Starry☆Sky

夏の雨、君と二人【宮地×月子】



「そろそろこっちにも雷が来そうだから、練習を切り上げて早く帰るように。のんびりしてちゃだめだよ」
 ほんの三十分前に部長の金久保に言われ、皆で素直に帰り支度を始めたまでは良かった。けれど、今すぐどうこうなりそうな天気じゃないとタカをくくっていたのがそもそもの間違いで、いつもよりのんびりと更衣室を陣取っていたのがいけない。
 インターハイを控えた今、いつもよりさらに練習に熱が入っている。皆の熱気に負けじとどこかで蝉が派手に鳴いている今は夏真っ盛りで、しかも当然のごとく道場は開放型になっているのでエアコンなどあるはずもなく、大量の汗をかく。
 部活が終われば寮までの一本道を歩いて帰るのみなのだが、胴着を脱ぐ際にやけに肌に引っかかるのが気になり、大判のウエットティッシュで簡単に汗のべたつきを拭っていたのだが、着替えも終わってさあ帰ろうとなったときに、帰らせるものかとばかりに地響きまでする雷鳴が轟き、時既に遅しということに月子は気がついた。
 急いで制服に着替え、バッグを胸元に抱えるようにして射場を覗くが、しん、とした静寂が広がるばかりで人の気配はない。
 要するに、月子たった一人だけが取り残されている状態だ。
「う……。完璧一人ぼっち、だよね」
 頼りなく呟くと同時にあたりがカッと一瞬明るくなり、直後ドカン、と派手な雷が鳴り響く。
「わ、わ、わわわっ!」
 思わずしゃがみこんだとき、滑りのいい床のせいでぺたんと尻もちをつくような形になってしまった。スカートの裾が派手にめくれたものの、幸いなことに誰も見ているものなどいない。
「いいのか、悪いのかなんだけどね……」
 苦笑してスカートの裾を直し、はあ、とため息をついている間にも眩しく外が光る。派手な音が地面や空気を震わせる度に月子は思わず肩を竦める。
 そんなとき、そういえば戸締りはどうなってるんだろうと気になり始め、恐々と出入り口に向かうのだが、すでにしっかりと鍵がかかっている。もうとっくに自分は帰ったものと思われたのだろう。
 確かに、そう思われても仕方がない。更衣室は当然だが男女別になっているし、この天気でのんびり着替えをしていたとは思いもしないだろう。
 戸締りの最終確認は部長の金久保か副部長の宮地がすることが多く、部活が終わったら出入り口の鍵を閉め、顧問である教師の陽日に渡すことになっている。
 その陽日に呼び出され金久保は皆よりも早く道場を出たので、今日は宮地が戸締りの最終確認係というわけなのだが、この調子では――。
「宮地君、私を忘れてたな〜……」
 着替えが遅かった自分が本当は一番いけないのはよく分かっているが、何となく呟いてみたくなった。
 軽く頬を膨らませて戸を睨むと、擦りガラスの向こうで外が一瞬明るくなる。
 ここでカギを開けて帰っても、陽日に連絡をすれば彼が戸締りをしてくれるから何の問題もない。――けれど、だ。
 この激しい稲光と雷鳴が響く中、寮まで帰る度胸はない。今外に出ようものなら、落雷の直撃でも受けそうなほどだ。
 ――無理だよ。無理だってば。
 ぶるっと首を振ってすごすごと射場へと戻り、ひざを抱えながら心細い気持ちでチカチカと光る的正面を見つめる。
 雨が本格的に降り始めれば多少雷も収まるはず。その時を今しばらくの間待つしかない。濡れるのは嫌だが、だからといって完全に雨が止むまでには時間がかかりそうだし、それまでここでこうして待っていても仕方がない。
 ――雨脚が弱くなるのを待って、ここを出よう。
 多少雨に濡れて帰ることになるのなら、念入りに汗など拭わなければよかったかもと思うけれど、それも今更だ。
 静かな道場で耳を澄ますと、ぽつ、ぽつ、と屋根を打つ音がする。
 抱えた膝に額を押し付けてさらに耳をすますと、その音が次第にいくつも重なり始め、ついにはザー、という大音量へと変わる。見れば矢道が白く霞んで見えるほど外は激しい雨が降っている。そして、なんといってもそこに追い討ちをかけるような激しい雷鳴。
 自分のため息さえも聞き取れないほどの中、瞼を閉じて雷が過ぎるのをただ願うばかり。
 雷はそれほど怖くない。道場に一人ぼっちでいるのだって同じだ。
 確かにここは静かな場所だが、朝も昼も、夕暮れ時も、そして夜さえもいつでも自分の背筋をまっすぐにのばしてくれるような、不思議な力が湧いてくる場所だ。
 なのに、どうしてこんなに心細いのだろう。
 顔をうずめたまま深く溜息を吐いたとき、一際派手に雷が鳴り響いた。
 と、同時に不意に肩を掴まれて月子は反射的に体をびくっと震わせた。自分以外の誰かがいるなんて、思いもしなかったから、大げさすぎるほどに肩が上がった。
「きゃあっ!」
「うっ……お、俺だ、夜久!」
 ゴロゴロと空がうるさくて声がよく聞き取れないまま、怖々と視線を上げると、そこには少しだけ怒ったような顔をした宮地がいたのだが、目が合った時ほっと安堵したような顔を見せる。
「な、なんで、宮地君」
「なんでは俺の台詞だ。どうして道場に残ってるんだ! 俺はとっくに寮に戻ってるのかとばかり思っていたのに」
 額を抑えながら宮地がはあ、と大きなため息を吐く。
 僅かに掻き上げられた髪や肘からは、ぽたぽたと雨の滴が零れ落ち、よくよく見ると頬だけでなくその白いシャツまでもびっしょりと濡れている。それを見て思い出したが、外はバケツを返したような雨なのだ。おまけに凄い雷も止むことなく続いている。
「宮地君、まさか寮からまたここに戻ってきてくれたの?」
 ――こんな雷の中で? こんな土砂降りの中、わざわざ道場まで?
 腕で額の雨を拭いながら宮地は眉間に縦皺を軽く刻む。
「雨が降り出す前に寮に戻ったとき、白鳥や犬飼に「夜久は大丈夫だったか?」と尋ねられた。何が大丈夫なのかと聞けば、お前が最後まで道場に残って帰り支度をしてたから、雨に降られていないか心配だった、と言うじゃないか。……俺が戸締りをする時に見送ったのは、小熊、犬飼、白鳥、木ノ瀬の順番で、お前を姿を確認していなかった。……俺は、お前がとっくに帰ったものとばかり思い込んでいたんだ」
 髪から雨粒が落ちることなど気にもせず、宮地は申し訳なさそうに視線を落として静かに言う――置き去りにして、悪かった、と。
 ぱた、ぱた、と滴が落ちる度に透明な円を描く。
 幾つも幾つも彼の足もとに小さな円が作られるのを見て、月子はなぜか胸がドキドキするのを感じた。申し訳ない気持ちが大きく心を占めているはずなのに、そのどこかで勝手に心が震える。
「ううん、宮地君は悪くない。私がいけないんだよ。もたもたして、帰り支度が遅くなっちゃって……ごめんなさい」
「いや、最後にちゃんと確認をしなかった俺の落ち度だ。……すまない、夜久」
 素直に頭を下げる宮地に、月子もつられて「いえ、私こそ……っ」と頭を下げる。下げた視界の中でも、落ちる滴が目に映る。さっきから気になっていたが、いくら真夏とはいえ、濡れたままの彼を放ってはおけない。ましてや、この激しい雷雨の中自分を迎えに来てくれたのだ。
 ――何かタオルとかあれば……って。
「……あ!」
 月子は顔を上げて宮地を見上げる。そういえば、夏場だから必ず一枚多くロッカーにタオルを用意していたことを思い出した。確かまだ手をつけていないからきれいなはずだ。
 ――うん、そうしよう。あれを使おう!
「む?」
「ちょっと待ってて、宮地君!」
 言い終えるよりも早く踵を返す。向かうところは女子更衣室、自分のロッカーだ。
「お、おい、夜久!?」
 途中、激しい雷鳴とともに電源が急に落ちる。小さくきゃっ、と悲鳴を上げて足を止めたものの、長く使っている弓道場だ。暗がりの中でもどこをどう辿ればいいのか目を瞑っていても簡単にわかる。
 とはいえ、自分はそそっかしいのでできる限り慎重に歩き、ロッカーの中からタオルを引っ張り出して再び射場へと戻る。
「お待たせ、宮地君」
「お前……大丈夫か? 真っ暗な中、転んだりは……」
「ううん、大丈夫だよ。それより、ちょっとしゃがんでくれる?」
「は!? いきなり何を言って……」
 道場の外にある外灯は別電源なのか、真っ暗な中でもかすかにその光は届きぼんやりと射場を照らしてくれる。僅かに見えた宮地の表情は明らかに戸惑っているが、有無を言わさず月子は腕を引っ張る。
「いいから、いいから」
「おい、夜久っ――」
 頭一つ分高い宮地の頭に、広げたバスタオルを被せる。月子は両手を伸ばしてなるべく優しく彼の髪を拭くと、最初こそ戸惑い、焦ったような声で抵抗していた宮地だが、少し経つと大人しくされるがままにしている。
「迎えに来てくれて、ありがとうね。随分濡れちゃったよね」
 素直な気持ちで静かに言うと、俯いたままの宮地が「……いや、これくらい別に」と短く返す。
 こんなに背が高いのに、なんだか小さな子供のようだと思うと少し微笑ましくなる。胸の奥がくすぐったいのは、きっと素直に言うことを聞いている宮地が可愛らしく思えるからなのかもしれない。
 そう思いつつもある程度髪を拭いたら、今度は濡れて光って見える頬へとバスタオルを当てようと手を伸ばすが、不意に手首を掴まれて月子は驚く。
「みやじ、く――」
 まじまじと彼の顔を見つめると、宮地は真っ直ぐにこちらを見ている。少し怒ったように見えるのは気のせいなのだろうか。
 彼がどう思っているのかを知りたくて、目をそらすことなく見つめ返すと、不意にその視線を逸らされてしまう。
「その……か、顔は、いい! 腕もシャツも、あとは俺が拭くから、それを貸してくれ」
「う、うん」
 眉間には皺が刻まれているが、怒っているようではない。怒っているというよりむしろ……。
 ――照れてる……のかな?
 言葉にはせず心内でそう呟けば、特に意識していなかった月子も次第に意識し始める。そういえば、随分と二人の距離は近く、顔だって宮地が動けばぶつかってしまいそうなくらいだった。
 ――な、なんだろう! 急に恥ずかしい。でも、確かに近かったよね。宮地君の髪から、ちょっとだけいい匂いがしたと思ったんだけど、あれって、シャンプーか何かの匂い?
 それがわかるほど近くにいたのかと思うと、今更ながらに頬や耳に熱が集まる。
 心臓までもうるさく騒ぎ始めるので、手持無沙汰になった手を胸元にあてて心を落ち着かせようとする。
 タオルで顔や腕を拭く宮地の腕が動く。いつも弓を持つ腕だ。そして、見慣れすぎているせいか、射場から見る景色の一つとなっていた腕でもある。
 なのに、こうして意識して見つめてみると、触れば柔らかい自分の腕とは違い、彼の腕はぴんと弦が張っている弓のようにしなやかで逞しいことに気が付く。
 明かりがあまり届かないこの場所からでもわかるように、程よく日に焼けている肌がそれを強調しているように思える。
 同じようにロードワークに出て、同じように弓を引いているのに、どうしてこんなに違うんだろう。
 薄明かりの中でぼんやりと宮地を見つめていると、不意に視界がパッと明るくなる。
「む……? 電気が戻ったみたいだな」
「あっ、う、うん!」
 髪を拭きながら天井を見上げる宮地の隣で、月子は少しだけ俯いた。
 今、ちょっとだけ見とれていたことを気付かれていなければいい。そう思いつつも、気恥ずかしさを拭いさることができず、どうしていいのか分からない。
「でっ、でも、雨と雷はまだまだ続くみたいだね! 少し、収まるのを待つしかないよねっ。……ね、ねえ、立ったままなのもなんだから、座って待たない?」
 そそくさと月子は腰を下ろし、一人で座っていたときと同じように膝を抱える。
 ――そうだよ。と、とにかく座っちゃおう! だって外には行けないんだし、なんか、恥ずかしくて立っていられないよ……!
「そう、だな。とりあえず、もう少し小雨になるまで待つか。雷もじきに通り過ぎるだろう」
 首にタオルをかけたまま、膝を抱える月子の隣に宮地が腰を下ろす。
「夜久。タオル、ありがとう。ちゃんと洗って返すから、もう少し借りるな」
 いつになく柔らかい微笑みに、月子はうん、と頷く。
 相変わらず外では雷がうるさい。雨音も弱まる気配を見せない。なのに、とても静かに感じられるのはなぜだろう。衣擦れの音一つにしても、やけに意識してしまう。
 雷すごいね。
 ああ、どこかに絶対落ちてるんじゃないか。
 雨も、たくさん降ってるね。明日ロードワークできるかな。
 思いっきり泥はねしそうだな。俺は別に気にしないが、お前はやめといた方がいいんじゃないか?
 私だって平気だよ?
 そうか? あまり無理するなよ。
 そんなどうでもいいことをぽつり、ぽつりとたまに小さな笑みを浮かべながら話す。互いの顔を見ようとせず、ただ遠くにある的を見つめての会話はどことなくぎこちなくて、会話が切れ切れになる。
 さて、次をどうしよう。
 言葉を選びつつも、抱えていた膝を離して床へと手を下ろすと、硬質な床の代わりに指先に届くのは、隣に座る宮地の手の温度。どうやら、両手を後ろについていた宮地の手に触れてしまったようだ。
「あ……、ご、ごめんね!」
「い、いや、別に……」
 なぜか二人揃って姿勢を正す。それが余計に気恥ずかしさを生むことを知りつつも、そうせずにはいられなかった。
 ぎこちない咳ばらいを一つして、顔を合わせることなくただ、雨に霞む的を見つめる。
 ひどい雷雨だから早く治まってほしいと思うと同時に、もう少しこの変な緊張感を味わうのもいいかもしれない、となぜか月子は思う。
 意識しすぎて会話らしい会話もなく、互いの顔さえ見られないのに、もう少しこうして二人でいるのも悪くない。
 そんな風にを思う月子をたしなめるように、大きな雷が一つ。
 びくっと肩を揺らしたものの、たいしておびえることのない月子に、宮地はやっと顔を向ける。
「夜久は、雷平気なのか?」
「え? あ、うん。そんなに怖いとは思わないよ」
 そう返すと、宮地は「ふーん……」とだけ呟く。どことなくつまらなさそうな横顔に、月子はちょっとだけ悪戯心を起こして顔を覗き込む。
「ねえ、キャーこわい! って、飛びつかれたかった?」
「だ、誰がだ! というか、お前……何楽しそうに言ってるんだ。俺で遊ぶな!」
「へへっ」
 案の定、すぐに顔を真っ赤にして宮地はこちらを見る。この顔見たさに月子はさらに言葉を続ける。いつも真面目な顔をしている宮地の表情が、からかうことによってちょっと崩れるのがなんだか可愛らしくもあり、彼の素顔を知ることができたような気がして好きなのだ。
「ずっと一人ぼっちだったら、そりゃあ怖いかもしれないけど、でも……今は宮地君がいるから平気! 嵐の中を一人、迎えに来てくれた頼もしい王子様がいるから、ちっとも怖くありませーん」
 冗談めかして言ったつもりだった。
 王子様、なんて口にすればきっと彼はもっと照れて困るだろうと思っていた。
 けれど、赤い頬の横顔は真剣な表情を浮かべたまま、静かに言った。
「怖くないなら、よかった」
 的を見ていた目が、月子を見つめる。
 少しはにかんだような笑顔と、柔らかい目元。
 それを見て、月子の胸はまた騒ぎ出す。思っていた反応と全然違う。
 こんなの、想像してなかった。
 ――照れると思っていたのに。慌てると思っていたのに宮地君、素直なのは……優しい顔は反則だよ。
 頬が熱くなったのは、月子の方だった。
「もし怖い時は、俺を呼ぶといい。それで夜久が安心するのなら、いつだって俺はお前の所に――」
 優しい声で紡がれていた言葉がふと途切れる。
 ドキドキとうるさい鼓動はそのままで彼の顔を見つめると、少し前に月子が期待したような戸惑いと焦り、さらには照れが混じった複雑な表情がそこにはあった。
 口元を覆っているが、月子にはそれがはっきりと見えた。
「み、宮地くん……」
「いっ、今のは冗談だ! ……い、いや、本心だが――っ、そうじゃなくて!」
 こちらを向き直ろうとした宮地の手が、不意に月子の手の上に重なる。
 自分の手を包んでしまうほどの大きな手に、月子が目を丸くして宮地を見つめるのと同時に、あたりは一瞬真昼のように明るくなり、そして、一気に真っ暗になった。二度目の停電だ。
「あ……」
 再びの暗がりの中、手だけでなく声も重ねあった二人は、互いの顔をまじまじと見つめあう。
 その後、間をおかずして宮地のひっくり返った声が雷にも負けない勢いで道場に響き渡る。
「い、いちいち停電するな! 変に場を盛り上げるなっ!」
 そう言いながらも彼の手は月子の手から離れることなく、むしろなぜか強く握られたのだった。彼自身、それに気づいているのかいないのか月子にはわからないが、あえてそれを宮地に告げなかったのは、握られた手がちっとも嫌ではなかったからだ。
 ちょっとしたハプニングから繋ぎ合ったこの手だが、もう少しこうしていてもいいかな、と照れた横顔を見ながら月子は小さく微笑むのだった。
 こんな雷なら、ますます平気になりそうかな――その呟きは、そっと心の内側に隠して、繋いでいる指先にほんの少し力を込めた。



End.

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