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たとえばこんな恋の始まりに(2)【水嶋×月子】



「……ということだから、晩御飯はご馳走になってくるね。その分、少し遅くなるかもしれない」
 翌日、出かける間際に私は母にそう告げた。少し遅い待ち合わせということもあるし、時間が遅い分水嶋先生が夕飯を奢ってくれるという話になっている。そのことをちゃんと親に断っておくようにと水嶋先生に言われて、失礼かもしれないけど案外そういうところをちゃんと気遣ってくれてるんだな、と感心した。反面、時間を気にしないといけない「子ども」だということを思い知らされた気がしてちょっぴり複雑なんだけど、それは胸の奥にしまっておこう。
 玄関近くにある鏡を覗き込んで身だしなみのチェックをしていると、背後から母の声が聞こえる。
「随分念入りだこと。デートなの?」
 楽しんでいるようなその口ぶりに振り向き、首を振って力いっぱい否定した。
「ち、違うよ! 水嶋先――輩は、今の学校のOBだってば」
 水嶋先生と言いそうになって焦ったけれど、水嶋先輩なんて今まで一度も口にしたことがなかった分、妙にこそばゆい気持ちになった。確かに水嶋先生は星月学園の卒業生だから私にとっても先輩なんだけど、「先輩」って口にするとなんだかとても身近に感じる。
「水嶋先輩ねえ。年上なんだ?」
 ニコニコしている母に「……大学三年生」とだけ返す。これ以上余計なことを話すと絶対にボロが出そうだったから、少し早いけど家を出ることにした。ブーツを履いて玄関を出る私に「デート楽しんできなさい、水嶋先輩と」と母が見送ってくれたんだけど、これはもう、なんて言い返しても「デート」だって信じ込んでしまってるから無理かも。
「だから、デートじゃないったら! もうっ、行って来ます!」
 無駄だとわかっていても言い返して、昼下がりの道を歩いて約束の場所を目指すべく電車を乗り継ぐ。外の空気は肩に余計な力が入りそうなくらいとても冷たくても、午後の暖かい日差しが差し込む電車はなんだかとても心地がいい。ゆらゆらと揺られているとうっかり眠くなってしまう程なんだけど、睫毛に刺さる太陽が眩しいくらいなので丁度良かった。
 そんな心地よさの中、どことなく落ち着かない気持ちを胸に駅の改札を出る。年が明けて二日目だというのに駅前には大勢の人が行きかっていて、中には着物を着ている人や破魔矢を持つ人といった新年ならではの光景が広がっている。
 時間は一時四十五分。ちょっとだけ早いからまだ水嶋先生はいないだろうな。
 そう思っていたけれど、待ち合わせの場所に背の高いすらっとした姿を見つけたとき、胸の鼓動が一瞬だけ大きく跳ねた。
 ――うそ、水嶋先生もう来てる!? だって、十五分前だよね?
 思わず立ち止まってしまった私に気づいたのか、先生は軽く手を挙げて笑顔を見せる。
 「こっち」とその唇が動き、私は慌てて足を進める。
「水嶋先生、早くないですか?」
「女の子を待たせるわけにはいかないからね。それに、月子ちゃんだって早いじゃない」
 灰色のコートに黒のニット。そこから覗く白のシャツがとても映える。それにすっきりとした黒のパンツが水嶋先生の足の長さを際立たせている。襟元にたっぷりとした黒のマフラーを巻いていても重くなりすぎず、無駄のないシルエットはそれこそモデルのよう。三ヶ月もの間毎日顔をあわせていたのに、目を合わせるのがなんだか恥ずかしい。
「わ、私は……私も水嶋先生を待たせるわけにいかないと思って」
 確かにそれは本当のことだけど、母にデートとからかわれたから早く家を出てきたなんて言えない。それこそ水嶋先生にからかわれてしまう。
「早く僕に会いたかったからっていう答えを期待したんだけど、まあいっか。待たせないようにって早く来てくれてありがとう。相変わらず君は可愛いね」
 優しく微笑まれて私は首を振る。なんだろう、笑顔までとても優しく見える。その笑顔が私の記憶にあった水嶋先生のイメージとは少し違っていて、余計に胸をドキドキさせる。
「えっと……あの、今日は誘ってくださってありがとうございます。実は、私もちょっとだけ退屈してたところだったから、嬉しかったです」
 退屈でどうにかなりそうといっていた水嶋先生ほどじゃないけれど、どこを見ても同じようなテレビ番組に飽きていたのは確かだった。
「僕のほうこそ我がまま言ってごめんね。でも、こうして君に会えたんだから我まま言うのも悪くないな。実際、会うのって……」
「最後の教育実習の日以来ですね」
「だよね。でも、久しぶりって感じがしないな」
「だって、まだ一ヶ月だから」
 私が笑うと水嶋先生は一瞬きょとんとした顔をしたけれど、そのあと「それもそうだったね」と楽しそうに笑う。
 水嶋先生と会うのはたった一ヶ月前のことなのに、その笑顔が……というより雰囲気が大分柔らかくなったのは気のせいかな。さっきもそう思ったけれど、やはり印象がちょっとだけ変わって見えた。
「ここで立ち話するのもなんだし、せっかく早めに会えたんだから移動しようか」
 そう言って差し出された大きな手のひら。私にはそれが何を意味するのかわからなかったんだけど、水嶋先生はふっと笑って催促をした。
「手、貸して。これからもっと人が多くいる場所に行くんだから、迷子になっちゃうよ」
「あの、どこに行くんですか?」
「ここはベタに初詣といったところかなと思って。もうお参りしちゃった?」
「いえ、まだです」
 いつもだったら幼馴染みの哉太と錫也の三人で初詣に出かけるのが恒例になっているんだけど、まさか水嶋先生と一緒にお参りすることになるなんて思いもしなかった。
「じゃあ、最初のデートコースは初詣っていうことで」
「で、デートって……!」
「細かいことは気にしない。とりあえず呼びやすいから今日のはデートってことで。ね?」
 どういう理屈なんだろう、と少し躊躇ったけれど、私一人だけが変に意識しすぎてても仕方がない。微笑む水嶋先生の手の上におずおずと手を預けた。
 思っていたよりも暖かい手のひらが私の指先を、手を優しく包む。
「……よ、よろしくお願いします」
 こちらこそ、と言う水嶋先生。男の人の手って大きいんだな、なんて思ったらどんどん胸がドキドキしてきた。考えてみれば、こうして男の人の手を握るのって今まで殆どなかった。でも、それも仕方ないかも。だって今までデートなんてしたことがないから。誰かに恋をしたこともなければ、恋人として付き合ったことだってない。
「ねえ、月子ちゃん」
「はい?」
「今、緊張してるでしょ。もしかして、デートするの初めてとか?」
 水嶋先生は冗談で言ったんだと思う。だけど、からかうような笑顔で言った水嶋先生のひと言は見事にど真ん中を射抜いていて、思わず言葉に詰まってしまった。勿論、水嶋先生はそんな私の反応を見逃すはずがなく、少し驚いたように目を丸くして私を見つめる。
「え……本当に?」
 なんだか恥ずかしくて俯くと、まだちょっと驚いているような水嶋先生の声が頭上から聞こえる。
「男と付き合ったことは? まさか学園にあれだけ野郎がいるんだし、一度ぐらいは――」
「な、ないです。そういう人、今まで一度もいなかったから」
 なんだか顔を上げづらいな。
 熱くなった額に指先を当てたままでいると、繋いでいる手に軽く力が入った。
「じゃあ、月子ちゃんの最初のデートの相手は僕ってことになるんだ」
「そう、ですね。――あ、でもデートって恋人同士がするものですよね? だから正確にはデートっていうのとはちょっと違うと思いますよ?」
 言ってからしまったと思った。こんなことを言ったらきっと「お子様」って笑われるに違いないだろうから。
 でも、水嶋先生はいつものようにはからかわなかった。
「なら、今日だけ恋人同士になってみる?」
 私の顔を覗き込む水嶋先生が淡い笑みを見せる。
「どう? 星月学園のお姫様」
「ま、また水嶋先生は……。それに恋人同士って言っても私――」
 水嶋先生に恋をしていない。
 そんな私の気持ちを読んだのか、水嶋先生は長い指を揃え、その先を私の唇に押し当てた。それは、声にしないだけでそう呟こうとする私の言葉を止めたようでもあり、ちょっとした心の魔法をかけるかのような仕草でもあった。
「今から僕は君の彼氏で、君は僕の彼女。一日だけの特別な恋人ごっこをしよう。僕と一緒にいるのが嫌でなければ、だけどね」
 そっと離れた指先を目で追いながら少しだけ考え、そして少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
「その……嫌じゃないです。水嶋先生と一緒にいるの、全然嫌じゃないですから。でも恋人同士となると……」
「月子ちゃん、今好きな人はいないんだよね?」
「えっ!? は、はい」
「で、付き合っている人もいなければ、僕のことも嫌いじゃない」
「……はい」
「なら僕の提案に乗ってみるのも手だと思わない? 太陽の光が降り注ぐ中、学校以外の場所でこうして二人きりで会ってるってとってもいいシチュエーションだと思うんだけどな。これから君がどんな男と付き合うのか僕はわからないけど、デートっていうのはこういうものなのかって、年上の男を相手にお勉強するのも悪くないと思うんだけど」
「お勉強って……。水嶋先生、また私のこと子ども扱いするんですね」
 水嶋先生に子ども扱いされるのは、どうしてかなんとなく面白くない。それに、からかわれてばかり、いじめられてばかりってなんだかちょっと悔しい。考えてみたら、そんなに大きく年が離れてるわけじゃないのに。たったの四歳じゃない。
 そういう思いが頭の中で育つと同時に、水嶋先生の挑発とも言える言葉が私の心に小さな火をおこした。
「恋も、男とデートもしたことがないんじゃ、そう思われても仕方がないと思わない? ましてや『ごっこ』さえも嫌だなんて言われたら――」
 からかうように笑いながら私を見るのは相変わらず。それに何度頬を膨らませてきたかわからないけど、今日も頬が膨らんでいくのを私は止められない。
 ――ああもうっ! こうやってすぐに膨れるから子どもだって言われるのぐらいわかってる! わかってるけど……わかってるけど、黙ったままじゃいられない!
「……わかりました。『ごっこ』なら受けて立ちます! だけどごっこですからねっ。今日一日だけですっ!」
「あれ、怒っちゃったのかな? 相変わらず頬を丸くさせて、可愛いね」
「怒ってません。というか、変に子ども扱いしないでください」
 頬を膨らませないように唇をぎゅっとむすぶと、水嶋先生はこらえ切れないといったように噴出した。
「はははっ、君ってばほんとに面白い。頑張って頬膨らませないようにしてるのが、また可愛い」
「水嶋先生!」
 私が頬を膨らませたら、先生、また噴出してる……。
「わかったよ、わかったからご機嫌を直して?」
 口元が緩んでいるのを私は見逃さない。
「む……。まだ笑ってますね〜」
「だって、君が膨れるからいけないんだよ」
「笑いすぎ〜……」
 こんなふうに珍しく、というか初めて手放しで笑う水嶋先生に少し驚いたけれど、こんな風に屈託なく笑うこともできるんだなって思ったら、なんだか少しだけ嬉しい気がした。
 心からの笑顔があるのはやっぱり気分が明るくなるし、見ている私まで段々嬉しくなってくる。
「ごめんって。じゃあ、一日だけ恋人ってことでいい?」
「は、はい」
「ありがとう。それじゃ改めてよろしくね、月子」
 ついさっきまで声に出して笑っていたせいか、水嶋先生の表情が柔らかく感じられる。穏やかな声と優しい微笑みを向けられ、繋いでいたままの手に力が込められる。
 やっぱり先生の手は暖かいな、なんて思ったのは一瞬。
「よろしくお願いしま――えっ!? 今、名前っ!?」
 驚いて振り仰げば、水嶋先生は目を細めて私を見つめ返す。
「だって、恋人ごっことはいえいつまでもかしこまっていたらそれっぽい雰囲気にならないでしょ? 恋人なら名前で呼び合うのが一番しっくりくるじゃない。だから君も僕のことを名前で呼ぶように。僕も君のこと名前で呼ぶからさ」
「し、しっくりくるって言っても、いきなりじゃ無理ですっ!」
 ――だって、水嶋先生は水嶋先生だし、そもそも家を出てくる間際に「水嶋先輩」と口にしただけで恥ずかしかったのに、名前で呼び合うなんて無理……!
 顔だけじゃなく全身がかっと熱くなる私の耳元で、水嶋先生がそっと呟く。
「ここ、学校じゃないってこと気がついてる? 君から先生って呼ばれるたび、なんとなく周りの視線が、ね」
 言いながら水嶋先生は繋いでいる手に視線を落とす。
 確かに、正確には水嶋先生は実習期間を終えてるから先生ではない。そもそも先生と生徒はこんな昼間に外で会ったりはしないし、手だって当然繋がない。
 そう考えるといつものように私が『先生』って呼ぶのって、あまりいいものじゃないのかもしれない。
「わ、わかりました。それじゃ、水嶋さんって呼ぶことに――」
 水嶋さん。
 いつも水嶋先生って呼んでるのに、今日だけ『水嶋さん』。
 それでも十分恥ずかしいのに、水嶋先生はちょっとだけ面白くなさそうに私の言葉を遮った。
「郁。僕の名前は郁だよ。水嶋さん、なんてますます硬い呼び方してどうするの。ほーら、呼んで。呼ぶまで君の名前を連呼するよ、月子」
「こっ、心の準備が必要なんです!」
「君の準備が整うまで待ってたら夜になっちゃうでしょ。それとも……夜だけ僕の名前を呼ぶっていうなら、それはそれで構わないけど。勿論、場所はそれなりの場所を選んでくれるんだよね?」
 また私の耳元に唇を寄せて囁く水嶋先生の低音がやけに妖しく、私は慌てて首を横に振った。
「呼びます! 呼びますから! ……い、郁!」
 小さく、本当に小さく呼ぶのが精一杯だった私の声はかろうじて聞き取れる程のものだったと思うけれど、水嶋先生がそれで満足するはずもなく、意地悪な笑みを私に向けた。
「あれ、聞こえなかったな。もう一回。ちゃんと呼んでよ、月子」
 わざと私の名前を呼ぶ先生の表情は私と違って余裕そのもの。女の子の名前なんて平気で呼べるんだと思ったらなんとなく面白くなかった。……私、なんで面白くないなんて思うんだろう?
「……意地悪です」
「今更でしょ」
「そうでした。でも、私……い、郁の意地悪には負けませんからね!」
 本当は俯きたいくらいだった。ストレートに呼ぶのは恥ずかしくてどさくさまぎれに一気に名前を呼んでしまったけれど、それでもやっぱり恥ずかしかった。
 だけど俯かずにいられたのは、なけなしの根性とか努力とかプライドとやらを総動員させたからだ。
 そんな私に水嶋先生……ううん、郁は満足そうに微笑み、よしよしと子どもを褒めるかのように前髪の辺りを撫でた。
「ちょっとごまかされてる気もしないではないけど、及第点かな。よくできました、月子」
 こういう風に頭を撫でられるのは悔しいはずなのに、嬉しそうに微笑まれると反抗さえもできなくなる。それどころか、ちょっとだけ嬉しいかも、なんて思ったりする自分がいる。
「クセで、水嶋先生って呼んじゃうかもしれませんけど……」
「それでも君のことだ、頑張って名前呼びなおしてくれるって思うから、ちょっとだけ目をつぶってあげる」
「水――あ……郁って、実は優しかったりしますか?」
 私の言葉に郁は意外そうな顔をして瞬きを繰り返したけど、さりげなく私に手を差し出して笑った。それはとても優しい笑顔だった。
「単刀直入に聞くね。優しいか優しくないかは、今日一日月子が自分で確かめてみるのはどうかな。やっぱり意地悪だった、って言われそうな気がしないでもないけど、それでもまあ……これから一日よろしく」
 差し出された手に再び自分の手を預けた時、胸の奥が小さく不思議な音を立てた。
 ――こんな風に笑えるんだ。
 今日郁と待ち合わせをしてからまだ大して時間が過ぎていないのに、私は何回そう思っただろう。
 一日限定の恋人ごっこ。そこには恋という名の感情はないけれど、こうして手を繋ぎ、同じ景色を見て、同じ時間を二人で過ごす中で、何かが少しだけ変わるような気がしてならなかった。その何かが何なのか、上手な言葉が見つけられないけれど、悪い方の何かじゃないことだけは確かだ。
 そう、砂の中の光る石でも見つけるかのような、不思議なときめきが待っていそうな気がして、変に胸が騒いだ。
「こちらこそ、よろしくお願いします――」
 ――郁。
 そっと見上げた郁の横顔。その向こうに見えるのは雲ひとつかかっていないきれいな空。
 私の視線に気づいて見せる郁の笑顔が、抜けるような青に映えて見えた。



(3)に続く
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