VitaminX

愛を込めて、花束を【翼×悠里】



 さっきから妙に翼の様子が落ち着かない。
 おとなしくソファーに座っているものの、額に手を当てて考え込んだり、腕を組んだり、はたまたため息を吐いたりと、明らかに様子がおかしい。
「翼様、何か気になることでも?」
 先ほど頼まれた紅茶を差し出すと、「すまないな」と言ってカップを手に取り、一口含む。
 高校を卒業してから翼は変わったと永田は思う。
 今のように、たとえ紅茶の一杯でも、何かをしてもらったら、必ず自分に礼を言うようになったのだ。
 今まで真壁財閥に――翼に尽くしてきた永田にとっては、主に仕えることこそ自分の命であり、何かをしてあげたとしても、礼を言われるまでもないことなのだが、たったひとこと「ありがとう」「すまないな」と言われるだけでこうも気持ちが嬉しく、暖かくなるものかと改めて思った。
 人として、誰かに何かをしてもらったら、一言礼を言うぐらい当たり前のことなのだが、翼の生まれ育った環境は、一般家庭で生まれた者とは明らかに異なっていたこともあり、「されて当然」というのがいつの間にか彼の心に根付いてしまっていた。
 それをたしなめることなく、ここまで彼の面倒を見てきた自分にも非があるのだろうけど、真壁財閥をいずれ背負うことになる彼は特別な存在。人の上に就く彼はそれでもいいのだと見逃し、見守ってきたことも事実。
 けれどそんな彼をたった一年で変えてしまった人物がいる。
 聖帝学園の教師――翼の担任であった、南悠里だ。
 彼女の根気強さ、心の温かさ、翼を真剣に思う気持ちが、たった一年で成績はおろか、その心持さえも変えてしまった。
 あれほど対立していた父である真壁吉仲にも、翼は少しずつではあるが理解を示すようになってきた。
 真壁グループの将来にしても、以前はあれほど興味がないと言い切っていたにもかかわらず、真剣に向き合おうと努力をしている。
 大切な人――悠里との出会いが彼を変え、今まで自身を培って来たもののありがたさ、大切さに少しずつ気づき始めたのだ。
 そんな彼を悩ませることといえばやはり唯一つしかないだろう。
「その……悠里が風邪を引いて、寝込んでいると」
 やはりこの春から、晴れて恋人となった悠里のことで悩んでいたのだが、まさか寝込んでいるとは。
「悠里さんが?」
「ああ。今日の夜に時間は空いているかと電話をしたら、体調が悪くて寝込んでいるから無理だと言われてな。あいつは、三十九度も熱があるのに、今日が土曜日でよかったと笑っているんだ。……学校を休まずに済んでよかった、と。今日と明日休めば、きっと良くなるだろうからって」
 翼たちB6が卒業した後も、悠里は変わらずClassXを受け持ち、今も変わらず手のかかる生徒たちを相手に、日々奮闘している。
 翼たちが在学していたときもそうだったが、多少体調が優れずとも休むことなく教壇に立っていた。
 いつか随分と体調が悪そうだったので、思わず、「少しお休みになられてはいかがですか?」と声をかけたのだが、彼女はこう言ったのだ。
「皆に頑張れって言ってるのに、私だけ頑張らない訳いかないじゃないですか」と。
 その頑張りぶりは今も健在のようで、こうして時々、翼の悩みの種となっているようだ。
「あのバカ……。寝込んでいるというから、見舞いに行くと言ったら、俺に風邪が移ったら大変だから、少しだけ会うのは我慢してだなんて言う。本当にバカか、あいつは……っ。風邪が移るくらい、俺にはどうってことないのに!」
 だけど来るなと彼女ははっきり言ったようだ。風邪を引いたら講義を休むことになるだろう、モデルのバイトだってあるのにどうする、と。こんなのすぐに直るんだから大丈夫よと咳き込みながら、笑って――
「それで、翼様はお見舞いに行かれないのですか?」
 そう尋ねると、翼は顔を上げて半ば自分を睨むようにして言う。
「お前……っ。来てはだめだと行っているのに、行けるわけがないだろう!」
 日頃、誰が何を言ってもこうと決めたらやり通す意志の強さがあるくせに、大切な人が絡むとなると、その人を想うあまり引いてしまう一面がある。
 ――優しすぎるんですよ、翼様は。聞き分けが良すぎるのです。
 心の中でそう呟き、永田はそっと目を細める。
「確かに、長居をすれば悠里さんの身体にも障るし、風邪も移る可能性だってございます。けれど、悠里さんは一人暮らしです。口では来るな、とおっしゃっても、心細いことだっておありのはず。……お邪魔にならない程度に、様子を伺ってきてはいかがですか? 万が一へ屋で倒れられていては流石に心配です」
「だが……」
「物分りの良すぎる翼様は、らしくないんじゃないですか?」
 笑みを見せて本心を伝える。
 いつも我侭ばかりだったが、それはそれで愛おしいのだ。あまり急に物分り良くなりすぎると、これから長い先のことを考えると心配になってしまう。
 人の上に立てば立つほど何でも内に溜め込んでしまうのではないか、彼ばかり我慢ばかりして人に譲ってしまうのではないかと。
 そんな風になるのであれば、いっそ我侭のほうが気持ちがいい。無茶苦茶でもかまわない。
 ――それこそが私がよく知っている翼様です。悠里さんもきっと、私と同じでしょう? 翼様を大切に思う者同士、きっと。
「……そう、だな。おとなしく待ってるだけなんて、俺ではない、か……」
 おとなしく話を聞いていた翼が、ほんの少し困ったように笑う。
「ええ」
「それに、大丈夫よと無理して笑う奴ほど当てにならないのも、俺は良く知ってる。……大丈夫、大丈夫だからと笑いながら、俺の前からいなくなってしまった人も……知っている。だから、もう待ってなどやらん。……それでいいんだろう、永田?」
「はい、翼様」
 大丈夫と儚げに笑い、翼の前からいなくなった人物を、永田も良く知っている。
 翼と出会う前から、彼の母であるセアラに何度か会ったことがある。とは言っても、ほんの数回程だが、ゆくゆくは成長した後の翼に就くかもしれないと伝えたら、優しく笑って自分にこう言ったのだった。「その時は、よろしくお願いね」と。
 綺麗な薔薇が咲く庭園で、優しく微笑まれたのを今でもはっきりと思い出すことができる。
 とても美しい人だった。どこか儚げなところはあったが、それでもとても美しく、気品のある優しい方だった。その人は、翼の父である真壁吉仲がこよなく愛した人だった。
「これからお車をご用意いたしますが、お持ちになる花は何がよろしいですか。やはり薔薇でしょうか?」
 花の手配をするために携帯を取り出す永田に、翼は少しだけ考えるような顔をする。
「薔薇……か」
 その表情が僅かに曇って見えるのは、やはり母、セアラのことが重なるのだろう。
 病床に伏している時に、自分の手で薔薇を摘んで母の元に持って行ったという話を、一度だけ翼の口から聞いたことがある。早く元気になれと願いを込めて摘んだということも。――その願いが叶わなかったことも。
 その時の幼い翼の気持ちを思うと胸が痛いが、今彼が大切に思う最愛の人は生きている。今を生き、共に笑い、共に歩いているではないか。
 ――あの方とは違うのです。セアラ様と悠里さんは違います。辛く悲しい記憶にあるお姿と、今ある愛おしいかたのお姿を重ねてはいけない。貴方も立派に成長なさったのです、翼様。何も持たない子供……幼いままではないのです。
「翼様、一つよろしいでしょうか」
「なんだ」
「セアラ様と悠里さんは、違いますよ」
「……永田?」
「悠里さんは、ちゃんと生きてらっしゃる。それも風邪をひかれただけとのこと。少しの間、大事にしていれば何の問題もございません。それに……」
「なんだ、言ってみろ」
 言葉を切ったのは、これを言うべきかどうか迷ったからだ。けれど真っ直ぐに翼を見つめて先を続ける。
「あの方は……悠里さんはお強い方です。なにせ、翼様を無事に卒業させただけでなく、東都大学に合格できるまで面倒を見てくださった方なのですから」
 驚いたように目を丸くしてこちらを見つめる翼に、もう一言だけ付け加える。
「遠い記憶にある幼い貴方様と、今の貴方様は違うのです。翼様も、確実に……立派に成長されていらっしゃるのですよ。それはこの永田が保障いたします。誰より貴方様を見てきたこの私が」
 両手を祈るように組み、それまでじっと話を聞いていた翼が、僅かに眉を寄せて息を吐いた。
 出すぎた真似をしてしまった。……そう思い、非礼を詫びようとしたのだが、それよりも先に翼が口を開く。
「……花は、いつもの店に手配するのか」
「はい。よろしければ、今から――」
「いや、俺が手配する」
 畳んであるフィリップを開いてボタンを押そうとする自分を制し、翼は自らの携帯を取り出す。
 店の番号など翼に教えたことはなかったのに、どこで調べたのか。あの店は番号を調べるにも、電話帳にもネットにも掲載されていないはず。
 今度驚くのは永田のほうで、彼が店の者とやり取りをしているのをただ傍らで立ち尽くして聞いていた。
「……ああ。それでいい。一つはお見舞い用の花だ。あまり香りがきつくないものを選んでくれ。そしてもう一つは、花の色が濃いものを選んでくれ。何せ、渡す相手が一癖も二癖もあるのでな。……けれど、あまりにぎやかに纏めないで欲しい」
 ――もう一つ?
 怪訝に思い、電話を切った翼に尋ねる。
「翼様、一つは悠里さんにお贈りするものだとわかりますが、もう一つは一体……」
 ひょっとすると亡き母の分であろうか。そう思ったのだが、一癖も二癖もあると彼は言っていた。
 少し前までは突拍子もないことばかりする人だったが、今日、久しぶりにそれを見たような気がする。
「癖がある奴と言ったら、数限られている。B6の仲間と俺の親父。そして……お前のことだ、永田」
「私……ですか? でも、なぜ」
 まったく訳がわからなかった。
 花を贈られるような何かをしたわけでもない。何かを祝ってもらえるような日でもない。いや、勿論主に祝ってもらおうなど恐れ多いことは爪の先ほど思っていない。
「ハハッ、お前の驚く顔を久しぶりに見た! たまには驚かせてみるものだな!」
 ご機嫌に笑っては再び紅茶を飲む。
 もうすっかり冷めてしまっているだろうに、翼は最後までそれを飲み干す。
 そして、上着をつかみながら立ち上がり、清々しく笑うのだった。
「行くぞ永田。花も手配を済ませたし、あとはこの俺が顔を見せれば、悠里の風邪などアメリカ大陸の向こうに飛んでいくだろう!」
 高らかに笑って廊下を歩く。永田もその後を追い、エレベーターの前にて、車が置いてある地下の番号を押す。
 いつも車を一階正面口まで回し、そこで翼を乗せるのだが、今日に限って彼は地下まで一緒に行くという。
 一体どういう風の吹き回しかと怪訝に思いながら後部座席のドアを開けると、乗り込む寸前に翼は言った。
「……今日は、ありがとう。お前が俺のそばに仕えていてくれて、本当によかったと思っている。おそらく、親父も……母も、そして、悠里もそう思っているだろう」
 花はその礼だ、と彼は言う。
 いつもありがとう、と。
「翼、様……」
 影となり、時として盾となって真壁家に尽くすのが永田に生まれたものの役目だと言い聞かせられており、永田自身もそれを微塵も疑いもせずここまでやってきた。
 仕えられる幸せに感謝こそすれど、感謝をしてもらえるなど、夢にも思わない。
 胸が暖かくなるのを感じる。真壁財閥の秘書たるもの、どんなことにも動揺してはならないはずなのに、なかなか次の行動を起こすことができない。
 ――まったく、貴方という人は……。
 困ったように永田が笑みを小さく浮かべると、車の中からは照れたような――面白くなさそうに少しばかり不貞腐れた声が聞こえる。
「は、早く車を出せ! 悠里の風邪がこれ以上悪化しないうちに会いに行くぞ。……は、花だって枯れてしまうではないか!」
「……はい、翼様」
「そ、そこは『そんなにすぐには枯れません』とかなんとか言うべきだろう!」
「申し訳ございません」
「……ふ、フン!」
 素直なのに、どこか素直じゃない翼の性格は、この長い付き合いの中でよくわかっている。
 けれど、改めて愛おしく思うのだ。彼に仕える一人の者として。時として父のように。または、兄のように。
 ――それを言ったら、翼様はお怒りになるでしょうか。図々しいにも程がある、と。でも、私は思うのです。貴方に仕えることができてよかった。真壁家に仕えることができて、本当に良かったと。そして、これからもずっとお傍で……変わらず陰ながら貴方様と、悠里さんを支えて参ります。
 私なりに想いを込めて。
 ――貴方がたに祝福がありますように。
 そして、それがずっと続きますように。
 受け取ったピンクの花束は、男の自分が持つには少々愛らし過ぎるのだが、届く香りはほんのり甘く、そしてすぐそこまで近づいている春を思わせるような暖かさがあった。
 この花束を手にし、永田は思うのだった。
 今日というこの日を自分は一生忘れないだろう、と。
 記念日でもなんでもない一日なのだが、この花束をもらった今日の日のことは、一生忘れない。
 「いつもありがとう」照れたようにボソッと呟いたその声も、ずっと。



End.
2008.08 夏コミ頒布『pastoso』より 2009.01WEB掲載
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