ここでは"かりんとう"と"原料"の歴史と、大きく分けて"二種類のかりんとうの製法"についてお話します。


1 "江戸かりんとう" と "播州かりんとう"

通常良く見る黒砂糖や蜂蜜でくるまれた「かりんとう」は、江戸で主に作られたといわれ、柔らかい食感のものです。
これに対して、
主に関西で作られていた"堅こね製法"による
「かりんとう」は うどんの製法に近く、薄力粉を使い水と練ってから捏ね、じっくりと揚げる堅い食感のかりんとうで"播州かりんとう"が代表です。


秦野で「かりんとう」「といわれているものはこの"堅こね製法"によるもので、いわゆる関東地方で良く見る「江戸かりんとう」とは異なります。
秦野では、うどんと同じように薄くのばした麺帯を8cmx2cm程度の短冊状に切り、中心に切れ目を入れて、一方の端を切れ目に通してひっくり返す、 いわゆる"手綱"といわれる形にして、ナタネ油で揚げたものです。
秦野のかりんとうの一番の特徴は、かりんとうが農家で作られていたもので、お店で売られていたものでは無いということです。



2 かりんとうの歴史

かりんとうの起源には二つの説があるようです。

唐菓子説   現在でも、麻花(マーファ)やねじりと呼ばれる中華かりんとうが長崎や中華街などで広く売られています。 これは食感が堅くて秦野のかりんとうに似ていますが、形は縄状に編んだ形をしています。
青木直己著「和菓子の今昔」淡光社(2000年)には、
唐菓子は、7-9世紀に唐からわが国にもたらされたものであり、「米粉や小麦粉などの材料を油で揚げ、甘葛煎などで甘味をつけた食品とされている。」とあります。
土佐日記の二月十六日に「まがり餅」を売る店が書かれているとあります。
まがり餅は米粉を練って藤や葛が巻きついた形にして油で揚げた物だと青木氏は記しています。このまがり餅は米の粉というのが異なりますが、現在の中国カリントウの麻花(マーファー)に良く似ている記述です。
麻花(マーファーあるいはマーファール)は、1600年頃、長崎に伝わったとされ、長崎では「よりより」、「唐人巻き」と呼んでいるようです。

作家高橋克彦氏の陰陽師の作品の中では、唐菓子について「小麦粉を結び目の形に拵えて油で揚げたもの」と表現していると青木氏は書いています。
ちなみに、私の娘は、マンガ「陰陽師」に出てくるこの京菓子が、カリントウだと思っていたようです。

また、

遠藤元男、谷口歌子著 日本史小百科 飲食(近藤出版社 昭和58年)では、
唐菓子の「煎餅」は、「小麦粉を練って円形に延ばし油で揚げたもの」という記述があり、カリントウに良く似たもののようです。

このように見てくると、唐菓子の中に、カリントウと良く似た作り方のものが有ったということが分かります。


南蛮菓子説   播州かりんとう は、姫路市の資料によれば、
「江戸時代の文化5年(1808)に藩主酒井忠道が姫路藩の財政再建を家老の河合寸翁に命じ藩経済の改革を行ったことに始まっている。
改革の一つとして、木綿、小麦粉、なたね油、砂糖などの諸国の物産を城下に集め商業を盛んにするとともに、
長崎に菓子職人を派遣して、オランダ商館から南蛮菓子の技術を持ち帰り生産を始めた」ことが起源となっているようです。
姫路じばさん館ホームページ 名家老河合寸翁


3 かりんとう原料の歴史

  「かりんとう」は小麦粉(強力粉、中力粉/薄力粉)と砂糖と油が必須の菓子です。
次に、これらの原料の事情は、時代によってどうだったのでしょう。文献から抜き出してみます。


小麦粉 小麦は、小麦粉として唐菓子に使われているように平安時代には栽培が行われていました。
粉食による菓子、うどんは粒食よりも上等なもので「ハレ」の食として食べられていました。
製粉振興会ホームページ 小麦粉の歴史

砂糖/甘味料 青木直己著「和菓子の今昔」淡光社(2000年)
日清製糖ホームページ お砂糖の歴史
製糖工業会ホームページ 砂糖の歴史
これらの資料によると

鑑真和尚が唐から持ち込んだと言われており、大仏に献上された薬品の一つとして「蔗糖」の名前が正倉院の「種々薬帳」に残っているそうです。
室町時代には元・明との交易により砂糖の輸入が盛んとなり砂糖饅頭や砂糖羊羹が現れました。
16世紀以降、カステラや金平糖などの南蛮菓子などの広がりにより南蛮貿易で砂糖の取引が盛んとなり大量の砂糖が輸入されるようになりましたが高価なものでした。
輸入対価の銀の生産量が減少してきたために、
江戸元禄時代、徳川8代将軍吉宗により、国内産糖の奨励策がとられ、琉球や薩摩(奄美大島)のさとうきび栽培と製糖技術が全国各地に広がっていきました。
琉球奄美の黒糖に対して、四国では白糖が作られ、特に讃岐の和三盆は有名です。このようにして幕末には国内産砂糖が輸入糖に取って代わったのだそうです。

食用油 かりんとうに無くてはならない食用油について、
日本史小百科の「飲食」の油・脂の項には次のような記述があります。
「唐菓子は胡麻油で揚げた。・・・奈良・平安期の上層社会に好まれた唐菓子は平安末期にはほとんどがすたれた。」

ところで、食用油としては胡麻油が使われていましたが、他には何があったのでしょう。

渡辺信一郎著「江戸の生業辞典」(1997年東京堂出版)

油屋と油売りには、「胡麻の油は食用に、荏の油は油障子に、椿油は婦人の髪に用いるとある。下層庶民の点灯用として魚油(鯨、いわし)を用いた」とあります。

さて、
これらの著作の中になたね油の記述は有りません。


「巨大都市江戸の周辺」の中の「享保改革期における関東の菜種・唐胡麻政策」大石学
の中には、
「灯油には菜種、綿実などを絞って作った。油生産の歴史からみると、近世は木実油・荏胡麻油から菜種油・綿実油へと移行する時代であった。 この背景には・・・米作の裏作として菜種作が広まり、また綿作が普及したことなどがある。
また、享保改革期(1716-1745)には大阪から江戸へ大量の油が回送されており、江戸は灯油の76%を大阪に依存していた」
と書かれています。

江戸時代、関西が菜種油の大生産地であったことが分かります。

姫路でのかりんとうが生産され始めたころは淡路島で収穫した菜種を対岸の兵庫灘に集め、菜種油をしぼり灯油用として江戸へ回漕していたので、姫路で菜種油を集めるのは容易だったでしょう。 神戸税関ホームページ  菜種

さらに
「享保時代に江戸での灯油価格の安定化を狙って関東での菜種栽培が、幕府指導のもとに開始された。商人や名主層が参加し政策として栽培/収穫/搾油と流通の構築を目指したが、 関西と異なる気候や土質のために栽培は難航し不作続きで作付免除を願う村も多く出るなどした。 幕府は名主を菜種栽培の世話と作付見回りを行う見回り役に任命したり、会所の設置、見回り役・勘定方役人・商人手代の回村、村方からの報告などを行い、 さらに種や肥料、土地の選定などの困難を経てようやく菜種が栽培できるようになり、 1830年頃には江戸の需要の1/4から1/3の油を賄えるようになった経緯」 が豊富な資料によって解き明かされています。

この菜種油の主な用途は灯油ですが、食用にも使われるようになっていったのは、姫路でかりんとうが作られ始めた江戸時代後期と推定されます。
さらに、京都の山中油店では植物油が食用として大衆に普及したのは、灯火が石油ランプや電灯に置き換わり始めた幕末から明治にかけてのことと書かれています。
山中油店 油の歴史


このように、かりんとうの原料である砂糖は元禄時代に全国での栽培が奨励され、菜種油は享保年間(1716-1745)に関東で菜種栽培が奨励され、江戸時代後期には関東でも菜種油が採れるようになったのです。

秦野のかりんとう
の大きな特徴は 各農家で作られていたものだということです。

この「かりんとう」は  
  • どうしてこの地域で広く作られていたのか?
  •  
  • どうしてこの「かりんとう」が秦野近隣のみに残っているのか?


  • などの疑問を
    次に、食と農業との関係として考えてみます。


    参考資料
      青木直己著「和菓子の今昔」淡光社(2000年)
      渡辺信一郎著「江戸の生業辞典」(1997年東京堂出版)
      遠藤元男、谷口歌子著 日本史小百科 飲食(近藤出版社 昭和58年)
      竹内誠編「徳川幕府と巨大都市江戸」(2003年東京堂出版)3.巨大都市江戸の周辺「享保改革期における関東の菜種・唐胡麻政策」大石学



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    2010.4.7