仕事を終えた足でそのまま空港へと向かう。
福岡行の最終の便。平日ということもあり、空席が目立つ。
私は帽子を取り、眼鏡を外し、形ばかりの変装を解いて、シートへと背中を預けた。
天候も悪くないので、福岡には予定通りの時間に着きそうだ。
離陸後、窓の外は宝石箱をひっくり返したように小さく明るい光が見えるが、それも徐々に遠のいていく。
携帯はもう電源を切ってしまっているので何の役にも立たない。最後にもう一度春歌にメールをしておけば良かったと思いながらも、彼女と電話で話したことを思い出した。
「お母様も喜ばれると思います! だって、久しぶりなんでしょう? 翌日にはお仕事があって、たとえすぐに帰らなくちゃいけなくなっても、絶対に喜ばれるはずです」
春歌は目を輝かせながらそう言った。
「そう、ですね……。一泊だけですが、顔を見せに帰るのも子の務めですからね」
淡く笑ってそう言ったものの、実は少しだけ気が重かったのも事実。
上京してから、久しく実家には足を向けていない。
ロケで福岡の地を踏むことはあっても、実家には立ち寄らずそのまま東京へと帰ってしまい、満足に連絡すらしていない。
母も、上京したばかりの頃は何度か私の部屋に足を運んだり、連絡をくれていたのだけど、HAYATOとして慌ただしく仕事を始め、満足に電話に出ることが叶わなくなり始めたときから、連絡が途絶えがちになった。
早乙女学園に入学し、卒業後に本格デビューをしてからはなおのことで、頭の片隅では母を気にかけつつも、私がテレビの画面の中で活躍することが何よりのことだと言い聞かせ、反面、母を遠のける尤もな理由の一つにしていた。
幼い頃から様々な習い事をさせられていたけれど、母は決してきつい人ではなかった。
習い事をするからには、半端な気持ちでは許さないと、時折ぐずる私を叱ったりもしたけれど、それは親としては当然のことであり、大人になった今、あの頃の自分を思い出すと、叱ってくれる母の姿というのはありがたいものだと思えるくらいだ。
父は父で、何も言わずに母と私を見守り、母の目が届かないところで時折、「辛くなったときは無理をしなくていいんだ」と優しく頭を撫でてくれもした。寡黙だが、優しい父だった。
そんな母と父の離婚。
私が徹底的に駄々をこねて習い事を嫌がり、子役ながらも芸能の道に興味を示さなければ、今でも両親は一つ屋根の下仲良く暮らしていたのだろうかと思うと胸が痛む。見るからに仲睦まじい夫婦とは違うが、少なくとも、ぎすぎすした空気はまるでなく、ごくごく一般的な夫婦であり、家族だった。
家族という歯車がいつからかみ合わなくなってしまったのか。
それは舞い込んでくる『仕事』のスケールだ。
チラシや地方紙だけでなく、地元のCMに起用され、劇団に入り、小さいながらに役を与えられたりするたび、両親の意見の食い違いは日に日に増していき、いつの日か歯車が回らなくなってしまった。会話がなくなった分、私のいないところでは口論が増えた。――というのがわかるのは、偶然聞いてしまったからだ。ヒステリックとまでは行かないが、日頃落ち着いた雰囲気の母が声を上げるなど相当だった。
二人の意見の食い違い。性格の不一致と言ってしまえばそれまでだが、幼いながらに私は思ったのだった。――二人が言い争う原因の真ん中には必ず私がいたということ。
芸能界での活動を強く望む母と、いささか熱が入りすぎている母を窘める父。
離婚は、その原因を作ったのは間違いなく私なのだ、と。
私が頑張れば母が喜ぶ。父だって笑ってくれる。
けれど、その父の笑顔が何処か悲しそうに見えたのを、私は今でも忘れていない。
そして、離婚が決定的となり、父が家を後にする最後の日、いつでも連絡をしなさいと言って私に渡したのは白いメモ。そこには携帯の番号が書かれてあった。私の頭を愛しむように撫でた手が離れた日。温もりが感じられなくなってしまったあの日。
母はその日から、いっさい父のことは口にすることはなかった。そう、まるで最初から父などいなかったのだというほどあっさりと、そして毅然としていた。そこに愛はあったのかと思うくらいだった。
子供の――それこそ、十代後半になっても母の本当の気持ちなど知ろうとしなかった私だけれど、今ならわかることがある。
毅然としていなければ、心がくずれてしまいそうだったのだと。
本当は母も寂しかったのだと。
残る支えは、私しかいなかったのだ、と。
それに気づき、そして素直な気持ちで母と向き合おうとするまで随分と時間がかかった。
それこそ、自分から春歌に「母に、久しぶりに顔を見せてこようかと思います」と言い出すには、長い長い年月がかかった。自分から遠ざけていた分、歩み寄るにはタイミングと思い切りが必要だったのだ。
そのタイミングとやらは、目の前にいる春歌が作ってくれた。いよいよ、大切な人ができたということを知らせなければいけない、と思い始めたからだ。
春歌に母のことを切り出したとき、彼女はとても嬉しそうに笑いながら言った。
――じゃあ、福岡に戻った時には、おふくろの味を堪能してきてください!
明るい笑顔を思い出し、私は目を細めた。
「おふくろの味、ですか……」
そっと呟いても、私の周りにはだれも乗客はいないため、小さな笑みも付けたした。
もう一度窓の外を見る。
飛行機は夜間飛行を続けている。
闇の中、空の道を間違えもせず、ただ一か所を目指して飛び続けることは、今の自分と似ているような気がした。ただ、私は闇の中ではなく、眩しいくらいのスポットライトが足元を煌々と照らしているのだが、眩しすぎるがゆえに、どこに向かうのかさえ分からなくなる時がある。
けれど、飛び続けることに変わりはない。
目的地はないけれど、飛び続けることが目的そのもの。
そんなことを思いながら、体に残る僅かな疲れに瞼を閉じると、いつの間にか眠りの淵へと立っていた。
福岡に着いた時には夜はさらに更けていた。
母には、東京を発つ際に飛行機の到着時刻と、大体の帰宅時間を伝えていた。
「気を付けて帰ってきなさい」
味気もないただの伝達のみの私の言葉に、母は「帰ってきなさい」と凛とした響きのある中にも、優しく気遣う色を浮かべた。
電車へと乗り換え、さらに、最終のバスなどとっくに出てしまっている中、タクシーに乗り込んで自宅近くの住所を告げる。
どこにでもある住宅街の中の一角に私の家はある。
短い時間、タクシーに揺られたのち、久しぶりの実家の前に立つ。
昔はもっと大きく感じられた家だが、何故か今では小さく感じる。そして、インターフォンを押した後、顔を見せた母を見たときも、同じ思いを抱いた。
「……遅い時間に、すみません」
「お帰りなさい、トキヤ。仕事が終わってからそのまま来たのでしょう。疲れたでしょうに」
冷たい人ではない。
頭ではわかっていても、父と言い争っていたイメージが強く残っていたせいか、頭のどこかで厳しさの色を濃くして覚えていたのかもしれない。
けれど……こんなに優しく笑う人だったのですね。
声も、こんなに穏やかでしたっけ。
私は大切なことを忘れてしまっていた。
そして、気づいたことがある。母が――ただ子供を有名にしたいという見栄だけではなく、私を本当に愛してくれていたということを。
あの頃から。そして今でも。
優しい笑みの中に、母の思いを見た気がした。私がきちんと見ようとしなかった、愛情を。
幾分年月を重ねた母の柔らかい表情を見て、私は穏やかな気持ちで言うことができた。本当はもっと早く言うべきだった言葉を、郷愁という今まで感じることのなかった二文字に重ねた。
「……ただいま、母さん」
夜も十時を過ぎているというのに、食事を用意して待ってくれていた母。
休む際、昔使っていたベッドでは流石に体が合わないだろうと思っていたけれど、いつ帰って来てもいいように、随分前からベッドを買い替えていてくれたことも、家に帰ってきて初めて知った。
時間も時間なので、大した話は出来なかったけれど、今の仕事についてを口にすると、全てチェック済みとでも言うように何度も何度も、母は嬉しそうに頷いていた。
「あとは、まだ正式には決まっていませんが、主演映画もあります。……おそらく、私で決まりかと思いますが」
監督の名前を告げると、「まあ」と母は目を細めた。
「大きなお仕事をいただくまでに成長したのね。なにより、テレビの中であなたを見ない日はないくらいかもしれないわね」
私が今あるのも、あなたが育ててくれたからですよ、とは流石に照れくさくて言えないが、心の中に暖かいものを灯しながら、母が淹れてくれたコーヒーを一口含む。
CMに歌番組、ドラマやバラエティー。私は出来る限りの仕事を受けていた。事務所準所属の時からそれは変わらない。
周りからは「仕事入れ過ぎじゃないか」と苦笑されるが、この世界がどういう所か、そして「仕事を続けること」がどれだけ大切なことかを理解している分、出来る限り断らない方向でとマネージャーに頼んでいる。
「そうですね。仕事の話をいただけるのはとてもありがたいことだと思っていますよ。それなりに評価をいただいているのだと思えますからね。でも、まだまだです。仕事もそうですが、その……一人の男としても」
私は今回帰郷しようと決めたきっかけ――理由を告げるべく、小さく息を吸い込んだ。
母に顔を見せ、元気で過ごしていることを伝える以外に、大切なことが一つ。
「その……次に帰って来るのはいつとはまだはっきりとは言えませんが、今度帰って来るときは、会って欲しい人を……一緒に連れてきます」
その言葉に目を丸くした母だが、ややあって頷きながら穏やかな笑みを見せた。
「そう。……そう。……あなたにも、そういう大切な人を見つけたのね」
「ええ。今はまだ難しいですが、遠くないうちに、結婚をと思っています」
相手は七海春歌さんといって、長年私の曲を書いてくれている作曲家です。
そう告げると、「……ああ!」と、やはり嬉しそうな顔をして頷いた。作曲家と告げたところでわかるなど、私の方が驚いたくらいだ。それも、「ペアを組んでいるのね、ってずっと思っていたのよ」とまで言われてしまった。
なんと返していいかわからず言葉に詰まっていると、母はふっと懐かしそうな顔を見せた。
「……大事にしなさい、相手の人を」
短くも深みのある言葉。
それに対し、静かに頷いて返すと、母は瞼を閉じて一つ一つを大事そうに呟いた。
「幸せに。幸せになるのよ。大切な人と一緒に」
母さん、少しだけ間違えちゃったから。
苦笑する母に、どうして私はすぐに言ってあげられなかったのだろう。
そんなことはない。
間違えてなどいない。
少なくとも、私は今、あなたに感謝をしている。
歌に出会えたこと。
それを通じて春歌と出会えたこと。
そして、今があること。
今というここに、あなたが導いてくれたのだ――と。
翌日、夕方までに東京のスタジオに入らなくてはいけないため、昼には発たなければいけなかった。
朝食は母が用意をしてくれたので、昼食は私が外へと連れ出した。
「まさかトキヤにおごってもらえる日がくるなんてね」と母は笑い、私も「これでも結構稼いでいますからね」と笑って返した。
短い滞在時間を経て空港へと一人向かおうとしたのだけど、急に母が見送りたいと言い出した。
私が平気だからと断っても、がんとして聞かず、最後にはこう押し切られてしまった。
「見送らせてちょうだい。息子を見送るのは、母親の務めだから」
タクシーで移動する間はたいした会話もなかったのだけど、空港に着き、いよいよ搭乗というときに母が小さなメモを私に寄こした。
「これは……?」
四つ折りの小さなメモだった。
「いつか、その時が来たら渡そうと思っていたの。あなたが大切な人を見つけたときに、必ず渡そう、って」
「え?」
「父さんの連絡先よ。ちゃんと父さんに繋がるようになっているわ。本当は、もっと早くに渡してあげるべきだったんでしょうけど……それができないまま今日まで来てしまって、ごめんなさいね」
母は静かに微笑んだ。
申し訳なさそうに。
そして、少し泣きそうな顔をした。
十数年ぶりに、「父さん」という言葉を母から聞いた。
「母さん……」
「ごめんなさい、トキヤ。……あなたもきっと色々言いたいことがあるでしょうね」
「そんなことは――」
ない、とは言えずに口ごもると、「いいのよ、本当のことでしょう?」と、二度ほど腕を優しく叩かれた。まるで子供をあやすように、そっと。
と同時に、もう時間がない事にも気が付いた。柔らかいアナウンスが聞こえる。搭乗時間だ。
「会いに来てくれて、ありがとう。そして、良い話を聞かせてくれて、母さん本当に嬉しかった」
「私の方こそ……長い間、顔も見せずに、すみませんでした」
真っ直ぐに顔を見つめることができなくて視線を落とすと、ふっと笑う声が聞こえた。
「そういう顔をするのは、昔から変わらないわね。大きくなっても、やっぱり変わらなくて、ほっとしたわ」
そう言って、もう一度とぽん、と腕に触れる。
行きなさい、ということだ。
一、二歩と足を進めたあと、私は振り返った。
伝えなくてはいけない。そう思ったからだ。
「……もう、時間を空けるようなことはしませんから。ちゃんと……ちゃんと顔を見せに来ます!」
どうしてもっと早く来ようとしなかったのだろう。
どうして遠ざけていたのだろう。
母の思いを重く感じたなどと、いつまで子供みたいなことを、私は……。
大切な想いはいつだって傍にあったのに。
私が見えていないだけで、知ろうとしなかっただけで、いつだって傍にあったのに。
この手の中にあるものが、すべての答えだったのに。
「気を付けて、行ってらしゃい」
時折「あれ、一ノ瀬トキヤじゃない?」「え、うそ」「ホントに?」という声を聞きながらも、母の声に頷いて返し、私は再び空を渡った。
来たときとは違い、ほぼ満席のシートの中、母に渡された小さなメモを開く。
そこには、父から渡された番号と全く同じ物が書き記されていた。
「これは……」
母はちゃんと繋がると言っていた。
だとしたら、この長い間父も番号を変えずにいてくれたということだ。
「父、さん」
本当は怖かった。
渡された番号が通じなかったら?
私のことを忘れてしまっていたら?
それが、何よりも怖かった。
けれど、まだ私たちはちゃんと『家族』だった。
それぞれが離れて暮らしているけれど、それでも――そこにちゃんと絆はあったのだ。
――ありがとう。
伝えるべき言葉を母に言いそびれてしまった。
けれど、それはまた逢う日まで温めておこう。
次は、春歌を連れてあなたに会いに行きます。
そして、父さんには電話で伝えようと思うのです。
母さんがくれた番号と、父さんから貰った番号。
ゼロから始まるこの同じ番号に、帰ったら真っ先に連絡をすると決めたから。
やっと、連絡をしてもいいと思える自分になれた気がするから。
End.