昨日から降り続いた雪は今日になっても振り続いていた。
寮から学校までの道のりは白く、まだ誰にも踏まれていない雪に時折足をとられそうになりながら、それでも何とか教室までたどり着くことができた。
「おはよう、月子。転ばなかったか? 結構積ってたけど、まだまだ止みそうにないな。いつまで降るつもりなんだか」
笑顔で迎えてくれた錫也が、窓の方へと視線を向けてその目をすっと細める。
「おはよう。ホント、どんどん降り積もっていくって感じだね。あたりがどんどん白になっちゃう」
同じようにして視線を向けると、重い灰色の空の中を舞う雪が視界一面に見える。灰色の中に白があるというより、白の中に時折灰色が見えるといったようなこの景色。そんな白の世界の中にいると時の流れが遅く感じるような不思議な錯覚に陥る。
あれから二ヶ月が経ったなんて嘘のよう。
季節は秋を過ぎ、冬に変わった。
三ヶ月間という教育実習を終えた郁――水嶋先生は十一月いっぱいでこの星月学園を後にした。
最後のホームルームで「退屈だらけの毎日の中、とても大切なものを得られたと思っています」と言った時の笑顔は、ここに訪れたばかりの時とは少し印象が変わったように思えた。それは私の気のせいかもしれないけれど、少しでも水嶋先生が笑っていてくれるのならなんだってかまわないと私は思った。私はやっぱり水嶋先生には笑っていて欲しいから。
恋愛はゲームだと言う水嶋先生と、そんなものじゃないと言い張る私との間に生まれたのは、一ヶ月間の恋人ごっこというものだった。
この「ごっこ」の中で水嶋先生の気持ちを変えられることができたら私の勝ちで、そうじゃなかったら私の負け。
このゲーム、いままで恋を知らずにいた私に最初から勝ち目なんてあるわけがなかった。第一、相手は私より四歳も年上で、女の人の扱いにはとても慣れているような感じがあったから、そもそもが無謀な挑戦だったのだ。
水嶋先生だって、こんな年下の女子高生に負けるわけがないと思っていたからこそ持ちかけた話だったと思う。――絶対に負けないゲーム。
誰だって負けるゲームを吹っかけるわけもないし、挑戦しようとも思わないはず。私だってそれは同じだけど、勝つとか負けるとかじゃなく、水嶋先生に少しでも誰かを思ったり、思われたりすることは素敵なことなんだっていうのをわかって欲しかっただけだった。
確かに誰かに恋したこともないし、どこか夢を見ているところがあるのかもしれないけど、それでも誰か一人を特別だと思う気持ちは素敵なものなんだって私は信じている。どんなにからかわれても、そこは譲れない。
とはいえ、水嶋先生に上手い具合に乗せられてしまった感が無きにしも非ず。
手を握るところからたどたどしく始まった恋人ごっこは、いつの間にか私の心の中に不思議な感情を芽生えさせた。
水嶋先生はちょっと意地悪で、どこか斜めに構えていて、私を試すような言葉を投げかけてばかりの人。必要以上に急に近づいたかと思ったら、急に突き放したり。
つかみ所がなくて、最初は本当にわけがわからなかった。
どうして私にそんなことをするんだろう。
からかって楽しんでるだけ? でも、何が楽しいの?
そう思ったけれど、私を傷つけるような言葉を投げつけたあと、決まって水嶋先生は悲しげな顔をする。私が悲しい顔をすれば、先生はその倍悲しそうな顔で視線を逸らす。
本当に人を傷つけるつもりでいたのであればきっとこんな顔をしないはず。
きれいに笑うその顔が、時々寂しく見えるのはどうして?
その「どうして?」がたくさん増えていったとき、私は水嶋先生に恋をしていることに気がついた。
気がついたと同時に一ヶ月間の恋人ゲームは終わりを迎えた。ううん、本当は期限なんかこなくても私が恋に気づいた時点で本当は負けだった。
何よりどんなに試されようとも、きつい言葉を浴びせられようともけして水嶋先生から逃げちゃいけなかったのに、私は逃げてしまった。先生の気持ちを知りたい、その心に近づきたい、そう思うのなら……彼に恋してしまったのなら、尚更逃げちゃいけなかったのに、私は自分の保身を少しでも優先させてしまった。彼に近づくだけ近づいて、最後には逃げてしまったのだ。
恋する自分の気持ちを傷つけられたくなかった。これ以上裏切られたくなかった。
――私が弱くなかったら、結末は幸せなものに変わっていた?
水嶋先生の実習が終わる間際に……最後に話したことを私は昨日の事のように思い出せる。
もっと強かったらと自分を責める私に、「君は悪くないよ」と先生は言った。君は十分強い、と。ただ受け入れられなかった自分が弱いだけと水嶋先生は悲しく笑った。
私は涙が止まらなかった。悲しかったし、悔しかった。
どうして逃げ出してしまったのか。水嶋先生が私を試そうとして他の誰かを代わりに呼び寄せた時、どうしてもう少しだけ気持ちを強く持って彼を信じてあげなかったのか。
どんなに悔やんでも、今となってはもう過ぎてしまったこと。全部終わってしまったんだ。
だけど私は忘れていない。虫がよすぎる話だけど、それでも忘れない。
あんなに泣いた日のことも、彼を恋しく思うこの気持ちも、最後にしたキスの感触も、全部。
「夜久、トイレ長すぎだっての!」
移動教室の時間、待っていてくれた梨本君や橘君が遅れて合流した私を笑う。
「と、トイレじゃないもん! 忘れ物しちゃったんだってば」
「へへっ、真っ赤になって怒るなよ〜」
「なってませんー! もうっ、デリカシーがないなぁ」
「それは悪い、悪い」
「……悪いと思ってる口調じゃないよ、それ」
「ばれたか」
笑いながら階段を下りた視線の先には保健室の看板が小さく見えた。
あんなに毎日のように通っていた保健室が、今ではとても遠くに感じる。
三ヶ月という短い期間に起きたたくさんの出来事は、あの保健室を中心に起こっていた。星月先生、陽日先生、水嶋先生の三人の大人に囲まれ、他愛のないことで盛り上がり、笑いあったことはつい最近のことだったのに、遠い遠い記憶の中のことのようにも思える。
あそこに行くと楽しかったことばかりを思い出してしまうし、もうそこにはいないはずの水嶋先生の姿を探してしまう。
それに、水嶋先生の話が出たら平気な顔をしてやり過ごせる自信なんて私にはなかった。悔しいけれどやっぱり私は子どもで、上手に自分の感情をコントロールできる術など知らない。
だから保健係として必要があるとき以外は極力立ち寄らないようにした。そんな私に星月先生は何も言わなかったし、陽日先生も最初のうちは「最近来ないけど、どうした?」、「たまには顔を見せろよ」と気遣ってくれたけれど、いつからかその言葉も聞かれなくなった。
――二ヶ月しか経ってないのに。
こうしていると、あのドアを開けて水嶋先生がふらっと出てきそうな気がしてならない。そして、こちらに気づいたら「これから授業?」と笑ってくれそうで――瞼が熱くなる。
「夜久? 夜久どうした、急に立ち止まって」
柑子君の声で我に返り、私は小さく首を振った。
「あ……ごめん、なんでもないよ。行こう、遅れちゃう」
「トイレが長かった夜久に言われたくなーい」
「ひ、ひどーい!」
梨本君の茶化す声に皆が笑う。私もちょっとだけ涙で歪んだ視界と気持ちをごまかすべく笑顔を作った。
ちゃんと笑えているかどうかわからないけど、それでも精一杯笑った。笑っていれば泣かないで済むような気がしたから。笑っていないと気持ちも、この両膝も冷たい床の上に崩れ落ちてしまいそうだったから。
保健室近くの廊下を通り過ぎる寸前、微かにドアの音が聞こえたような気がするけれど、私は振り返らなかった。
放課後、私は雪降るこの寒い季節に、額にうっすらと汗をかきながら校内のあちこちを探し回った。
生徒会長が一樹会長から颯斗君へと代わり、慌しく引継ぎも始まった。……のに肝心の一樹会長は生徒会室にいない。なぜなら翼君を探すために旅に出てしまったからだ。
遠くで爆発音を聞いて嫌な予感がしたんだけど、それは案の定当たりで、一樹会長はその爆発した場所が……というか翼君が何処にいるのかを探しに出かけてしまったのだった。
出かけてから随分経つし、卒業式までの残り時間が限られている分引継ぎもなかなか進まないんじゃどうしようもない。
私は一樹会長と翼君を見つけるべくあちこち走り回ったんだけど、なかなか二人の姿がみつからない。
本当にどこにいっちゃったんだろう。
そんなこんなで、荒い息を吐きながら私はとうとう裏庭までやってきた。校舎を探して見つからないとなると後は外しかないんだけど、目の前にある白銀の世界には人影などまるでなく、真っ白な雪の上には足跡さえも見つからない。
「すごい……。ここ、誰も来ていないのかな」
二人を探すことを少しだけ中断し、雪を踏みしめながら足を進めると半ばほどの位置に足跡が一人分だけ見つかった。どうやら私が立つ位置とは逆の方から来て、そのまま引き返してしまったみたい。
「あ、残念。私だけかと思ったのに。……でも、一人分?」
生徒だったら絶対に何人か引き連れてきているはず。でもここにあるのは一人分で、しかもこれ以上先に進むでもなくこの位置で止まっている。
そのことがなんとなく気になりはしたけれど、私はこの足跡の人がおそらくそうしたであろうことを勝手に想像する。きっとこの白の景色と降る雪を見上げていたんじゃないか――って。
だってここは本当に真っ白で、全てを覆い隠してしまうような不思議があるから。
空へと顔を向けると、冷たい雪の粒が瞼や頬に舞い落ちる。
慌しい毎日を過ごしていたせいで、失った恋の悲しみに捕らわれて暮らす毎日を過ごさずにすんだけど、こうして真っ白な雪の中に立ち尽くしていると、自分の気持ちを奮い立たせていた何かが不意に外れそうになる。
「この雪……向こうでも降ってるのかな」
訳もなくふふっと小さく笑い、向こう――この空の向こうに住んでいる水嶋先生のことを想った。
先生の所も雪は降っているんだろうか。この空は広く、何処までも続いているけれど、この雪は水嶋先生のところにも届いている?
そっと手を伸ばし、降ってくる雪を手のひらで受け止める。一つ、二つ、三つ。数え切れないほどの雪の粒が手のひらに舞い落ち、透明な水滴へと変わる。
「……冷たい」
小さく息を吐けば、その吐息は白になって空へとゆっくり溶けていく。
一人ぼっちで見上げる雪はやっぱりなんだか切ない。胸が苦しくなるし、急に寂しさを感じる。身体の真ん中に大きな穴が開いて、そこに冷たい空気がどんどん入っていくような、なんともいえない虚しさがある。
――こんな気持ちだったのかな。ううん、もっと辛かったんだろうな……。
私は星月先生から聞いた水嶋先生の過去の話を思い出した。
大切だった双子のお姉さんが亡くなったこと。喉の病気にかかり歌が歌えなくなったどころか、バンドのメンバーまで水嶋先生のもとから去っていってしまったこと。一番辛いときに、彼を支えてくれる人が誰もいなかったこと。
「こんな風に、なにもない世界に一人だったのかな……」
水嶋先生の気持ちを思うと、もっと胸が苦しくなった。
支えてあげたかった。
彼から逃げてしまった私が今更何を思っても無駄だってわかっているし、調子が良すぎることぐらい誰よりも私自身がよくわかってる。でも、思わずにいられない。
郁を――水嶋先生を支えてあげたかった。
水嶋先生の気持ちを少しだけ分けてもらいたかった。笑顔の裏に時折見える悲しそうな表情も、人の気持ちを信じられないという辛く切ない心の裏側も、できることなら私が受け止めたかった。
癒すことが無理でも、そっとその傷口を押えてあげることぐらいはできたかもしれない。
好きだからそうしたかった。水嶋先生のことが好きだから、その心に少しでも近づきたかった。
でも私がしたことってなんだったんだろう。
恋愛はゲームなんかじゃないとただ言い張っていただけのような気がする。自分の考えだけを押しつけ、触れられたくなかった過去や心の傷口を広げるだけ広げ、結局逃げてしまっただけなんじゃないだろうか。
「ひどいよね……ひどいよ」
白の世界がぼんやりと滲む。頬を伝って流れるのは暖かい涙。
恋はただ甘くて柔らかいだけじゃなかった。水嶋先生の心に近づくということは、彼の心の痛みを理解することでもあった。
好奇心も過ぎると、手に負えなくなる――以前水嶋先生がそう言っていたけれど、それは本当だった。私には強さが足りなかった。大切な人を受け止めるだけの強さと勇気が足りなかった。
涙があふれて止まらない。堪えようとしても、私の中にあるなにかがあとから溢れてくる。
喉が苦しい。胸が痛い。ここは寒くて、冷たくて、誰もいない。どんなに泣いても誰かを困らせることがない分どこかほっとするけれど、でも一人はどうしてこんなに辛いんだろう。
大切な誰かを――たった一人の誰かがそばにいないのは、どうしてこんなに苦しいんだろう。
この苦しみは一体いつになったら和らぐのか、今の私にはわからない。
そういう日が本当にくるのかもわからない。
失った恋の苦しみはどうすれば忘れられるんだろう。
時が経てば忘れられる? それとも水嶋先生よりも大切な誰かを見つければ忘れられるの?
だとしたら私は忘れたくない。
こんなに胸が苦しいほど好きになった人を忘れたくなんかない。
「郁……」
もうここにはいない人の名前を呼んでも誰も返事をしてくれない。だけど私はもう一度その名前を呼ぶ。
――郁。……郁。
一番最初に名前を呼んだときの微かに甘い気持ちが胸の中に広がる。幼馴染みの二人以外の男の人の名前を呼んだのはあのときが初めてだった。初めてのことに胸が騒ぎ、やけに甘酸っぱい気持ちに心がざわめいたけれど、今はそれだけじゃない。私の中にあるのは間違いなく恋だ。
それは雪のように静かに心に降り積もり、いつ溶けるのかわからないけれど、それでもいいと私は思った。
溶けなくてもいい。忘れたくない。
私に恋を教えてくれた、初めての人。
今はまだ、何も忘れることなんてできない。
想い出になんて、できそうにない。
End.