Starry☆Sky

フォール・イン・ラヴ【水嶋×月子】



 ああしろ、こうしろとせっつかれるのも面倒なので、ここ最近では言われる前に日誌の記入やら授業の打合せについて、担当教員である陽日に積極的に声をかけている。
 それが本来当たり前のことなのだろうけど、今までのんびりと構えていた分、なんでも先回りして用をこなしていくと、陽日だけでなく星月にも大層驚かれた……というより気味悪がられた。
 確かに面倒といえば面倒なのだが、あいにくこの学園で教育実習生徒して籍を置けるのは残り三日ほどしかない。授業のあとの時間は月子と過ごすためになるべくなら空けておきたいのが、にわか優等生になった一番の理由なのだが、その彼女は部活のために待ち合わせ場所――屋上庭園に向かうのが遅くなると言っていた。
 空気が暖かい頃ならまだ屋上でぼんやり昼寝でもできたのだが、十一月も下旬となると日が暮れるのが早いだけでなく空気も冷たい。その中で星が瞬き始める時間まで待っていたらさすがに風邪をひくだろう。
 とりあえず保健室にでも行ってソファーで寝ているかと足を向けると、そこは案の定もぬけの殻。主である星月が席を外している。
 もし駆け込みで怪我人でも来たらどうするつもりなんだろうと思いつつも、無人なのをこれ幸いに水嶋は目的のソファーの上に寝転がる。
 本当はベッドが良かったのだけど、本格的に寝入ってしまったら彼女との約束をすっぽかしてしまう恐れがある。それだけはどうしても避けたい。会いたくて仕方がない気持ちが自分を動かしているのだから、このまま会えずに一日が終わってしまったらやりきれない気持ちでいっぱいになるだろう。
 だからソファーで十分だ、と自分に言い聞かせることもなんだか楽しく感じるのだから相当重症だ。
「さて……と、一寝入りするか」
 度が入っていない伊達眼鏡だが、寝るときまで着ける理由もないので外してジャケットの胸ポケットへとしまう。
 深く息を吐いて瞼を閉じると、あっというまに睡魔に襲われる。しんとした静かな部屋なので、眠る環境としては最適だ。
 ――琥太にぃが眠くなるのもわかる気がする。静かだし、あまり人は来ないし、もってこいの場所だ。
 そんなことを考えていたのも僅かな時間で、時を経て微かにドアが開く音がするまで随分と眠っていたような気がする。時間にしたら一時間半ぐらいだろうか。
 ふと気がつけば、明るく日が差していた部屋には傾き始めた太陽の僅かな光が柔らかく入るのみで、部屋の温度が緩く下がり始めていた。
 寝ぼけた頭で薄目を開くと、保健室に入ってきたのは月子一人のようで、手には救急箱を提げている。おそらく弓道部用のものだろう。もう胴着は来ていないから練習は終わったようだ。
 となると最後に救急箱の補充でもしに来たのだろうか。箱の蓋を開けては寝ている水嶋を気にしつつ、棚から絆創膏やら包帯や消毒液などの補充をしている。
 その華奢な後ろ姿に声をかけようかとも思ったのだが、なるべく音を立てないようにしている月子の気遣いをありがたく感じ、そのまま寝た振りを続けることにした。
 薄目を開けて彼女の後姿を見ていると、指差し確認をしては満足そうに頷いている。
 ――可愛い。
 くすっと笑いそうになるのを堪えていると、用意を終えた彼女がこちらを振り返るのでどきりとした。目を瞑っていると、足音が過ぎていく音が聞こえたので、そおっと窺うようにまた薄目を開く。
 「起きてる? 起きてない? どっち?」とでも言いたそうな、ぎくしゃくとした足取りでドアまで歩いて行く後ろ姿が見える。ちょっとだけビタビタと足音が大きく感じられるのは、水嶋から声をかけられるんじゃないかという構えもあるからなのだろう。
 彼女の身体全体から、本当は起きているんじゃないかという水嶋への警戒が明らかに表れていて、そおっと見ていてもそのへんてこな動きに思わず吹き出しそうになる。
 ――ホント、君っておかしな子。可愛いのに、どこか滑稽なところがあって憎めない。
 以前も「抜き足、差し足、忍び足」などと言葉にしながら水嶋を驚かそうとしていたことを思い出す。
 手と足が一緒に前に出るようなその進み方で一度は戸口まで歩いていくのだが、ドアの前で少し考えるようにして立ち止まり、それから不意にこちらへと視線を向けたので、水嶋は慌てて瞼を閉じた。
 小さな咳ばらいが聞こえたので、寝た振りがばれたのかと思いきやそうでもなく、かといって声をかける風でもない。
 水嶋はというと、もっともらしいこの寝息さえも完全に演技だが、それでも一度寝た振りをしてしまった以上は、ばれないようにと精一杯演じ続けている。だが、本音を言えば彼女に声をかけるべきかどうかで迷っているところでもある。このままだったら彼女は保健室を出ていってしまうかもしれないからだ。
 とりあえず彼女がどう動くのかをその音だけで確かめていると、いつまでたってもドアを開ける様子がない。
 それどころか控え目な足音が近づいてくる。どうやらこちらに向かって歩いているようだ。
 耳をそばだてていると、水嶋が寝ているソファーの前でその足音が止まり、かたん、と控え目に救急箱を床に置く音が聞こえる。ソファーのすぐ傍にしゃがみこんだのか、空気がふわりと揺れて彼女の香りがする。
「寝てるときはやっぱり眼鏡外すんだね。……寝顔、可愛いな」
 水嶋の顔を覗き込んでいるのか、ふふっと楽しそうに小さな声で彼女は呟く。
 ――可愛い、ね。……複雑な心境だけど、褒め言葉として受け取っておくよ。
 可愛いと年下の女の子に笑われるとは思いもせず、やけに気恥ずかしいものがあるのだが、ここまできたら半ば意地で、絶対に起きるものかと水嶋は心に誓う。
「ねえ、本当は起きてる? ……郁?」
 囁くような声で訪ねられる。息を詰めたような空気がしばらく流れる中、それでも返事を返さずに寝息を立てる芝居をし続けていると、胸の上あたりに乗せていた自分の手に、月子の手が躊躇いがちにそっと重なる。
「うーん……やっぱり寝てる、のかな? ……もしここで起きたら怒っちゃうから」
 不貞腐れたようにボソッと呟き、その後、肩辺りのソファーの端に軽く何かがとん、と乗せられた音がする。小さな呼吸音が近くで聞こえるので、おそらく彼女が頭を寄せたのだろう。
 これで水嶋が起きていたのなら、珍しく自ら擦り寄ってきた可愛い仔猫に甘い言葉とキスの一つでも贈りたいところなのだが、こういうときに限って下手な芝居をしてしまったものだから上手くいかない。
 星月がこんな自分を見ていたら腹を抱えて笑い出すに違いない――ツケが回ってきたな郁、と。
 ――ホント、やれやれだな。こんなに近くにいるのに何もできないなんて、自分自身に呆れる。これが本来の僕だなんて思いたくもないくらい。
 心内で苦笑すると、重ねられている手の指先に僅かだが力が込められる。
「……帰っちゃうんだよねあと少しで。屋上に行っても、教室でも、郁に会えなくなっちゃうんだ。……本当のことを言うとね、やっぱり……寂しいよ」
 ソファーの皮が擦れる音と共に、水嶋の肩先に彼女の額が少しだけ押し付けられる。言葉と同じく寂しげな小さな声に、胸が締め付けられるように苦しくなる。
 あまり辛い、寂しいといった言葉を自分の前では口にしない強がりな彼女が、こうして自分が眠っているときだけは本音を言ってくれる。けれどその言葉が本音だからこそ水嶋には一番堪える。
 三ヶ月間の実習期間が終われば、この星月学園を後にしなくてはならない。ここから遠く離れた土地――三ヶ月前の自分の在るべき場所に戻り、先生の立場から学生へと戻る。毎日のように彼女に会えていたのに、それが叶わなくなる。
 星はここほど綺麗ではないし、第一隣には彼女がいない。小さくも温かいこの手に簡単には触れられなくなってしまう。
 誰かを心から大切に思い始めてすぐに離れ離れになるのだから、切なさを感じないという方がどうにかしている。
 自分の肩先に額を寄せる彼女の頭を撫でたい気持ちに駆られたとき、寂しさを懸命に堪えながら言葉を紡ぐ彼女の声が聞こえた。
「でも、私……頑張るからね。……寂しいけど、会えないけど、でも……そういうのに負けないように頑張る。もうちょっと強くなれるよう、頑張ってみるね」
 強がりで少しだけ笑って言っているが、ところどころ掠れている声を聞いていたら、ただ愛おしさだけがこみあげてきた。胸の奥から湧き上がるこの感情が今、やけに瞼を熱くする。
 なんだろうこの感じは。胸が痛い。切ない。そして……この小さな女の子がとても愛しい。愛しくてたまらない。
「好きです。……郁」
 泣いているのだろうか。すん、と鼻を鳴らすのと一緒に、頼りなくか細い声が届く。
「……大好きだよ。このこと、離れてても……忘れないでね」
 月子は途切れそうになる言葉を懸命に繋いでいく。遠慮がちに自分の手を握る彼女の指先がこんなにも小さいものだったのかと気付かされる。
 まずいなと水嶋は思った。
 彼女を一人にしたくない、自分の目の届かないところに一人で置いていくなんて耐えられない。
 ――君って人は……どうしてこんなに心を揺さぶるんだろう。どうして僕に、人を好きになる気持ちを与えてくれたの? おかげで僕は苦しくて仕方がない。胸が痛くなるくらい君を想う気持ちは、僕が嫌いな言葉が一番しっくりくるんだから困る。
 この年になって心から誰かを愛せることに気がついたなんて、子供なのは月子よりも自分の方なのかもしれない。
 愛のようなものならたくさん知っていた。けれど、それは知っている振りだけであって、本当は何一つわかっていなかった。無理もない、知ろうともしなかったし知りたいとも思わなかったのだ。
 再び大切な人を失うくらいなら心を閉ざしていた方が楽で、けれど心を閉ざす程どんどん自分は孤独になっていく。
 その孤独を嫌というほど感じるからこそ、暗い影に怯え、誰でもいいからそばにいてほしいと、愛のようなものにすがる自分が嫌でたまらなかった。
 けれど好きだ、愛しているという言葉をどれだけ重ねられても心が満たされることはなく、むしろその言葉たちが滑稽に思えてきた。どんなに愛の言葉を甘く紡ごうが、彼女たちはあっけなく自分の元を離れていったからだ。
 冷たくされても構わない、あなたの気持ちを変えてみせるなどと健気なことを言う女もいたけれど、それも一時のこと。まるでその言葉を信じていない自分を、そのうち蔑むような目で見て背中を向けていく。
 「最低」「信じられない」そんな言葉を冷たく投げつけられるたび、水嶋は笑いたくなった。
 ――最低でいいし、信じなくていいよ。僕は自分も信じてない。第一、好き? 愛してる? バカじゃないか。その言葉を今度は誰に言うつもり? どうせそんな言葉はまやかしだ。事実、簡単に僕のそばから離れていってるくせに。愛の言葉とやらにどれだけの重みがあるんだよ。
 けれど笑いながらもどこかで求めてやまないものは『愛』そのもので、かつて幸せだった淡い輪郭がいつも瞼の裏にちらついていた。
 だから苦しかった。
 人が離れていくこと。
 愛の言葉が何の頼りにもならないこと。
 でも過去には間違いなく心から自分を愛していてくれた人がいたこと。
 優しい人の笑顔を思い浮かべると、今でも胸の奥が痛くなる。その痛みが残っているからこそ何だかわからなくなる――信じられる存在って一体なんだろう。
 けれどいくら考えても答えなど出てきやしない。
 どこに何の真実があるのかを、水嶋は完全に見失っていた。
 そのまま光が見出せないまま自分はいつまでも同じ毎日を過ごすのだろうかと思うと、気が遠くなるほどの時間が怖くもあった。
 何も見出せない毎日。このままで良い訳がないとわかっていてもどうしようもなかった自分の前に現れたのは、他でもないこの年下の女の子だった。
 ――ゲームを持ちかけた頃は、君も僕の前からきっといなくなると思っていたのにね……。
 恋も知らない女の子が自分へと向ける真っ直ぐな目。
 その目の力と同じように、変に世の中に慣れていない真っ直ぐな気持ち。
 そして、何も持っていないその小さな手で、いつも水嶋の手を温めてくれていた。
 ただそれだけだった。
 大した言葉を重ねたわけでもなく、多くの時間を共に過ごしたわけでもない。一緒に手を繋ぎ、遠い昔に大切な人たちとそうしたように、星空を見上げてくれていただけだ。
 愛の言葉も交わさず、勿論唇だって重ねることはない。ただ真っ直ぐな目と心で自分に接してくる彼女に、水嶋が戸惑わないわけが無かった。
 だから月子の気持ちを試すような酷いことを何度もした。なのにどうして月子は離れていかないのか。なぜこんな自分を見限らない?
 わからないことだらけだった。
 ただ一つ水嶋にわかることは、彼女が自分にはもったいないくらい心根の優しい女の子だということだ。優しいだけじゃなく、凛としていてこうと信じた道を真っ直ぐに進んでいこうとする逞しさもある。
 だから余計に自分を突き放してほしかった。この子に自分は似合わない。彼女を幸せにできる男はきっとたくさんいるだろう。
 だから、こんな酷い自分を早いところ見捨てて欲しかった。彼女はちゃんとした男性と、幸せになれる……いや、幸せになるべき人なのだから。
 そんなふうに思い始めた時から、既にこのゲームは水嶋の負けだったのかもしれない。
 どんなにつらい言葉を投げつけられても逃げずに向かい合い、最後まで自分の手を離さずにいてくれたこの女の子を、気づけば好きになっていた。
 今だって、こうして眠った振りをしているのが辛いくらいだ。出来るなら今すぐ彼女を抱きしめたい。そして、できるならそのまま離したくないと願ってしまうほど、強く彼女を想っている。
 「君が愛しい」と言葉にしたってかまわない。それで彼女の心が少しでも安心するのなら、心を込めてその愛の言葉を贈りたい。
 ――でも、バカだね。どうしてこんな風にして僕は瞼を閉じたまま君を感じているだけなんだろう。こんな時に上手な言葉もかけて上げられないなんて。
 彼女からは見えない方の眼尻から一筋零れた何かが涙だと認めたくなかった。
 こんなの彼女には見られたくない。
 第一何で涙なんて流しているのだろう、と水嶋は苦笑したくなった。
 悲しくなんてない。むしろ幸せなくらいだ。なのにこめかみを伝い落ちるのは間違いなく一滴の涙だ。
 ――こんな僕を好きだと言ってくれて、ありがとう。……君の言葉は誰のどんな言葉よりも、心に響く。響きすぎて、胸がいっぱいになる。
 温かな滴が耳のそばをゆっくりと落ちてゆくのを感じながら、もう一度瞼を閉じる。起きた時には彼女の姿はもうないかもしれないが、それでも肩とこの手には優しい温もりが残っている。
 それだけでもいい。それだけで十分だ。
 少しだけ首を傾けて彼女の近い位置に頭を寄せると、何故か安心する自分がいる。
 ――ますます子供だね。
 苦笑しながらも彼女の手をそっと握り返し、ため息のように一言呟いてみる。
「僕も……君のことが好きだよ。……とても好きなんだ」
 これで寝た振りをしていたのがばれてしまうだろうか。
 そう思ったけれど、彼女は自分の手に触れたまま何の言葉も返してこない。
 静か過ぎるのが気になりそっと瞼を開くと、水嶋の肩に額を寄せたまま眠る彼女の顔が見えた。
「……眠ってる。……じゃあ、聞こえていないか」
 良かったと思ったし、残念とも思う。……いや、残念と思う気持ちの方が強いかもしれない。
 目に薄く涙を滲ませて眠る彼女を見ていたら、やはりこみ上げてくる愛しさに変わりは無く、想いが言葉になって彼女の胸に届いていたならよかったのにと思うのだ。
「って、このまま床の上で寝かせるわけにいかないよな」
 まだ少し部屋が暖かいとはいえ、床の上に女の子を座らせたまま置くなんて身体を冷やすばかりだ。
 月子を起こさないようにして水嶋は体を起こす。繋いでいる手が離れずにいるのが嬉しく感じるが、手を離さないと彼女を抱きかかえられない。小さな手の甲に一つキスを落としソファーから降りる。
 なるべく月子を起こさないように抱きかかえるのはかなり気を使うが、眠りが深いのかちょっと身体を揺らしたぐらいでは起きない。
「本当に眠り姫みたいだ」
 あどけない寝顔に笑みを向け、カーテンで区切られているベッドへと運ぶ。白いシーツの上に彼女をそっと下ろし、静かに布団をかける。手もちゃんと入れてあげようと触れると、細い指先が無意識に水嶋の手を掴む。
 子供みたいな仕草だがそのまま彼女の手を握ってやると、気のせいか安心したような表情になる。
 誰かの寝顔を見て心が穏やかになるなんて自分自身に驚き、また、いつまでも見ていたくなるから不思議だ。
 ベッドの端に腰掛けて彼女の寝顔を暫らく見つめていると、不意にドアが開く音が聞こえる。この部屋の主である星月の「ん?」という声も同時だ。
「郁? どうし――」
 立てた人差し指を口元に当てて、「静かに」というジェスチャーをすると、星月はベッドで眠る月子と傍らにいる水嶋を見て眉を上げる。
「なんだ、また体調でも崩したのか?」
 こちらまで歩み寄り、少し心配そうな顔をする星月に「違う」と首を振る。
「最初は僕が昼寝してたんだけど、僕の寝顔につられて彼女も寝ちゃったみたいなんだ」
 肩を竦めて言うと、星月は水嶋の顔をまじまじと見て呟く。
「寝顔? そう言われれば郁、眼鏡はどうした?」
「ああ、かけてないね。……まあ、別にいいんだけど」
 軽く笑って見せると、星月は怪訝そうな顔をする。
「は? なら日頃から掛けなくたっていいじゃないか」
「それはそれ、これはこれっていうことで」
「なんだ、そりゃ」
 眼鏡が無くても視界は良好なので別段気にするほどでもない。実際、こうして彼女の寝顔もきちんと見えているし、もともと視力は悪くないのだ。
 彼女の手を握りながら再び月子へと視線を移しその寝顔を見守る。そんな水嶋を見て、星月は不意に深いため息を吐く。
「ったく……どうやら徹底的に俺はお邪魔らしいな。けど、ここは俺の城だから譲らんぞ。……っていうか、そもそも保健室で変に甘ったるしい空気を撒き散らすんじゃない。今からここで仕事を片付ける俺の身にもなれ」
 やだやだ、と僅かに顔をしかめる星月に水嶋は「ごめん」と苦笑する。そして、一息ついた後に眠る月子を気遣いながら星月の背中に声をかける。
「ねえ、琥太にぃ」
 デスクに戻り、書類の山から目的の資料へと目を通している星月が短く応える。
「なんだ」
「……ここに――教育実習に来いと呼んでくれて、感謝してるよ。ありがとう」
 ぺらぺらとページをめくる星月の手が止まる。そして、幾度か瞬きを繰り返してはこちらを見ている。その顔がまるで鳩が豆鉄砲でも食ったような顔をしているから、水嶋は思わず吹き出してしまう。
「あははっ、琥太にぃなんて顔してんの。僕がお礼をいうのがそんなに珍しい?」
「ああ、珍しい珍しい。明日は雪でも降るんじゃないかって思うくらいには珍しいぞ。……とまぁ、冗談はさておきだな、お前がそういう顔で笑えるようになって俺は正直ほっとしてる。夜久の影響力は絶大だな。……郁、こいつを大切にしてやれ。あまり泣かすんじゃないぞ」
 ベッドで寝ている月子を見て星月は笑う。水嶋からすれば星月もよく笑うようになったと思う。こんな風に穏やかに笑える日が来ることを祈りつつも、叶わないかもしれないとどこかで諦めていた分、どこかくすぐったくも感じる。
「うん、大事にするよ。それに彼女、僕が寝ている振りをしてるときに言ったんだ。寂しいのに負けないよう頑張るって。……まったく、可愛いよね、本当に。そんなの聞いたら絶対寂しい思いをさせないよう、努力したくなるじゃない」
「努力、か。いいと思うぞ、俺は」
 星月が柔らかく笑うのを見て、水嶋は肩を竦める。
「驚きでしょ、僕の口からこんな言葉が出るなんてね。……可笑しいけど、でも、一度好きだと認めたら、どんどん気持ちが大きくなっていって……今じゃ僕以外の誰の目にも触れさせたくないくらい。勿論、琥太にぃにもね」
 ちらっと挑戦的な視線を流すと、星月が「あーはいはい」と呆れた声を出し、それからやってられないといった感じで渋々椅子から立ち上がる。
「あれ、城主なのに出て行っちゃうの?」
 悪戯っぽく尋ねると、星月は戸口で苦笑して髪をかきあげる。
「あいにく、王子と姫の逢瀬を邪魔する趣味はないんでね」
「それはありがとうございます、国王様。それでは逢瀬の時を心ゆくまで楽しみたいと思います」
「よきにはからえ。……とは言っても、節度を持った付き合いをしなさい。これは国王じゃなく理事長命令だ」
「それは難しいなぁ」
 ため息を吐き空々しく答えると、涼しくも凛とした声で正される。
「郁、自重」
「はいはい、わかりましたよ」
 城主で国王で、且つ理事長である星月に恭しく頭を下げると、彼は楽しそうに笑って「よろしい」と残してドアの向こうへと消えていく。
 しんとした部屋の中で再び二人きりになるけれど、水嶋は月子の手を握り、ただベッドの端に腰掛けているのみ。
 夢でも見ているのだろうか嬉しそうに少し口角を上げて眠る月子に、水嶋は目を細める。
「君は、どんな夢を見てるのかな。幸せな夢なんだろうけど……でも、そろそろ目を覚まして、お姫様」
 外は既に夜の色になっている。窓から見えるのはきらきらと瞬く秋の星座。今日は空気が澄んでいるから一際綺麗に見えるだろう。
 ここでこうして手を握っているのも幸せだけど、星空の下で他愛のない話をする方がやはり楽しい。
 まだまだ彼女のことを知らない自分がいるし、多くの言葉を重ねて互いを知っていくことも大切だ。
 それに、この学園で彼女の隣に座って話をしていられるのも後わずかなのだ。
 身体を傾けて彼女の唇にキスをする。童話の中ならば王子のキスで姫が眠りから覚めることになっているが、あいにく自分は物語に出てくるような清廉潔白な王子様とは違う。どちらかというと後ろ暗いことの方が多い。
 ――それでも君は起きてくれる……?
 唇を離しても顔を近づけたまま彼女の瞼を見つめていると、微かに長い睫毛が動く。
「ん……」
 眠そうな声とゆっくり繰り返される瞬き。これが新しい一日の始まりの時だったら何よりも幸せなのにと心内で思うけれど、今目覚めた彼女の目に一番最初に映るのは水嶋だけなのだ。
 ――それだけでも結構幸せかもしれない。
 小さく笑って彼女を見つめ、そっと囁く。
「……おはよう、月子」
 いつか本当にそう言える日が来ることを祈りながら、まだ眠そうなその目元にキスをした。



End.
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