Starry☆Sky

君の名を呼ぶ声【宮地×月子】



 十月に入って蒸すような暑さは去り、やっと秋らしいすっきりとした涼しさが道場の中にも訪れ、練習をするにも丁度いい季節になった。
 女子個人、男子団体戦ともにインターハイ優勝という輝かしい実績を残すことができた夏は過ぎ、秋は特にこれといった大きな大会もなく、ひたすら個々の練習に打ち込むばかり。
 練習に励むのは宮地にとっていつものことなのだが、部の大きな目標であったインターハイが過ぎた今、部員の気持ちがややたるみ始めてきたような気がする。
 元部長であった金久保が引退したばかりの頃は、一年、二年問わず「これから自分達が部を盛りたてていこう」という気合で満ちていたのだが、それもそう長くは続かず、今では犬飼、白鳥、小熊といういつものメンバーを筆頭に、他の部員までもが引きずられるように、動きが緩慢としている。
 ――ここは、気合を入れるべきだな。いくら目立った大会がないとはいえ、こういうときこそ練習に力を入れるべきなんだ。日ごろの努力が結果を生む。
 眉間に皺が寄っていることを自覚しつつも、腹に力を入れて声を出そうとした瞬間、間延びした声が射場の入り口のほうから聞こえ、見事に気が削がれる。
「おーい」
 そう誰かを呼ぶものの、大声でないのが救い。
 誰だ、何の用だ、と更に眉間に皺を増やして入り口に足を向けるのだが、遠慮がちに顔を覗かせた二人の人物を見て宮地の足が止まる。
「月子ー。いるかー」
 月子。
 この学園で月子という名前の生徒はただ一人。学園紅一点の夜久月子だけだ。
 そして、彼女の名前をそうやって気軽に呼び捨てするのは宮地が知る限り三人のみ。月子と同じ天文科で同じクラスの幼馴染――東月錫也、七海哉太の二人と、もう一人――土萌羊は、春の初めに転向してきたと思ったら、春の終わりにはまたフランスへ戻ってしまったと聞いた。一人欠けてしまったものの、月子を含めた四人は傍から見ても大層仲が良く、こうしてよく弓道部にも月子の応援に顔を出していた。
 土萌が帰国してからも東月と七海が弓道場に顔を出すのは変わりなく、料理の腕が良い東月の手には、差し入れらしき包みが下げられている。彼の作る差し入れはどれも美味いので、部でも評判が高い。事実、宮地も彼の作る菓子には心惹かれるものがある。
 けれど、だ。
 どこかしっくりとこない。
 別に彼らが嫌いなわけではない。月子からは大事な幼馴染と聞いているし、それ以上でもそれ以下でもないと言っていた。彼女の言うことは間違いなく本当のことだろうし、宮地自身もそれはよくわかっている。
 なのに、どうして急にもやがかかったような気持ちになるのか。
「おーい、月子ー」
 他の部員を気遣ってか、それほど大きな声を出すことなく、彼女の名前を呼んでいる。
 月子。
 月子。
 つーきーこー。
 何度も彼らが名前を呼んでいるところで、ふと気がついたことが一つ。
 どうしてしっくりこなかったのかが、少しだけわかった気がする。
 ――多分……夜久の名前を堂々と呼んでいるから、なんだろうな。
 自覚をしたら、思わず深い溜息が出た。
 そして、たかが名前を呼び捨てにしているくらいで、いちいち引っかかっている自分の器の小ささに苦笑さえ浮かぶ。
 月子に名前を呼ばれれば嬉しいくせにその甘さがくすぐったくて、つい全力で拒否してしまう。そして、彼女の名前を呼ぶのだって照れくさくてまともに呼ぶことさえできず、付き合っているとはいえ未だ「夜久」と苗字で呼んでいる。こういうのはタイミングと慣れなのだろうけど、どうも頭が固い自分では相当時間がかかりそうだ。こんなに好きでも、どうして簡単なことがうまくいかないのか。
 だから余計にうらやましく思うのかもしれない。
 人前でも堂々と躊躇うことなく自然に彼女のことを「月子」と呼べるのが、本当は羨ましいのだ。
 ――馬鹿だな。自分で夜久の名前を呼べないからといって、あいつらを羨むなんて。……こういうのって一応、嫉妬っていうのか? だとしたら情けなくて本当に呆れてくるが、でも……認めるしかない気持ちだな。
 長い前髪を軽くかき上げつつも月子がいる方へと視線を向けると、時折弓を構えながらも木ノ瀬と真面目な表情で話をしている。どうやら幼馴染の声は届いていないようだ。
 他の部員に喝を入れるつもりでいた宮地だが、月子を呼ぶ彼らのことを見て見ない振りはできない。嫉妬と戦うのは自分自身の気持ちとだ。幼馴染の東月や七海に嫉妬を嫌悪に変えて向けるのは明らかに違う。
 いつか自分がすんなりと彼女の名前を呼ぶことができればいいだけだ。
 自然に手を繋ぎ、笑い合い、彼女を想う気持ちを素直に言葉にできる日が、きっと来るはずだ。だから、今は始まった二人の関係を大事にしていけばいい。自分なりの速度で。
 そう思ったら、少しだけ気持ちが軽くなる。大切なことはいつだって目の前にある。遠くに目をやりすぎて、目の前にある小さな一つ一つを見失ってはいけない。地味でも、多少遅いスピードでも、それが自分のやりかたなのだから。
 ひとつ息を吐いて、彼女の幼馴染の方へと視線を移すと、二人と目が合う。
 ――休憩ではないが……まあ、仕方ないか。
 戸口にいる東月と七海に「俺が呼んでやる」という風に軽く頷くと、二人は笑みを浮かべて「悪いな!」という感じで自分を拝んでいる。
 まだ熱心に話をしている月子へと視線をやり、口を開く。
「月子」
 一度呼んでも気づいていないようなので、もう一度「月子」と呼ぶと、彼女は木ノ瀬との会話を止めてこちらを見る。
 その目は、なにか珍しいものでも見るように忙しく瞬きが繰り返されている。一体なんだというのだろう。
「……む? なんだ?」
 怪訝に思って眉を潜め、ふと彼女から視線を外して木ノ瀬を見ると、木ノ瀬までも目を丸くしている。それだけではない。犬飼も白鳥も小熊も目を瞬かせているではないか。
 もともと静かな道場だが、いつもとは違う変な静けさに包まれる。確かに喝を入れようとしていたのでちょうどいいと言ったらちょうどいいのだが、やけに静かすぎる。
 おまけに、何があったのかは知らないが全員の視線が自分に集まっている。
 宮地は原因不明のその視線が気に入らず、眉間に皺を刻む。何かあるなら言葉にしていってもらわないとわからない。……というより、注目を浴びるような特別なことをした覚えがない。彼女をただ呼んだだけなのだから。
 ――本当になんなんだ、急に。……この、『見てはいけないものを見てしまった』とでも言うような気まずい雰囲気はなんだ?
 ゆっくりと辺りを見渡すと、目が合った部員は次々と目を逸らし、慌てて練習を始めるではないか。
 月子をもう一度見ると、彼女は心なしか頬を染めているように見える。
 いろいろと首を傾げたい複雑な気持ちだが、そういえば彼女を呼ぶだけ呼んで、東月と七海が来ているというのを知らせていない。
 もう一度口を開こうとすると、彼女は心持ち俯きながらもぎくしゃくとこちらへと歩いてくる。そして、赤い頬のままちらっと宮地を一瞥したものの、声をかけることなく幼馴染二人の元へと行ってしまう。
 用件は月子に彼らが呼んでいることを伝えることだったので、彼女にそれが伝わっているならそれでいいのだが、あの反応が気になる。
 ――幼馴染が来ていることが、恥ずかしいのか……? だが、今更だよな。
 ますますわけがわからなくなっていく中、不意に誰かの手が肩に乗る。
「みーやじ〜。宮地部長〜」
 随分と語尾を延ばして自分の名を呼ぶのは犬飼だ。こういうときは大体なにかあるときで、それは宮地にとって決していい話の類ではない。嫌な予感がする、と思いながらも視線を向けると、犬飼は案の定やけに楽しそうな顔をしてこちらを見ている。
「なんだ」
 憮然とした表情で返すと、彼は更に楽しそうに笑う。
「お前さ、やっぱ結構大胆だよなー。てか、夜久に負けじ劣らずの天然か? まあ、何にしても俺は今心からそう思ったぞ!」
 訳がわからないまま話が進んでいくほど面白くないものはない。おそらく自分のことが原因なのだろうけど、当の宮地は全く見当がつかないのだ。
「お前、何を言ってるんだ?」
「またまた〜」
 いつもは『月子』って呼んでんだ? と耳打ちされて、宮地はこれ以上ないくらいに目を見開いて犬飼を見つめる。驚きすぎて反論の言葉も出ない。
 その視線を受けた犬飼は、呆れたような顔で盛大な溜息をつく。
「そりゃ、可愛い彼女もできてお前は幸せかもしれないけど、あんま見せつけんなよな〜。いままで『夜久』って呼んでたのに、いきなり『月子!』なんて名前で呼ぶから、思わず驚いたぜ?」
 ――名前で呼ぶ!? 誰がだ……って、まさか、俺がか!?
「……あ」
 信じられない犬飼の言葉に、宮地は自分の頬がひきつるのを感じた。自分では『夜久』と言ったつもりでも、口からでた言葉はおそらく犬飼が言うように『月子』だったかもしれない。いや、確かに夜久とは呼んでいない気がした。考えていたことが、無意識にぽろっとこぼれ落ちたのだろう。
 さーっと血の気が引いたと思ったら、まるで足もとから一気に熱が上がってくるような勢いで体全体がカッと熱くなる。
 これで全て納得がいった。月子がなぜ頬を赤くして俯いていたのか。そして部員の皆がなぜ自分を見ていたのか。
 ――俺があいつを名前で呼んだからか!
「およ? なんだよ、まさかお前、自分で気付かなかったのか?」
「なっ……う、うるさい!」
 宮地はこれだから、と犬飼は大げさに肩を竦めて笑う。
 東月や七海が月子を名前で呼ぶことを、確かにうらやましいとは思った。
 声にはしないものの、宮地も何度か彼女の名前を心内で繰り返したこともあるし、いつかすんなりと彼女の名を呼ぶことができたらいい、と思っていた。
 だが、なぜ今なのだろう。
 どうしてこの場、このタイミングで呼んでしまったのか。
 無自覚、無意識とは恐ろしいもので、人よりワンテンポ遅く事実を知った今では、羞恥と焦り、後悔と軽い眩暈が一気に自分を襲う。
 口元を覆う手が恐ろしく熱い。
 怖くてあまり見たくはないが、ちらりと戸口に立つ彼女や東月と七海を見ると、月子は目があった瞬間にぎこちなく目を逸らすし、幼馴染の二人組に至っては、困ったようにやんわりと笑うのが一人と、明らかに目が据わっているのが一人。
 道場内は依然、妙に生暖かい空気に包まれたままで、こんなことならいっそたるんだ空気のままの方がよっぽど喝を入れやすかった、と己の間抜けさを呪わずにはいられない。
「……くそっ!」
 ぐしゃ、と前髪をかき上げると、幼馴染との話を終えた月子が、手に差し入れの紙袋を持ってこちらへとやってくる。
 できるなら彼女に声をかけられる前に立ち去りたい。だが、部長の立場……なにより、この空気を作るだけ作っておいて今更逃げられやしない。
「あ、あの……み、宮地君っ」
 おずおずと声をかける月子に、宮地はさりげなく横向きに立ち、なるべく顔を見られないようにして彼女へと視線を向ける。
「な、なんだ」
「えっと、ね。錫……じゃない、幼馴染が焼き菓子の差し入れを持ってきてくれたんだけど、沢山あるから休憩のときにでも部の皆でどうぞって」
 ペーパーバッグを顔の高さぐらいまで持ち上げる彼女に、「ああ……いつも悪いな」と、できるだけの平静を装って答える。
 確かに、ここで休憩にした方が宮地も助かるし、空気も一新できる。
 ――よ、よし。休憩……にするか。少し時間は早いが、それも仕方ない。
 軽く息を吸い込み、声を大きくしてその旨を皆に告げると、宮地の表情を気にしつつも、差し入れの菓子を求めてわらわらと部員が群がっていく。一人ひとりに菓子を渡し終えた月子は残る二人分の菓子を手に、空になったペーパーバッグを畳みながら、ふふっ、と楽しそうに笑う。
 ちらっとこちらに向けた視線で彼女が何を思い出して笑っているのか一目瞭然だが、恥ずかしいので宮地はそっぽを向いて沈黙で返す。
「私、びっくりしちゃった」
 俺自身も驚いたのだから無理もない、と宮地も内心では呟く。
「名前で呼んでくれたのって、初めてだったよね。……なんか照れちゃったけど、嬉しかった」
 照れくさそうに少し俯いて言うのがそっぽを向いていても目の端に写る。何よりとても嬉しそうに笑うのがやけに可愛らしくて、このまま黙って横を向いていられる自信がない。
 宮地は前髪をかき上げて溜息を吐く。
「……失敗した」
「失敗?」
 きょとんとした顔でこちらを覗き込む月子に、宮地は一呼吸間を置いて、それから小さく笑う。
「いつか、ちゃんと呼ぼうと思っていたのに」
「え……」
「なんか、どれもどさくさ紛れになってるよな」
 最初のキスの時もそうだった。長くなった前髪を彼女にピンで留めてもらっているとき、気がついたら唇を重ねていた。そして今回も気がついたら『月子』と彼女の名前を呼んでいた。
 肝心の『最初』を踏み出すときは、いつも不恰好な気がしてならない。もっとスマートにできればどれだけいいか。
 ――それにほら、女はこういうのって、ロマンチックなのを望むんだったよな……?
 彼女に悪い気がする、と思いながらちらっと彼女を見ると、頬を赤らめながらも嬉しそうに目を細めている笑顔がそこにはあった。
「でも、やり直ししてくれる……んだよ、ね?」
「え?」
「え、えっと……あの、宮地君。二人きりでいるときに、もう一度名前を呼んでください」
 『そしたら、もっと幸せです』
 そう続け、えへへ、と照れくさそうに笑って小首を傾げる月子がどれだけ可愛かったかというと、ここが弓道場出なければ今すぐ抱きしめたいくらいだった。危うく伸ばしかけた腕を懸命に堪えるのがどれだけ大変か、彼女はきっと知らない。
 いままでも彼女の可愛らしさには何度も心を射抜かれ、この頬を熱くしてきたけれど、きっとこれからもずっとそれは変わらないんだろう、と宮地は思う。いいライバルどころか、彼女には永遠に敵わない気がする。
「……参った」
「うん?」
「なんでもない。独り言だ」
 彼女の手から自分の分の菓子を取り、「貰うぞ」と小さく笑う。
 弓を立てかけたあと少し歩いて射場を出ると、すぐそばにある壁に背を預けて立ち、手にある菓子を頬張る。
 刻まれたナッツが入っているクッキーの丁度良い甘さが口の中に広がる。月子も宮地と同じように背中を預けて、焼き菓子を一口齧る。
「んー、おいしい! やっぱり錫也のお菓子は絶品」
 喜んで菓子を食べる月子を見て宮地も笑みを浮かべる。
 ――む……名前呼び、か。でも、まあ……今は隣にある幸せそうな笑顔だけをただ素直に見つめていよう。
 そう目を細めたとき、左肩のあたりに少しだけ重みが加わる。おまけに暖かい。
 見ると、ちょっとだけこちらに体を傾けた月子が「えへへ」と照れくさそうに笑っている。
「な……! や、夜久っ!?」
 慌てる宮地を言葉では抑えようとはせず、こめかみを肩に寄せるものだから、さらに宮地は体を硬直させる。
「お、おまえな〜……」
 頬を熱くしながら彼女の顔を覗き込み、軽くにらんで見せると、少し笑った彼女が何かを呟いた。
 『龍之介』
 かすかに聞こえた小さな声は確かにそう言っていた。宮地の名前だ。
「……え」
「名前を呼ぶのって、実は、ちょっとだけ恥ずかしい……ね」
 いつもであれば口元を覆い、頬を赤くしてひたすら照れるばかりなのだが、今日は少しだけ違っていた。
 廊下に誰もいないことをしっかりと確認して月子の右手を取り、その指先をそっと握る。道場でなんて大胆なことをしているんだろうと思いもするが、少しだけ俯き、恥ずかしそうにしている彼女が愛しくてたまらないのだ。
 相変わらず馬鹿みたいに頬や耳がかっと熱くなるが、握っている小さな手から優しい温もりが伝わってくるのを感じ、随分と心が和らいだ。
 いつか彼女の名を自然と呼ぶ自分がいるだろう。そして、彼女に名前を呼ばれても自然に彼女と向き合える日も来るだろう。
 けれど、肩や指先に感じる温もりを当たり前と思わずに、大切にしていきたい。
 この声で彼女の名を呼び、この手で彼女を守っていく。
 そして、誰よりも近くのこの位置で、彼女をずっと見つめていきたい。
 思いは通じあったばかりだが、重ねた気持はこれからもずっと続いていくのだから。
 だから、『月子』。
 この名はそっと心の中で。
 いつか自然に呼べる日が来るときまで、何度も心の中で繰り返し呼ぼう――君の名を。



End.

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