Starry☆Sky

半分の恋【宮地×月子】



 私は走った。
 どこに向かっているのか自分でもわからないけど、ただのんびりなんて歩いていられなくて足を進めた。
 真夏の空気が頬を撫でる。もう少しで泣き出しそうな私を隠すように、夕日が静かに傾いていく。
 いつの間にか辿り着いた中庭には誰もいない。夏休みもあと数日しかないから、誰もが過ぎゆく夏の日をそれぞれに満喫しているのだろう。
 私は無我夢中でここまで走ってきたとはいえ、躓かず、転びもせずに辿り着いたのが不思議なくらいで、青々とした芝生を踏みしめたとき、崩れおちるように膝がかくん、と折れた。
 その途端、堪えていた涙が溢れてくる。泣かないように精いっぱい我慢をして張り詰めていた気持ちがふっと途切れ、幾つもの涙が頬を伝う。
 両手で顔を覆うと、芝に触れていた手が少しだけ土の匂いがし、また同時に少しだけ青臭くて、わけもなく切なさを煽る。
 『この前のこと、忘れてくれないか』
 宮地君の辛そうな顔と声、そして言葉が頭に響く。
 あんな顔、今まで見たことがなかった。
 笑った顔が見たかった私が、宮地君を辛くさせていた。なにより、唇が触れたあの温もりが、宮地君にとっては覚えていたくないような出来事で、私にも忘れてほしいようなことだったのが本当に辛かった。それを正面から受け止めなくちゃいけないのも苦しかった。……ううん、本当は今でも受け止められないでいる。だって、無理だよ。
 好きな人に好きだと思ってもらえる確率は本当に奇跡で、私もいつかそんな素敵な奇跡に出合えるのかもしれないけれど、今心から想う人に想ってもらえないのなら……そんな奇跡、欲しくなんかない。
 いらないよ。
「……っ……うう……」
 走ってきた苦しさと、涙が嗚咽になって漏れる。
 瞼が熱くなって涙がぽろぽろあふれても、思い浮かぶのは宮地君の顔だった。
 私は宮地君の頑固なところが好きで、でも人を気遣う優しいところも大好きなんだ。
 弓道の話ばかりじゃなく、日頃のなんでもない話をするのも好きだったし、時折目を細めて笑う顔もとても好き。だから、キスをされたときも嫌な気持ちは一つもなかった。
 確かにあまりに突然で驚いたけれど、宮地君がくれたあの優しい感触がとても嬉しかったんだ。
 宮地君がどう思ってキスをしたのか未だに私はわからないけど、真面目な宮地君が冗談であんなことをするような人だとは思えない分、ひょっとしたら私とおなじような気持ちでいてくれてるんじゃないかと、どこかで思っていた。
 でも、それは私が勝手に思っていただけで、現実はそんなに優しくなかった。
「忘れ……るなんて、できないよ……」
 冗談にしてはひどすぎるよ! って怒れる気持ちの余裕があるならよかった。
 恋じゃなければ、きっとそうすることができた。
 宮地君を好きなんだって気がつかなければそれができていたんだ。
 でも、私は自分の気持ちに気付いてしまった。同じ部活の仲間というだけじゃなくて、私にとって特別な人が誰なのか、私は知ってしまった。
 だから……だから、最初のキスが宮地君で嬉しかった。嫌じゃなかったんだよ。
 ロマンチックな場所でのキスじゃなくても、たとえ宮地君には事故みたいなキスだったとしても、私は好きな人とキスしたんだもの。
「片思い、だけど……、それでも……っ」
 ――それでも、好き。こんなに大好きで、胸が苦しい。
 涙で歪む芝生の色に、何度でも宮地君の顔が浮かぶ。
 ちょっとだけ愛想が悪くて、ぶっきらぼうで……梓君が入部してからはいっつも怖い顔してたよね。でも、たくさん笑うようになったのもここ最近になってのことだった。
 部長と宮地君と梓君と私で何度もご飯を食べたよね。
 そうそう、そういえば、偶然ショッピングモールで会った時も、まるでデートみたいにあちこちのお店を二人で歩いたっけ。あの時はとっても楽しかった。
 デートって……好きな人と一緒に時間を過ごすのって、こういうことなのかなって、幸せな未来を少しだけ見せてもらえたような気持ちになったんだよ。
 たくさんこういう時間を過ごせたらいいな、って本当に思ってたんだ。
 でも、片方の恋じゃだめみたい。仲間だから一緒にいられたわけで、それが恋になっちゃったらだめなんだ。
 辛いよ。
 そんなの、苦しいよ。
 さっきは精一杯の強がりで、明日から今まで通りにして欲しいって言ったけれど、私はそれができるのかな。
 情けないけど、笑って今まで通りにみんなの中で話せるかわからないし、自信がない。
 その気持ちが引く弓にまで表れそうで、本当は怖い。
 宮地君に笑ってもらえなくなるのが――すごく怖い。
 でも……私、こんなに弱かったかな。
 臆病になって、泣き虫になって、暗いことばかり考えちゃうような性格してたかな。
 ――しっかりしなきゃ。
「ちゃんと、しなくちゃ……」
 せめてみんなに心配をかけないようにしたい。ぎこちない笑みしか作れなくても、きっとそのうち自然に笑えるようになるはずだから。
「……でも」
 ――笑えるかなぁ。
 指先や手の甲で涙をごしごし拭っていると、不意に……本当に不意に視界が白くなって私はびっくりした。
 白くなった視界の原因は、頭にかかったタオルらしきもののせいで、そのタオルを乗せた人は――。
「顔をこするとうんと酷くなるぞ、夜久」
 いつもどおりの涼やかな顔で星月先生は立っていた。いつの間にこんな近くにいたんだろう。
「星月先生……」
 すん、と鼻を鳴らした私に、先生は微かな笑みを見せてから背を向けた。夕暮れのオレンジの中に先生の白衣の裾がふわりと舞う。
「それ、ちゃんと洗ってあるからな。汚くないぞ。多分な」
 そう言い残してぺたぺたと足音を立てて先生は校舎のほうへと歩いていってしまった。
 どうしてこんなところにいたんだろう、と思わなくもないけれど、「どうした」とも「泣くな」とも言わずに、ただタオルだけ残して消えてしまった星月先生の気遣いが、今の私にはありがたかった。
 白いタオルがやけに優しくて、それに顔をうずめるようにして私はまた少しだけ泣いた。
 インターハイの前みたいに、不安に押しつぶされそうになった私の涙を拭ってくれたのは宮地君だった。いつでも私を励ましてくれたのも宮地君。でも、今は私一人だけ。
 涙を拭ってくれた優しい指先と、唇に触れた柔らかい記憶が淡く思い出され、私の心をまた切なくさせる。
 涙の止め方を知らない私を残して、日は静かにゆっくりと傾く。
 新しい明日を迎えるために、少しずつ動き始めている空を見つめ、私は震える溜息を吐きだす。
 私は、どうしよう。
 半分の恋を抱えたまま、どうしたらいい?
 空を見上げても、今はまだ涙しか見えない。

 ――星が、見えない。



End.
⇒ Back to “StarrySky” Menu