということが分かる。
体をかさねること、しないならしないで不満はない、いつものようにキスしたり、ぎゅっとしたりするだけでいい、というツキコさんの気持ちはよくわかった。一緒にいるだけで心地いいと感じる、それだけで満足出来るという気持ち。
でも一方でセンセイが言う「ツキコさん、体のふれあいは大切なことです。それは年齢に関係なく、非常に重要なことなのです」という事も、非常に共感できる。それがちっともいやらしく聞こえず、恋愛にとって当然の、重要な事柄だと思い出させる。
そこでツキコさんが鍋の鱈をすくった時春菊がついてきて、緑と白の対象がきれいで「センセイこれきれい」と言うとセンセイがほほえんでツキコさんの頭をなぜる。という所がとてもいい。二人がよく愛し合っていることがわかる優しい場面。やられたなあ、とじんわりしてしまう。
センセイは、ちょっと何を考えているか分からないようなところもあったけれど、かわいがる事に餓えていたんじゃないかしらという気もした。かわいがりそびれた妻のように、息子のように、孫のように、ツキコさんをかわいがっていたんじゃないかな、なんて思ってしまった。
最初のほうはかなり退屈で中断してしまったりもしたけれど、後半からじわじわと面白くなってきて、最後は黄昏どきのさみしさのような、切ないものを感じた。