Starry☆Sky

approach【犬飼&月子】



 新部長である宮地の一声で一時休憩となった今、犬飼は道場の外にある水道に向かった。
 トレードマークと言われ、また犬飼本人もそう自覚している眼鏡を外し、蛇口がある壁の天辺へと置く。隣には手に持っていたタオルもかける。
「ふう……。なんだってこうあっちーかねぇ……。九月も半ば過ぎたんだぜ?」
 一人ごちて溜息をつくと、その息までもがやけに熱を帯びている。
 長いようであっという間だった夏休みが終わってしまった今、どことなく気が抜けてしまったというのは自分だけの秘密で、まだまだ夏を引きずっているこの茹だるような暑さがその気持ちに一層拍車をかけていることは間違いない。
 前部長であった金久保が引退をしたときは、これからの弓道部をみんなで引っ張っていくという強い心意気があったのだが、その気持ちをずっと維持し続けていくのはなかなか難しく、ダレたり引き締まったりの繰り返し。
 弓を射るときはさすがに気を引き締めているので暑さがどうとかあまり気にならないが、ふと気を抜くとムッとする暑さに体が包み込まれる。顔だけでなく、胴着の下は汗だくで、目の前にプールがあるならそのまま飛び込みたいくらいの気分だ。
 けれど、さすがにプールには飛び込めないのでこうして水道のパイプの向きを変え、頭に冷たい水をかけてクールダウンを図っているのだが、出だしの水はもはや水とは言えず、半ばお湯に近い状態で噴き出し、驚いて頭を上げた瞬間、後頭部をそのままパイプの口にぶつけてしまう。
「イッ!? いってぇ〜……、くそ〜……」
 顔をしかめながら、それでも冷たい水を待ち続けていると、ぶつけた箇所が水らしき冷たさを感じ始める。
 ――よし、一気に冷やす!
 手探りで栓をひねると、一気に水が噴出す。
 少し派手にやりすぎたか、と思わなくもないが、多少胴着が濡れてもこの熱気で乾いたり、汗で湿ったりの繰り返しで気にする必要もなくなってしまうだろう。
 水のかかる位置をずらす為に頭を軽く振りながら満遍なく水をかぶると、熱気でぼやけた頭も少しずつクリアになっていく。
 水道のふちに手を置いて頭を起こすと、髪から滴り落ちた水が背中や胸元に入り込んで気持ちがよく、思わず口元に笑みを浮かべながら頭を振ると、「わっ! 冷たいよ!」と驚きの声がすぐ傍で聞こえる。
 眼鏡がなくてもある程度だったら見えるが、今のは声の主を見なくても一発でわかる。女子の声。となると星月学園には一人しかいない。
「ははは、悪い悪い。まさかいるとは思わなかった。ってか夜久、お前もどうだ?」
「やめときますー。……やってみたい気分だけど」
「まあな。こんだけ暑けりゃそういう気分にもなるわな」
「……髪が長くなければやったかも。短かったらよかったな」
「あー、よせよせ。短くてもやめとけよ」
「はい」
「うん、いい返事」 
 言いながらタオルを探そうとすると、「はい」と月子にタオルを手渡される。
「お、サンキュー」
 渡されたタオルで顔を拭き、ざっと簡単に髪を拭くと、じっとこちらを見つめている月子の視線に気がつく。
「どーした?」
 頭を拭きながら彼女を見ると、はっと我に返ったように慌てて首を横に振る。
「な、なんでもない!」
 その慌て方がなんとも可笑しくてついついからかいたくなる。
「ふ〜ん。……もしかして」
「な、なに?」
「一瞬俺に見とれてたとか?」
 冗談めかしてニヤリと笑うと、月子は頬を真っ赤にして「違う! 絶対に違う!」と犬飼の腕をぴしゃりと叩く。それも何度も。
「うっわ、イテ! ちょ、痛って! っていうか、ムキになるところがさらに怪しいです、夜久月子選手」
「もう、ばかっ! 違うよ、違う! 眼鏡が無いとちょっと印象が変わるな、って思っただけだってば」
 そう言われてみれば日ごろ皆の前で眼鏡を外す機会がなかったので、確かに珍しいかもしれない。けれど、そう目を引くような顔立ちでもないはず、と犬飼は人ごとのように自分の面構えを判断する。
「そんなに変わるか? あんまいいツラしてるとは言い難いぜ?」
 自分の立ち位置をよく判っているつもりだ。宮地や木之瀬、そして引退した金久保のように目立つ存在ではない。勿論、弓道の腕や才能だって練習に練習を重ねても凡人レベルだ。
 ――普通だな。ごくごくありふれた一男子高校生、ってとこだ。
 小さく苦笑すると、月子は「そんなことないよ」と笑顔で返してくる。
「犬飼君もかっこいいところあるよ。実際、この前ちょっとかっこよかったし」
「この前?」
 首を傾げると月子は目を細めて言う。
「どうして夏が終わるのがさみしいのか、っていうあの話。とてもいい話を聞かせてもらいました! あれ、白鳥君や小熊君だけじゃなくて私もちょっと感動したんだよ」
 夏がほかの季節よりも短いから、終わりを迎えるとさみしくなると確か自分は言ったような気がする。なんとなく沈んでいる月子が気になり、少しでもその気持を紛らわせることができたら、と思ったからだ。
「ああ……あれか。まあ、ちょっとセンチメンタルだったけどな?」
「でも、なんか心にぐっときたよ」
「ハハッ、夜久にそう言われると悪い気はしないよな。お褒めに預かり、光栄です」
 恭しく頭を下げると、同じようなノリで月子が返してくる。
「いえいえこちらこそ」
 頭を上げたあと、じっと犬飼の顔を見つめ、それから彼女は楽しげにふふっと笑った。
「雰囲気が違って見えたのは眼鏡がないからかと思ったんだけど、髪型もいつもとちょっとちがうからだね。髪が濡れて、ツンツンしてる」
「ん〜? 水も滴るいい男って感じか?」
「残念ながら水は滴ってないけど。半分乾いてるしね」
「……痛く、辛い鋭い突っ込みだぜ、夜久。わざとか? わざとなのか!」
 大げさに目を据わらせて月子を軽く睨むと、彼女は両手を振りながら言い訳をする。……しかも、かなり楽しそうに笑っているではないか。
「アハハ、ウソウソ、冗談だよ!」
「お前な〜。……よし、そんな夜久にぃ〜……弓道場脇水道による簡易水鉄砲発射!」
 再び水道の栓をひねり、少し強めに水を出す。下に向けていたパイプを上向きにして指を当てると、四方八方へと水が勢いよく飛散し、自分や月子だけでなく乾いた地面も濡らしていく。
「えっ! えええっ!? ち、ちょっと犬飼君!? キャー、もう冷たいっ! 冷たいってば、こら〜っ」
「はははー、冷たくて丁度いいだろう〜」
 こらー! と言う割には彼女はとても楽しそうで、きゃあきゃあ言いながらはしゃいでいる。その笑顔は日の光を受けてキラキラ反射しながら飛ぶ滴よりも輝いて見える。
 ――うん、やっぱこいつは笑ってるほうが絶対可愛い。こっちまで嬉しくなってくるような顔して笑うんだよな。
 犬飼もつられて笑っていると、月子が「犬飼君ばかり攻撃してずるい!」と手を伸ばして水の噴出を防ごうとする。
 重なった手に一瞬どきりとしたけれど、彼女は全く気にする様子なく水遊びを楽しんでいる。
 そんな月子の笑顔に気を取られていたのがいけないのか、噴出した水が思いっきり犬飼の顔にかかり、水しぶきが目に入る。
「うっわ、直撃くらった……」
 目に入った水で視界がぼやける。ぎゅっと瞼を閉じたり、ぶるぶると頭を振ってみるものの、すぐには元に戻らない。
「ご、ごめんね。大丈夫!?」
 月子の慌てた声がすぐ傍で聞こえる。コンタクトじゃなくて正解だ、と思いつつも、実際眼鏡をつけないままではしゃいでいたので目元は何の防御もしていなかった。
 何度も瞬きを繰り返して、やっと見えるものがクリアになったとき、すぐ目の前に気遣わしげな月子の顔があるのには大層驚いた。
 驚きすぎて思わず凝視してしまったくらいで、冗談の一つも思い浮かばなかった。
 それは月子も同じだったようで……というより、犬飼の驚いた顔に気付いて、驚きがそのまま彼女に移ったような感じに見えた。
 大きな瞳に長い睫毛。
 小さくてもすっとなだらかに延びる鼻筋や、小さくても整った唇。
 それぞれのパーツが一番彼女を良く見せるところにあり、『夜久月子』を形作っている。
 ――やっぱ可愛いのな、こいつ。
「……顔、近いな」
「う、ん……」
 近すぎる場所にあるのに、突き飛ばされもしないのが不思議だけれど、そうされないでいるのがまた嬉しくもある。
「動いたら……多分、どっかくっつきそうだ」
 動く勇気はないけれど、思ったことを素直に口にする。
 短い髪の先から、ぽたぽたと滴が落ち、また、彼女の前髪からも同じように滴が幾つも零れ落ちている。
「犬飼く……」
「お前が俺の彼女だったら……このまま近づいてる」
「……えっ」
 狭い輪の中で月子が誰と付き合うかなどと考えること自体、彼女に対して失礼なのかもしれないが、新部長となった宮地とは随分親しかったようだし、期待のルーキーである木之瀬の押しも大したものだった。
 それだけじゃない、前部長の金久保だって穏やかな物腰ながら上手く自分のペースに持ち込んでいくというなかなかのやり手だった分、ひょっとしたら月子はこの三人の中の誰かと付き合うのではないかと思っていた。
 犬飼からすれば宮地は同学年の気の置ける仲間であり友人で、木之瀬はなんだかんだ言っても可愛い後輩、金久保は頼れる先輩だったので、月子が誰と付き合っても暖かく見守っていくつもりでいた。
 友達として、仲間として。恋愛という気持ちをごまかしても、そういうポジションにつく思いもありだと思っていた。
 けれど、短い夏が過ぎた今になっても三人は依然けん制しあったままでいる。月子が鈍感なのが最大の原因なのだが、はっきりと切り出せない三人も三人なのだ。
 仕方ない奴ら――そう苦笑しながらもそっと見守っていくつもりだったのに、気がつけば今自分は彼女とこんな近い距離にいる。そして、こんな距離にいるからこそ、気付き始めた思いがある。
 胸に小さく、でも日に日に育っていく思いは、友情とはまた違う感情。
 驚くほど近く、触れられるほどのこの距離に立ってやっと実感した。
 ――こいつが彼女だったら楽しいよな。いつも一生懸命だし、笑った顔見てると嬉しくなる。寂しそうにしてるとなんとかして励ましたくなるし、こいつを傷つけるヤツがいたら、ぶっとばしてやりたいって思う。……いろんなことから守ってやりたいと思う。なんか、こういうのって普通、ダチには抱かない想いだよな。こいつが特別なんだってのは自分でも気付き始めてっけどさ。
 言葉でも、行動でもいい。息がかかるほど近くにいるなら、恋愛に鈍い彼女の心にも何か響くかもしれない。少しでも響いてくれれば、何かがちょっとだけ変わっていくかもしれない。
 そのきっかけを作るれるのが今なら――。
「あのさ」
「は、はい……」
 ――俺のこと、恋愛対象として考えてみるのってどうだ?
 そう言ってみようかと犬飼は思った。
 それを言えば何かが動き始めることは確かだった。
 けれど、調子に乗ってそんなことを口走り、彼女を困らせるのは本意ではない。少し前まで金久保が引退してしまったことでしょんぼりしていた彼女だ。やっと無理のない笑顔を見せてくれるようになったのに、今度は自分のせいで曇らせてしまっては意味がない。
「あー……、いや、やっぱいいわ。またの機会にする」
「う、うん。……わ、かった」
 ――またの機会って、いつなんだろうな。つーかそんな機会来んのか?
 そう心うちで呟いて彼女と距離をとろうとすると、ふと殺意のような念の塊がこちらにいくつか向けられていることに気付く。おまけに、鋭い視線もだ。
「ん?」
 見ると、弓道場の入り口にはわなわなしながらこちらを――というより犬飼を恨めしげに見つめている白鳥と小熊の姿があり、さらにその隣には今までにないほどの険しい表情を見せている宮地、笑顔を浮かべているが眼が笑っていない木之瀬の姿が。
 ただならぬその気迫、雰囲気に犬飼が眼鏡をかけながら眼を凝らすと、白鳥が唇をかみ締めたあと、「お前は俺たちと一緒だと信じていたのにぃ……」と頼りない声で言う。
「はあ!? 白鳥お前、どうし――」
 犬飼が言葉を遮るようにして木之瀬が溜息混じりに言葉を紡ぐ。
「僕、読みを間違えていたようです。本当のダークホースって、犬飼先輩だったんですね。……眼鏡にしてやられたっていう気分です」
「まったくだ」
 ――なんだよ、眼鏡って。つーか宮地、お前もかよ!
 険しい表情のままの宮地に、木之瀬がにやりと笑う。
「宮地先輩、本音が出ましたね?」
「む……! ち、違う! そう意味ではなくてだな……っ。そ、そうだ! いつまで経っても戻ってこないかと思えば、夜久、犬飼! お前らは子供か! 水道で水遊びなど一体何考えてる。それだけでなく、そ、その……っ、このような場所で、か、顔を近づけて……ふ、ふしだらにも程があるぞ!」
「ふしだらって、お前な……」
 随分堅苦しい言葉を使うのはいつものことだが、やけに艶めいていてむず痒くなる。犬飼が溜息を吐くと、木ノ瀬が呆れたように笑う。
「キスしてたんじゃないのかってストレートに言えないんですか、宮地先輩」
「きっ、木之瀬っ!」
 顔を真っ赤にし、眼を剥いて木之瀬を怒鳴る宮地に、犬飼もまた眼を丸くした。
 ――キスって、んなのしてねえよ。
 しようと思えばきっとできたけれど、そこまで節操なしではないつもりだ。月子が自分の彼女だったら話は別だが、今はまだ友人であり同じ部活の仲間だ。
 溜息一つ落として、胴着の肩口でこめかみを伝う滴を拭い、それから口を開く。
「お前らさ……もし万が一そうだったとしたら、それをずっと見てたわけ?」
「ず、ずっとっていうか……べつに、そのぉ……お、俺たちは」
 もごもごと口ごもる白鳥に、犬飼は小さく笑って答える。
「まあ、いいけど。言っておくがなんもしてないからな。どんなにモテなかろうが彼女がいなかろうが、いくらなんでもこいつにそんな失礼なことはしねえよ。……と、わかったならとっとと練習始めんぞ〜、オラオラ皆の衆、道場に入れ〜。っていうか宮地部長、お前が仕切んないとダメだろ」
「む……た、確かにそうだな。すまない」
 はっとしたような表情をし、それから小さく咳払いをしては「よし、練習を再開するぞ!」とぴんとした声を上げて皆を先導していく。他の者はそれぞれ何か言いたげにこちらをちらちらと見ていたが、「練習だ!」と鬼部長に言い切られてしまっては仕方がないのだろう、不承不承に引き上げていく。そして、犬飼と月子を残すばかりとなったときに、木之瀬がちらりとこちらを振り返って軽く笑う。
「素直に謝っちゃうところが宮地先輩って感じですね。何気に上手く丸め込まれてるのに。……ねえ、犬飼先輩?」
 聡い木之瀬はそう投げかけて、皆と共に道場へと足を進める。
「お前も丸め込まれてくれるほうが、俺としてはありがたいんだけどなー」
「ははっ、そうでしたか。それはすみません」
 ちっともすまなそうな顔をせず、軽く肩を竦める木之瀬を見送ると、しん、とした静けさが戻る。そういえば彼女はずっとおとなしかったなと振り返ると、月子は頬を赤くしたまま立ち尽くし、犬飼と眼が合うと照れたようにぎこちなく視線を逸らす。
 そのぎくしゃくした態度がなんとも可笑しくて犬飼はついつい吹き出してしまう。
「っはは! 夜久すっげー顔してるぞー」
「も、もうっ! 誰のせいでこんな顔になったと思ってるの」
 両手で頬を押さえ、犬飼を上目使いで軽く睨む。
「俺のせいか。っていうか、顔面モロ狙ってきたのは夜久じゃねえの?」
「そ、それはたまたまそうなっちゃっただけで……っ」
「でも、顔を覗き込んできたのも夜久なわけで?」
「う……。心配したのに〜……」
 赤い頬のままどんどん俯いていく月子がなんだかいつも以上に「ちゃんと女の子」に見えて、少しだけくすぐったい気持ちになった。
 可愛いと思う気持ちと、彼女をこんな風にさせている原因が自分であると言う、変に嬉しい気持ち。その二つが混在する。
 ――なんていうか、抱きしめたくなるよな、俺の彼女だったらさ。……つーか、やっぱり彼女にしたいんですけど。
 心うちでそう呟いて微かに笑い、彼女の頭を撫でる。
 気づいてしまった気持ちをなかったことになどできそうにない。
「ゴメンゴメン。それよか、いろいろ騒がれちまって、悪かったな」
「え……?」
「キスしてたように見えたらしいじゃん」
「あ、え、う……うん」
 俯いたままの月子が、前髪に触れながら頼りなく頷くのを見て、やっぱり下手なことを言わなくてよかったかもしれないと犬飼は思う。自分のことを単なる仲間から少しだけ特別視して欲しい気持ちは大いにあるけれど、彼女の気持ちだってあるのだ。道場が居心地悪い場所にさせるつもりは毛頭ない。
「ま、これからもそのことで突っ込まれるようなことがあったら俺に言えよ。あいつらのことみっちり叱り飛ばしてやる。なにもないのに騒がれるのってお前も迷惑だろ? ……っていうことで、さっきのは気にするな。嫌なことはさらーっと流しときゃいいんだ」
 そう笑い飛ばして犬飼は道場へと足を向けると、背中越しに小さな声が聞こえた。聞き間違いかと思ったけれど、振り向けば彼女は顔を上げていて、真っ直ぐにこちらを見つめている。
「嫌じゃ……ないよ」
「え……」
「嫌じゃないから、顔、近くても……多分、逃げなかったんだと思うんだ」
 やっぱり聞き間違いなんじゃないかと犬飼は思った。
 嫌じゃない、だから逃げなかった。確かに彼女はそう言った。
 けれど、相手は宮地でもなければ木之瀬でも金久保でもない。これと言って目立つところ無しの自分なのだ。
 呆気にとられたまま何度も瞬きを繰り返していると、月子がそんな犬飼を見て少し照れたように目を細めて笑う。
「すっごく恥ずかしかったのには違いないけどね」
 さあ、練習しよっか! と明るい声で言って、固まったままの犬飼の横を通り過ぎようとした月子の手を思わず掴んだのは無意識のことで、やめておこうと断念した言葉を紡いだのも無意識のことだった。
「犬飼く――」
「図に乗ったまま言わせて貰うけど……俺のこと、ちょっとだけ特別に見る努力してみる気はないか?」
「……えっ」
「お前のこと仲間だと思ってるし、大切なダチだと思ってたけど、最近、そういう気持ちがちょっと違うんだ。……仲間よりも、友達よりも特別なんじゃないかって……」
 ――だから、ちょっとだけ努力してみる気はないか。
 そう告げると、最初はただ目を丸くして驚いていた月子だったが、照れくさそうに小さく笑ってこう言った。
「うん。……努力、してみます」
「……マジで?」
「マジです」
「お前、本気か?」
「ほ、本気だよ! も、もうっ、犬飼君は私にどうしてほしいの」
 グーにした手を犬飼の胸元へと軽くぶつけてくるその手を取り、頬を膨らませている月子を見つめる。
「……マジで考えて欲しい。ちょっとだけでもいいから、お前に特別に見てもらいたい」
「うん」
 好きになった相手に好きになってもらえるなんて、そんな都合のいい話はそうそう簡単に訪れるものじゃないと思っていた。
 お前のことが好きだ、私も好きよなんて、そんな都合のいい話あるわけない、とむず痒いテレビの恋愛ドラマを斜めに構えてみていた。けれど、目の前にあるこの展開はなんだろう。まさしくそのむず痒い恋愛ドラマのようではないか。
 恋の舞台に上がれるなんて思いもしなかった自分に巡ってきたチャンスがある。
 眩しく光り輝いていた夏は過ぎてしまったけれど、全力で駆け抜けた夏の季節は思わぬ落し物をしていってくれた。「恋する気持ち」と「恋してもらえるかもしれない気持ち」。
 夕暮れの光を受けて金色に輝く月子の髪を眩しく見つめ、濡れて少しクセがついた彼女の前髪にそっと触れる。
 女神の前髪。
 本当に幸運をつかめるかどうかは今後の二人次第だが、せっかく走り出した気持ちなのだから大切に育てていきたい。
 ――それにはいろいろ障害がありそうだけどな。
 宮地や木ノ瀬、引退してしまったとはいえよく顔を見せる金久保や、白鳥という揃いもそろったメンバーがいる。
 ――でも、まあ、簡単に負けるつもりはねーけど。
 彼女の前髪に触れてそっと微笑むと、月子がじっとこちらを見つめている。
「……やってみるか。どれもこれも」
「え?」
 彼女を手に入れるための努力も、自分を今よりももう少し輝かせるための努力――弓道も。「平均的」な自分がどこまでやれるか試してみたくなる。
「お前に見てもらえるためなら、いろいろ頑張れそうっていうことだ」
 にっ、と笑うと彼女が頬を赤らめて僅かに俯く。
 月子の前髪がさらりと動くのを見つめ、犬飼は今度こそ足を前に進める。
「おし、また宮地に怒鳴られる前に行くとするか」
「う、うん!」
 並んで歩く影が長く延びる。道場に入るまでのほんの僅かな間だけど、この影がいつかもっと近づく日がくることを信じて歩く。
 もう少し。
 あと少し。
 そうやって頑張る自分も、きっと悪くないはずだから。



End.
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