Starry☆Sky

同じ夜空を見上げてる【水嶋×月子】



 思えばあっという間に時が流れたような気がする。
 夏が過ぎ去ってしまうことを寂しく感じたのはついこの間のことのようで、そこから一気に冬が来たという感じだ。
 でも、この三ヶ月間に起きたたくさんの出来事はとても大切なことばかりで、恋も知らずにいた私に、誰かを思う切なさを運んできてくれたのは秋の風と、背の高いすらりとした長身の彼だった。
 けれど、その彼――郁とは明日から別々の場所で生活をすることになる。教育実習期間を今日で終えた郁は、出会ったばかりの頃とは違い、清々しい笑顔でこの学園を去っていった。
 端正な顔立ちの人とは前から思っていたけれど、心からの晴れやかな笑顔を向けられた私は、そのきれいな笑顔が哀しいくらいに心に焼きつき、これからこの笑顔を近くで見られないと思うとぎゅっと締め付けられるように胸が苦しくなった。
 けれど、これで私達の関係は終わりなんかではなくて、むしろこれからがスタートといったところ。やっと心が通い合ったばかりなんだから、寂しがってなんかいられない。
 最後に強く抱きしめ合い、やっぱり見送りはいらないと笑う彼の背中を保健室で見送ってからまだ数時間しかたっていないし、センチメンタルにはまだ早い。
 ――うん、まだまだ! だって、これからなんだから。
 軽く頭を振って瞬く星々を見上げたのだけど、手すりを掴んでいる指先が冷たさを覚えたとき、気持ちは一変し急に寂しくなる。
「手……冷たいな」
 浮上させようと頑張るほど、なんだか空回りしてるみたい……。
 いつも二人で会っていたこの場所、屋上庭園に来ても、当然だけど郁の姿はない。暗い夜空には変わらず星たちが煌めいているけれど、それを見上げているのは私だけ。
「帰っちゃったんだもん、当然だよね……」
 ぽつりと小さく呟くと、小さく白い息が空を舞う。二人で会っていた場所にいるのは私一人で、白い息も当然一人分。もう、二人分じゃないんだ。
 意地悪を言ったり、でも優しく笑って手を繋いでくれる人がここにはいない。
 冷たい手をぎゅっと握り締めては一人を実感するなんて、ホント、ちょっと寂しすぎるよね。
「おかしいな、私……もう寂しくなってるなんて。さっきまだまだ、って頭を振ったのは誰だっけ……」
 苦笑だけが浮かぶ。今日郁が帰ってしまったばかりだから、彼が星月学園からいなくなってしまったことをあまり実感していないんじゃないかと思ったのに、二人でいた場所に来ると途端に寂しさを覚えるなんて、思い出ってちょっとだけ意地悪だ。
「郁、もう家に着いたかな」
 携帯電話で時間を確認してはもう一度はあ、と白い息を吐く。本当は声を聞きたかったけれど、数時間前に別れたばかりということを思い出すと、ボタンを押す指が躊躇う。第一、長い時間の移動で疲れているかもしれない。
 ――迷惑、かけちゃいけないよね。
 そんな私の目にはしっかりと今日の日付が目に映る。十一月三十日。明日から十二月で、クリスマスまであと一ヶ月もないことに今更ながら気付く。
 たまにしか街中に買い物に出かけないので時の流れに取り残されがちだけど、きっと今頃街を覆うのはこの星空よりも明るく輝くイルミネーションの数々で、赤や緑のクリスマスカラーが多く見かけられる頃だろう。
「クリスマス……今年も、錫也と哉太の三人なんだろうな」
 それが幼い頃からずっと続いてきたクリスマスの習慣だったし、それで十分楽しかった。何の不満も疑いもなく、楽しさと笑顔だけがそこにあった。
 けれど、どうしてなんだろう。街や人々の心を賑わす特別な日に、好きな人と一緒にいられないかもしれないと思うと、また淋しさに襲われる。
 郁と一緒にいられない。その事実が私に何度もため息を吐かせる。
 この三ヶ月間は郁がいる景色が当たり前になっていた。毎日会えていたことが、当然のことのようになっていた。
 でも、そうじゃなかったんだよね。
「明日から、ひとりかぁ……」
 満天の空を見上げ、私は思う。贅沢って怖い――って。
 私は郁がいる景色に慣れすぎてしまっていた。当たり前だと思っていたことは、本当はちっとも当たり前なんかじゃなくて、本当は幾つもの偶然が重なり合っていた。偶然郁が星月学園に実習に来ただけで、偶然私たちのクラスを担当することになっただけなんだ。今更だけど、そういうことにやっと私は気がついた。
 この三ヶ月間、殆ど毎日郁と顔をあわせることができていた。郁は教育実習生だったし、同じ学園内で生活していれば当然のことだった。どんな形であれ、恋人と毎日顔をあわせることができていたのに、明日からは会えないことが当たり前になってしまう。
 毎日会えていたのは長い時間の中からすればほんのひとときで、会えない時間のほうが本当はずっとずっと長い。
 そう思うと、恋を知ったばかりの私は淋しさや切なさに押しつぶされそうになるけれど、さっきからずっとこんな気持ちにばかりにとらわれていることに気づく。
「って、まだ一日も経ってないのに、こんなんじゃダメじゃない。……しっかり!」
 手摺を掴んでいた手を離し、その冷たくなった両手でぴしゃりと自分の両頬を叩く。冷たいしちょっと痛いしで、少しは目が醒めたかな? 頬がひりひりするよ。
「負けない。……負けないんだから!」
 そう、ここにきて淋しさを思い出すだけなんて悲しすぎる。そんなのじゃなくて、二人で見た思い出を大切にして、ここに来たら頑張れるよう力に変えていかなくちゃ。見れば励まされる星空になるなら、大好きな星空はもっと大好きになる。
 例え郁がそばにいなくても、この空はずっと繋がってる。
 顔は見られないけど、私たちは繋がっている――この空の下で。だからきっと、星たちが繋いでくれるよね?
 そう思ったら、今度は簡単に気持ちが浮上してきた。アップダウンがやけに激しいけれど、それも仕方ない。沈んだままよりはずっとましだと思うから。
 それに、こうして強がってみる私に対し、ちょっと意地悪そうに笑う郁の顔や、試すような言葉――僕がいないと、君はダメだね、なんて声までも耳元で聞こえてきそうな気がして、思わず笑ってしまう。
「ふふっ、郁なら言いそう」
 私は冷たい手すりに額を押し当てて笑う。
「……でも、そうかなって思う。だって、やっぱり郁がいなくなっちゃったのは淋しいもん。本当はダメなんだと思う。けど、そういうのに負けちゃわないように強くなっていくから。だから……」
 だから、二人で頑張っていこうね。
 ぐっと顔を上げて、夜空に笑って見せた。いつか星月先生や陽日先生たちと四人で見つけた秋の星座たちを指でなぞり、私は心に誓った。
 弱さや寂しさなんかに、簡単に負けてあげないんだから、って。


 そのあと寮に戻ってしっかり夕食をとった私は、部屋で弓の手入れをしたり、少しだけ本を読んだりして時間を過ごしたのだけど、何をやっても身が入らない。ただ時間だけが長く感じられるばかり。何をやっても同じだと気付いた私は、十時を過ぎたばかりだというのにもうベッドに入って眠る準備をしていた。
 目覚まし時計のセットをして、心配だから携帯のアラームも確認をする。ついでにメールの確認も着信の確認もするけれど、今のところ誰からも連絡は来ていない。
 正確に言うと「誰からも」というより「郁から」といった方が正しいのかもしれない。もっと言えばついでに、どころか昼間から何度携帯を確認しているかわからない。
「帰ったばかりなんだもん、疲れてるんだよね」
 この言葉も一体何度自分に言い聞かせたことか。
 暗い部屋の中、横になりながらため息のような言葉をひとつ漏らして携帯を閉じようとした。
 その時だった。画面がぱっと明るく光り、表示が着信画面へと変わる。
「……えっ!?」
 『水嶋郁』と表示されているのを確認し、私は慌てて体を起こしてからボタンを押す。
「えっ、あっ、は、はいっ!?」
 声が上ずってしまったのがちょっと恥ずかしいけれど、まさかこのタイミングでかかってくるとは思わなかった驚きは隠せなかった。
 携帯をぎゅっと耳に押し付けた私の耳に聞こえるのは、聞きなれた柔らかい声。
「もしもし。僕だよ、郁。……ねえ、声が上ずってるけど、どうかした?」
 意地悪っぽく笑う顔が一瞬見えた気がして私はドキッとした。
「どうかしたっていうか……もう諦めて寝ちゃおうと思っていたから、びっくりしたの。それよりも郁、無事に着いたんだね。私、心配してたんだよ」
 何の連絡もくれなかった恋人に、ほんのちょっぴり拗ねた口調で言うと、携帯の向こう側では私よりも何倍も拗ねているような郁の様子がしっかりと音声になって伝わってくる。
「あのさ、心配なら連絡くれてもよかったんじゃない? ……っていうか、寝ようとしていたところを邪魔して悪かったね。もう、電話切ったほうがいいかな?」
 ちょっとご機嫌斜めそうな声に私は焦る。
「そ、そんな! 切らなくていいよ。それよりも郁……あの、怒って……るの?」
 なんとなく子供みたいだな、と思いつつもそっと尋ねてみると、「別に。怒ってなんかないよ」と返ってくる。その声は本当に拗ねた子供みたいで、ついつい笑顔が浮かぶ。
 我儘で仕方ない人だなあと思うのと同時に、可愛いと思えてしまうんだから、なんだか可笑しい。郁は私よりも年上なのに。
 笑い声を押し殺す私に、郁はまだ不機嫌そうにぽつりと呟く。
「……君は僕の彼女なんだから、遠慮しなくてもいいんだよ」
「え?」
「僕の声が聞きたくなったら、いつでも電話をかけてきてっていう意味。僕だって……声、聞きたくて待ってたのに」
 最後の言葉はとても小さくて聞き取りづらかったんだけど、間違いなく「待ってた」と聞こえた気がする。
「あ、あの、もう一度言って……?」
 ドキドキする胸が私の声を震わせる。だって、今日の郁はいつになく素直だ。二度も言わない、ってあっさりと返されそうだけど、それでも期待に胸を高鳴らせて耳を傾けていると、郁がちょっと笑いながら言う。
「君の声が聞きたかった。……僕も馬鹿だよね。聞きたいならもっと早くに電話すればよかったのに、妙なプライドが邪魔して勝手にヤキモキしてた。月子のこと言えないな」
 照れくさそうな声が私の耳だけじゃなく、心もくすぐる。そして、郁の飾らない言葉が私の気持ちを素直にさせる。
「私もだよ。変に気を遣いすぎて、声が聞きたいのに我慢してた。それに郁だって疲れてるだろうし、そんな時に迷惑になりたくないって思ってたから……余計に」
 好きだけど、邪魔になりたくない。そんな思いが、私をちょっとだけ憶病にさせる。
 直接顔を見て話せていた時はそれほど気にせずにいたことが、離れたことにより途端に手さぐりになる。でも、手さぐりになるからこそ、相手を思いやれる気持ちも増えていくのかな。
 どう思うんだろう、どうしたらいいんだろうって相手を思って考える時間は、優しさとか相手を思いやる気持ちも育てていくための時間でもあるんだろうな……なんて、思ったりして。
「遠慮してたのはお互い様なんだね。でも、変な遠慮はナシでいこう。僕は月子の声を聞けたら疲れなんてあっという間に消えてしまうから、声が聞きたい時に電話をする。要するに、毎日電話するってこと」
 悪戯っぽく言う郁に、私はちょっとだけドキドキした。
「えっ! 毎日って……い、いいの?」
「じゃあ、君は僕の声を聞きたくないの?」
「き、聞きたい! たくさん聞きたいよ!」
 思わず力をこめて言ってしまった。ちょっと恥ずかしかったけど、でも、これは本心だからちゃんと郁にも知っていてほしい。
「……うん、そう言ってくれるって思ってた。だから、君も寂しくなったら一人で我慢をしないこと」
 優しい声が私の心を温かくする。「うん」と返すひとことが、なんだか少しだけ照れくさい。それに、さっきまであんなにモヤモヤしていた気持ちが嘘みたいに晴れている。
「寂しくなったら……なんて言われたら、ずっと電話が離せなくなっちゃうかも」
「なんだか、顔が見えない時の方が君は素直みたいだね」
 困ったような郁に私も小さく笑いながら返す。
「郁も一緒みたいに思うけど」
「……言うね、君も」
 なんだか不思議。こうして話していると、本当にすぐそばに郁がいるみたい。
「郁、あのね。今日、いつも待ち合わせしてた屋上庭園に行ってみたの」
「屋上庭園?」
「うん。あの場所に行けばいつでも郁に会えていたから、今日も会えそうな気がして。でも、ずっと待っていても私一人しかいないし、外は凄く寒くて……手があっという間に冷たくなって、びっくりしちゃった」
 ふふっ、と笑うと郁は少し驚いたように言う。
「え……ちょっと君、どれだけの間そこにいたの」
「あんまり長くはいなかったよ?」
「気を付けなよ。ただでさえ寒くなってきてるんだから」
 心配そうに気遣う郁に、私は肩を竦めながら謝る。
「ごめんなさい。でもね……それで気付いたことがあるの。一緒にいられることって、本当はあたりまえのことなんかじゃないんだって。凄く大切なことだった。郁がいなくなって、まだ一日も経ってないのに、そのことに気がついたよ」
「月子……」
「明日から毎日会えないんだっていうのが凄く寂しかったんだけど、でもね……今こうして郁の声を聞いたら、なんだかとても嬉しくなったよ。離れてても、やっぱり繋がっているんだって思ったから。郁の声が聞けたから、元気になっちゃいました!」
 本当に不思議。気持ちがぱっと明るくなったし、簡単に浮上した。あんなにクヨクヨしていたのが嘘みたいに私の気持ちは晴れやかで、簡単に寝付けそうにないくらい、今とてもドキドキしている。
 けれど私の言葉のあと、電話の向こうはしばらく静かだった。
「郁?」
 どうしたんだろうと思い名前を呼ぶと、小さなため息が一つ。
「……僕は、君に会いたくなった」
「えっ……」
「今すぐ君に会って、抱きしめたくなった。……ねえ、どうして君はそんなに可愛いんだろうね。僕を困らせてどうするつもり?」
 ちょっぴり切なそうな声だった。だけど私の耳はどんどん熱くなる。郁こそどうしてこんな風に私の耳を熱くさせるんだろう。少しでも気を抜くとドキドキするようなことを言うんだから、私はどう返していいのかわからなくなる。
「どう……って、わ、私はただ思ったことを素直に言っただけで……」
「だから余計に君のことを愛しく思えて仕方がない。……離れているこの距離がもどかしいよ」
 そっと溜息のようにささやかれた言葉に、私の胸は少しだけ切なさを感じて痛くなる。
「うん。……もどかしいね。電話だと、郁のあったかい手が感じられないし」
「僕もだ。って、なんか変な感じ。離れたら、君のことを想う気持ちがどんどん大きくなっていくばかりで、苦しくなる」
 私も同じだよ、とそっと答えてベッドから降りる。静かにカーテンを開けると、少し欠けた月が夜空に浮かんでいて、やわらかな光を明かりがついていないこの部屋に優しく届けてくれる。空気は流石に冷たいから窓は開けなかったけど、郁が住んでいるところからも同じ月が見えるだろうか。私は空いている手を月の方へとかざす。
「ねえ郁、郁の部屋からは月は見える?」
「月? ん……ちょっと待って、移動する」
 衣ずれの音のあと、カーテンを開ける音が向こう側で聞こえる。
「今日は結構良く見えるね。雲も少ないから、光が良く届く。月子も見える?」
「うん。同じ月が見える」
 それがなんだかやけに嬉しかった。そして、空に浮かぶ月がとても愛おしく感じられ、欠けた丸い輪郭を指でそっとなぞる。
「こんなに離れているのに、見えるものは一緒って、なんだか凄いね」
 嬉しくなった私の声が弾む。出会ったばかりの頃郁が言っていた言葉をふと思い出した。
 ――月と恋は満ちれば欠ける。
 ねえ、郁。私たちの恋は満ちた状態なのかな。それともこれから満ちていくところ?
 どちらとも当たっていて、だけど、どちらともはずれのような気がするけれど……でもね、一つだけ言える。
 月は欠けるけれど、私の想いは欠けたりなんかしないよ。理由なんてわからないけど、不思議な自信がある。私の中からそういう想いがどんどんあふれてくるんだよ。
 郁はこれを聞いたら、「根拠のない自信だね」って笑う? それとも……なんて返してくれる?
「……今日の月、ちょこっとだけ欠けてるね」
 指で黄色の輪郭をなぞりながら目を細める。
「ん? ああ、そうだね。ちょっと前まで満月だったみたいだけど、残念ながら見逃したね。天気が良くない時もあったから余計だ」
 穏やかな郁に私はそっと言葉を紡ぐ。どうしても言いたかった。
「月は欠けても、私の気持ちは欠けないから」
「え……?」
「大好きだよ、郁のこと。凄く好きだから」
 月を見上げながら私ははっきりと言う。なぜか恥ずかしいとか照れくさいという気持ちはなくて、むしろどんな言葉を重ねても足りないというほどの想いが言葉となり、唇からこぼれる。
 愛の言葉は嫌いだって郁は言ってた。だから返ってこないのは百も承知の上。でもそれが寂しいだなんて思わない。その分私は、この人からたくさんの気持ちをもらっているから。
 だから郁が言わない分、私がたくさん言っていくんだ。私にとって大切な気持ちを言葉にして――。
「……僕も、君が好きだ」
 不意に届いた思いもかけない言葉に、私は一瞬何を言われているのかわからなかったし、言葉も忘れた。
「聞こえなかった?」
「え、今……なん――」
 ――なんて言ったの。
 それさえも上手に紡げない。
「君と同じって言ったの。……二度言わせようとしてもダメだよ」
 悪戯っぽく言う郁に、私はやっと我に返る。
「……ず、ずるい。び、びっくりさせておいて、そんなこと言うなんて」
「ずるいなんて心外だな」
「だってずるいじゃない。ちゃんと……聞きたかったのに……」
 私は、見えないことをいいことに頬を膨らませてみる。子供っぽいのはよくわかってるけど、不貞腐れずにはいられない。でもそれも短い間のことだけだった。
「そんな拗ねた顔しても無駄だよ」
 言われてびっくり。膨らませた頬がしぼむくらい私は驚いた。そしてなぜか部屋をきょろきょろと見回してしまったんだけど、それは仕方がないことだと思う。
「えっ! わ、わかるの?」
「君のことなら大体想像つくよ。……って、ほら月子。もう寝る時間なんでしょ。寒いのに長く起きてたら風邪をひく。お子様はもう寝なさい」
「電話でも子ども扱い……」
 もう一度頬を膨らませた。それはさっきよりも大きい。
「本当のことで拗ねないの。それとも大人扱いしてほしい? それでもいいなら、遠慮なく僕は君の睡眠妨害をするけど……覚悟はできてる?」
 やけに艶っぽい声に変ったのを聞いて、私は背筋を正して直立してしまっただけじゃなくて、真っ直ぐな姿勢のままベッドの端に腰を下ろし、そのまま布団へともぐりこんだ。
 だって、何を言われるのかわかったものじゃないもの。見えなくたってこうしなくちゃいけないっていう気持ちになる。
「も、もう寝ます! 寝るからごめんなさい!」
「うん、いい子」
 本当の先生みたいに優しく言われてしまい、私は何となく悔しくなった。
 もうちょっと大人だったら、こんなに早い時間に眠らないんだろうな。
 もうちょっと大人だったら、上手に郁の言葉も切り返せるんだろうな。
 そう思ったら、大人しく布団にもぐりこんでいる自分が本当に「お子様」なんだって思い知らされた気持ちになった。
「やっぱり子ども扱い……。もうっ、いつか私が郁の睡眠妨害をしてあげるから、その時は覚悟してね」
 悔し紛れの私の言葉がどういう風に郁の気持ちを揺らしたのかはわからないけど、電話の向こうで一瞬返事に困ったような郁の顔が見えた気がした。
 郁? と私が呼びかけるよりも早く聞こえたのは、ため息交じりの言葉。
「ホント、まいった……。それに今、目の前に君がいないのが残念。目の前にいたら二度と離したりしないのに」
「えっ……ええっ!?」
 今度言葉に詰まるのは私の方で、それが郁にも良く伝わってしまっているのか、今度は可笑しそうにくすくす笑って言う。
「おやすみ、僕のお姫様。いい夢を。また明日も電話するから、いい子でね」
「……はーい」
「声が聞けて、嬉しかった」
「うん……私も凄く嬉しかった」
 なんとなくくすぐったくて鼻先まで布団を持ち上げる。笑みを含んだ「おやすみ」という郁の声が聞こえたとき、私はそっと瞼を閉じる。
 ここで瞼を閉じたら、次に目を覚ます時は違う一日が始まっている。もう今日という一日は終わっちゃってるんだ。始まるのは郁のいない毎日。
 きっと、これから不安になることもあると思う。今日みたいに寂しさを感じる日だってたくさんあるはず。でも、そういうときこそ私はこの人を信じようと思う。
 あの手の暖かさ、抱きしめられたときの優しい温もりは、今でも私の中にちゃんと残っているから。忘れようがないくらいに、強く。
 ――だから、大丈夫。大丈夫だよ。
「……おやすみなさい、郁」
 程無くして二人の会話が切れる音を聞いたとき、ちょっとだけ切なさを感じたけれど、ゆっくりと目を開ければ月の光が窓辺を淡く照らしていて、カーテンを閉め忘れてしまっていることに気がつく。
 いつもだったらきっちりとカーテンを閉じているけれど、今日だけはそのままにして眠りたい思った。遠い場所にいる大切な人を照らす月。それは私の部屋にも優しい光を届けてくれる。
 何より、一人ぼっちで頼りないはずの夜をこんなにも明るく照らす光は、私を励ましてくれているようにも思える。
「また……明日ね」
 この声は通話の切れてしまった向こう側――郁には届かないけれど、私はそっと呟いた。
 唇には小さな笑みを一つ浮かべ、大好きな人の声がさっきまで聞こえていた携帯をぎゅっと抱きしめる。
 窓から射す月の光は少し眩しかったけれど、私が眠りに落ちるまで静かに見守ってくれるであろうその存在がなんだかとても嬉しい。
 そんなふうに柔らかな月の光に包まれ、本当なら安心して眠れるはずだったのに、携帯を押し当てていた左耳がなんだかやけにくすぐったくて、その夜私はなかなか眠れなかった。
 好きな人の声が耳にも胸にも嬉しくて――眠るのがなんだか少しだけ惜しい気持ちになったのは、今夜が初めてだった。



End.
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