『(この人を見よ)ハリエット・B・ストー 』村岡 花子(著), 朝倉 摂 (イラスト) /童話屋

スウ (2013.1.31)

黒人 奴隷制度を痛烈に批判して、南北戦争のきっかけになったとも言われる小説『アンクル・トムの小屋』の作者ハリエット・ビッチャー・ストーの伝記。

小学生から読めるように、子供向けの物語描写と善意あふれる内容なのがややもどかしかったけれど、やはり子供や若者が読むべき本なのでこれはこれで良いのだろう。

黒人がアメリカに送られてきた経緯や、北と南の立場の違い、南北戦争のあらまし等が分かった。ストー夫人は黒人を解放してそのまま、というのではなくて黒人学校を作って黒人の教育に尽力した、本当に黒人に自由を与えたひとなのだった。

それにしても、自分の小説がきっかけで起きてしまった戦争(本当にそれだけではないだろうが)に、自分の息子を送り出さねばならなくなった皮肉は痛々しい。そこも本当に神を信じる力で乗り越えたのだろうか。
北部は本当に黒人が解放されることを望んで命がけで戦ったのだろうか。それに関しては裏事情のようなものがありそうな気もするが、この本からは伺えない。
この北軍の勝利によって「正義は勝つ」という自信がアメリカ人に根付いてしまったのかもと感じた。
50万人とも言われる善良な青年たちの死は、今まで犠牲を強いてきた黒人への代償という考え方は、作者の村岡花子さんの考え方なのか、当時の一般的な考え方だったのかはっきりしないけれども、宗教に無知な私には(キリスト教でも色々な派があるし)この辺は違和感があった。なんか、きれいにまとめすぎていてすっきりしないのだ。

南北戦争をネットで調べてみると、やはりこの小説がきっかけだとか、奴隷解放のためにというのはタテマエで、経済問題が火種という見解が普通らしい。そうだろうなあ、とは思った。

『新訳 アンクル・トムの小屋』ハリエット・ビッチャー・ストウ/小林憲二 監訳/明石書店

しかしやはり『新訳 アンクル・トムの小屋』(小林憲二 監訳)を読んでみた。

するとこれは、多分に宗教的で、キリスト教信仰という概念を抜きにしては語れるものではなく、当時のまっとうなキリスト教徒が心揺さぶられずにはおれないだろう直接的で強い調子の批判が幾度となく繰り返されるものだった。

黒人奴隷に酷い扱いをしていようといまいと、この制度そのものが神の意志に背くことであり、この制度の存在を許している人は最後の審判の時に神の慈悲を得ることは出来ないと突きつけている。看過しているだけでも、地獄行きだよ!というわけだ。

自分の主張を述べるために生々しい具体例を並べ、誰にも分かりやすく面白いストーリーで読者をひきつけ、後半はおびただしい聖書の引用とイエスキリストの最後を模したかのようなアンクル・トムの運命や、逃亡奴隷がキリスト教に帰依して幸せになる様などで、著者の、すべての人間は信仰を強くもてという信念が前面に出すぎるほどありありと表現されていたように思う。

ここで私は、宗教に傾倒したい気持ちは起こらないし、むしろあまりの引用の多さにやや蚊帳の外という感じになるが、聖書というものの内容・存在は、イエスの教えを書いてあるものというより、人間の生き方を真摯に追究するための素材なのだなという感覚を持った。

この小説の評価は日本ではあまり高くないらしい。
私も、読んでいてこれはあまりにも類型的で感傷的な所があるし、ご都合主義的なハッピーエンドが子供向けダイジェスト版をつくりやすくさせてしまうだろうし、批判されるスキがちょこちょこあると思って残念だった。

しかし、これは当時の司法を支持・容認していた知性も教養もある白人の大人たちに向けて書かれたものだ。これが元で戦争が起こったのではないにせよ、当時の一般大衆の心や世論を大きく揺さぶる力を持っていることは確実だと感じるところもたくさんあった。

たとえば、従順なアンクル・トムとは対照的に、残酷な主人から逃亡するジョージ・ハリスが、7月4日の独立宣言をどういう気持ちで聞くか、自分たちには国家も法律も宗教もないことを力強く語るところなど特に惹きつけられた。

また、”ある公正な取引の結果”と題された章に、この小説最初の具体的な残酷さを見せつけられる。
一人の黒人女奴隷が、主人に「亭主の近くに行かせてやる」と騙されて10ヶ月の赤ん坊と共に売り飛ばされ、移送される船上で奴隷商人にそれを聞かされショックを受ける。のみならず、ちょっと目を離したすきに、赤ん坊は勝手に他の奴隷商人に売られてしまう。この女奴隷は絶望のうちに川に身投げしてしまうが、奴隷商人はそれを手痛い「損失」としか思わない。このように読者が「ひどい奴隷商人だ!」と感じるエピソードの後に、著者は読者に下記のようにつきつける。

―しかし、こうした奴隷商人を生み出しているのは、誰なのか?誰にいちばん責任があるのか?奴隷商人を生み出さずには済まない制度を支えている、学問も教養もある知的人間たちか、それともあわれな奴隷商人その人か?まず、あなた方が、彼の商売をよしとするような国民感情を作りだす。次に、その商売が彼を人間的に堕落させ、腐敗させる。その結果、彼はその商売に携わっていても、何の羞恥心すら感じなくなる。とすれば、どの点で、あなた方のほうが彼よりましだと言えるのか?

―中略
―このように考えているとすれば、最後の審判の日には、あなた方よりも彼のほうがより軽い裁きを受けることになるかもしれない。

この引用だけでなく、やっている者は悪いがこんなことを許しているあなた達も地獄に落ちますよという意味のことを何度も繰り返し言っている。私には神を味方に付けた脅しにもとれる。

さらに、外国の奴隷貿易は糾弾するが、ケンタッキー州での売買は問題にしない事実も皮肉をこめて批判。聖職者のなかにも、聖書を奴隷制擁護の道具に用いている人間もいることや、北部で奴隷制に反対のビジネスマンも、取引の資産のなかに奴隷がいれば、信条に目をつぶって売買すること、同じく北の奴隷制を批判する人のなかには、「黒人と暮らすなんて我慢ならない」という理由で嫌悪すべきものとみなしている者もいる事など、様々な視点から奴隷制が容認されている様子と問題点を洗い出そうとする著者の試みが伺える。

そのなかで、南部の、心優しい少女エヴァの父親セント・クレアの性質や心情には共感できた。
この人は、不遇な結婚で半分自暴自棄になっている軽薄な態度の人間だが、実は繊細で感受性の強い人で、自分の奴隷に対する鞭打ちを禁じている。この人と、北部から来たいとこのオフィーリア穣との奴隷に関する問答はとても読みごたえがあり考えさせられた。強い調子で奴隷の不遇を捉えた発言をするものの、それなしでは生活が成り立たないので!と飄々とした調子で言うこの感じ。
いくら環境のためと言われても、電気を消費しないでは生活が成り立たないので!という現代の私たち、分かっちゃいるけどそうじゃないと生活が大変だし…という事はいくらでも例が出せる気がする。

ようするに、それなりに豊かな生活には、どこかに犠牲(や、代償)を強いている、という構造をつきつけられて、他人事には捉えられない気持がしてしまうのだった。

とにかく、奴隷に対して優しく、教育も施し仲良く暮らしたとしても、その優しい主人も借金するし、死んでしまえば翌日には競売にかけられ、たとえ敬虔なキリスト教徒でも、情婦にも、消耗品としてこき使われる農奴にもなりうるという暗部を繰り返し見せつける。ただ、このストウ夫人自体が奴隷というわけではないし、奴隷制の悲惨な状況が身近にあるわけではない北部にいて、逃亡奴隷の手助けをしたり、手紙で残酷さを知ったりした程度なので、作家の力量でここまでのものを描いたけれど、著者の思想を注入された奴隷像なのはしかたないのだろう。それは、ストウ夫人本人が、一番よく分かっていて、”一番残酷なことは描かれておらず”、”ぼんやり描き出したに過ぎない”としている。当時としては、白人が描いたものだからこそ白人社会に広く伝播されて、白人が見ないようにしてきた部分に無理やり目を向けさせた、という意味で歴史的に重要な小説なのだと思う。

ところで、この新訳は原本に則って訳されたもので、児童書ではない。最初にこれを読めたことは幸運だったと思う。訳者あとがきが力のこもった評論で、巻末の資料がこと細かく、とても価値のある本だと思う。
巻末の資料を見ると、前述の伝記では語られなかったストー夫人の人生の負の部分が垣間見える。
愛というより同情で結婚し、次々と子供を産み育てすっかり疲れ果て健康を害し、1年湯治で家族と別居したらまあせいせいしたという様子。
ストー夫人が『アンクル・トム』を書くきっかけというか原動力になったのは、思いやりや宗教上の考え方の強さは勿論だけれど、主婦もまた一種の奴隷のような側面があったから、奴隷にかなり共感できる気持ちがあったのではないかしらと思ってしまった。才能や自活の能力(学校教師も出来た)がある彼女なら、家事と子育てで疲弊してやりたいことが出来ない暮らしには暗澹たる思いがあっただろう、と勝手に想像した。

 


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