Starry☆Sky

夢見る頃を過ぎても【水嶋×月子】



 携帯が着信を知らせる。軽やかな音、けれどかなり賑やかなその着信音は僕のではなく琥太にぃの携帯だ。
 ここは放課後の保健室。保健室に似つかわしい病人、怪我人の姿はなく、いつもの面々……ここの部屋の主である琥太にぃ、陽日先生、僕、そして月子の四人で和やかにお茶を飲んでいたひとときだったのだけど、その妙に和んだムードを変えたのがこの一本の電話だった。
「あの、出ないんですか?」
 うるさい着信音をそのままに、なかなか出ようとしない琥太にぃに月子が遠慮がちに尋ねると、琥太にぃは観念したようにため息を一つ吐いて携帯を取る。
「もしもし」
 不機嫌をそのまま声にする。琥太にぃがここまで露骨な態度を取れる相手と言ったらやはり星月家の誰かなのだろう。琥春さんが相手であるなら面倒な仕事の依頼で、両親のうちのどちらかとなると間違いなく見合いの話だろう。もっとも、最近では琥春さんからも見合いの話を持ちかけられているようだけど。
 ――お気の毒に。
 どちらにせよ琥太にぃにとってあまりいい電話でないことは確かだ。僕は月子が淹れてくれたかなり渋いお茶を口にし、思っていた以上のその渋さに思わず眉を顰めるけれど、琥太にぃは僕の倍渋い表情を浮かべている。
「…… ああ、わかってる。わかってるよ。けれど何回も言わせないでくれ。その話を持ちかけられても良い返事はできない。そもそも今は仕事中なんだ、こういう話は控えて欲しいよ。姉さんにもそれは伝えているはずだ。まったく……二人とも、もういい加減懲りて欲しいですね、俺としては」
 険を含んでいるけれど、完全に突き放してはいないその口調。これはおばさん……つまりは琥太にぃの母親からだろう。
「……また見合いの話か?」
 陽日先生が苦笑いを浮かべて小声で言い、僕と月子に目配せをしてくる。月子は困ったように曖昧な笑みで小首を傾げ、僕は「そうみたいですね」と肩を竦めた。
 まだ正式な発表はされていないけれど、琥太にぃはこの星月学園の正式な理事長となる。彼の姉である琥春さんが海外を拠点にして仕事を始めたいと切り出したのが事のきっかけだったんだけど、元々琥春さんの理事長職の手伝いをしていた琥太にぃは、遅かれ早かれ理事長の座に着くことは明らかだった。星月の家の者として、それも長男とあれば仕方のないことなのだろう。いわゆる世襲制というやつだ。
 二十代半ばにして学園の理事長職に就くことにより圧し掛かる責務、そして理事長となったら生徒達と接する機会が少なくなるかもしれないということから、本人もぎりぎりまでその職に就く事を延ばしていたけれど、とうとう覚悟を決め、受け入れることを決意したらしい。なんでも保健医を兼務することを条件にしたようだ。
 電話を切ったあと、深いため息を吐き、頭痛持ちがそうするように自分の目元を片手で覆うようにしてこめかみを押えた。
「またお見合いの話? 懲りないね、おばさんも」
 苦笑する僕に、まったくだと琥太にぃは疲れた様子で答える。
「理事長になるんだから支えてくれる人が必要になるでしょう、だってさ。その気持ちはわからなくもないが、本人にまるでその気が起きないんだから仕方がないだろうに」
 もう一度ため息を吐いて湯呑みを手にする。かなり渋いお茶を飲んだあと、長く瞼を閉じる琥太にぃに僕は冗談言う。
「いっそお見合いしてみればいいんじゃない? その気が起きるかもしれないしね」
「み、水嶋先生!? お見合いって!」
「どう気持ちが変わるかわからないじゃない。結婚に結び付くかもしれないし」
「結婚だなんて、そんな……」
 僕の向かい側に座っていた月子が目を丸くしてる。結婚なんて高校生にはまだまだ遠い話だろうから驚くのも無理ないかな。
「そんなに驚くことでもないと思うけど。琥太にぃだってもう二十六なんだし、この年で結婚している男性なんて世の中にたくさんいるよ。……それとも、月子ちゃんがもうちょっと大人になったら琥太にぃのお嫁さんになる? 理事長夫人なんて玉の輿だし、好条件じゃない」
 すると月子は「またそういうことを言う」と非難するような目で僕を軽く睨む。仮にも付き合っている彼女に対して言うべき言葉ではないのはわかっているけど、ついついからかいたくなってしまう。あとで損をするのは自分だとわかっていてもだ。
 それに、月子と付き合っているとはいっても一ヶ月間という期間限定の恋人ごっこだ。先月の学園祭から始まった僕達の短い付き合いは、あと少しで終わりを迎えようとしている。
 恋愛はゲームだと言う僕と、互いを思いやり信頼しあうことが恋愛だと言い張る彼女。時間がありすぎて毎日暇な教育実習生活を送っている僕にとって、絶対に負ける気がしないゲームに乗っかるのはちょっとした暇つぶしの一つだった。気が遠くなるほどの時間を適当に潰せればいいし、僕が勝てばきれい事に過ぎない彼女の言葉を打ち崩すことができて清々する。
 ――じゃあ僕が負けたら?
 それは考えていない。そもそも僕の考えを覆すことができるなんて思ってもいないから。高校生の女の子に、それも恋を知らない女の子に僕の何を変えることができる? 僕はそう信じて疑っていなかった。今まで誰にも感じなかった人を信じるという気持ち、暖かな感情とやらをこんな小さな女の子から見出せるはずがないと思っていたから。
「おー、琥太郎センセと結婚したら確かに玉の輿だよな。いいんじゃないか、夜久。琥太郎センセだったらきっと楽させてくれるぞー」
 僕を軽く睨んでいる月子に、陽日先生が横から明るく笑う。
「陽日先生、私、毎日大掃除する結婚生活は望んでいません」
「そうか? 今と大して変わりないだろうし、俺としては楽だから頼みたいところだな。どうだ、考えてみるか夜久。大金持ちというわけにはいかないが、そこそこいい生活はさせてやれるぞ」
 琥太にぃも月子をからかって笑っている。なんだかんだで僕達三人の大人の可愛いマスコットの彼女は、僕だけじゃなく他の二人からも時々からかわれては頬を膨らませている。それが年相応に子どもっぽくて可愛いものだから、余計にからかわれる原因になっているということを彼女は気づいていない。今もまた頬を丸くしている。
 ちょっとご機嫌斜めな猫のようで、可愛い。
「もうっ、それだったら家政婦で十分じゃないですか」
「そうとも言えるな」
「そうしか言えませんよ!」
「まあ、そうぶちゃむくれなさんな。ほら、まずい茶でも飲んどけ。落ち着くぞ」
「……それ、私が淹れたんですけど」
 笑いが起こる中、ふと琥太にぃは表情を変えてぽつりと呟く。
「夜久には、お前を大事にしてくれる奴が必ず現れる。暖かく優しい時間を共に過ごせる男がきっと現れるだろうから、そういう奴を見つけたら大事にしろよ。その手を離しちゃいけない」
 どこか達観していて、けれど何かを諦めているようなその表情を見て僕は思う。
 琥太にぃにもそういう誰かが必ず見つかるはずなんだ、と。けれど琥太にぃは自分で自分の時を止めてしまっている。僕と同じように、姉さんが亡くなったあの日から心の時間を止めてしまった。
 一人でいるのが嫌で常に誰かを求めるくせに、心には近づけさせないと琥太にぃは僕のことを言ったけれど、なら琥太にぃのほうが性質が悪いと僕は思う。最初から大切な誰かを求めていないし、その心に誰にも近づけないよう壁を作っている。彼は僕よりも大人だから、その壁がどれほど厚いものかを回りに気づかれないように上手く立ち回っているけれど、昔から彼を知っている僕はごまかされない。
 ――お互いに難儀なものだね。
 互いによく知り合っているのに深い所に立ち入ることができない。知っているからこそ言えない。触れられない。痛い所に触れたところで互いに傷を深め合うだけなのを、僕達は良く知っている。


 笑い話を終えたあと、それぞれが自分の成すべきことをするために席を立った。琥太にぃは山のようにある書類を片付けるために。陽日先生は職員会議のために。僕と月子は――恋人としての時間を過ごすべく屋上庭園へと向かった。
 二人揃って屋上へと向かうのは珍しいことだった。今まではどちらかが先に待っているというパターンが殆どだったから、彼女と共にこうして階段を上ることがなんだか新鮮で……胸の奥がやけくすぐったい。変な感じだ。
 こういう青臭い感情が起こるのは毎日年下の子どもの相手をしているからなのか、それとも彼女の純粋さに感化されたのか。どちらにしても以前の僕が今の僕を見たら笑ってしまうだろう。いや、呆れて声も出ないかもしれない。
 そんな胸のうちをごまかすべく、僕は隣を見ずに声を掛ける。
「足元、気をつけなよ」
「え、あ……はい」
 最近では変な硬さが取れ、大分僕に馴染んでくれたのかと思っていたけれど、隣を歩く彼女はどこかぎこちない。さっきから何も言わない分、そんな空気が伝わってくる。
「ねぇ、ひょっとして緊張してる?」
 試しに尋ねてみると月子はぎょっとしたように僕を見上げる。
「しっ、してないで――わ、えっ!?」
 よそ見したせいで一段踏み外した月子の身体がぐらっと傾く。咄嗟に手を伸ばした僕は彼女の腕を取り、なんとか事なきを得る。
「あぶない……。わかったよ、何も言わないから今は無事に階段を上りきること」
「う……。すみません」
「いいよ。こんな風に屋上に向かうこと、今までなかったしね」
 しゅんとうなだれた彼女が手摺に手をかけながら再び足を進める。とぼとぼと、でも転ぶまいと慎重に階段を上る姿がなんだか可笑しくて僕はついつい声にして笑ってしまう。
「転びそうになったら、また支えてあげるよ」
「だ、大丈夫です! 転ばないようにします」
 靴音を響かせながら僕達は屋上へと辿り着く。ドアを開ければ、目の前には夜の準備を始めたばかりの藍色の空が広がっていた。幾つか瞬く星々に目を向けたまま少し立ち止まり、それからいつもの場所でもある奥の方へと足を進める。冷えた手摺に掴まり、月子は夜空を見上げた。
「あっという間に夜空になってますね。保健室で話しているときはまだちょっと明るかったのに。それに、段々寒くなってきました」
 寒いという割に、彼女の横顔はやけに楽しそうなのが不思議だ。
「どうしたの、そんなにはしゃいで」
 そう尋ねると、彼女は僅かに躊躇ったあと、恥ずかしそうに微笑んで肩を竦める。
「一緒にここまで上ってこられたのが、ちょっと嬉しいんです」
「ただ一緒に階段上がってきただけじゃない。それに、さっきまで緊張してたのは誰だっけ」
 僕が笑うと、月子はそれもそうなんですけどね、とそれでもやっぱり嬉しそうに笑う。
 その笑顔を隣で見ているだけで、不思議なことに僕まで彼女と同じような気持ちになる。
 彼女がどうして笑うのか僕にはわからないけれど、それでもその嬉しそうな横顔を見ているだけで自然と笑みが浮かぶ。何が可笑しくて僕も笑顔になるんだろう。
 息を一つ吐いて星空を見上げると、不意に月子がお見合いかぁ、と呟く。
「星月先生、大変そうですね」
 さっきまで保健室で話していたことが気になるのか、彼女は少し考えるような表情を見せる。
「本当にお見合いしちゃうのかな……」
「気になる?」
 僕に顔を覗き込まれた月子は何度か瞬きを繰り返し、それから「はい」と小さく笑う。
「……へえ? 目の前に彼氏がいるのに、他の男が気になるなんてよく堂々と言えたものだね」
「えっ? あ、でも星月先生のことが気になるとかそういうのじゃなくて……って、確かに気になりはしますけど、変な意味じゃなくてですね!」
「じゃあ、どういう意味。僕にわかるように説明してよ」
 一歩間合いを近づける僕に、月子は焦った様子で首を振りながら言葉を続ける。
「お、お見合いってことは、結婚を前提にっていうこと、です……よね?」
「まあ、普通はそうだろうね。で?」
「結婚って、その……好きな人とするもの、です……よね」
 月子は少し恥ずかしそうに声を小さくして俯く。そのいかにも恋とか愛に幻想を抱いているような言葉と反応とに僕は思わず言葉を失う。そんな僕に月子は慌てた様子で口を開く。
「わ、私はそう思って育ってきたので、そういうものなんだって信じてるんです。郁には子どもだ、夢を抱きすぎだって笑われるかもしれないけど、でも……ちょっとぐらい今は夢を見させてください」
 照れたように、どこか拗ねたようなその表情がちょっとだけ可笑しかった。
「確かに夢を見すぎてると思うけど、女の子ならではの発想に蓋はできないよ。ただ……」
「はい?」
「ちょっと幼すぎとは思うけどね。そういうのって、君ぐらいの年の子でも思うんだ?」
 からかうようにして笑みを浮かべると、彼女は「悪かったですね」と頬を軽く膨らませて恥ずかしそうにしている。けれど、それも僅かな間だけで、突然何かを思い出したように小さく笑う。
「……錫也と哉太のお嫁さん、か」
 突然彼女が言い出した言葉の意味がわからなくて僕は思わず彼女を見つめた。
「え?」
「今でも覚えてるんです。小さい頃に私、幼馴染みの二人にそう言ってました。錫也と哉太のお嫁さんになる、って。どっちも選べないからどっちとも結婚するんだ、って」
 楽しそうに、そしてどこか懐かしそうに遠くを見つめる月子につられるようにして僕も目を細めた。
「よく聞く話だよね、そういうの。っていうか、本当にそうなりそうとか?」
 すると月子は笑いながら首を振る。湿度がまるでないからっとした風が彼女の髪をふわりと舞い上げて通り過ぎていく。
「なりませんよ。二人は大事な幼馴染みだし、それにこれは小さい頃の話です。あの頃と今では違います」
 月子の横顔を見ていて思い出したことが一つ。以前、姉さんも同じようなことを言ってたっけ。
 ――うんと大人になったら、琥太にぃのお嫁さんになってあげる。いっぱい琥太にぃに優しくしてもらったから、今度は私が琥太にぃのそばにいてたくさん優しくしてあげるね。
 雛鳥が親鳥に懐くように幼い僕達はいつも琥太にぃについて回っていたし、そういう親しい者を特別に思う気持ちは別に変わったことでもないだろう。
 けれど、琥太にぃを特別と思う姉さんの気持ちは、大人へと徐々に成長をし始める頃にも変わることはなかった。琥太にぃを見つめる姉さんを近くで見ていた僕にもそれはわかっていた。
 ほんの小さな子どもの頃から亡くなる間際まで、琥太にぃにを想っていた姉さん。ずっと一人を想い続け、その想いが相手に届かなくても、想っているだけで幸せだと笑っていた。今思い出しても、姉さんのその笑顔に嘘は見えず、本当に幸せそうな顔をしていた。
 でも、僕にはわからない。ただ誰かを想っているだけで幸せな気持ちになれるなんて、今の僕には全然理解できない。
 想っても報われないのに、それでも相手を想い続ける価値が一体何処にあるんだろう。
 わからないよ、僕には全然。
 想うだけ? 
 そんなの無駄じゃないか。人は自分勝手だ。どんなに愛だの恋だの信じてるなどとそれらしい言葉を重ねても、いつか離れていく。
 近づくだけ近づいて、残酷なほどにあっさりと離れていくじゃないか。
「……恋に夢を抱くお姫様は、一体どんな人と結婚するんだろうね」
 気がつけばそんな言葉を呟いていた。
 少なくとも僕じゃないことは確かだ。そもそも恋や愛を信じておらず、それどころか利益や価値を見出すなんて考え方をする僕に誰かを幸せになんてできそうにない。月子の理論では愛だの恋とやらは自然と湧き上がる感情なんだろうし、それがまったくわからない僕には大切な誰かを見つけることはおろか、その人の隣でずっと笑っていられる未来なんて想像もつかない。
 僕は一人でいる方がきっと似合っている。そうすれば誰かに裏切られることもないし、誰かを裏切ることもない。
 一人でいるのが怖いくせに、一人でいることを望むなんて矛盾してるけど、それが誰にとっても最善の方法だ。
「どんな人って……私にもわかりませんけど、でも、一つだけわかるかも」
「何?」
 僕のほうへと視線を向け、それから彼女は笑った。
「好きな人と結婚します。大切な誰かと……ずっと一緒にいたい、守っていきたいと思う誰かと。郁は違うんですか?」
「……違うんですか、って聞かれてもね。恋愛はゲームだと言う僕にそういう未来があると思う?」
 聞かれた事に対して逆に聞き返す。こうしてはぐらかすしか僕にはこの問いに答えられる言葉が見つからない。
「あると思います」
 月子は優しく微笑んで言った。どこにそんな自信と根拠があるのかわからないけど、はっきりとそう言い切ったのを見て、僕は少々面食らいつつも苦笑する。
「たいした自信だね」
「だって、そう信じてるから。今はそう思えなくても、いつかこの先大切な誰かと出会って、その人とずっと一緒にいたいと郁が思えるような日が来るって私は信じてるから。幸せに笑える日がきっときます。今はそんなふうに郁が思えなくても、その分私が勝手に思ってます」
「……そう。勝手にしたらいいんじゃない――と、言いたいところだけど、月子は気づいてる?」
「何ですか?」
「それって早くも負けを認めたようなもんだよね」
「え……?」
「僕の考えを変えるのは自分には無理だ、って言ってるのと同じなんだけど」
 きょとんとしていた月子が、はっとしたような顔をする。
「ち、違います! 今のはそういう気持ちでいるっていうことで、できないっていう意味じゃありません!」
「そう? あと少し期限は残っているけど、君はもうこのゲームを下りちゃうのかと思ったよ。まあ、別にそれはそれで構わないけどさ」
 薄く笑いながら僕は思う。僕の幸せを望むと言う彼女は、表面上の言葉を投げるだけの偽善者なのか。
 それとも、ただ素直に僕のことを思って言ってくれたのか。
 ――……なんて、この表情で一目瞭然か。
 真っ直ぐな目をしてる。その目と同じく、上手に立ち回ろうなんてまるで考えていないような真っ直ぐな気持ち。それが僕にはちょっとだけ眩しくもあり、羨ましくもある。
「私は下りませんよ。それに、そういう意味じゃなくて、あの……まだ負けたなんて思ってませんから。今のは……そう、た、たとえ話ですっ!」
 うろたえる彼女に僕は顔を近づける。
「たとえ話……ね。それにしてはやけに力説していたようだけど」
「そ、れは……今は郁の彼女だからです」
 奥歯を噛みしめるようにしたあと、彼女は言葉を紡いだ。
「へえ? 期限はあと僅かだよね。それが過ぎたら彼女じゃなくなるよ」
「それでもです。こういう気持ちに期限なんて関係ないです。……郁、誰だって幸せになれるチャンスはあるんです。自分からそのチャンスを手放したり、目を逸らしちゃ勿体ないと思います。私はまだ子どもかもしれません……ううん、子どもだと自分でもわかってます。だけど、夢を見たらいけませんか? 信じちゃいけませんか?」
 どこか少し怒っているような顔で僕を見つめ返す月子との間を――なぜだろう、もう少しだけ縮めたくなった。腕を掴み、そっと引き寄せたら、その華奢な身体から彼女の心の温かさが伝わってきそうな気がしたからだ。
 そんなことを思う僕を、もう一人の僕がバカじゃないか? と笑う。こんな年下の女の子に何を心惑わされているのかと。だから彼女へと伸ばそうとした手が途中で空を掴む。
 けれどもう一人の僕が言う。
 彼女は特別なんじゃないか。
 信じてみてもいいんじゃないか。
 彼女の手の暖かさは、嘘じゃない。
 黙ってただ手を握るだけの付き合いに安らぎを感じているのは、一体誰。
 そんな二つの声が僕の頭の中で響く。
 ――面白くない。なんだよこれ。全然面白くもなんともない不愉快なゲームだ。
 そんな不機嫌な気持ちと裏腹に身体が自然と動く。それこそ思ってもみないほどに。
「え――い、郁!?」
 僕の腕の中にすっぽりと収まる身体をそっと抱きしめながら、深く息を吐く。
「君は嫌な子だね。面白くもない正論ばっかり吐いてさ。……子どものくせに、生意気なんだよ」
「なに、するんですかっ。人が来たらどうす――」
 突然抱きしめられたことと、もし人が来たらという二つから月子は僕の胸を押し返して抵抗をする。
「これ以上何もしないよ」
「でもっ!」
 だから、少しだけ黙っててくれない。
 堪えている何かを内側からそっと吐き出すように囁くと、やがて月子は抵抗するのをやめて大人しくなる。
「郁……どうかしたんですか」
「どうして」
「ちょっと、辛そうです。……ちょっとだけ」
 僕の胸元辺りにあった月子の両手が何かを掴むようにぎゅっと握られる。そんな彼女の身体を、僕はもう少しだけ力を入れて抱きしめる。
「気のせいだよ」
「そう、ですか」
「そうだよ」
 足元を乾いた風が吹き抜ける。やっぱり山間部の風は冷たい。かさかさと落ち葉を舞い上げ、頬や首筋、彼女の髪を撫でては、残り僅かな秋を急ぐかのように通り過ぎていく。
 退屈な毎日がずっと続いていくものだと思っていた。
 ここに――星月学園に教育実習生として来たことだって別に何かを期待していたわけじゃない。
 何も変わらない。変われるはずがない。
 そう思っていたのに――。
「君は……」
「はい?」
「本当に、調子狂うよ」
 ため息と共に瞼を閉じる。そんな僕の背中へと月子は躊躇いがちに手回し、まるで子どもを宥めるかのように背中を撫でる。
 まさかそうされるとは思わなかったので驚いた。
「君――」
「ご、ごめんなさい。あの……でも、少しだけ……です」
 少しだけ。
 そう囁く声が胸に暖かかった。声だけじゃない。抱きしめている彼女の身体も、僕の背中に触れている手から温もりを感じられ、胸の奥がちょっとだけ軋んだ。
 抱きしめているのは僕なのに、大きく包まれているのは僕のほう。
 そんな月子の暖かさに包まれながら、僕はぼんやりと思った。
 いつか僕じゃない誰かを包むであろう彼女のことを。こうしていることが遠い記憶になるであろうことを。
 月子の笑顔も、幸せも、この手のぬくもりも、いつか彼女を心から大切に想う誰かのものになる日が来るだろう。
 今はこんな風に僕を包んでくれているのに。笑ってくれているのに。
 ――バカみたいだ。ほんと、僕は一体何を考えてるんだろう。
 もうすぐでこんな恋人ごっこは終わりを迎える。最初から期間限定のはずだったんだ。
 わかってる。
 全部わかってる。

 ――わかっているはずだった。

 こんなはずじゃなかった。
 離れることが少しだけ惜しいと思う日が来るなんて、思いもしなかったんだ。



End.
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