Starry☆Sky

あなたとキスをする【水嶋×月子】



 お昼時。それは戦いの時と誰かが言っていたけれど、私も本当だと思う。
 メニューが多くある食堂とはいえ人気のある定食はあっという間に売れてしまい、残るのは麺類やパンばかりになってしまうからだ。
 授業で使った教材やら資料を戻すのは日直の仕事で、今日の日直は私。午後は移動教室なのでお昼までに片付けなくちゃ次に使うクラスに迷惑がかかってしまう。
 なんとか早めに片付けを終えて、先に席を取って待っていてくれる錫也と哉太を追いかけるように食堂へと来たんだけど、既に人はいっぱい。わっと人でごった返す食堂で注文をしたものを取り終え、私はやっと二人が待っているテーブルへと戻ることができた。
「ふぅ、着いた。二人ともお待たせ。やっと戻ってこられたよ〜」
「お帰り。手伝わなくて大丈夫だったか? それに、定食残ってた?」
「うん、大丈夫。お昼もちゃんとゲットできたから平気だよ」
 心配そうだった錫也も、私が持っているトレーを見て安心したように「そっか」と笑う。
 なんとか定食争奪戦を勝ち抜いた私は、残り五つというところで手にすることができたのだった。パスタやパンも確かに美味しいんだけど、定食は色んなバリエーションがあるからやっぱりこっちの方が食べていて楽しいんだよね。栄養も偏らないからもってこいのメニューなんだ。
「俺は待った……待ったぞ。っつーことで月子も来たことだし、早速食うぞ!」
 哉太は待ちきれないといった感じでスプーンを手に取り、美味しそうな匂いをさせているカレーをもりもり食べ始める。
「哉太ってば、はらぺこの野獣みたいだよ?」
 くすくすと私が笑うと、錫也も呆れたように笑う。
「だな。がっつきすぎ。結構恥ずかしいぞ」
「うるはい! 俺は腹が減っはの」
「おい哉太……喋るか食べるかどっちかにしろよ」
「じゃあ食う!」
 美味しそうに食べている哉太を見ていたら私のおなかも小さくなったので箸を持つことにした。教材を置いてきた分時間も少なくなっちゃったし、早め食べておかないと移動時間がなくなってしまう。
「よぉーし、じゃあ私も食う! いただきます!」
 そうして三人で箸を進めているときだった。
 隣のテーブルに座っている男子の二人の会話がすぐそばの私達の席にまで聞こえてくる。ネクタイは私達と同じ赤だから同級生だ。彼らもそれほど大きな声で話していたわけではないのだけど、人が一人通れるぐらいの間しかないから話が丸々聞こえてしまう。
「ははっ、お前牛乳二つって何!」
「うるさいな、俺だって好き好んで二つも飲むか」
 笑われている男子は顔を赤らめつつも不貞腐れたように一つ目の牛乳パックに口をつけている。
「ひょっとして、背でも伸ばそうとか考えてないよな?」
「……そのひょっとしてだ。黙れ」
 こういう会話って、どこでもあるのかな? 似たような話をどこかでも聞いたような……?
 そのとき私の脳裏に、何故か陽日先生の顔が浮かんだのは私だけの秘密にしておこう。
「あー……、お前の彼女って、結構背高いって言うもんな〜」
「心をえぐることを言うな! 少しぐらい高くなりたいって思って何が悪い」
 結構切実そうなその会話に、私達三人はぎこちなく目を合わせた。
 席が隣り合っている上に、通路が狭いほうの席だから仕方ないといったら仕方ないんだけど、なんだか盗み聞きしているみたいな気持ちと、コンプレックスの話となればなおさら聞いてはいけないような気がしたからだ。
 錫也は勿論だけど、がつがつとカレーを食べていた哉太さえもそのスピードを落として、少しだけ気まずそうな顔をしている。
 ――なぁ、どうする?
 ――っても、どうしようもないだろ? こいつらが勝手に話してんだぜ?
 ――でもなんだか悪いよね……。
 目だけでそんな会話をしているときだった。不意に牛乳を飲んでいた彼が私の方を見る。
「あの……夜久さん」
「えっ! あ! は、はいっ!?」
 後ろめたい気持ちで会話を聞いていたので、その当人から声をかけられて私はとても驚いた。まさか話しかけられるなんて思いもしなかったから、それこそ思わずびくっと肩を上げてしまったくらい。
「あ、食べてるところごめん! あ、あのさ……ちょっと聞いてもいいかな?」
 私は一瞬錫也と哉太の顔を見て、躊躇いながらも「うん」と頷くと、彼は一瞬嬉しそうな顔をしする。けれど、その後一変して表情を引き締め、言葉を選びながら呟く。
「なんていうか……こんなこと聞くのもどうかと思うし、いきなりなんだけど、夜久さんは彼氏とかって……いる?」
 ――えっ!?
「は、ハアッ!? 何だ、いきなり!」
 私が声を上げるよりも先に、哉太が目を丸くしながらも声を裏返して彼を睨むけれど、睨まれたほうの彼は「ち、違うよへんな意味じゃなくて!」と慌てて首を振る。
「いや、さ……もし夜久さんの彼氏が、夜久さんと大して変わらない身長だったら、やっぱ嫌かな……って思って」
「え……」
 目を瞬かせて彼を見ると、僅かに頬を赤らめながらも困ったように頭をかきながら話を続けていく。
「その、さ。女の人って、やっぱ、背の高い彼氏ってのに憧れるんだよ……ね?」
 どことなく縋るようなその目に、私はなんて答えたらいいのか返事に困った。
 確かにそういう声も多いだろうけど、誰もがそういうわけじゃないし、実際私も特に気にしてはいなかった。
 でも、実際のところ私の彼――郁はとても背が高い。私と並ぶと頭一つ分ぐらい軽く身長差がある。
「憧れるっていうか……人にもよるんだろうけど、でも、好きになっちゃったらそういうのって、気にならなくなるんじゃないのかな」
 小さく笑ってそう答えると、彼は幾分ほっとした表情を浮かべているけど、それでもまだ少し心配そうに私を見ている。
 好きな人がいるからこそ、そういう些細なことでも気になるのは凄くわかるけど、でも私に聞いてもあまり参考にならない気がするんだけどな。
 だって、やっぱり相手の人がいてこそだもの。それに、好きになるのは背丈じゃないと思う。
 ――でも……。そういう捨てられた子犬みたいな目で見つめられると弱いなぁ。他にも何か言ってあげなくちゃっていう気持ちになるよ。
「あ……っと。そ、そうだ! 背が高いのもいろいろ大変だよ? 背伸びしないといけないし、色々届かないし」
 だから私から郁に触れるときは、彼の両腕を引っ張らないと顔が近づかない。未だにそういう行為に慣れていない私は、顔から火が出るほど恥ずかしくてたまらないんだけど、これはもう背が高い彼を持った私の小さな悩みとして受け止めるしかない。勿論、悩みといってもちょっと照れくさくて気恥ずかしい悩みなんだけど。
「だからね、背が高いのも一概には良いと言い切れな――」
 そのまま言葉を続けられなかったのは、この場がしんと変に静まったからだ。錫也も哉太も目を丸くして私を見てるし、話を持ちかけた彼らも同じような顔をしている。
「あ……」
 思わず口元を押さえたけれど、それは逆効果だったのかもしれない。
「え、ええと……なんか、凄く実感がこもっている意見なんだけど、夜久さんってひょっとして背の高い彼氏でもいるの?」
「えっ!」
 驚いたのは私だけでなくて、錫也と哉太の声も重なった。そして、真意を確かめるべく私を見つめる二人の視線が痛い。郁と付き合い始めたことを二人にまだ伝えていない分、他の人がいる前で知らせてしまうわけにはいかない。やっぱり二人は大切な幼なじみだから、ちゃんと話せる機会の時にきちんと打ち明けたい。
「い、一般論かな? きっとそうなんじゃないかなって思っただけだよ」
「ふーん、一般論か……なるほどなるほど」
 頷きながら言葉をかみしめている彼に、どうかぎこちない笑顔になっていませんように、と祈りながら笑顔を見せる。
「うん。っていうことで、あまり身長の差なんて気にしない方がいいよ。そのままで十分じゃない。彼女さんを大切にね! あと、あまり参考にならなくてごめんね」
「あ、いやいや、十分だよ。こちらこそありがとう」
 笑顔でなんとか押し切って、再び箸を動かす。錫也と哉太の腑に落ちない視線が俯きがちな私の頭のてっぺんに突き刺さるけど、ここで目を合わせちゃったら絶対に負けてしまいそう。だから、知らないふりをして食事を続けた。
 ――ごめんね、二人とも。
 まだ付き合っていることは言えないんだ。だって郁は私達クラスの教育実習生で、残り少ないとは言っても毎日顔を会わせてるんだもの。何より、さっきの話じゃないけれど、付き合っていることを知られるのって、二人の間に起きているいろんなことがばれてしまいそうな気がして、ちょっと恥ずかしい。
 二人で屋上庭園で待ち合わせをして会っていることとか、手を握っているだけでも幸せな気持ちになれることとか……キスをしていることなんかも全部知られてしまいそうで、そう考えただけでも顔がどんどん熱くなっていく。
 ――身長差の話をしたら思い出しちゃうよ。その、郁の腕を引っ張って顔を近づけてるとことか……っ。
「ん? おい月子、顔真っ赤だぞ」
 哉太がちょっと心配そうに私を見る。哉太だけじゃない、錫也まで眉を寄せて私の顔を覗き込んでる。
「風邪でも引いたのか? 最近寒くなってきたから、気をつけろよ?」
「う、うん! 大丈夫、風邪じゃないから」
「え?」
 またも二人の声が重なったとき、私はますます「しまった」と思った。
 ――ああ、本当に恥ずかしい。なんでお昼の時までこんなこと考えちゃうことになるんだろう。
「なっ、なんでもない! 一生懸命食べてるから、なんだか熱くなってきちゃったのかも」
 アハハと笑ってごまかしたけれど、私のプレートからはなかなかおかずが減っていないことを、誰よりも私が一番よく知っていた。
 そして何より、さっきからずっと郁の顔ばかりが浮かんでしまい、私の頬からはなかなか熱が引いてくれなかった。


 待ち合わせの屋上庭園にはすでに郁の姿があって、そのすらりとした長身のシルエットを見かけた瞬間、胸が一際大きく高鳴った。
 結局昼休みのあとも妙に郁のことばかり考えいたから、その姿を見かけるだけでも思わず反応してしまう。
 ――なんでこんなにドキドキするんだろう。
 大きく息を吸い込んで私は前に足を踏み出す。
 郁に恋をするまでこんなに誰かのことを想ったり考えたりしたこともなかったから、胸が甘く苦しくなるような感覚に戸惑いつつも、心が舞い上がっていくのがくすぐったい。
 好きな人と会えることが嬉しい。
 話がしたい。
 顔が見たい。
 手をつないでいたい。
 一歩ずつ郁に近づきながら、私は自分の体温も上がっていくんじゃないかと思うほど顔がカアッと熱くなる。外はもう冬の準備をし始めているのに、冷たい空気なんてまるで感じないくらいだ。
 一か月間という期間限定の恋人のときだって殆ど毎日会っていたのに、ちゃんと付き合うようになってからの方がとてもドキドキするなんて、今更すぎ、と自分の鈍感さ加減に呆れてしまいそうになる。
 と同時に、改めて恋の力の偉大さに驚かずにはいられない。だって、好きだと気がついたらどんどんその気持が私の中で大きくなっているから。
 楽しい話を聞くと郁にも聞いてもらいたくなるし、眠る前に窓から綺麗な星空が見えると、彼にそのことを教えてあげたくなる。たくさんのことを二人で分け合っていきたいと素直に思えるから不思議だ。そして、そんな風に思えば思うほど、この人のことをとても好きなんだと自覚する自分にも、ちょっとだけ照れてしまう。
 そんな風にして、私は毎日この人を好きになるんだろうなと思った。事実、気がつけば彼は驚くほど大切な人になっていた。
 郁がとても好きになっていた。
「ごめんね! 待たせちゃった?」
 そんな私の熱を気づかれないようにして走っていくと、彼がやんわりと微笑む。
「うん、待ったね」
「う……」
「嘘。そんなに待ってないよ。月子こそ、走って来なくても僕は逃げたりしないから安心しなよ。暗いから足元気を付けな」
 郁は穏やかな声で言って私を見つめる。
「でも、優雅に歩いて登場なんてできそうにないよ」
「僕に会いたい気持ちが大きすぎて?」
 図星です、とは言えず、だけどどんどん恥ずかしくなって俯く私に、郁はくすっと笑う。
「暗くてよく見えないけれど、君、今絶対真っ赤。……っていうか、正直言うと僕も逢いたかった。逢いたくて……ちょっと早く来すぎたくらいかな」
 目を細める郁の手に触れてみると、いつも暖かい手が確かに冷たい。私はその大きな手を両手で包む。さっきはそんなに待っていないって言っていたけど、きっと前から待っていてくれたはず。
 驚いて見上げれば、少し照れたように笑う郁と目が合う。
「でも、ちょっとだけだから」
 その言葉に、私の胸は熱くなる。
「手、冷たくなってる……。寒かったよね。ごめんね、やっぱりもっと早く来られればよかったよね」
 部活もあったし、保健室に立ち寄る用事もあった。だから何かと慌しかったのは事実なんだけど、ひんやりとした郁の手に触れていたら申し訳ない気持ちが大きくなっていく。十一月も下旬になると夜の空気はぴんと張り詰めたものになり、吐息が白になることも多い。
 郁の手に、はあ、と息を吹きかけながら両手で包んでいると、不意に唇には柔らかいものが軽く押し当てられる。
 見ると郁の顔がすぐ目の前にあって、とても愛おしいものでも見るような目で私を見つめている。
「キス……したくなった。君のせいだよ。そんなに僕に優しくするから、僕はどんどん付け上がる」
 囁くようなその声に、私の胸に甘く疼く何かが生まれる。なんだろう、この気持ち。もうちょっとこの人に触れていたいと思うなんて。
「……じゃあ、うんと優しくしたらどうなっちゃうの?」
 屈んでくれているから郁の顔がとても近い。ちょっとだけ上目遣いで尋ねてみると、一瞬だけ目を丸くした郁が私の額に自分の額をそっと押し当てる。
「どうなるか、試してみる?」
 やけに艶っぽい声で言われ、もう一度顔が近づいたときに、ふとお昼時の身長差の話を思い出した。
 そういえば随分と身体を屈めていてくれているんだな、なんて今更ながらに思うと、少しだけ笑みがこぼれる。
「なに?」
「ごめん。ちょっと思い出しちゃった」
 ふふっと笑うと、郁は小さく息を吐いて私を見る。
「恋人との時間よりも、君を楽しませるものって何なのかな?」
 ちょっとだけご機嫌斜めに見えたので、私はお昼の出来事を「あのね……」と話始める。
 とりあえずベンチに座り、郁は私の話に耳を傾けていたんだけど、一通り話し終えたあとでも、やっぱりちょっとつまらなさそうに「ふーん、いかにも悩める青少年って感じ」と呟いて星空を仰いでいる。
 なにがどう不満なのか見当がつかない私は、郁のご機嫌斜めの原因が気になる。
「郁、なんで不機嫌なの?」
「なんでって……わからないの?」
「わかんないよ」
 じっと郁を見つめて言うと、彼はため息を吐いてちらっと横目で私を見る。
「悩める青少年の相談には耳を傾けてあげて、恋人の悩みには耳を傾けてくれない」
「えっ、郁にも悩みなんてあるの?」
 ちょっと驚きだった。なんでもさらっとこなしてしまうイメージがあるし、そこまでいろんなことに固執するタイプには見えないから。
「心外だな。僕にも悩みはあるよ? 例えば……どうしたら君の心を僕でいっぱいにできるか、とか。他の男と随分仲がよさそうだ。それとも、僕に焼きもちを焼いてほしくて言ってるの?」
 どこか意地悪そうな笑みを浮かべ、いきなり私の肩を抱き寄せては顔を覗き込んでくる。いつもの冗談なのか本気なのか、その境界線が私にはさっぱりわからないから、私はただおろおろするばかり。
「い、郁! お、思うんだけど、人が来たらどうするの」
 今更だけど、そう言って逃れるほかない私に、郁は取るに足りないといった感じで返す。
「来ないよ。さっきも来なかったじゃん」
 意地悪そうな笑顔のままで答えるその様からすると、これは間違いなく私をからかっている。それがわかったから私もきっちりと言い返す。
「郁、からかわないで。それに、さっきは来なくても、今来るかもしれないからだめ」
 頬を膨らませると郁はやれやれと大げさに肩を竦めて腕を解くのだけど、笑顔はそのままなのが少し気になる。
「はいはい。お姫様のご機嫌を損ねたくないから我慢しますか。……で、さっきの話だけど、背が低いとか高いとかって、高校生の年頃だとやっぱり気になるもんなんだね」
「うーん、みたい……だね。私はそういうの気にならないから殆ど考えたことないけど、気になる人にしたら大事なことなんだろうね」
「コンプレックスの問題は人それぞれだからね。実際、似たような悩みを抱いている人が僕達の身近にもいるじゃない。まあ、あの人は恋人いるいない関係ないみたいだけど」
 郁がにやっと笑ったのを見て私は確信する。……今、絶対陽日先生のことを指してたよね。
「あ、はは……」
 どうとも答えられない私は曖昧に笑って答えるしかない。さすがにうん、そうだねなんて言えないよ。
「それで、なんだけど」
「うん、なに?」
「身長差がありすぎても大変で届かない、なんて優しい言葉をかけてあげた君は、何が大変なのかな?」
「えっ!?」
 いきなり話を振られて私は言葉に詰まる。
 まるで人の話を聞いていないのかと思えば、話した本人さえも気に留めていないようなことまで覚えているなんて思いもしなかった。
「よ、よく覚えてたね、郁」
「君の言葉を聞き逃したりしないよ。で、何が大変なのかな」
 誰が正直に言えるだろう。自分からキスをするときが大変だ、なんて。そんなの本人に面と向かって言えるわけがない。絶対に言わない。どんなに問い詰められても言わないんだから。
「……それは言いません。郁は勘がいいんだから、私が言わなくたって大体わかるんじゃないの?」
 熱くなった頬を片手で押えながらそっぽを向くと、楽しそうに郁は声を出して笑う。もう……やっぱりわかってたんじゃない。
「ごめんごめん、拗ねないでよ。君の口から聞いてみたかっただけだってば。どんな風に君が答えてくれるのかなって」
「何度でも言うけど、郁は意地悪です」
 目一杯頬を膨らませてじろりと睨むと、郁はさらに笑う。そして急に声色を変える。
「でも、好きでしょ?」
 そうやって急に優しく言うから「好きじゃありません」なんて冗談でも言えなくなってしまう。こういうとき、年上の彼がちょっとだけ憎らしく思う。簡単にあしらわれてばかりなような気がするからだ。
 私なんて恥ずかしくなって顔を真っ赤にさせるか、頬を膨らませるかのどちらかしかないんだもの。
「……やっぱり経験豊富な年上の人はずるい。早く大人になって私もさらっと返したい」
「そうかな? 僕は何の経験も持たない君の方がずるいと思うけど」
「私が? それってどういう意味で……?」
 からかわれているのかとも思ったけれど、どうも様子が違う。ちょっとだけ困ったように言う郁を見ると、彼は小さく笑って正面にある夜空を見上げる。吐く息が暗い夜空に白く舞う。
「いつも正面からぶつかってくるじゃない。損得や体裁、躊躇いなんてまるで関係なさそうな君の行動には僕の方が驚かされてばかりだ。君の素直な気持ちが、そのまま僕の胸に伝わってくるんだもの、逃げ場がないよ」
「郁……」
「だから、背伸びしないでそのままでいて」
 私の頭をそっと撫でる手が優しい。私を簡単に素直にしてしまう不思議な手。
「慌てなくたって、君だって近い将来大人になる。その時になったら僕らの年齢差なんて大したことなくなるよ。むしろ、君の方が僕より大人になっちゃうかもね」
「……そうなのかな?」
 私の方が郁よりも大人に?
 なんか全然想像がつかないけど、いつかそういう日がくるのかな。私はまだ高校生だから大人の世界なんて全然わからないけど、気が付けばそういうのがわかるようになっているのかな。
 でも、悔しいことに私にはまだ郁の言っている意味がよくわからない。これが今の私たちの年の差なんだろう。
「女の人の方が精神年齢が上だっていうしね。それに――」
「うん?」
「どうしても背伸びしなくちゃいけない時は、僕が屈んであげる」
「……えっ」
 頬を撫でる冷たい風を感じなくなったなと思ったら、不意に肩を抱き寄せられて私は驚く。
「今なら平気じゃない?」
 甘く囁かれる声に鼓動が跳ねる。
「な、何?」
「背が高いと大変なんでしょ、キスするの」
 郁は私の顔を覗き込むようにして尋ねる。その一言で私ははっと気がつく。少し前までこの話をしていたんだった。
「わ、忘れてなかったんだ」
「残念ながら忘れてないね」
「う……忘れてください」
 確かに今はベンチに座っているから身長の差もないけれど、だからといって簡単にできるものじゃない。
「背伸びしなくても、今なら届くよ」
「い、郁!」
「背が高くて大変っていうのはキスのこと言ってたんでしょ。……はい、いつでもどうぞ、お姫様」
「どうぞって……」
「身長差がない今なら君も平気じゃない」
「確かにそうだけど、でも身長差だけじゃなくて! えっと……そ、それだけじゃない問題なの!」
 確かに目線は殆ど一緒だけど、いきなりキスなんてできるはずがない。心の準備が必要なんだから。そんな私の気持ちを知ってか知らずか、郁は不満気にベンチへと背中を預ける。
「……ふーん。……じゃあ、僕からは何もしてあげないよ」
 ――あ……拗ねちゃった。
 こういうところは、大人なのに急に子供っぽく見えるから不思議だ。さっきまでは優しい大人の人だったのに。
「だ、だって立ってても座ってても恥ずかしいよ」
「僕だって君からのキスが欲しいんだけど?」
 不貞腐れたままボソッと呟く横顔は本当に子供みたいで、ちょっと可愛らしいんだけど、その分私はどうしていいのかわからなくなる。
 ――郁は拗ねちゃうし、でも恥ずかしいし。……う〜ん、どうしよう。
 暗くて郁には見えないかもしれないけれど、ここが昼間のように明るかったら、きっと顔も耳も真っ赤になっているはず。
 そもそも身長差があるから腕を引っ張ってするキスが恥ずかしいんじゃなくて、自分からキスすること自体がとても恥ずかしいのに、急にどうぞなんて言われても困ってしまう。
「意地悪……」
 今日はこれを何度言っただろう。多分これからだって何度も言うに違いないし、ひょっとしたら私の口癖になりそうだ。
「月子だってよく知ってるはずだろ。僕は意地悪なんだ」
 ちらっと私へと視線を移し、すました顔をする郁を見て私は観念する。
 ――キスしないとずっとこんな調子のままかも。もう、仕方ない人だなぁ……大きな子供みたい。
 そんなことを思う自分が、彼よりちょっとだけ大人みたいな感じで、私は「あ……」と思った。
 ひょっとするとさっき郁が言っていた精神年齢がどうっていう話は、こういうことなのかな。
「わ、わかりました。けど、凄く恥ずかしいから少しだけ……っ」
 顔から火が出るほど恥ずかしいけど、私は郁の頬に軽く唇を寄せた。さすがに正面を向けさせる勇気なんて私にはないし、頬に唇を当てるのが精いっぱい。
「だ、だめ……です、か?」
 思わず敬語になってしまったけれど、それは本当に恥ずかしいから。
 郁は目を丸くしたあと、何度か目を瞬かせている。この調子じゃまた子供だって笑われるんだろうな。でも、そしたらちょっとだけ怒るからね。
「こっ、これだって立派なキスなんだよ?」
 俯いたまま顔が上げられない私の身体をぎゅっと抱きしめて郁が笑う。
「ホント……君ってば可愛い。こんなお子様なキスなのに、やっぱり嬉しい」
 やっぱり笑われてしまった、と私は彼の腕の中で小さくなるばかり。
 ――ああ神様、やっぱり早く大人になりたいです。
「うう……お子様でごめんなさい」
 いたたまれなくなって小さく呟くと、郁は抱きしめたまま私の頭を撫でる。
「いいよ。……もう少し大人なキスは僕からしてあげる」
 抱きしめる腕を解いて私の顔を覗き込み、優しく笑ってから頬を傾けて唇を寄せる。
 目を閉じてしまう前に見える、郁のこの頬の角度がなんだかとても艶っぽくて私の胸はどきりと高鳴る。
 そして不思議だと思った。
 だって、背が高くても低くても、こうして見える睫毛の長さや頬のラインはいつもと何も違っていないから。
 肩越しに見える星空も、好きな人の顔も、いつもと変わりない私の大切な景色だ。
 けれど、その景色にほんの少しだけ瞼を閉じる。
 これから降ってくる優しい感触のために。
 好きな人とキスをするために。
 いつか私の方から「大人なキス」を返してあげたい、なんて背伸びする気持ちは胸の内にしまい込み、触れる唇に心をときめかせた。



End.
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