ここでは、「秦野のカリントウ」がどんなものだったのか、
再現した「かりんとう」を見て頂き、聞き取り調査を行いました。
(かりんとうの再現には、JA秦野の方に作り方や料理資料を教えていただきました。)
1 まず身近な知人やお年寄りに確認しました。
█結果 民俗調査報告に書かれている「カリントウ」のように
カリントウは秦野市全域での広がりを持っている。
60歳位の人は食べた経験が有る。
タバコ農家中心に作られている。
お盆のころ、タバコの収穫時あるいは収穫後に作られた。
形は最も一般的なものが手綱型(ひねり型)であった。
という事が確認出来ました。
2 上の結果をもとに、さらに詳しい聞き取り調査を実施しました。(2009)
秦野市内および近隣市に住んでいる大正5年から昭和28年生まれ迄の27人(うち大正5-15年は9人、最高齢の人は93歳)から、
カリントウを食べた時の「地域」「作られた時代」「作っていた家」「作り方」「どのような時、目的」「誰から教わったか」等
について見本を見て頂きながらインタビューを行いました。
特に「カリントウ」がいつ頃から作られていたのか知るために誰から教わったのかについては出来るだけ詳しくお話しして頂きました。
█詳細な結果
作られた地域 |
秦野市の東地区、西地区、南地区、北地区、上地区、本町曽屋、中井町(2人)、大根鶴巻地区
(平塚では食べない) |
作られた時代 |
T5-T10生まれの人が、「お母さんやお祖母さんが作り、手伝い、教わった」という人が多いので明治から大正初期まで遡れる。
(民俗資料と同じように、明治終わりの頃には作られていたようです) |
作っていた家 |
農家がほとんど。近所でも同じようなものを作っていた。商家では作っていない。
小麦粉が自家製粉という方が半数に及んだ。
また菜種の耕作をしており工場で搾ったものを使ったという人が4人いた。 |
作り方 |
全員、こねて足で踏み、そばの機械を用いて板にしていた。
(そばの機械:家庭用製麺機は戦時中に広がったと言われている) |
どのような時 |
お盆や秋の彼岸のお土産にドーコ1杯作った。
お祭り(4月)や人寄せの時。
葉タバコの収穫の時。
初午のころ。
行事の時、お土産に持たせた。
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誰から教わった |
お母さんやお祖母さんが作り、手伝い、教わった。(T5-T10生まれ)
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█まとめ
見本(手綱型)と同じような形、大きさ、味、堅さのカリントウが秦野全域で作られていた。
カリントウは農家で作られており、商家では作られていない。
近所でも皆、似たカリントウを作っていた。
明治初期から昭和30年ころまでカリントウは作られていた。
農家では小麦とともに菜種も栽培しており、自家粉、自家油の人が多かった。
「代々伝わってきた。なつかしい。母を思い出す。」という人が多かった。
調査した全員が、「秦野以外では見たことが無い」と言った。
█結論
聞き取り調査の結果から「秦野のカリントウ」は、
お店で売られていた物では無く、「広く農家で作られ代々と伝えられてきた物」であること。
「材料の小麦粉と菜種油が手に入りやすい環境」にあったこと。
特に、「菜種栽培は、秦野の葉タバコの栽培と深く結びついている」らしいこと
などが分かりました。
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2010.4.7