『はるかな国の兄弟』アストリッド・リンドグレーン(スウェーデン)/大塚勇三訳/岩波少年文庫

スウ (2011.9.26)

河合隼雄『ファンタジーを読む』がきっかけで を読みました。

冒険物語としての面白さもあるのですが、ファンタジーの常として、"行って、戻ってくる"というお約束が無く、"行ったきりで戻らない"という所が悲劇的にも感じます。

父のいない貧しい家庭で、仲の良いふたりの兄弟。優しくて強くて美しい兄のヨナタンと、病弱でもう死期も近いとされている怖がりでちいさなカール。死を怖がるカールに、兄のヨナタンは死ぬと何もかもうまく行き美しい国「ナンギヤラ」に行く事が出来、そこでまた会えると話す。
先に行くのはカールだと思っていた二人だが、ある日兄のヨナタンはカールを火事から助けて死んでしまう。「ナンギヤラでまた会おう!」という言葉を残して。

このように、いわゆる現世からファンタジーの世界に行く手段として「死」が使われます。そしてまた更にそこで死ぬと、新しいナンギリマという世界に行けるといいます。
そこだけ見ると、死んで逃避かと思われかねないけれど、そうではないはずです。

思うに、この物語のなかで繰り返し出てくる言葉、"けちなごみくずじゃない"生き方、行動をするのがどれだけ重要か、ということではないかと。
卑怯な事をしない、敵だろうと命は助ける、決して誰をも殺さない―こう私が並べるとありふれた言葉ですが、いつも強く勇敢なヨナタンと、ほとんど恐れ慄きながも大切なところでは勇気をふりしぼる事が出来たカール。この物語のなかでなら、彼らの行動や感じ方を通して、人としてのあり方の大切さを素直に感じる事ができます。

河合氏の『ファンタジーを読む』では、最初に語られる世界が"前世"で、冒険をする「ナンギヤラ」が、"この世"、最後に語られる「ナンギリマ」が"来世"とも思わされるとの事。
更に、"死んだからと言って誰もがナンギヤラに行けるわけではないことがわかる"とありましたが、私には残念ながらわかりませんでした。しかしそう考えると、やはりここで使われている「ナンギリマへの道(死)」は逃避などではなく、より人間らしく生きるためのひとつの選択だったのだと思えて納得が行きます。

それにしても、このお話は両親不在で、弱虫のカールはただひたすら兄を慕い、母親のことはほとんど思い出さない所が悲しくなります。父親は二人が幼い時に海へ行ったきり音信不通なので、親と言えばお母さんだけですが、この兄弟を亡くしたお母さんの悲しみはいかばかりだったかと思うとそれだけでもう目頭が熱く。

両親不在のなかで、どうしてこんなに勇気をもって強く行動していけたのか、考えてみるとやはり兄にとっては幼い弟を守るため、弟にしても兄について行き助けるため、でしょうか。親などいないほうが却って強くなれるのでしょうか。そうかもしれません。しかし人間は、一人ぼっちではこんなにも勇気をもって強くなって行くことは困難ではないか、そんな気がしています。


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