Uta-Pri

Thinking Of You【トキ春】



 打ち込みの作業も一段落し、一息つこうと何の気なしに点けたテレビでは、今人気のお笑いタレントが賑やかにスタジオを盛り上げていた。
 この時間であれば普段は連続ドラマの枠のはずだが、バラエティ番組となると特番なのだろうか。
 番組の内容はというと、一般募集で選び抜かれた人物が特技を披露するというごくありきたりのものなのだが、そこそこ真面目に選考を行ったのか、登場者は皆プロの芸人かと思うほどグレードが高く、その得意の技を披露しては会場を感嘆の声と拍手とで湧かせていた。
 何の気なしに見始めた春歌も思わず見入ってしまい、しまいには凄い! と拍手までしてしまったほどだ。
「特技かぁ……。わたしはなんだろう? やっぱりピアノと作曲ぐらいかな」
 ぽつりと呟きぼんやり考えていると、少し前から火にかけていたケトルが沸騰する音を立て始めた。
 用意していたカップには一人分のティーバッグ。お湯を注いで頃合いを見計らっていると、不意に携帯が短いメロディーを奏でて着信を知らせる。
 ディスプレイを見れば、メールの着信が一件。開いてみるとそれはトキヤからのメールで、件名はなし、本文には「今から部屋に行ってもいいですか」と短い一文。
 今日は朝から番組の収録があるとトキヤは言っていた。とはいえあまり遅くはならないから、帰ったら部屋に行くとも言われていたのだが、春歌が思っていたよりも早く仕事が終わったようだ。
 今の時間は夜八時を少し過ぎた頃だ。
 春歌は堪えきれない嬉しさを「やったぁ!」という弾んだ声に乗せ、それから急いで携帯のキーを押した。
「お帰りなさい。早かったんですね。待ってます」
 携帯を折りたたんだあと、それを胸に寄せれば自然と頬が緩む。隣に住んでいても、多忙なトキヤは歌番組の収録だけでなく、単発のドラマロケ、その合間を縫って番宣収録等で部屋に帰ってこられないことも多く、たまに時間が空いている時などは、逆に春歌の方が曲の打合せやら録音スタジオ――時として早乙女学園のレコーディングルームに籠ったりと、この一ヶ月はすれ違ってばかりだった。
 そんなすれ違いの毎日の中、唯一の頼みの綱といえばこの携帯で、次にいつ会えるか、会えたときはどうしたいかなど、それこそ他愛のない短い文だけれど、幾つも言葉を重ねて会えないもどかしさと切なさを乗り越えてきた。
 ――やっと、やっと一ノ瀬さんに会えます!
 弾む気持ちをそのまま笑顔に、けれどハッと我に返って部屋をぐるりと見渡す。
 程よく掃除もしているし特に物を散らかしてもいないのだけど、急いでテーブル周りを整え、最後に鏡の前で身だしなみのチェック。
「うん、おかしくない……よね?」
 そうこうしている間に呼び鈴が鳴り、開けたドアの先には誰よりも会いたかった人が立っていた。
 均整のとれた長身と端正な顔、今どき珍しくカラーを入れていない黒髪は、いつものように少し毛先が跳ねている。
「やっと君に会えましたね、春歌」
 落ち着きのある声。だが今日ばかりはその声に喜びが混じっていて、嬉しそうに細められた漆黒のその目に、胸の鼓動が高鳴る。
 学生の時も一年間彼のパートナーとして共に過ごしていたけれど、こうして恋人になった今でも彼を目の前にすると、ときめきという名の鼓動がうるさく騒いで止まらない。
 ――どうしよう、嬉しい。すごく嬉しい! 会いたくて、会いたくて、でも会えなくてずっと我慢していたから嬉しすぎて、どこで息をしていいのかわからない。
 それに何より、ほぼ一ヶ月ぶりに会うトキヤはまたカッコ良くなったような気がして、キラキラと眩しく見えた。これが芸能人というか、アイドルの持つ独特のオーラなのかと思うと、眩しすぎてまともに顔を見つめられない。
 次第に頬が、耳が熱くなっていく。
「お、おかえりなさい!」
「……ただいま、春歌」
 名前を呼ばれただけなのに、また胸がドキンと音を立てる。
 そっと視線を上げると、眩しいものでも見るようにトキヤがこちらを見つめている。
 ――げ、玄関口での出会いから既にキラキラしすぎてますっ! だけど私は超一般人で、残念ながら一ノ瀬さんみたいにキラキラのオーラなんて微塵も出ていなくて、ただ部屋にこもって曲ばかり作っている毎日! ああっ、いけない! わたし、作曲ばかりじゃなくて女の子としても自分をちゃんと磨かないと!
「おや、早速顔が赤いですが、熱でもあるんですか」
「い、いえ、熱なんてないですよ! ご覧の通り元気で――あっ」
 頬に手が添えられたかと思ったらそのまま顔を上に向けられてしまい、じっとこちらを見るトキヤと見つめあう形になる。その距離は唇が触れそうなほど近い。
「この一ヶ月、とても会いたかった。会いたくて、会いたくて、このドアを何度夜更けにノックしようかと考えたくらいです。けれど、君も頑張って自分のするべきことに励んでいるのかと思うと、それは躊躇われました。邪魔をしたくなかった。頑張っている君を励みに、私も私なりに仕事に打ち込みました。君はどうなんでしょう。私に会いたいとは思いませんでしたか?」
 甘く細められた目元。逸らすことなど出来はしない。
「わたしも、会いたかったです、凄く。……凄く!」
 頬に添えられた手に自分の手を寄せる。こうして触れあえる距離にいると思うと、それだけで会えずにいた切なさが消えていくのを感じる。
 彼の肩越しにゆっくりと閉まっていくドア。一瞬だけそちらへと視線を移すと、頬へと触れているトキヤの親指がするりと春歌の頬を撫でる。
「良かった。けれど……よそ見は、厳禁」
 ドアがぱたん、と閉まるのと同時に、唇には彼の感触。
 そっと押し当てるだけ。けれども、愛しむような長い長いキスに眩暈がしそうになる。
 嬉しさと恥ずかしさと、触れた唇から広がっていく暖かく幸せなものに、体中が包み込まれていくような不思議な感覚。
「いつまでもこうしていたいけど、玄関じゃロマンチックじゃありませんね。中に入ってもいいですか」
 唇が離れたときそう尋ねられ、もちろんです、と春歌は熱くなった頬を抑えながら頷き、中へと促す。
「君の都合も考えずに突然押しかけてしまったけれど、よかったのですか」
「あ、はい。丁度打ち込み作業も一段落したので、息抜きにお茶をしていたところです。一ノ瀬さんもいかがですか? といっても、コーヒーじゃなくて紅茶になっちゃいますけど」
 ティーパックですみません、と肩を竦めて笑うと、トキヤも笑みを見せた。
「それじゃ、遠慮なく頂きます」
 少し前に沸かしたばかりのお湯はあっという間に沸騰し、白いティーカップにはなみなみと琥珀が注がれる。
 ソファーに座っているトキヤへと差し出すと、彼はありがとう、と受け取り、そっと口をつけてひとくち分飲みほした。それを見て、春歌も気持ち一人分間を開けて彼の隣へと腰を下ろす。
「今日はもうお仕事はないんですか?」
「ええ、撮影も良い具合に早く切り上がったし、明日の予定も夕方からになったのでやっと時間が空きました」
 夕方まで時間が空いた。
 トキヤの言葉に胸を高鳴らせつつも、自分が今抱えている仕事の量と締切とを考えた。仕事の締切はどれもさほどタイトではない。CMの曲を二本、単発ドラマのBGMを一件、イベント用にと頼まれている曲の打合せは明後日になっている。
 新人の立場ということもあり、細々とした仕事もすべて請け負っているが、小さな仕事一つが新鮮で、何をやっても心地よい緊張感と面白味とで溢れている。
「じゃあ、ひょっとして……」
 言葉にせずともトキヤは小さく笑って頷いて返す。
「春歌の都合さえよければ、一緒に過ごしませんか」
「はっ、はい! ……はいっ! 幸いにして締切が迫っているものもないし、順調に仕事も進んでいるので明日は大丈夫です! わたしも、一ノ瀬さんと一緒の時間を過ごしたいです」
 ごくごく普通の恋人同士のように、外に買い物に出かけたり、手を繋いでテーマパークを歩いたりということはできないけれど、肩を寄せて雑誌やテレビを見たり、音楽を聴いたりと、二人でできる楽しいことはこの小さな部屋の中にもたくさんある。それがどれほど自分を嬉しくさせ、幸せな気持ちにさせているか。
「やったぁ、嬉しいなぁ。会えなかった分、明日はたくさん一ノ瀬さんを充電できます! 明後日から、もっともっと頑張れちゃいますよ、わたし」
 ただ嬉しくて、抑えきれない思いを素直に口にすると、トキヤは一瞬だけ目を丸くし、それから照れたような笑みを浮かべ、額にかかる髪を撫でた。
「手放しで、それも全力ではしゃぐ姿を見せるなんて恥ずかしいですし、ちょっと格好もつかないのでずっと堪えていましたが、君の喜びようを見ていると、それらが無駄だったことを思い知らされますね」
 楽しげに肩を揺らすトキヤに、春歌は瞬時にかあっと熱くなる両頬を抑えながら彼を見つめる。
「わたし舞い上がり過ぎてますか? でも……でもすっごく嬉しくて! じっとしてるなんて無理なんです! 今だって、その」
「何ですか」
「実は……とっ、飛びつきたいくらいに嬉しくて! でもそうしちゃったら、なんとなく夢が醒めちゃうような、キラキラ光る何かが、腕の中でぱあっと弾けて消えちゃうような気がして……っ」
 だから我慢します! 忘れてください今の! とぶるぶる首を振って俯くと、思いのほか力強い腕で抱き寄せられて驚く。
「い、ちのせさ――」
「消えませんよ。それに、我慢なんてしないで甘えてください。恋人に甘えられるものほど嬉しいことはないのですから。私を抱きしめたいときは抱きしめればいいんですよ。それが君だけに許される恋人の特権です」
 もっとも、ただ抱きしめられるだけでは済みませんけれど。
 と、首筋にトキヤ頬がぴたりと寄せられる。髪に埋もれるようにして深く息を吐く彼に、春歌は躊躇いながらもその広い背中へと腕を回す。
 腕の中には彼の温度。
「どうです、消えたりはしないでしょう」
 楽しげに漏れる吐息が春歌の首筋を軽くくすぐる。
「……はい。私の腕の中に、ちゃんと一ノ瀬さんを感じています。暖かくて、嬉しくて、幸せすぎて溶けちゃいそうです」
 照れくさくてちょっと笑うと、ふぅ、とため息が聞こえる。
「天然は恐れ知らずでいいですね」
「はい?」
「いいです。黙って抱きしめられていてください」
 トキヤの腕の力が少しだけ強くなる。ぎゅっと体を抱きしめていた手が後頭部へと添えられ、隙間などないくらい強く抱きしめられる。
「ふふっ、ちょっと苦しいくらいですね」
 とは言ってもやみくもに強く抱きしめるだけのそれとは違い、優しさを感じられる力加減で、大事にされているというのがその腕から伝わってくるから嬉しくなる。
「これぐらいぴったり抱きしめないと、私も君もお互いに充電できませんよ。私としては、これだけじゃ足りないくらいなのですが」
「でも、これから時間はいっぱいあります。足りなければ二人で埋めていきましょう。会えなかった分、たくさん傍にいたいです」
「そうですね」
「はい!」
 トキヤの言葉に笑みを浮かべ、首筋に感じられる彼の温度に春歌も寄り添う形で頬を傾けると、大きな手が春歌の髪を優しく撫でていく。
「それにしても、一ヶ月はさすがに長かったです」
 囁くようなその声に、春歌も頷く。
「ずっとずっと会いたくて、一ノ瀬さんのこと考える時間がたくさん増えちゃいました。でも、寂しい気持ちにばかり負けていられないから、その分絶対に負けない! 会える日のことを思って乗り越えるんだって、お仕事も気合を入れて頑張りました。それに、お仕事している時は音楽に没頭できるし、その時だけは切ない気持を忘れられるので」
 抱きしめていた腕を僅かに緩め、トキヤはその瞳に切なげな色を浮かべて春歌の顔を覗き込む。
「……私は、君に我慢をさせてばかりいますね。なかなか会えない上に、会えても満足に外に連れ出すこともできない」
 長い睫毛の先に影が落ちる。
「そんなことないですよ。だって、忙しくて会えないなんて、どの恋人にだってきっとあります。思ったことを全部叶えられたら、それは確かに嬉しいし、心が満たされるかもしれないけど、だからといってわたしは今に不満なんてありません。だって、一ノ瀬さんは嬉しいことを沢山わたしに分けてくれるから」
 え? と尋ねる瞳に、春歌は思いつくままを言葉にする。
「キラキラ光ってカッコいい一ノ瀬さんをテレビで見らるし、自分だって仕事で忙しいのにわたしのことを気遣ってメールを送ってくれたりするし、ほんの少しでも空きがあったらこうしてわたしとの時間を作ってくれるし、そ、それに……ぎゅっとしてくれるのも……と、とても、あの……嬉しいんです」
 ああ、言ってしまった。
 言った瞬間、つま先から頭のてっぺんまでボッと火が点いたように身体が熱くなる。
 いつもであれば絶対に言わないことを、今日は思いのほかたくさん、そして思いのほかすんなりと口にしているような気がする。
 ――うぅ、なんだかいつものわたしじゃないみたい。でも……でも、知っていて欲しくて、黙っていられない。
 そおっと指の隙間からトキヤを伺いみると、トキヤは少し考え込むような風に真面目な表情をしている。
 それほど深刻なことを言ってしまったのだろうかと心配になり、恐る恐る「一ノ瀬さん?」と声をかけると、彼は真剣な表情のままこちらを真っ直ぐに見つめて言葉を紡ぐ。
「……他には」
「はい?」
「君が喜ぶこと、嬉しいこと、他には何かありませんか。もっとこう、特別というか」
 どういう意味だろうと首を傾げると、トキヤは眉間に皺を寄せて何かを考え始めてしまった。
 ――か、考え始めちゃいましたが、一体どうしたんでしょう。
「あ、あのぅ、わたし、そんなに特別はことは要りませんよ?」
「ですが、私が満足しません。もっとこう、君を幸せにできる何かが」
 と言葉を止め、見えない何かを掴み取ったような顔をする。それから何度か瞬きを繰り返し、ため息を一つ。
「ああ……そうだった。忘れていました。君にはこれがあったんです」
 できる限り春歌と向き合うようにして身体の位置をずらしたトキヤは、両手を伸ばして春歌の肩を?まえる。
「えっ、『これ』って? それより、どうしたんですか?」
 トキヤは眉間の皺を消さずにぎゅっと目を瞑り、深く息を吸い込む。
 その次の瞬間だった。
 ぱっと開かれた目には苦悩の色は全くなく、むしろいつも以上に輝いていて、その瞳の輝きに負けず彼の表情が明るいものへと変わる。
 ――もっ、もしかして! もしかしなくてもっ、こっ、これはっ!
「はーるかちゃん。久しぶりっ! 元気かにゃあ?」
 弾む声、独特なその口調。それこそ目の前にいるのは、毎朝テレビの前で正座をして、熱く見つめていた憧れの人だ。
 あまりに突然過ぎて息が詰まる。
「あれ〜、どうしちゃったの? もしもーし! ま、まさか、ボクのこと忘れちゃったなんて言わないよね?」
 首を傾げた状態で思い切り顔を覗かれ、春歌は目を見開く。
「わっ、わわわわ忘れるなんて、そんな、とんでもない! は、HAYATO様のことは、何があっても絶対に忘れませんっ!」
 ぶるぶると首を振ると、HAYATO――もとい、トキヤは満足そうににっこりと笑みを見せる。
 静かにそっと微笑むトキヤと、子供のように屈託なく笑うHAYATO。
 同じ人物なのに、ほんの一呼吸置いただけで気持ちの切り替えができてしまうこと自体大したものだと思うし、何よりこのギャップにいつも驚かされる。
「よかったぁ。ボクは君のことちゃんと覚えてるのに、忘れられちゃったらショックで倒れちゃうよ。……と、それより、こうやって会うのは久しぶりだけど、春歌ちゃんはどうしてたのかにゃあ? いつものように、素敵な曲をたーっくさん作っていたのかにゃ?」
 にっこりと笑顔を向けられるたびに、胸がドキドキする。どこまで体温を上昇させたら良いのだろう。
 ――うぅ、一ノ瀬さんなのに、でも……でも、全然違う人というか、ばっちりHAYATO様であるからして、わたしのドキドキは簡単には収まりそうにありません! だ、だって、HAYATO様は今でも憧れの人で、雲の上の人でっ! とにかく手の届かない人だと思っていたのだから!
「す、素敵な曲になるよう、精いっぱいの努力はしていますが、どのようなことになっているのかさっぱりですっ」
 ああ、なんだか頭がクラクラしそう、とのぼせ上った心を鎮めるために、胸の辺りで自分の手をぎゅっと握りしめる。
「どのようなことにって、君が作ってるんでしょ? ホント、春歌ちゃんってば相変わらず面白い反応する子だねっ」
 つん、と人差し指で額をつつかれる。
「ううっ! そ、そうでしょうか?」
「うん。トキヤもそういうところ面白いって言ってたよ。ついつい苛めてみたくなるってね。わかるなー、その気持ち。だって凄〜く可愛い反応する」
 「なでなで〜」と頭を撫でられて春歌は体を硬くする。まさかHAYATOに頭を撫でられるとは思いもしなかったからだ。
「あ、固まっちゃった。息して、息、息! と、あんまりちょっかい出し過ぎてもいけないね。トキヤにやきもち焼かれちゃうし」
 意外な言葉に目を丸くすると、笑顔のまま彼は頷いた。
「そう。トキヤは案外やきもち焼きでね、春歌ちゃんがHAYATO様〜って頬を赤らめるたびに、自分よりもボクの方が好きなんじゃないか、なんて思ったりしちゃってるんだよ。バカだよねぇ? 彼氏のくせにさ」
「ええっ!? そ、そうなんですか?」
「そーそー。それにね、いつも自信たーっぷりっていう風に見せてるけど、君に会えなかった一カ月間、色んなこと考えては悩んじゃったりしてさ」
 悩む? 一ノ瀬さんが?
 それを言葉にせず目を瞬かせると、彼は「うん」と頷くような感じで言葉を続ける。
「一カ月もの間、顔も見られず電話とメールだけだなんて、春歌ちゃんに相当寂しい思いをさせてるんじゃないかって、ずっと考えてたみたい。ただでさえ、君はトキヤに心配かけたくなくて、黙って一人で頑張っちゃう子でしょ? それに、トキヤ自身も融通利かないところあるから、ますます甘えさせるっていう雰囲気から遠ざけちゃってるんじゃないか、なんてね」
「そんな……そんなことないですよ! わたしだって、いつも簡単に曲を作れるわけじゃなくて、音が降ってこない日は何をしたってまるでダメで、うまくいかなくて焦ってばかりで……っ。でも、そういう時思うんです。ああ、一ノ瀬さんも離れた場所で頑張ってるのに、何弱気になってるの、って。一ノ瀬さんがいるから頑張れるんですよ!」
「そういう時、電話で甘えちゃえ〜って思ったりはしないのかにゃ?」
 大げさに首を傾げられ、丸い瞳がじっとこちらを見つめる。
「それも……考えなくはなかったです。でも、いつも己を律して毅然としている一ノ瀬さんを思い出したら、ちょっと恥ずかしくなっちゃって。わたしはアイドルではなくて作曲家ですけど、やっぱり少しは輝いていたいんです。一ノ瀬さんのそばにいても恥ずかしくないような恋人になれるように」
 素敵に輝くことは自分が思う以上に難しいことだとわかっている。外見ならある程度磨くことはできても、内面は外に見えない分常に自分との戦いで、精神的な面にしてもいつも良い時ばかりではなく、むしろちょっとしたことでぐらぐらと揺れ動くことなどしょっちゅうだ。
「ふーん……」
 考え込むように腕を組み、唇を尖らせていたHAYATOはぽつりと一言呟いた。
「そんなにトキヤのこと好き?」
 単刀直入の言葉に目を丸くするが、答えるまで待つというような雰囲気に圧され、耳にも顔にもカッと熱を集めて頷く。
「す、好き……です、よ?」
「うーん、どれぐらい?」
「どっ、どどどれぐらいと言われましてもぉっ!?」
「これぐらいかにゃ?」
 悪戯っぽい笑顔で、人差し指と親指に隙間を作る。その隙間、一センチ程だろうか。
「と、とんでもない! もっとです、もっと! と言いますか、そういうものじゃ測りきれないくらい大好きです。ずっと……できれば、ずっと一緒にいたいと思うくらいに大好きです!」
「そっか、ずっと一緒にいたいくらいかぁ。わー、ラブラブだにゃあ」
「はいっ! ……え? は、はいぃぃ?」
 ――なんだか、冷静に考えたらとてつもなく恥ずかしいやり取りをしている気がするのですが。うぅ、赤面が止まりません……。
 堪え切れずに両頬を手で包むと、HAYATOは少しだけ声を曇らせて「でもさ」と続ける。
「ずっと一緒にって言っても、普通の恋人同士みたいに堂々と手を繋いで街中を歩くこともできないよね?」
 不意にすとん、と真中を貫かれたような気持ちになり、一瞬言葉に詰まる。
「そ、れは……」
「年齢からしたら高校生なワケでしょ? カラオケやゲーセンでだって一緒に遊びたいだろうし、ファストフードのお店でなーんでもない話をしていかにも学生デートです! っていうのが全然できないよ」
 それは確かにその通りで、全く憧れていないと言えば嘘になる。
 もし出会いが普通の高校に通っているときにの出会いで、恋に落ち、思いが通じ合っていたのならば、きっと街中を歩く恋人たちのように過ごせていたかもしれない。
 でもそれは無いものねだりだ。
 自分たちが出会ったのはアイドルや作曲家を育成するための学校だ。何を置いてもデビューするために、ひたすら歌を学び、曲を作り、自分を磨くことによって誰もが簡単には辿りつけない高みへと登る。限られた者のみが就ける職種で生きていくがために学園の門をくぐったはず。
「確かにおっしゃる通りです。でも、それでもわかっていてわたしは一ノ瀬さんを好きになったから。わかっていても、あの人に恋をしたんです」
 真っ直ぐにHAYATOを見つめて言うと、彼はその瞳に切なげな色をほんの少し浮かべた。
「辛くはない?」
「ありません」
「人前で手を繋いだり腕を組んだり、いちゃいちゃしたりできないんだよ? 今回みたいに長く会えない時だってあるんだよね?」
 その問いかけに、春歌は少しだけ笑みを見せる。
 この恋は『辛い』のではない。トキヤを想うからこそ甘くも切なくもなり、そのもどかしい恋の感情が胸の中で暴れ出すから自分でも手に負えなくなるだけだ。
 ただひたすら好きなだけ。その思いは嘘じゃない。
「人前でなくたっていいんです。他の人から比べたら短い時間かもしれないけど、一緒にいられる時が一番幸せだから。確かに会えなくて寂しい時はたくさんあります。仕事がうまく進まないときは、引っ張られるようにして負けちゃいそうになります。でも、会えないときには会える日のことを思って励みにします。寂しい時は、今までやりとりをしたメールを読み返して元気をもらいます。これが、出会ったばかりのわたしだったら、絶対に心が折れちゃってたかもしれません。でも、今ならちょっとだけ思うんです。強くなれたんじゃないかって。早乙女学園に入学して、一ノ瀬さんとペアを組んでともに卒業オーディションを目指して頑張った日が、わたしをほんのちょっと強くしてくれたんじゃないかって。……一人じゃなかったから。いつでも、隣には一ノ瀬さんがいてくれたから。自分に厳しく、夢のための努力を惜しまない、そんな背中をずっと見てきたから、わたしも負けずに頑張ろうって思えるようになったんだと思います。一ノ瀬さんの隣にいたいから。ずっとそばにいたいから。それに……できないことを探すより、できることを二人で見つけて増やしていけばいいだけです。その方がきっと、ずっと楽しいです」
 初めは驚いたように目を丸くしていたHAYATOだったが、次第にその表情を真剣なものへと変えて耳を傾けていた。その表情、雰囲気はHAYATOのようであり、トキヤのようでもあった。
 春歌の言葉の後も、少し考えるような表情をみせていたが、ややあって彼はその目元を緩めて微笑んだ。
「……そっかぁ。……うん、そうだよね。ゴメンね、春歌ちゃんのことトキヤから聞いててわかってるつもりで――いや、わかっているようなつもりでいたんだけど、君の話を聞いて安心したよ」
「えっ、わたし何か不安にさせるようなことしちゃってたんですか?」
 驚いて目を瞬かせると、HAYATOはだーいじょぶ! と笑って手をひらひらさせた。
「不安だったのはトキヤの方だったみたい。恋人らしいことを満足にできなかったっていうのもあるし、普通の恋人同士っていうのに強く憧れてるところもあったんだろうね。それに、春歌ちゃんのこと本当に幸せにしてあげられているのか、ちょっとだけ心配になっちゃったみたい。君のことがとーっても、とーっても大好き過ぎて、変に気負っていたところもあると思うんだ。普通のコみたいに君のこと幸せにしてあげたい、喜ばせてあげたい、ってね。でも、感情を表すのが下手だから、ちゃんと春歌ちゃんを思っている気持ちが届いているかどうか、不安になっちゃったんだろうね」
「HAYATO様……」
「でも安心したっ! さっきの君の言葉を聞いてもそれでもトキヤが不安に思うんなら、ボクに乗り換えちゃった方が絶対オトクだね! 君みたいな良いコ、トキヤには勿体ない!」
 バカだよねー、トキヤもさ、と明るく笑うHAYATOを見て春歌は思った。
 ああ、この人もそういう風に思っていたんだ、と。
 たった今前向きなことを言ったけれども、時々一人でいると寂しさや切なさで胸が締め付けられることがある。会いたい、声が聴きたい、近くで彼を感じていたい、と。
 けれど、変な甘えは彼の邪魔になってしまうのではないかと思い、それを心のうちに押し留めていた。自分だけが寂しく、切なく、普通の恋人同士とやらに憧れているのかと思っていた。
 会えない時間は互いを高めるための時間。だから、これもひとつの試練と思うようにしていたし、いつでも毅然としている彼にしても、弱気な気持ちを打ち消して、真っ直ぐ先を見つめて頑張っているのだとばかり思っていた。
 ――でも、一ノ瀬さんも不安に思ったり、切なく思ったりっていう時がちゃんとあったんだ……。わたし、自分のことしか考えてなかった。……バカみたい。恋は二人でするものなのに。
 弱い時や辛い時、寂しい時は誰にだってあるのに。
 どうして気付けなかったんだろう。
 どうして気付かなかったんだろう。
 ――あなたもわたしも、一人じゃないのに。
「え!? ちょっと、春歌ちゃん? ど、どうしたの? ボク、意地悪なこと言いすぎたかにゃ? え、えっと……ど、どうして泣いてるの〜?」 
 気がつけば、ぽろぽろと涙がこぼれていた。
 切なくなくて、悲しくて、苦しくなった。
 自分ばかりが恋をしていたわけじゃなかったのに。
「えっと〜、春歌ちゃん? お願いだから涙を止めて欲しいにゃ。ボク、君が泣いているのを見ると胸が痛くて苦しいよ」
「ご、ごめんなさ」
 すん、と鼻をすすり、慌てて涙を拭おうとするのだけど、自分の指が頬に触れるよりも早く、彼の指がそっと涙をぬぐった。そして、額を寄せてはため息交じりの囁きが一つ。
「……おかしいですね。君を泣かせるつもりじゃなかったのに。嬉しい気持ちにさせるはずが、どうして泣かせてしまったんでしょう。気が付かないうちに傷つけるような言葉を発していたのでしょうか」
 だとしたらすみません、と困惑した声。見上げればその表情には珍しく戸惑いの色が濃く表われていて、どうしていいのかわからないという顔をしていた。
「HAYATOなら君を何よりも、誰よりも笑顔にできると思っていたのですが……」
 その言葉に春歌は首を振る。
 ――違う。違うんです。わたしが泣いているのはHAYATO様のせいじゃありません。そして、誰よりもわたしを笑顔にできるのは『あなた』だけなんです。
 けれど、止まらない涙を懸命に堪えようとしている分、喉が締め付けられてうまく言葉にならない。
 上手に言葉にできない思い。それを伝える方法。
 今はこれしか浮かばない。
「……春、歌?」
 伸ばした両腕は彼の首へと回し、その首筋にぎゅっと頬を押しつける。
「さっきHAYATO様に辛くないって言ったのは本当です。だけど、ごめんなさい。わたし、切なくて恋しい気持ちは自分ばかりなのかと思ってたんです。トキヤくんはそういう気持ちを乗り越えてお仕事頑張ってるんだとばかり思ってた。わたしよりずっと強いって、いつの間にか思ってたんです。でも……でも、違うんだって気付きました。トキヤくんも、わたしと同じなんだって」
 抱きしめる腕にぎゅっと力を込め、さらには大きく息を吸い込んで言葉にする。
「疲れてるのに、お仕事終わらせて帰ってきたばかりなのに、それでもわたしのことを喜ばせようとしてくれて、ありがとう。……トキヤくんの気持ちが、凄く凄く嬉しいです」
 伝えきれない想いたちは、彼を抱きしめるこの腕に。
 そう思いを込めて抱きしめていると、同じように強い力でウエストを抱きしめられた。
「私は君に恋しています。勿論、恋だけじゃなく愛も君だけに抱く感情です。けれど、ただひたすら君を想う気持ちに名前を付けるなら、それはやっぱり恋で、会えない日々がどれほどもどかしく、切ないものか……。ただ傍にいたい、すぐそばで君の声を聞きたい、笑顔が見たい、手を繋ぎたいと、少しでも君を恋しく思えばこの気持ちは止まらないのです」
「それはわたしもです。わたしも同じ気持ちです」
 するとトキヤはいつもより少し声を荒げて反論する。
「いいえ、私の方がこの気持ちは強いです。これだけは譲れません。君が想っているよりも私は君のことが好きなんですよ。現に、春歌は私に想われていること自体忘れていたではありませんか」
「え、ええっ? でもそれは、トキヤくんを想う気持ちが大き過ぎていたからで、つい……」
 どうしてここで彼の負けず嫌いが発動するんだろう、と驚きつつも顔を上げてまじまじとその端正な顔を見つめると、少し面白くなさそうな表情を浮かべる。
「……確かに私は饒舌ではありません。上手に気持ちを伝えられている自信よりも、伝えられているかどうかという気持ちの方が常に勝っています。ですが、どうか忘れないでください。私はいつでも君を恋しく思ってる。こんな風に私の心をかき乱すことができる人は、世界中のどこを探しても春歌以外にいない。……切なくて、恋しくて、もどかしい気持ちがこんなにあるんです」
 春歌の頬にかかる髪をそっと指先で払い、そのまま頬を包み込んでは唇を押し当てる。一度目は軽く。二度目は長く。三度目は深く。
「それとも、私よりHAYATOの方がいいですか」
 思いもしないその言葉に目を見開く。どうしてそこに行きつくのだろうか。
「え、だって、HAYATO様はトキヤくんじゃないですか」
「私と話すより、HAYATOと話している方が蕩けそうな顔をしていますし、思っていることを素直に話しているように見えましたが」
 少し不貞腐れているように見えるその口ぶり。その表情。
 ――こ、これは……やきもち? でも、もう一人の自分にやきもちを焼くなんて、わたしはどうしたらいいんだろう!
「今まで何度も言いましたが、HAYATO様は憧れの人なので、つい舞い上がっちゃうんです。フワフワとしちゃうんです!」
「じゃあ、私には舞い上がれない、と」
 ふぅん、そうですかフワフワですかと不満げな声。
「ち、違いますよ! 全然違います! トキヤくんはもっと近いところにいて、だからといって舞い上がらないとかっていうんじゃなくて、地に足をつけて好きっていうか、ええと、その……恋人として、異性として、だ……大好きなんですよ?」
「どれぐらいですか」
「えっ?」
「どれぐらい私のことが好きなんですか。大好きとはどれぐらいなんでしょう」
 この展開。少し前にも同じやり取りをしたのに、今度は対トキヤで繰り返されることになるとは。
「どっ、どどどれぐらいって、あの……さっきもHAYATO様に伝えましたけど」
「HAYATOには言えても私には言えないのですね……」
 はぁ、と大げさにため息を吐かれてしまい、春歌はうっと言葉に詰まった。
「そうですか、別に言いたくないのであればいいんですよ。HAYATOはいいですね、君から素直な本心を聞けて」
 なんだかトキヤとHAYATOが混ざった不思議な反応だと思いつつも、焦りと羞恥の度合いがじわじわと高まっていく。
「といっても、素直な気持ちはトキヤくんに対するものであって〜!」
「なら私に言ってくれてもいいじゃないですか」
「うぅ……。恥ずかしいんですよ」
 俯きつつもちらっとトキヤの顔を見つめても、うんともすんとも言わない。とうとうだんまりを決め込まれてしまい春歌は慌てた。
「い、一ノ瀬さん?」
 気のせいか一瞬眉が跳ね上がったような気がした。
 ――な、なんか今、さらに不機嫌になった? というか、何故か眉間の皺が深くなってく! あぁ……こうなったらもう仕方がないかも。わたし、腹をくくりますっ!
「い、いい一ノ瀬さんっ! あの、ですね。わ、わたしは一ノ瀬さんのこと……こっ、これぐらい好きです。大好きなんです!」
 えい、と身を乗り出して頬を傾ける。恥ずかしくて目など開けていられないから途中からぎゅっと瞑ってしまったが、唇には柔らかい感触が残ったので多分触れているはず。
 彼の頬に。
「こんなことHAYATO様には絶対にしませんからっ! あ、でもそれは好きじゃないとかそういうのじゃなくて、つまり――」
 どっちのあなたもとびきりで、素敵で、大好きなんです。
 そう告げたものの、恥ずかしくて顔を上げられない。
 力が抜け切ったままふらふらとトキヤの肩に額を押し付けると、こほん、と咳払いが一つ聞こえる。
「及第点まであと一歩です」
 え、と小さく問えば、ため息交じりに、だけどどこか楽しそうな風に彼が言う――もう一度名前を呼んでくれれば文句無しです、と。
 その言葉で春歌は、ああ、と気付いたことがあった。トキヤの眉が上がり、少しだけご機嫌が斜めになった理由はここにあったのだ。
「呼んでください、春歌。私の名前を」
 いつの間にか自然に名前を呼んでいたことに驚いたけれど、意識せずに名前を呼ぶ回数が増えれば増えるごとに、いつの日か『トキヤくん』と当たり前に名前を呼ぶ日が近づくような気がして、胸の奥が少しだけくすぐったくなる。
「トキ、ヤ……くん」
 今はまだ照れや恥ずかしさがどうしたって先に立つけれど、いつかきっと――そう、遠くないうちに自然と呼べるはず。
 ――トキヤ、くん。
 今はまだ不慣れでつかえてしまうけれど、大切な言葉を添えてもう一度。
「大好きです……トキヤくん」



End.
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