ふと目が覚めたとき、すぐ目の前にはトキヤの寝顔があって、すうすうとそれはもう心地よさそうな寝息を立てていた。
落ち着いた風貌は年齢よりも幾分年上に見られがちだが、寝顔は年相応。というよりも、幼く見えるから不思議だ。
――可愛いなぁ、トキヤくんの寝顔。
思わず笑みが浮かんでしまうくらいで、起こさないよう身体を起こしては、その唇に触れたくて指先をそっと押し当てた。
柔らかく暖かな感触。春歌は目を細め、布団を裸のままの胸元まで引き上げて部屋を見渡す。
月の位置が変わってはいるが、まだなんとかこの部屋を照らしている。
時計を見れば、もう日付はすっかり変わっていた。
初めて身体を重ねたのが数時間前。やっと一つになったあと、二人でベッドに横になりながら暫く話をしていたけれど、眠たげなトキヤの声を聞いたあと、いつの間にか春歌も寝てしまっていたようだ。
――喉、乾いたな……。たしか冷蔵庫にミネラルウォーターがあるってトキヤくん言ってたっけ。
今いる部屋は階段を上がったところにある中二階のような場所。降りていくには流石に何かを着なければと思うのだけど、脱ぎ散らかしたままの互いの服を見て、今更ながらトキヤと関係を持ったということを実感した。
カットソーやスカート、下着が無造作に床に落ちていて、そこにトキヤの服も脱ぎ捨てられた状態のまま混ざっている。
トキヤの日頃の几帳面さを思うと、脱いだままというこの状態がいかに迫られた状態であったかを表しているようでなんとも生々しく感じられ、春歌の頬はひとりでに熱くなる。
畳んでおいた方が皺にならなくて済むのだけど、なぜだか妙に照れくさく感じて、春歌は自分の服もそのままにすることにした。
――けれど、裸じゃ流石に移動できないし……かといって服を着るのも……。
ちらっと背後を振り返ると、心地よさそうな寝顔。彼の腕の中にいたときと同じ状態でトキヤの腕はLの字になっていて、そこはまだ春歌の居場所のままだ。
あの腕で今度は朝まで眠っていたい。寄り添って、朝までずっと。本当だったらすぐ隣にある自分の部屋に戻ってシャワーを浴びたいところだけど、今日は時間の許す限りトキヤの腕の中に包まれていたい。久しぶりに会えたのだから、その想いはひとしお。
そうなるとどうしよう。
カットソーは丈が短いし、だからといって下着上下だけというのもなんとなく憚られる。シーツだと大きすぎて転びそうだ。
「ん……。あ!」
ふと目に映ったのはトキヤのニットだ。
春歌からすればそれはたっぷりと大きく、何とかギリギリ下まで隠れる。流石に屈んだりはできないが、ギリギリ隠れるくらいなら問題もないだろう。
トキヤくん、ちょっとだけ服を借りますね。
寝顔に小さな笑みを向け、トキヤのたっぷりとしたニットへと袖を通した。
素肌に柔らかいニットは案の定大きく、手は指先まですっぽりと隠れてしまい、着丈はというと丁度すれすれのラインで下が隠れた。
――離れていてもトキヤくんに包まれているような気がして、なんだかくすぐったいな。
両袖の余ったところを頬に当てて瞼を閉じると、本当に抱きしめられているような気がする。
「と……」
いけない、いけない。にやけている場合じゃなかったんだ、と布団を抜け出すと、すこしだけひんやりとした空気が素足を包む。
立ち上がれば、それまですっかり忘れていた感覚が下肢のそれも真ん中奥に感じてはっとする。
小さく、ほんの小さく感じるのは破瓜の名残。中に入っているような感覚は大分薄らいだが、それでもなんとなく身体が重い。だるい。
それに、襟元から除く鎖骨には赤い印が一つ。
『消えそうになったら、また付けてあげましょう。君は私のものだという印をね』
そう言われたことを思い出し、耳がカッと熱くなる。
――本当に、その通りになってしまいました……。わたし、トキヤくんと……トキヤくんと、その……。
「……っ」
――そっ、そういう、関係に……っ!
トキヤの上気した顏も、吐息もキスも、そして身体の中で受け止めた熱もしばらく忘れられそうにない。
処女ではなくなり、一度抱かれたからと言って何が変わるわけではないのだけど、言葉では上手く言えない何かが変わった気がした。
瞳が彼から離れられないこと。
唇は互いの吐息を蕩けさせる場所であること。
何よりこの身体は愛されるためにここにあること。
きっと頭の天辺からつま先に至るまで、きっと其々愛しさの理由があるのだろう。そして、愛されるたびそれを一つずつ見つけ、実感し、『自分』になっていくのかと思うと不思議な気持ちになる。
熱くなった頬をぴたぴた指先で触れながら、その頬とは対照的にひんやりとした床の上を歩き、階段を下りる。
間取りは春歌の部屋と同じなので、暗がりの中でも不安になるようなことはない。
グラスを一つ取り出し、冷たいミネラルウォーターで喉を潤して一息。再び階段を上って部屋へと戻る。
二人で横になるには少し狭いベッドだけど、冷えた足を擦り合わせてはもう一度布団へと入り、L字の腕に少しだけ髪を預けるようにしてトキヤと向き合う。
彼の腕に頭を置いてしまうと間違いなく重いだろうし、何より痺れてしまうだろう。それでは可哀想。
――腕枕もとても嬉しいけれど、こうしてぴったり寄り添っていれば、わたしは満足です。
額をトキヤの胸元へと当てて小さく息を吐く。すうすうと聞こえる寝息も、伝わる体温もすべて愛おしくて、唇には自然と笑みが浮かぶ。
けれど、明日……というよりもう今日になってしまっているが、朝食の時間に起きられるかどうかが今から少しだけ心配。
早く起きると言ってしまった手前、ちゃんと起きて朝食の準備をしたいところだけど、携帯は部屋に置いたままだからアラームのセットができない。
――起きられますように! トキヤくんより早く起きられますように。……む、無理かもしれないけど。で、でも奇跡が起きるかも!
と、そう簡単に起こらない奇跡を望んでは、もぞ、と足を動かせば、トキヤの素足に触れる。
ちら、と上目使いで見ても「ん……」と微かに身じろぎするぐらいで、まだ瞼は閉じられたまま。
今まではどんなに近くてもこんなふうに肌が触れ合うことはなかった。けれど今は違う。
触れ合う肌はとても暖かい。その熱がなんとも胸の奥をくすぐり、足を寄せたまま春歌はそっとトキヤの顏へと手を伸ばして、頬にかかる髪をそっと払う。
「明日も、その次も日も、ずっとこうしていられたらいいな――なんて、今だけ言ってもいいですか」
髪を梳く指を頬へと移す。
「一生大事にしますっていう言葉、とても嬉しかったです。……ありがとう、トキヤくん」
まだ二人の関係は始まったばかりで、誰にも――それこそ時間にさえも気を遣うことなく同じベッドで寄り添い、毎日を迎えるのは本当に長い時間がかかりそうだけど、それでもトキヤの言葉があるならば、何があっても信じ、ついていくことができる。
他の誰でもない、この愛しい人が言ったのだから。
「わたしも、一生あなたを大事にします」
頬に指先を当てたまま、すっと通った鼻先と唇にキスをして、唇だけで言ってみた。
トキヤ。
「~~っ!」
――恥ずかしいです、恥ずかしいです! とても恥ずかしいです! 呼び捨てだなんて、やっぱり、なんだか大人みたいです!
眠ってしまう前にも一度だけ言ったけれど、改めて言うと恥ずかしさばかりが募る。
じっとしていられなくなり、鼻先まで布団を手繰り寄せたのだけど、トキヤを起こしてしまうのではないだろうかハッと我に返って振り仰ぐ。
「……トキ、ヤくん?」
恐る恐る呼んでみても何の反応もない。
よかった、起きてない。安堵の息を吐いては、春歌はもう一度トキヤの胸に額を寄せて丸まる。
やっぱり、早起きは難しいかも。
そう思いつつも、トキヤの「仕方のない人ですね」とあきれたように、でも優しく笑ってくれる顔が浮かび、思わず笑顔になる。
長くて短い夜が明けるまでもう少し。
もう少しだけ、こうしていさせて。
もうすこしだけ。
月光がそっと柔らかく射す部屋。
好きな人の腕の中。
そんな贅沢なぬくもりの中で春歌はそっと目を閉じた。
End.