Uta-Pri

Debut発売1日前!カウントダウン
リミテッド・タイム【トキ春】



 滅多に鳴らない固定電話の呼び出し音が鳴り響き、春歌は珍しいこともあるものだと思いながら受話器を上げた。
「はい、七海です」
「……えっ? 一ノ瀬さんのお宅ではありませんか?」
 受話器の向こうの女性にそう言われてハッと気が付き、慌てて訂正をした。
「あっ、い、一ノ瀬ですっ。すみません」
 慣れないもので――と心の中で呟きながら相手の反応を待つと、くすっと笑われてしまった。
「もー、だめじゃん新婚さん。こりゃ、あんたが『一ノ瀬です』って言い慣れるまでこっちの電話にかけるしかないね」
 明るく言うその声は、間違いなく古くからの友人の声、友千香だ。さっきまで別人の声に聞こえていたが、声を変えて自分を試そうとしていたのだろう。
「もう、トモちゃんったら。珍しくこっちの電話が鳴ったからなんだろうって思ったんだよ?」
「へへ〜、だってさ、あんたの携帯にかけたら『七海です』って間違いなく言うじゃない? 仕事携帯にかけたってつまんないじゃん。それにしても、まだ慣れないの?」
「だ、だって〜」
 苗字が七海から一ノ瀬に変わったのはつい最近のこと。
 学生時代からの交際をひたすら――それこそ長きにわたって温め、交際十一年目にしてやっと公私共にパートナーとなり、「一ノ瀬」の姓を名乗ることになった。
 周囲からは「紙切れに二人の名前を書いてないだけで、十一年前から結婚しているのと同じだった」と笑われたりもしたけれど、それでもきちんとした形式にのっとり婚姻をするのはやはり特別なことで、それだけはトキヤもけじめをつけたいと随分昔から言っていた。
 シャイニング事務所所属の同期のタレントが内輪のようなものなので、親しい人たちだけのささやかな結婚式を済ませたが、顔ぶれだけで言うなら相当豪華な式になった。勿論、そこには春歌の両親を含めた親族と、トキヤ側の親族――『両親』も出席をした。
 入籍も済ませ、一ノ瀬になってからもう一ヶ月は経つというのに、自分が名乗るのは勿論、呼ばれることにもいまだ反応が遅く、トキヤには「しっかりしてください、一ノ瀬さん」と笑われる日々が続く。
「いい加減、慣れないと一ノ瀬さん拗ねちゃうんじゃないの?」
「拗ねると言うか、半分呆れられて半分からかわれてるよ……」
 まさか、電話だけでなく外出先でもうっかり七海と名乗ってしまうたびに「一ノ瀬さん」呼ばわれしているとは言えない。
「まあ、春歌の扱いならあんたの旦那サマの方が上か。それはそうとさ――」
 月曜日のランチの件だけど、と友千香が話を続けるが、半分上の空で聞いていた……などと知ったら、拗ねられてしまうだろう。そう思いながらも、友千香が言った一つの言葉に胸を高鳴らせていた。
 ――旦那サマ。……なんか、あまり言われないからドキドキする。
 付き合っていた期間はそれこそ十年以上で、恋人から夫、旦那とただ呼び名が変わるだけなのに、どうにもこうにも胸がくすぐったくなるのだから不思議だ。
 ――トキヤくんはどうなんだろう。やっぱり、わたしのことを奥さんって言われてたりするのかな。……トキヤくんの奥さん。う、うわ……今更だけど、やっぱり照れるかも……。
 頬をじわじわと熱くさせていると、遠くに聞こえていた受話器の声が不意に近く感じられた。
「……るか。春歌、ねえ聞いてるー? おーい」
「あっ、うん! 聞いてる、聞いてるよ!」
 慌てて答え、待ち合わせの時間や店を決めたものの、小さなドキドキはなかなか収まってはくれなかった。


「ということで、月曜日のお昼はトモちゃんとランチに出かけてきますね」
 夕食の時間帯から外れた時間になってしまっても、出来る限り春歌の手料理を食べたいというトキヤのために、野菜中心の低カロリーメニューを考え、帰宅して間もないトキヤの前へと皿を並べた。
 手間をかけさせてしまいますが、とトキヤは最初申し訳なさそうに言っていたが、体型維持のため徹底的に食事の制限やカロリーコントロールをしていた彼が、多少時間が遅くなっても手料理を食べてくれると言うのだから、メニューを工夫することぐらい安いものだ。
「渋谷さんと出かけるなんて久しぶりなんじゃないですか?」
 それまで箸を動かしながら春歌の話を聞いていたトキヤが手を止める。
「そうなんですよ。トモちゃん、なんだか気を使ってくれているみたいで……」
「ん?」
「新妻を、旦那よりも多くあちこち振り回すなんてできない、って」
 照れくさい気持ちで肩を竦めると、トキヤは目を細めて笑った。
「結婚する前から、私よりも君と多く会っていたのに、今更でしょう」
「わたしもそう思うんですけど、それはそれこれはこれなんですって」
「……まあ、お気遣いはありがたく受け止めておきましょうか。本当に今のうちだけなんでしょうけどね」
 苦笑するトキヤに、春歌も笑みを零す。
「ふふっ、ですね――と、電話?」
 昼間に続き、またも固定電話の呼び出し音が鳴る。
 続くときは続くとでもいうのだろうか。
 席を立ち、受話器を上げて一呼吸。
 昼間、すでに七海と言ってしまったので今度は間違えたりなどしない。
「はい、一ノ瀬です」
 ――うん、間違えてません!
 と、なんだか胸を張りたい気持ちになって声を弾ませると、受話器からは昼間同様、聞きなれた声が――。
「おっ、今度は間違えなかったね。エライエライっ!」
「えっ。……トモちゃん? どうしたの? なにかあったの?」
 ランチの件は話がまとまり、それでもその後一時間は長話をしていたはず。
 まだなにか用事があったのだろうか。
「ん〜? 何も用事はないよ。ただ、もう一回「七海です」って間違えたら家までからかいに行こうかなーって思ってただけー。ふふふ〜」
「あ、酷いなぁ。もう間違えないよ」
 くすくすと笑い返すと、友千香も「だよね」と笑っている。
「まあ、実のところホントにからかうために電話しただけで、これと言って用事はないんだ」
「は、はい!?」
「昼間も言ったじゃん? 慣れだ! って。この友千香さんが、慣れるために愛のテレフォンをしてあげたってわけよ。……っと、とりあえず用件は済んだし、間違えなかったことにもほっとしたので、これにて失礼ー! ほいじゃ、またね!」
「えっ。……ええっ!? ホントにそれだけ!?」
 思わず尋ねると、「うん、それだけ」とあっけらかんと返された。表情までも浮かんできそうなその声。
 ――と、トモちゃん〜っ?
「もし間違えたら、一ノ瀬さ――っと、旦那にたっぷり説教してもらおうと考えてたとこだったんだけど残念! ってことで、切るね! おっやすみぃ〜」
 その声は本当に楽しそうで、昼間と同様にまた試されてしまった。
「ちょっ、トモちゃん?」
 ぷつりと切れた電話からは、ツー、ツーと愛想のない音しか聞こえない。
「どうかしたのですか?」
 背後からトキヤに声をかけられ、春歌は受話器を戻して再びテーブルへと戻る。
「電話、トモちゃんからだったんですけど、すぐ切れちゃいました」
「間違ってかけた、とかでしょうか」
「いえ、その……わたしがちゃんと『一ノ瀬』って言えるかどうか試したみたいで。実を言うと、昼間電話がかかってきたとき、七海って出てしまったんです。流石にいい加減慣れなさい、って言われちゃいました」
 それを聞き、トキヤが軽く眉を上げる。
「まったく、渋谷さんの言うとおりですよ。君も、結婚して一ヶ月も経つのですから、いい加減なれたらどうですか――と、小言の一つ言いたいところですが……」
「はい?」
「先ほど電話に出てくれたときに『一ノ瀬です』と言う君の姿を見て、嬉しい気持ちになったので許してあげましょう」
 プレートにある最後の一つを口に運び、満足そうな笑みを見せてトキヤは箸を置く。
「あの、その……さっきのは、昼間に間違えてしまったので、ちゃんと意識して言ったんですけど……」
 素直に喜ばれてしまうと、なんだか申し訳ない気持ちになる。
 無意識でも自然に名乗れたら、もっと喜んでくれたのではないだろうか。
「それでも嬉しいですよ。ああ、君は私の奥さん……妻なのだと実感したくらいです。良いものですね、私以外にも一ノ瀬を名乗る人が同じ屋根の下にいることって。名乗ってくれるのが、他でもない愛する君なのですから、ここは本当に幸せな場所です。温かい食事があって、愛しい笑顔がある。人より少し時間はかかりましたが、長い年月を経て、大切なものを私は手に入れました」
「……はい。わたしも、美味しそうにお料理を食べてくれる旦那さまがいてくれて、幸せです。こういう時をずっと待っていたので、本当に嬉しいです」
 時間を気にせず傍にいられること。
 帰る場所がひとつのこと。
 いつでも愛する人が、手の届く場所にいるということ。
 それは、年月が立てば特別と思わなくなるような、それこそ日常の中に埋もれてしまう「当たり前」のことなのだろうけど、平凡で当たり前のことこそが幸せなのだと思える。
 今まで離れて暮らしていた分、余計に。
「だから、例え今は名前を間違えてしまっていても、君はこれからずっと『一ノ瀬』なので、気長に待ちます。……可笑しな話、君が七海と言い間違えても、悪い気など起きないのですよ。七海という姓は、私も学生の頃何度も呼んでいたからなのでしょう、とても愛しく思えます」
「トキヤくん……」
 七海君と呼ばれていたあの頃があった。それから心を重ね、春歌と呼ばれるようになり、十年以上が経つ。
 ――トキヤくんを一ノ瀬さん、と呼んでいたあの頃は、まさか自分が一ノ瀬さんと呼ばれるようになるなんて、思いもしませんでしたけど。
「あの……わたしのは、つい七海と言ってしまうのは癖みたいなものなのですが、でも、それで片づけてしまおうとは思いません。……そうですよね、大好きな人と同じ苗字になったんだから、大事にしないと」
「焦らなくてもいいのです。ゆっくりでいい」
 柔らかい笑顔に、心が温かくなるのを感じていると、トキヤはその笑みを少しだけ悪戯なものに変える。
「……ですが、条件があります」
「条件ですか? なんでしょう。なんでも聞きます!」
 僅かに身を乗り出し、真剣な顔でトキヤを見つめると、彼はテーブルの上に両肘をつき、指先を組んで言った。
「家族ができるまでの限定期間、ということで」
 ――家族。……家族?
「え……」
 きょとんとすると、その長い指でちょん、と額を突かれてしまった。
「子供ができるまでということですよ。まったく……頼みますよ、『一ノ瀬春歌』さん」
「こっ、こ、ここここ! こっ、こここ!」
「おや、にわとりですか」
「違っ! こっ、子供ですかッ……! あっ、で、でも、そうですよね、うん……そうです! そっ、そそそそう、です……よね、はい……」
 ダイレクトに、それも面と向かって言われてしまい、じわじわと熱くなる頬を見られたくなくて俯く。
 確かに、夜にまつわる『そういうこと』でも変化があり、恋人同士の時は必要としていたものも、今では必要とならなくなっている。
 おそらく家族が増えるのも時間の問題なのではないだろうか。
 ――あ、赤ちゃんができるまで……ですね。
「早ければ数か月後でしょうか?」
 にっこりと笑みを浮かべられ、春歌はうっと息を呑んだ。確かに、ここ最近とあるものをトキヤは付けていないので、そうなのだろう。
「そっ、そっ、そそそうです、ね?」
「なんなら、念には念をということで今から準備をしましょうか、一ノ瀬春歌さん?」
 カタン、と椅子が動く音。
 そして、スマートに手を掴まれ、席を立つように促される。
 ――まさか、本当に?
「あの、わたし……お皿を洗っていません」
 テーブルには空の皿が残っている。こんな言い訳は何の役にも立たないことは重々承知しているけれど、言わずにはいられなかった。
「それは後程私が片づけるからいいですよ。あまり夜遅くに君に無理をさせては疲れてしまうでしょうしね」
「そ、そんなことは……」
「なら、たっぷり時間をかけますが? 私としては食後の良い運動になります」
 ――ねぇ、私の可愛い奥さん?
 と艶やかな笑みで訊かれ、春歌は頬を赤らめながら俯き、そして言った。
「だ、大事にしていただけるのなら、どちらでも……っ」
「では、時間をかけさせていただきましょう、奥さん」
 ――な、なんだか今の『奥さん』という言い方、とても……とても艶やかで、コロッと騙されてしまいそうです……!
「……っ!」
 このまま手を引かれるのかと思いきや、ふわりと抱き上げられて運ばれる先は勿論、寝室。
 いままでもそうしていたように、これからだって君を大事にしますよ、という囁きを聞きながら春歌は思った。
 思っていた以上に、時間が残っていなさそうだと。
 早く『一ノ瀬』に慣れなくてはいけないということ。
 彼の言うとおり、早くて数か月。
 ――ま、まさか……ね。でも……でも、なんとなく本当のことになりそうで……ちょっと怖いです。
 トキヤが最初から『一ノ瀬』呼びに時間をかける気などなかったことを、身を以て知ることになるなんて――。
 まさか、思いもしなかった。



End.
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