Uta-Pri

イタズラにKiss【トキ春】




『なんとなく耳がゴワゴワする感じがしてさ、部屋に来る前まで自分でなんとかやってみようとしたんだけど、見当違いのとこばかり触ってるみたいで、ぜーんぜん。なんか気持ち悪いんだよね』

 思い出しても不愉快極まりない言葉。音也のこの言葉が全ての始まりでした。
 つい先ほどまで音也と春歌と私の三人は、いつものように春歌の部屋で曲の打合せをしていました。
 自分の彼女の部屋に他の男を招き入れるなど、本来の私であれば全力で阻止するところですが、集う用件が新曲についてのディスカッション……それも調整段階とあっては仕方がありません。なにせ彼女の部屋には、グランドピアノは勿論、ある程度の音楽編集機材が揃っているのです。私の部屋でなんとか済ませられるのであればそうしたいのですが、さすがにここまでの機材はありませんし、音也の部屋も然りです。
 勿論、これらを全て提供しているのは我々の所属する事務所である、シャイニング事務所。今後ヒット曲を産出するであろう彼女の能力を思えば、これぐらいの出資は安いものでしょう。
 とはいえ、見事に最新機器が揃っていて、これらを見たときには私も驚きました。
 あのバカ……いえ、音也に至っては、それはもうやかましくて大変でした。リードをうっかり離してしまった時の犬状態です。脱走する音也、追いかける私。まったくもってコメディーです。
「わあ、すっげ! 七海の部屋本格的だね! これ、新しい機材なの? 学校にあるやつと同じっぽい! うわあ! あ、こっちは何? 電源入れてもいいかなっ」
 と、きょろきょろ、うろうろ、あちこちペタペタと触りまくるわで、それはもう迷惑以外の何物でもありませんでした。どんなに私がたしなめようともまるで耳を貸さず、うっかり彼女の寝室にまで足を踏み入れそうになった時にはさすがに首根っこを?まえて部屋に戻しました。
 阻止は当たり前です、私でさえまだ足を踏み入れていな――と、これは失言ですね。
 好奇心旺盛の子供。人懐っこさが取り柄の落ち着きのない中型犬。感覚だけで突っ走り、後先をまるで考えない単細胞。私から見た音也はこんな人物で、しかもこんな人物が私の、いえHAYATOの相棒となっているのが腹立たしくてなりません。そもそも、私がうっかりHAYATOの正体を明かしてしまったのが一生の不覚!
 ……おっといけない。またも話が傾きかけました。いい加減、話題を元に戻しましょう。
 冒頭にも挙げましたように、一人で耳の掃除もできないなんてどれだけ子供なのか。
 私にはまったく理解できませんが、心根の優しい春歌は違いました。
「あの、わたしでよかったらお手伝いしましょうか?」
 耳を疑いました。
 お手伝い……。
 それがどういう意味を指しているのか彼女はわかって言っているのでしょうか。耳かきという作業について言うならば、直立姿勢では不可能に等しい作業。つまりは、対象者の体を横たえた上で耳孔を見なくては意味がないのです。
 私が幼い頃の記憶を思い出せば、母の膝の上に頭部を置いていました。要するに膝枕です。
 それを私よりも先に音也が体験するとは! ……音也!
 断固反対です。阻止行動以外に取るべき手段はありません。器が小さいと思われようが構いません。男として、それも春歌の彼氏として当然の行動です。何より、それが極々一般的な判断だと私は思っていました。
 ところが、一般的常識が時折当てはまらないのがこの二人です。こと男女の機微にかけては疎すぎます。
 私がどのような思いで膝枕を堪能している音也を正面に見なくてはいけないのか。また、あのドアホウを膝枕し、穏やかな表情で耳かきをする彼女を見なくてはいけないのか。
 対岸で穏やかな時間が流れている間中、私は苦悩しました。
 この男を蹴り飛ばせたらどんなにいいことか!
 手にある雑誌を丸め、その万年常夏頭に渾身の力を込めてひっぱたけたらどれだけ胸がすっとするか!
 そこは私の席ですと言って、彼女の膝の上の場所を奪い取れたらどれだけ嬉しいか。
 一ノ瀬トキヤではプライドが邪魔して可能にすることができませんが、HAYATOであれば「春歌ちゃんの膝の上はボクの特等席なんだにゃ! ぜーったい、ぜーったい誰にも渡さないっ! どくんだにゃぁ!」と行動に移すことができたはず。いっそなりふり構わずHAYATOになってしまおうかと考えたほどです。
 ……ですが、できませんでした。
 臆病者ゆえ、そして自己保身を選んでしまったが為、ただ対岸の光景を見ていただけです。
 己の不甲斐なさと、嫉妬という炎で全身が焦がれそうなひと時でした。
 キリキリと胃が痛む中、耳掃除をしてもらいすっきりと晴れやかな音也が口にした言葉。ここでも私は驚きました。
 ――今度はトキヤのをやってあげてよ。
 やはり対岸まで渡り、その頭を叩いておけばよかったと心底思いました。ですが、不覚にも一瞬だけ……そう、一瞬だけ胸躍らせてしまったのも事実。
 あの男の提案に鼓動を高鳴らせるなど、私もまだまだです。
 つとめて冷静に。そう言い聞かせる私に、なんと春歌までもが私が嫌でなければ、と頬を染めて返したものだから私の思考は一瞬ショートしました。
 そんな私の内側などまるで知りもしない音也は、あっという間に春歌を私の隣に座らせ、挙句の果てにはそのバカ力で私を突き飛ばしたのです。不意打ちを食らった私はまんまと春歌のほうへと倒れこみ、その隙に音也は「お二人仲良くー!」などと笑顔を見せてドアの向こうへと消えて行きました。
 さて、これはどうしたものか。
「あ、あの、大した膝ではありませんが、よかったら……」
 消え入りそうな声で言う春歌に、私は少し躊躇ったものの、体は何故か自然と彼女の膝のほうへと傾いていました。そうです、理性ではどうしようもないものが私を突き動かしていました。
「……では、少しの間――」
 お借りします。
 と、言おうとした矢先、バン! と勢いよく扉が開き、再び音也が現れました。
 ――てっきり帰ったものとばかり思っていたのに! この男は……っ!
 慌てて体を起こした私に、音也はにっこりと笑顔を向け、それから春歌に何やら耳打ちをしています。
 コソコソと何の話をしているのですか! はっきり言って不愉快な行動です。ですが、音也は彼女に何かを言うだけ言って、へっへー、とぶんぶん手を振りながら帰って行きました。
 今度こそもう来なくて結構。鍵でもかけてしまいましょう。
「か、帰っちゃいましたね」
「居座られても迷惑なだけです」
 私の言葉に、あはは、と困ったように笑う春歌。
「で……。今、何の話をしていたのですか」
 気にならないわけがありません。内緒話を目の前でされていい気分になるわけもなく、また、その話の内容が確実に私に関する事となれば、知っておかなければなりません。
「あ、なんか、耳かきについてのコツでした。なんでもいい方法があるらしいのですが……実はわたしもよくわかっていなくて」
 それで「はい」と返事をしてしまっているあなたもあなただ。が、まあ……その表情からして嘘は言っていないようですね。仕方がありません。これ以上の追及は無駄のようです。
 私はもう一度春歌の膝の上に頭を置きました。
 なるほど、頭を置いた側はとても暖かいし、また、柔らかく居心地がいいです。それに、いい香りがするというのも納得です。……悔しいですが、音也の言う通りでした。
「そ、そそそれじゃあ、一ノ瀬さんっ! しっ、しししし失礼しますぅっ」
 なんだかその細い耳かき棒で耳を貫かれそうな勢いです。流血沙汰は勘弁願いたい。
「どうか緊張しないで。音也の時のようにしてください」
「あっ、は……はい」
 耳にかかっていた髪をそっとかき分け、そろそろと耳かきが入ってくる感触。
 なんとなく懐かしい気持ちになりますね。こういう風に誰かにしてもらうのは、いつぶりでしょう。
 いつも多少のことなら自分で済ませてしまっているので、誰かに何かをしてもらうということがなんとなく落ち着かず、でも……妙に心休まるものがあるから不思議です。
 こうして髪に、頭にそっと手を当てられているせいもあるのでしょう。女性の手……いえ、愛しい人の手には言葉では言い表せない何か特別なものがあるようです。
 自然と心が解けていくのを感じます。
「……なかなか二人きりの時間が作れず、すみません。もっと一緒にいられる時間を増やしたいのですが……どうにも難しく」
 突然謝罪をした私に、春歌は小さく笑って首を傾げます。
「たくさんお仕事が入っているのはとてもいいことじゃないですか。わたしは、一ノ瀬さんの姿を――えっと、つまりはHAYATO様な一ノ瀬さんですが、それでもたくさんテレビで見られて幸せなんですよ。それに、こうして今は二人きりで過ごせています」
 ちょっと緊張しちゃってますけど、でも、こんなに堂々と傍にいられるのは、とても幸せです。
 そう目を細め、幸せですと何度も口にする彼女が眩しいのか。それとも室内灯が眩しいのか。彼女の顔を直視するのが躊躇われます。
 なかなかこう、気恥しいものがありますね。
 私が少し身じろぎをすると、春歌の手が止まります。
「あ……くすぐったかったですか? それとも、痛かったですか?」
 優しく、それも幼い子供にそうするように扱われると、なんだか妙に落ち着きませんね。普段こういう扱いを受けていないとなおのことです。
「いえ、別にそんなことは……」
「くすぐったかったら言ってくださいね」
「で、ですからくすぐったくなど――」
「そうなんですか?」
 クスッと笑う声。まったく、調子が狂います。
 いつもの私のペースに巻き込めない分、本来のペースを取り戻そうとあれこれ突破口を考えては見るものの、こうして彼女の膝の上で緩やかな時間を過ごすというのは、こう……いかにも恋人同士という感じがして悪くはないのです。
 特に言葉はいらない時間があるとは思いもしませんでした。話さずとも心は十分満たされ、こうして体を預けているだけで落ち着き、幸せな気持ちになれる。
 ――私にとって安らぐ場所……ですね、彼女は。
 膝の暖かさと頭に添えられてる手の優しさに、瞼が次第に重くなり始めた時のことでした。
 春歌がその手を止め、ふう、と小さく息を吐いて私に声をかけます。
「一ノ瀬さんもお掃除が必要じゃないくらいきれいですね。こっち側は大丈夫です」
「そうですか。まあ、たまにですが自分でもやっているのでそうだとは思いましたが。それでも、ありがとうございます。あなたには面倒をかけさせてしまった」
「いいえ、これぐらいお安いご用です。それにお礼を言うのはまだ早いですよ。もう片側がありますし。……と、待ってくださいね。こっち側はこれで仕上げになります」
 ――仕上げ?
 と思った瞬間でした。
「……は?」
 不意に春歌の顔が近くなり、そして――。
 彼女の吐息が長くかかり、背筋を言い表せないような――そう、こそばゆい『何か』が走り、頭の先まで突き抜けていきます。
「っ!? いっ、今、な、何を……っ! 何をしたんですか!」
 思わずその膝から落ちてしまいそうになるくらい私は驚きました。
 だってそうでしょう。まさか耳にそっと息を吹きかけられるとは思いもしなかったのですから!
 ただフッとかけられたのではないのです。「ふ〜っ」と緩やかにですよ、緩やかに!
 耳から背中にかけて通り抜けたこそばゆいあの感じ! 思わず耳を押さえ、僅かに体を起こすと、春歌はきょとんとした顔で私を見つめています。それこそ驚く私の方が不自然とでもいうような表情です。
「一ノ瀬さん? どうかしたんですか?」
「どっ、どうしたもこうしたもっ! あ、あなたは、どこでこんなことを覚え――」
 動揺を隠しきれず言いかけたところで、ふと一人の男の顔が浮かびました。
 そう、先ほど笑顔で部屋を去って行った男のことです!
 ――『いい、今の絶対だよ?』と間違いなく言っていた。
「音也……音也ですかっ! 先ほどの内緒話は、ひょっとしたらこれのことを言っていたのですか!」
「え……あ、はい? 仕上げにふーっ息を吹きかけると完璧とおっしゃっていたので。あ、あの……な、なにかいけなかったのでしょうか」
 次第におどおどとし始める春歌を見つめたまま、私はなんとか気持ちを切り替えようと短く息を吐き、それから次第に湧き上がってくる気持ちを抑えきれずに彼女に問いました。
「……あなたは、耳に息を吹きかけられたら、どういう気持ちになりますか」
「えっ? どういうっていわれても……どうなんでしょう」
 ――まるでわかっていませんね。
 こうなれば実力行使です。
 首を傾げる彼女の手首を掴んでは軽く引き寄せ、その耳元に私は吐息交じりに言葉を発しました。
 もちろん、ただ発したのでは面白くありません。低めに、そしてなるべく息が多くかかるように声色を調整してのことです。
「では、教えてさしあげましょう。……私がどういう気持ちになったか、あなたにもあの言いようのないものを味わわせてあげますよ」
 瞬間、「ひゃっ」という短く小さな叫び声と共に、春歌の肩がびくんと上がったのを私は見逃しません。
 やはり、彼女も耳は弱いようです。これは……今から攻め甲斐がありますね。
「い、ちのせ、さ……っ!」
 彼女は耳を抑えようとしますが、その手は私がすでにとらえているため自由が利きません。
「音也の言葉を素直に聞いてしまったあなたには……」
 少しだけお仕置きが必要です。
 もう一度低く言うと、彼女はさらに肩を震わせます。
「っ! で、でも……っ! ど、してなん、ですか……っ!」
 頬を染め、くすぐったさからか潤んだ瞳が私を見つめます。
 ああ……こまりましたね。これは、息を吹きかける以上のことがしたくなります。
「どうして、と言われましても。私もこういう風にされてぞくっとしたからですよ」
 私も愚かですね、自ら弱点を教えてしまうなんて。
 けれど、教えたからといって彼女の好きなようにはさせません。先手必勝。私の弱点を攻めようとすればどういう報復が待っているか、こちらは刷り込みで勝負です。
「えっ、じゃあ、もしかして……一ノ瀬さんの弱点って、み――」 
 彼女が核心に触れるよりも早くその唇を塞いでしまいましょう。
「……っ。ん……い、ちのせ、さ――」
 柔らかな唇に軽く押し当てたあと、もっと触れたい、もっと、という気持ちが溢れ、自分自身の行動がなかなか制御ができませんでした。少し苦しそうに私の腕を引っ張られたときに初めて我に返ったくらいです。
 荒々しく息をする彼女を見て、それでも足りないと思う自分に驚きます。余裕なんていう言葉はいつの間にかどこかへと消え去ってしまいました。
「私の弱点を教えてしまいましたね。けれど、もしあなたがいたずらに私を刺激するようなら、こうしますよ」
 もう一度耳元へと唇を寄せ、その耳朶へと軽く歯を立て、そして――。
「ひゃっ! い、いいいいいちのせさんっ! し、しませんっ! いたずらなんてしませんから、だ、だだからっ! だからっ!」
「……だからなんです」
 そっと囁くと、彼女はびくっと肩を震わせ、さらにはぎゅっと目を閉じて私の胸のあたりを弱々しく押し返してきます。
 そんな力で押されてもびくともしませんよ、春歌。
「う……」
「言ってくれないと、わかりませんね。……じゃあ、もう一度――」
「わ、わわかりました! 言います、言いますからっ!」 
 耳を、舐めないでくださいっ……!
 と、耳まで真っ赤にして、上目遣いに私を見つめるその二つ瞳。
 ……困りましたね。
 いじめすぎて、変に距離を取られてはさすがに私も参ってしまうので、きりのいいところで意地悪はやめておこうと思ったのですが、僅かに残っている理性の欠片までも吹き飛ばされそうです。
 私の愛しい人。そして、私の最大の弱点でもある人。
 春歌、あなたは自覚していないんでしょうね。でも……どうしたって、あなたがいけないんですよ。
 まあ、人のせいにするなんて私も私ですが。
 自分自身に対し僅かに苦笑し、春歌に問いかけます。
「では今後、耳へのいたずらはしませんね?」
「し、しません! 絶対にしませんっ! 神様に誓って! HAYATO様に誓って!」
 よっぽど動転しているのでしょう、なんだか可笑しな言葉が出てきていますね。
「どうしてそこでHAYATOが……。それに、全力で否定されるのも、なんだか面白みがないですね」
「うぅ〜、ど、どっちなんですか、一ノ瀬さんっ!」
 眉をハの字にさせておろおろする春歌はやっぱり可愛くて、これからもちょっかいを出さずにはいられません。
 もちろん、根底にあるのは愛ですよ、愛。ただの意地悪とは訳が違います。
「すみません。つい、あなたの反応が面白くて」
「た、楽しまないでくださいよ〜……」
 わたしはこんなに恥ずかしいのに、と俯く春歌の額に私は唇を寄せ、キスを一つ。
「こんなに可愛い君を前にして、楽しまずにいられませんよ」
「う……。わたし、もうしませんよ? だから、一ノ瀬さんも約束ですよ? あまり苛められたら、わたし、息ができなくなっちゃいます。恥ずかしくて! ドキドキしすぎて!」
 本当に可愛い人だ。その仕草、その表情を見ているだけで思わず笑みが零れてしまうほどに。
「わかりました、善処します。だから春歌。……顔を上げて?」
 そして、その頬に、唇にそっとキスをさせて。
 少しくすぐったそうにしたあと、一瞬だけ見せる困ったような、照れたような、でも幸せそうな小さな笑みが私は好きなのです。
 その一瞬の笑みだけで、とても幸せになれる。
 赤くなってすぐに俯いてしまう君は、私がどんな顔をしているか知らないでしょう。
 君さえ知らない笑顔。

 その隠し方を、私は知らないのです。



End.
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