5 月3日〜4日ゴールデンウィーク日本一の人出を誇る
福岡市民の祭り・博多どんたく港まつり
街全体が巨大な舞台
華を咲かせるどんたくばやし
「博多どんたく」は、わが国の古い民俗行事で830年余の伝統行事です。
 平安時代、京都御所の正月、宮中参賀の行事が方に伝わり、博多では源平時代のち冶承3年(1179)正月15日松囃子を取行うとあります。以来祝いあう行事をシャレッ気の多い博多町人が発展させたものです。

博多どんたくの前身である博多松囃子は、宋との貿易を活発化させた平清盛の子重盛が博多の町にもたらした恩恵への謝意を示したのがはじまりとされていると伝えられています。

松囃子というのは、正月にはその年の新しい神様が門松に降りてくる、その松のみどりのめだたさに託して、それぞれの領主に対する年賀の行事として始まりました。

松囃子の起源は、年賀行事だったのですがそのうちに、風流と結びつき芸能化します。町を練って歩く祭り形式の「練り風流」といわれています。

古い文献によれば、文禄四年(1595)豊臣秀吉が、商都博多の都市計画にあたる町割りを行ってから十年後に現れ、筑前の領主となった今から約400年前の小早川秀秋の居城(東区名島城)へ博多の町人が松囃子を仕立て年賀のお祝いに行ったと記されています。その後、黒田藩の城下町となった武士の町「福岡」と博多町人の町「博多」との二つの町が270年間、博多松囃子を通じて交流しています。

明治5年、国家神道だけを奨励する新政府下の県知事によって、「神仏の祭りごとを派手にしてはならない」と松囃子・山笠共中止させられますが、「天皇さんのお祝いならよかろうもん」と紀元節松囃子と言う名目で明治十二年二月十二日の紀元節に再開され、「博多どんたく」と呼ばれるようになり戦時中、一時中断されましたが昭和二十二年焼土の中から「どんたく」で町おこしの呼びかけがあり、年に一度の無礼講の行事として年々盛んとなりました。

博多では昔からただ、「どんたく」っていいますが

現在の正式名称はちょっとながたらしくて「福岡市民の祭り・博多どんたく・港まつり」と言います。

「博多松囃子」は五月三日、四日の9:00〜16:00櫛田神社を出発点に市中を巡ります。

旧正月の十五日になると毎年数千人もの群衆が、那珂川を渡って福岡城へと向かったそうです。先頭には、福禄寿、男女の恵比寿、大黒と言う三組の福の神。めでたい口上を述べる稚児行列が続き、その後に思い思いの扮装をした「通りもん」と呼ばれる人々があるいは山車のような台を引きながら、またあるいは笛太鼓、鉦に三味線を鳴らしながら其々得意の唄や踊りを披露して続いていたそうです。 「数千の人引きもきらず打ち通るありさま、いと興ある観もの也。かかる事は他国にも例なきわざなれば、国中はさら也、遠近の遊客来たり見るもの巷街にみちみちてり」と当時の人は書き残しています。昔のどんたくは、三味線と鼓が主あとはしゃもじくらいでしたが、道がひろくなると、和楽では響かなくなって、洋楽にかわっていったわけです。初めて洋ものが出たのは、たしか昭和八年くらいだったと伝わっています。
60年代のどんたく隊

戦後焦土の中での復興(昭和22年)

60年代の花電車

博多の町家では、どんたくの時は土間で踊っていましたが、博多大空襲でそういう家が全部焼けたので、踊ることができない。そこで昭和22年から演芸台というものができたそうです。

80年代のどんたく隊

80年代の花自動車

80年代のどんたく隊

松囃子の一行。服装は、上着は肩衣(かたい)、袴のようなかるさん(たっつけ)、わらじばきというのが正装である。

松囃子を今に伝える『稚児舞い』市内の各所(大きな店など)に立ち寄り『稚児舞い』を披露していき、ぐるりと各流れの人々が取り囲みその中で舞いが披露されていきます。

 

博多松ばやしは福神恵比須大黒の三福神と稚児で構成されていてどんたくパレードの幕開けを飾るほか、市中を祝って廻ります。

この三福神と稚児流れで「松囃子」といい、これは昔からの伝統で、格式高い行列なので、必ずパレードの先頭を行きます。

博多松囃子(博多どんたく)は厳密には櫛田神社の祭事ではないものの、松囃子一行は櫛田神社から出発するしきたりになっています。

「松囃子」はパレードのあと、三日は博多部、四日は福岡部を回って、昔から決められた場所を練って歩きます。県庁、市役所、新聞社などそのほか昔から博多、福岡に功績のあった家を回ります。 三福神はカミシモ、たっつけ姿の男衆の一団に囲まれ、それぞれの行列には力サボコ各三本がつきます。

 
福神福禄寿に因んで、張り貫きの長い頭をかぶり、福神の面をつけ、白無垢の上に黄絹の打ち掛け、手に唐うちわ で馬にまたがる。

 

恵比須は珍しい夫婦恵比須男恵比須は烏帽子をかぶり、恵比須の面をつけ、右手に釣りザオ、左わきに大ダイを抱き、錦のそでなし羽織姿で馬に乗 ります。女恵比須は天冠をかぶり、左手に玉を抱き桧扇を手に赤いはかまで馬に揺られ ます。

 

恵比須は珍しい夫婦恵比須男恵比須は烏帽子をかぶり、恵比須の面をつけ、右手に釣りザオ、左わきに大ダイを抱き、錦のそでなし羽織姿で馬に乗 ります。女恵比須は天冠をかぶり、左手に玉を抱き桧扇を手に赤いはかまで馬に揺られ ます。

 

大黒は黄絹の頭巾をかぶり、大黒の面。緞すの服に白ばかまで大きな紗金袋を背負い手には打ち出の小ヅチ。米俵を左右につけた馬に乗って進みます。

 

稚児は天冠をかぶり、舞衣に緋のはかまをはいて棧敷台に引かれ要所要所で地謡い、 鼓に合わせ優雅に舞います。

 

上記の各右及び左のレリーフ画像は御笠川にかかる西門橋の欄干に飾られています。

 

三福神揃い踏み

『稚児舞い』が終わって入れ替わるように次々と三福神がやって来ます。

『祝うたぁ!!(いおうたぁ!!)』と皆で声を張り上げて互いを祝い合って次へと向かいます。

福禄寿(福神)様 恵比寿(夫婦恵比寿)様 大黒様

三福神は現在でも大黒流、恵比須流、福神流の横筋三流が受け持ち、稚児は縦筋の四流が四年に一度づつ順番で受け持ってい ましたが、稚児においては現在は東流、西流が二年ごとに交替で受け持っています。

参照:博多の歴史・太閤町割り 博多祇園山笠・山笠七流 櫛田神社

どんたくのいちばんの見せ場は、三日の午後一時から行われる大パレード

市役所のお祭り本舞台(西広場)に出ますから、ここで見るのが一番いいかも知れません。

5月2日前夜祭の様子

呉服町(明治通り)を出発点に、福岡市役所までの約1.3キロをパレード隊がそれぞれに工夫をこらして練り歩きます。

明治十二年、オランダ語の「ZONTAG(ゾンターク)」(西洋休日)にちなんで「博多どんたく」と呼ばれるようになり、「松囃子の日は仕事が休みだ=どんたくだ」と嬉しがってつかった博多っ子の間で次第に定着し福岡市民の祭りとなり今日にいたっています。

ZONTAG(ゾンターク)は横浜や長崎を中心に使われたハイカラな流行語だっのです。

この言葉は明治政府制定の祝日を指す言葉として1871(明治4年)から政府が広めた言葉であると言われ、主として四大節を指してい ました。正月15日の松囃子と通りもんが禁止されてのち、明治政府公認の祝日を祝って繰り出すようになり、その過程で松囃子や通りもんによる祝いの行事を「どんたく」と呼ぶようになったと考えられています。

昭和23年、新憲法発布を記念して、5月3,4,5日になったのですが、その後、三日間はダレるからと、5月3、4日の二日間になって、現在にいたっています

 

1879年(明治12年)に三福神・稚児・通りもんが紀元節を祝した資料が残っており、この年をもって「どんたく」が再開されたとの説が広く流布している。また前年の1878(明治11年)に三福神が紀元節の祝いに繰り出していることから明治12年よりも前に博多の祭りとしての「どんたく」の呼称が発生していたとも考えられています。

毎年いろんな趣向をこらしたどんたく隊が街を練り歩き博多どんたくは福博の街全体を大きな劇場にしてしまいます。

2日間にわたり、主として「どんたく隊」と呼ばれる様々なグループが演舞を披露します。どんたく隊は各種団体や企業、学校、他都市からの観光PR団体、そして有志の集まりなどにより構成され、企業のどんたく隊は団結力を高めるなど新人社員教育に活用されているそうです。

どんたく一口メモ

しゃもじ

どんたくと言えばシャモジを叩きながら練り歩くお囃子がユーモラスで素敵なハーモニーを醸し出していますがその起源は昔、商家の前をどんたく囃子が通りかかった時、そのお囃子の見事な音色に夕食を支度中の商家のオカミさんが浮かれだし、手にもっていたシャモジを叩いてお囃子に加わったことから始まったそうです。

いっそくいっぽん
【一束一本】

松ばやしの通りもん<行列>を迎える側はお祝儀の「1束1本」を用意する。半紙1束と白扇1本のことで、三方に乗せて渡します。

松囃子の祝賀を受けた者が贈る返礼品のことで、杉原紙の1束(10帖)と扇1本を組み合わせたもの。鎌倉時代以降の武家の贈答の形式で、小早川秀秋が名島城にて筑前国を治めていた頃は銭50貫文を渡されていたが、黒田家の福岡藩では一束一本を与えるようになり、現在でも松囃子に対して各家や各企業はこの一束一本を三方に乗せて御礼としている。

【傘鉾】

傘鉾は、神の依代となる「だし」を頂に、傘には6枚の「垂れ」を下げる。 「垂れ」には羽二重を用い、水墨画等が揮毫される。 近年は「流」で1本、当番町で1本、博多松囃子振興会が製作した古式傘鉾1本の合計3本の傘鉾を奉納している。傘鉾をくぐると病気にかからないと言われている。

博多小学校生徒作傘鉾

 

【どんたくばやし/ぼんち可愛いや】

 
一) ぼんち可愛や  寝んねしな  品川女郎衆は十匁  

        十匁の鉄砲玉  玉屋が川ィ  すっぽんぽん

*”玉屋がかわい”というのは、”かわいい”と博多弁の”川い(へ)”をかけているそうです。
二) 一度は気休め  二度は嘘  三度のよもやに  

 ひかされて 浮気男のくせとして 女房にするとは しゃれかいな

三) もうしもうし  車屋さん  ここから柳町ァ(停車場は)  なんぼです 

大勉強で十五銭 三銭負けとけ アカチョコベ

四) もうしもうし  床屋さん  頭(髪)をハイカラさんに  

 つんでおくれ 後ろ短く 前長く なるだけベッピンさんが好くよう

↓ どんたくバージョン ↓
*) 三味の音締めや 笛太鼓 杓文字叩いて 浮かれ出す

被って可笑しき にわか面 どんたく囃子の賑やかさ

*) うかれどんたく 春の世に 柳並木の那珂川に

思うお方と 佇めば 月も朧に顔隠す

*) 博多どんたく 松ばやし 恵比須に 大黒福禄寿 

千代に繁昌の街じゃもの めでたく祝うて スッポンポン

*の部分は「どんたく」期間中 四)の続きとしてまた四)に変わって唄われることがあります。

”昔は、ぽんちかわいや”と歌う人もいて、新聞社でも、”ぼんちかわいや”と”ぽんちかわいや”とバラバラだったのですが、昭和35年頃、博多歴史研究家の江頭 光 氏が元歌の経緯を書いて以来”ぼんちかわいや”に統一されました。

その江頭 光 氏は、”玉屋がかわい、スッポンポン”だから、それがぐるっと最初に戻って、”ぽんちかわいや”じゃないか?そうなると、しりとりがつながるとも、仰っています。


一番の歌詞は幕末、江戸で流行した尻取りくさり(鎖)唄で、 この江戸のしりとり唄を博多風にアレンジしたのが、明治時代の博多商人・河原田平兵衛(かわはらだへいべい)さんです。平兵衛さんは1501年から今でも続く文具屋さん「平助筆・復古堂(へいすけふで・ふっこどう)」の三男坊として生まれた、明治中頃の人です。
明治38年江戸へ菓子修行へ行った河原田平兵衛さんが持ち帰ったと言うのが通説となっていますが二番以降の歌詞は大正中期に作られたそうです。


二番以降がしり取りに成らず此れを憂えた博多のご意見番といわれた祝部至善が

    春はどんたく、夏は山笠(やま)

    山崎街道、貞九郎

    苦労するのもぬしのため

    為朝、無双の弓を張る

と新作を試みて、これならしり取り式になると大いに吹聴しましたが、残念ながら伝統にはかなわず不発に終わりました。

そののち何種類もの歌詞が作成されたが、1991の博多どんたく30周年に合わせ、博多7町にちなんで7番にまとめられました。

河原田平兵衛さんの元と成った、江戸嘉永期のわらべ歌

「ぼたんに唐獅子、獅子に虎、虎を踏まえた和唐内」に始まるしり取りの一節

五郎、十郎、曽我兄弟

鏡台、針箱、たばこ盆

ぼんやはよい子じゃ、寝んねしな

品川女郎衆は十匁、十匁の鉄砲玉

玉屋は花火の大先祖

河原田平兵衛さんは、明治の中ごろ 博多下呉服町に菓子店「栄松堂」を開きますがこの屋号は、東京の修行先の栄太桜の一字と博多祝い歌の「エイショーエ、エイショーエ」をもじったものだそうです。

平兵衛さん、音楽が得意のうえにハイカラで、明治20年代には、文具屋を継いだ平助さんにスポンサーになってもらい、博多で最初のブラスバンドをつくり、博多どんたくのパレードにも参加し、市民の人気をさらったようです。金ボタン付きの洋服を着て太鼓にラッパを打ち鳴らしました。商用で何度も東京に行くうちに江戸のしりとり唄を持ち帰り博多風にアレンジしたのです。曲はこれまた吉原で女性たちが三味線で演奏していた「騒ぎ」という曲を編曲したようです。祭り好きで、修行中も東京・神田や芝の祭礼には東京に住む博多出身者を集めて「筑紫連中」と名乗り飛び入り参加していたそうです。

 

博多どんたくの開催日は雨天となる場合が多く、2日間のうちのどちらかが雨天になると言われています。基本的に雨天決行ですが、豪雨により一部の行事が中止に追い込まれたこともあります。どんたくの雨をジンクスと捉える人は少なくないようです。

【どんたく歴史年表】

治承3年

(1179年)

博多松ばやし始まると伝わる「博多にて正月15日松囃子と云う事を取行う。」 (貝原益軒著・筑前国続風土記)
天文8年

(1539年)

せき鼎八唐記に「遣明船使節を博多の人々が松囃子にて送る」とある。
天正15年

(1585年)

博多の町割り豊臣秀吉の許しをえる。 (町流れの誕生)
文禄4

(1595年)

中納言郷(小早川秀秋)名島城にて博多松囃子「福神・ゑびす等、正月のように仕立ててお祝いをした。そのお礼に銭50貫頂いた。」とある。
慶長5

(1600年)

黒田長政が父如水と共に博多に移封され福岡城の築城にかかった。
寛保元

(1741年)

太閤町割りの七流れに従って松囃子と黒田藩とのかかわりあいや町々の賑いが「博多那の津要録」に明記されている。
明治5

(1872年)

福岡県知事の命令で松囃子の禁止令が出る。
明治12

(1879年)

11月11日出版の紀元節「福博祝の評判」によると「稚児・三福神のほか113組の通りもん有り、…」この年、松囃子の復活が駄目ならば「お祝いのどんたく仕りたく…」と言葉をかえて云った事に始まる。<どんたくのことばの起り>
明治22

(1889年)

博多部と福岡部が合併して福岡市となる。
明治38

(1905年)

「ポンチカワイヤ」の江戸のくさり(鎖)うたが洋楽として演奏される。
昭和4

(1929年)

どんたく隊、京城で開催中の施政二十周年記念博の応援で初めて海を渡る
昭和10

(1935年)

どんたく隊、施政四十周年・台北博覧会の応援で再び海を渡る
昭和16

(1941年)

大東亜戦争の為中止となる。
昭和21

(1946年)

5月24日:戦災の中より「復興どんたく」を祈って紙ハッピ・タッツケで松囃子がスタート。
昭和24

(1949年)

新憲法発布を祝して5月3日・4日と定め、今日に至る。
昭和36

(1961年)

どんたく前夜祭が5月2日・福岡スポーツセンターで始まる。
昭和37

(1962年)

オランダ語の「ゾンターク」(休日)にちなんで「福岡市民の祭り」と位置づけられ近代的な祭りとなる
昭和47

(1972年)

どんたく広場開設
昭和53

(1978年)

戦後初めて海を越え、どんたく隊、サンフランシスコへ渡る。
昭和57

(1982年)

姉妹都市提携20周年を記念してどんたく隊、米国オークランドへ渡る。
昭和59

(1984年)

どんたく隊三たび海を越え上海へ渡る。
昭和61

(1986年)

どんたく復活40年、市民の祭り25周年ひろば開設15年となり、5月3日・4日共連休となる。

どんたく隊、姉妹都市提携調印式へ同行しニュージーランド・オークランド市へ渡る。

昭和63

(1988年)

どんたく広場“国道202号”明治通りに移行。

どんたくの夜には、福博を「花自動車」が鮮やかに街に彩りを添えます

花自動車の原形は、路面電車にさまざまな装飾をほどこした「花電車」。その歴史は明治時代にさかのぼり、西鉄の前身である九州電気軌道(株)や福博電気軌道(株)が路線の開通式などで走らせたという記録が残っています。

博多どんたくで走るようになったのは昭和22年からで、戦争の痛手が残る街に華やかな灯をともしました。その後、路面電車の廃止にともない、昭和53年から花自動車へと姿を変えましたが、常に世相を反映した装飾は、博多どんたくの祭り気分を盛り上げています。

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