放射能汚染とどう向き合っていくのか




◇ それでも私たちは訴え続ける ◇

Haginokai 2012 Miyagi Japan.
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かつて原爆投下の被害を受けた広島・長崎の人々は、すべてを一瞬にして失い、家族バラバラのまま全国へ避難しました。 
新天地での生活では不自由な思いをし、あの頃の故郷や人々の笑顔を思い出したりしながら精神的な病を患う人も大勢居ました。

それに加え、被爆による後遺症が数年後に現れるなど甚大な健康被害も続出しているのです。
原爆のときも同様でしたが、「放射能による直接的因果関係は認められない。」の一言で片付けられる始末です。

唯一の被爆大国である日本は、過去の大惨事を学ぶこともないまま再び「核による大惨事」を受けました。しかし今回の被爆は、日本人
自らが受け入れ作り出したものと言っても過言ではありません。 
世界の原子力機関や国、学者などの安全神話を真に受けすぎてきたからです。 役人が机上で叩き出す数字のマジックによる
安全神話や、原子力行政を守り抜くためだけの隠蔽工作や寄付金に踊らされてはいけないのです。

核の恐怖は、核の恐怖を経験した人間でなければ分からないほど言葉では言い尽くせない恐ろしいもので、過去に投下された「原爆」も
「原発」も同じ核を使うエネルギーとしては同じものなのです。 いくら核の平和利用と言っても、それを扱う者たちが甘い認識のままでいる
と、手がつけられない悪魔へと変貌するのが核であり、人類を滅亡させるほどの大魔人でもあるのです。

「核の恐ろしさ」 その答えは既に出ており、 その答えこそ 「人類では処理も消失も不可能な魔物・・・」

そんな危険なものを、安全管理を疎かにしたまま利用したり、核の正しい知識を国民に伝えることもないまま経済優先と奇麗事で
平然と推進し続けていった場合、再び核の恐怖が人類を滅亡させることになるのではと疑問を抱かざる得ません。
エネルギーを得る以上仕方ないことだとは分かっているつもりですが、人類の手に負えないようなものを平然と扱うこと自体が大間違い
だと私たちは思っています。 それでも「核の平和利用」をせざる得ない以上、絶対に利益主義での手抜き利用や、核武装としての利用は
言語道断な話で、慎重かつ丁寧に、しっかりとコストや手間隙をかけて行わなければならない代物なのです。 

あのときから何も進歩していないという事実も明るみになった昨今、それでも二度とあのときのような惨劇を起こさないでほしい・・・ 
いくら言葉で伝えようとも伝わらないことだってあると思いますが、僅か一部の原爆被害者は今日まで生かされ続けています。 
それは何故か? あのときの教訓と悲劇をひとりでも多くの人に伝え、残していかなければならない使命があるからだと考えます。
日々体調が思わしくないのが正直なところですが、我が身を犠牲にしてまでも、「核の悲劇を」後世に残さなければならない… 
だから私たちは今もこうして訴え続けているのです。

国の批判やオカルト的な話にしか聞こえないかと思いますが、それだけ私たちは放射能で苦しんできたが故に、今ここで真剣に
語らなればならない時期を再び迎えてしまったのです。
資源が少ない日本における原子力エネルギーの有効利用は、確かに必要不可欠なものだと思います。 
しかし、現在の日本の在り方を冷静に見たときにどう感じられるでしょうか。 経済主義で更にはコストカットを繰り広げながら原子力施設
運営など、有り得ない状態で安全神話だけを訴え続ける国や電気事業者の在りかたに憤りを感じてなりません。

人は、大自然があるからこそ生かされているものだと思います。 大自然に勝る力はないといえるほど人間は無力なのです。 
大自然の恵みに感謝しながら、誰しもが協調し尊重し合い、争いごとを避け、同じ目線で支え合っていかなければならないのが本来の
人の生き方なのではないかと日々感じています。 原発事故が起きてしまった今日、誰しもがひとつひとつの物事に注意を払いながら
生活していかなればならないという時代へと突入してしまいました。 このことは非常に無念でなりません。 
「これからを生きる」それは、かつて私たちが経験した「国の安全神話」に踊らされずに、個々の正しい判断のもとで生き延びていく方法を自
らが築いていかなければならないという悲しい現実なのです。 

二度と同じ苦しみを経験してほしくない−  二度と同じ過ちを犯してはならないから−  核について真剣に見つめ直してみませんか−