VitaminX

一番をあげる【翼×悠里】



 橙色を残す空。
体育祭が無事に終わった今、男性教諭と体育祭の実行委員会のメンバーはその後片付けをしている。
 悠里も何か手伝いが出来ればと残っていたのだが、男性陣からは「こういうのは男に任せておけばいい」と笑顔を向けられてしまう。
 かといっておとなしく戻るのも申し訳なく、所在無く立ち尽くしていたのだが、その時ふと離れにあるフェンスに凭れ、腕組みをしている翼を見つけた。
 B6のメンバーは教室ではなくバカサイユに戻っているはずなのに、こんな場所に一人で一体どうしたのだろう。まさか足でも痛むんだろうか。随分と大きな痣が出来ていたので心配だ。
 そう思い、悠里は翼の元へと駆け寄った。
「翼君、どうしたの?」
「担任こそどうした。ボンヤリ突っ立ってただろう」
 フェンスにもたれたままの翼がこちらを見る。
「あはは、見てた? 実はね、片づけを手伝おうと思ったら、先生方にいいって言われちゃったのよ。やっぱり女手は邪魔なだけなのかなぁ。……翼君こそ、バカサイユに行かなかったの?」
「まあな。そろそろ向かおうとは思っていたが、少しだけな」
 夕日の色は悠里や翼にもその明るさを届けており、二人の服を同じ色に染めている。
 どこを見るでもなく遠くを見る翼のその横顔は、いつもよりどことなく大人びて見える。
 妙に穏やかとも、はたまたセンチメンタルとでもいうようなこの空気がどことなく慣れず、悠里は少しだけ落ち着かない気持ちになる。
 補習のときも静かな教室で向かい合っているが、それとはまた違う静けさと穏やかさだ。
 翼もいつもであれば憎まれ口の一つでもたたくはずなのに、それがない。
 ――なんか、ちょっと緊張するわね。生徒相手に緊張もなにもないのに。
 そう思いながら、悠里も翼と同じようにしてフェンスに背を預ける。
「ねえ翼君、怪我したとこ大丈夫? 痛まない?」
 途中で帰ってしまった一の代わりに参加した騎馬戦で、翼は怪我を負った。怪我といってもそれほどたいしたものではないのだが、故意にでもやらない限りできないだろう足の痣と傷は、翼がふと漏らした言葉からするとClassAの岡崎が仕掛けたもののようだ。
 おそらく校舎裏で揉めた一件が原因だろうが、生徒会長でもあろう彼がどうしてそこまで一やB6を敵視するのか。
 これでもし一が参加をしていたのならどうなっていたのだろうと、服で隠れた傷口へと視線を落としては僅かに眉を顰める。
 ――一君は途中で帰ってしまったけど、翼君に対してこんなことするぐらいだから、もっと酷いことになっていたかもしれない……。そう考えると、やっぱり引き止めなくて良かったのかな。教師として本当はよくない考えだけど、そう思わずにはいられないわ。
 岡崎と一の間に何があったのか悠里はまだ知らないが、二人の仲は相当こじれているということぐらいはさすがにわかる。
 優等生と劣等生。相反する者同士の嫌味や僻み程度で言い合っているぐらいならまだしも、B6メンバーの反応を見ている限り、そんな可愛いものではないようだ。
 普段は面倒見のいい一が、こと岡崎やサッカー部のことになると人が変わったようになってしまう。怒りや憎しみ、深い哀しみの色がその瞳に見えるたび、何がどうしてこんなふうに彼を変えてしまったのか、その真相をClassXの皆に問いただしたいくらいだが、どんなに尋ねた所で、誰も答えてはくれないことは明らかだ。
 それは『知らない』からではなく、そのことには極力触れないよう……そう、まるで避けているように見える。
 徐々に打ち解けてきていると思った生徒たちだが、自分はまだ踏み込んではいけない位置にいるのだと思い知らされる。
 一をよく知っている翼であれば、様々な原因や理由を知っているのだろうけど、彼もこの件については頑なに口を閉ざす。
 ――時が満のを待つしかないのかな。……悔しいけど。
 何事にもタイミングが必要なのだ。最初は補習を受けてくれなかった翼が、今では物もお金もちらつかせずにおとなしく補習を受けてくれるようになったのと同じで、時期というのがある。その時期とやらは今ではないのだろう。
 今自分に出来ることといったら、そのいつかを信じて待つ他ない。それしか出来ないのが歯がゆいが今は仕方ない。そう思いながら息を吐くと、翼が困ったように小さく笑う。
「担任、そんな顔をするな。折角忘れていたのに、お前のせいで急に痛くなるだろう」
「あ、ごめん。ただ……なんか、色々考えちゃって」
 その色々が何を指すのか気付いた翼は、暫らく黙ったまま遠くの空を見つめていたが、やがて可笑しそうにふっと鼻で笑う。
「なに? どうかした?」
「……いや。なんか今年の体育祭はやけにジュージツしたと思ってな。何種も競技に参加することになるとは思いもしなかった。そもそも俺は暑苦しい肉体派じゃない」
「頭脳派でもないわよね」
 くすくすと肩を揺らして笑うと、翼は目だけを動かして悠里を睨む。
「何だって?」
「い、いえ〜、なんでも? ……でも後半から翼君やみんながが頑張ってくれたこともあって、順位が大きく変わったよね。学年優勝できちゃうなんて凄いわ。とっても興奮したんだから!」
 しょぼくれていた午前中が嘘のように、悠里も生徒に混じって精一杯応援をした。最後の最後、大詰めになって大差をひっくり返すことが出来た時は、思わず涙が滲んでしまったくらいだ。
 嬉しくてクラスの女子と手を取り合って飛び跳ねてしまったのを、年甲斐もないことだと今更ながらに恥ずかしくなるが、それでもあの瞬間はとてもじっとしていられなかった。
 日頃はB6のメンバー以外とはあまり関わり合いを持たない翼が、皆と協力し合ったことも、胸が熱くなるくらい嬉しかった。
 彼の小さな変化が目に見えて現れていること。それがこんなに嬉しいなんて。新しい一面を見ると心が弾む。まだまだ知らない所がたくさんあるんだと思うともっと知りたいと思う。
 そんな風に思う気持ちは、教師として行き過ぎているのだろうか。
 もし行き過ぎだとしても、今までこんなにも手間がかかる生徒がいなかった分、気になって仕方がないのだと思いたい。……というよりも『教師として』そうでなければいけない。
「この俺が参加してナンバーワンを取れないなどありえんからな。それに担任もキャーキャー黄色い声援を上げてうるさかったから、多少力を出してやったまでだ」
 ニヤッと意地の悪い笑みを向けられ、悠里は軽く頬を膨らませる。
「キャーキャーって、そんなに騒いでません!」
「いいや、うるさかったぞ? 翼君、翼君! と叫ばれるたび、後ろから担任が猛スピードで追いかけてくるんじゃないかとピヨピヨしたぞ」
 ――ピヨ……って、なにそれ。……まあ、ヒヨコみたいで可愛いけど。――んっ、ピヨピヨ逃げる翼君……? なんかちょっとだけ可愛いかも。……ハッ、いやいや、そうじゃなくて!
 危うく想像しかけたが、一瞬にしてそれを頭の中から追い払う。
「ピヨピヨじゃなくて、ヒヤヒヤ! なんでそんなに可愛らしい間違いするの」
 ただでさえ一日せわしなく動きっぱなしで疲れているというのに、この愛苦しい……というか小憎らしい間違いでどっと疲れが出る。
 が、そんな悠里の気持ちなどまるで関係ないといったように、翼はいつもの妙なポーズをつけてふんぞり返る。これがなければどれだけいいことか。
「フン、愚かだな担任。可愛らしいのはこの俺だからに決まっているだろう? 俺は間違い一つ取っても愛らしく、人の心をクスグルのがタクミなのだ!」
「はいはい、わかりました。っていうかポーズやめ!」
「What!?」
「ああもう、せっかく今日はうんとかっこよかったのに〜」
 はぁ、とため息を吐くと、翼はピクリと眉を跳ね上げ、徐々に満足げな笑みを浮かべる。言葉のニュアンスを微妙にずれた角度で受け取っているのは間違いなさそうだ。
「そうだ、カッコいいんだ! それも今日だけでなくEveryday。まあ、それぐらいのMistakeは許してやる。……それにしても、やっと俺のよさがわかったか。まぁ、今更過ぎるがな。これからもっと、色々と教えてやってもいいぞ、担任?」
 ――そう言ってまたポーズするんだから。あぁ〜……わかってない。
 ちょっと眩暈、と翼に聞こえないように口だけを動かし、指先で軽く額を押さえる。
「翼君がかっこいいのは十分承知してます」
 でもってちょっとばかりおばかさんなのも承知してます、ポーズにも幾つかバリエーションがあるのも知ってるわ! と心内で付け足す。
「でもね、今日の体育祭……一君がエントリーしていた競技に、翼君が代わりに出てくれたじゃない? 騎馬戦も障害物も、リレーも。あの時の翼君、本当にかっこよかったわ。それこそ我を忘れて応援しちゃったくらい」
 いつも涼しげな翼が怪我をしてまで勝利にこだわったり、顔を土で汚した姿は悠里の心を打つには十分で、受け持ちクラスの生徒だからとか、教師だからというのをすっかり忘れ、まるで学生に戻った気持ちになって真剣に応援をした。
 確かに、彼の容姿は類稀なものだ。色素の薄い髪や瞳。生粋の日本人とはまたちょっと違う白い肌。通る鼻梁に涼しげな目元。手足も長く均整もとれており、その美貌は人に賞賛されるがために生まれてきたようなもの。
 自らが持つその美しさをモデルとして最大限に生かしているときの彼は、それこそため息を吐くほど美しい。
 けれど、今日の彼はそのきっちりと作り上げられたような美しさとは別。特別だったのだ。
 学校内ではなく、外での方が多く見られた彼の一面とやらを、今日は学校の中で見ることができた。豪華なレストランでもなく、スポットライトが当たるスタジオでもなく、この埃っぽいグラウンドでだ。
「凄くかっこよかった。本当に見惚れちゃった」
 少し照れくさくて肩を竦めると、翼は意外なものでも見るような目で悠里を見つめる。
「モデルのバイトをしているときよりも、か?」
「ええ」
「泥だらけになり、足にはこんな傷を作っても、それでも……良いというのか」
 目を瞬かせている翼に、悠里は頷く。
「勿論よ。――あ、えっと……正確に言うとね、確かにいつも素敵だけど、今日の翼君は特別っていうことよ? みんなには内緒だけど、頑張った翼君には、一等賞を捧げまーす」
 ひとさし指を立てて笑顔を見せると、翼はぼんやりとした表情で「一等賞……か」と呟く。
 口元に微かな笑みを浮かべたと思ったら、不意にその顔を横に向け、目を合わせずに短く言う。
「……ば、バカ担任。なら賞品ぐらい用意しろ」
 憎まれ口を叩くのはいつものこと。けれどその頬が赤くなっているのは、けして夕日が色をさしているだけではないはず。
 ――ふふっ、照れてる照れてる。
「じゃあ、賞品あげよっか?」
 くすくす笑いをしながら言うと、不機嫌な声で「しみったれた貧乏人の賞品など誰がいるか!」と言い捨てる。
「なによ、自分で用意しろって言っておいて。すっご〜いものなんだから! 金額がつけられないような貴重なものよ。どう、気になるでしょ」
「……ほう。それは面白い。出せ。出すがいい。言っておくが、物を見る目はあるぞ?」
 ――心配だわ、それ。
 自信たっぷりに言われた瞬間、チェック柄のビーナス像やバカサイユを妙ちきりんに飾り立てる数々のオブジェを思い出し、思わず眉を顰めてしまったが、彼はそれに気づいていない様子。
「こ、コホン。じゃあ翼君、ちゃんとしゃきっと立って」
 翼の目の前に回りこみ、真っ直ぐに彼を見上げる。
「こうか?」
 意外に素直に言うことを聞く翼は、ため息をつきながらもフェンスから身体を起こす。
「そう。で、目を瞑って」
「目!? ……た、担任、何をよこす気だ!」
「すっごいものって言ったでしょ。はいお静かに〜」
 といっても大した物が用意できるわけもなく、けれど最初から翼に渡そうと思っていたものをポケットから取り出す。
 彼の手を取り、その大きな手のひらに収まるサイズの箱を一つのせる。
「はい、これ。私の念がた〜っぷりこもってるから、御利益あるわよ〜?」
 眉間に縦皺を幾つも刻んでいる翼は、ゆっくりと瞼を開く。
 そして、手のひらにあるものを目を丸くしてはまじまじと見つめる。
「絆創膏? ……それもBoxでか?」
「そう。一等賞っていうのと、頑張りましたで賞っていうやつかな? 痛いの痛いの、飛んでいけ〜ってね? あ、言っておくけどそれ、未開封だから」
「そ、そうか。わざわざ悪いな。……ってそうじゃないだろっ! 痛いの飛んでけって、お前昼間もやっただろうが! コドモ扱いするなっ」
「ちゃんと卒業できたら大人扱いしてあげるわよ?」
 試すようにしてちらっと視線を上げると、そこには不機嫌を滲ませた顔があり、また眉間に皺を寄せている。
「……Shit!  さっきまで見惚れるくらいカッコいいだのなんだの言っておきながら……っ。絶対に卒業してやるからな! 今に見ているがいい!」
 唸る翼を、やんわりと目を細めて見る。
「……うん、それは凄く期待してる」
「え?」
「何があっても、絶対無事に翼君のこと卒業させるもの、私。……約束する」
「担任……」
 ――そう、翼君の担任だから。……教師だからよ? だから絶対に君を笑顔で卒業させてみせるから。卒業できて良かった、って思ってもらえるように、私も頑張るからね。翼君と一緒に頑張るわ。
「っていうことで、それじゃあね、翼君。私はもう行かなきゃ〜。ふふふっ」
 怒られるよりも先に背中を向けて駆け出す。この調子で翼をからかっていたら真っ赤になって大暴れしそうだからだ。
「何っ!? 待て担任! 今のはどういう意味――」
「あははっ、お手伝いしなくちゃ〜」
 背後では「言うだけ言って逃げるな!」と翼の声が聞こえるが、悠里は足を止めることなく本部の後片付けをしている皆の元へと向かう。
 買いおろしてからあまり日が経っていないヒールにはたくさん砂埃がかかっているが、翼も今日一日同じグラウンドの土を踏みしめていたのだと思うと、不思議と笑みがこぼれる。汚れなど、さして気にもならない。
「すみませーんっ、やっぱり何か手伝わせてくださ〜いっ」
 大きな声で駆け寄ると、椅子や机を畳んでいた鳳と九影は顔を見合わせ、間を置いたのち苦笑を浮かべる。
 ――あれっ、なんだろう?
「いいや、なんでもないよ。ただ、君らしいと思ってね」
「へっ?」
「女性に重いものを持たせるのは、正直気が引けるんだけど……」
 小さく笑う鳳に、悠里はガッツポーズで答える。
「あ、大丈夫です。私こう見えても結構逞しいですから。それに、見てるだけなんてやっぱり気が引けます」
「そうかい? ……それじゃあ、折角だから椅子を運んでもらってもいいかな? 持てる分だけでいいから、あまり無理しないで」
 紳士的な鳳に、悠里は笑顔で頷いた。
「はいっ」
「南、お前、なにも休んでたっていいのによぉ……」
 仕方のねぇヤツだな、と呆れたように息をつく九影に、悠里は笑顔のままで返す。
「だって、じっとしていられなくて。……なんか、そんな気分なんですよ」
 嬉しいのはなぜだろう。
 じっとしていられないのはどうして。
 ただ、なんとなくわかることは、今日がとてもいい一日だったこと。
 泥だらけの横顔と、足の絆創膏が脳裏に浮かぶたび、不思議と心を弾ませる。
 じっとしていられない気分にさせるのだった。
 眩しい夕日に目を向けたあと、彼が立っていた場所へと視線を移す。
 そこにはもう翼の姿はなかったが、そっと微笑んではくちびるを動かし、声にならない言葉をそっと残す。
 『お疲れさま、翼君。君への約束は、必ず守るわね』――と。



End.
2008.02.08UP
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