VitaminX

20candles(and Love.)【翼×悠里】



「まぁ〜た〜きぃ〜た〜なァ〜、翼〜。ダァァアアッ!夏休みだというのに毎日毎日うっとおしぃいい!」
 葛城が半ば奇声ともいえるような叫び声を上げる。
 見つめる先には暗い表情の葛城とは正反対に微笑を浮かべている真壁翼の姿が。
 靴音を鳴らし、いつものように元担任である悠里のデスクの前までやってきて、空いている席の椅子を引いてはそこに腰をおろす。
「うっとおしいのはアンタだ。暑苦しい上にやかましいぞ、銀児サン。いい加減わめくのをやめたらどうだ?」
 椅子を回しては長い足を組んで葛城の方へと体を向ける。
「るせえ! 多少は可愛くなったかと思えば、この仕打ち。オレと子猫チャンとの仲を邪魔しに来るなぁあああ!」
 帰れ、帰れ! と銀児がいい大人なのにも関わらず大きな手足をじたばたさせていると、翼は悠里の方へと視線を向ける。
「……って銀児サンは言ってるけど、そうなのか南先生?」
「ど、どんな仲なのか、私にはさっぱり……」
 悠里は困ったように笑い、額の辺りをさする。確かに『子猫チャン』という愛称で悠里を呼んでいるし、気に入られていることも知っている。だが、それはあくまでも同僚として可愛がってもらっているようにしか思えない。
 口説く言葉もリップサービスだろうし、悠里の心を明るくさせようと気を遣ってくれているだけのはず。軽く明るくお調子者という言葉がぴったりの葛城だが、人を気遣い、時にはしっかりした言葉でそっと支えてくれるという一面があることを悠里はこの一年半の付き合いの仲で知ったこと。
 なので、恋愛感情というよりは、密かに尊敬の念を抱いていると言った方が近いかもしれない。
 それを本人に言ったら、どんな奇行に走るかわからないので心の中でそっとしまっておいているけれど、悠里の中での銀児はそんな存在だ。
「だそうだ。残念だな、銀児センセイ」
「うがっ。酷いよ、南ちゅわあああん。オレとキミとの仲じゃないか〜」
「あははっ、知りませんよ私は?」
「つべたい……それも笑顔で冷たい。しくしくめそめそ。銀ちゃん落ち込んだぁ〜。次の授業出たくないよー! 夏休みなのに特別カリキュラムの授業なんて……mygod! 勤勉なガキどものせいでオレのハッピーサマーバケーションが減っていく〜! ノオオオオゥ!」
 それは去年の私の台詞です、と悠里は心うちで呟く。
 今年は特別講座と題して、有志で集った生徒達に補習の授業を行っており、昨日は数学担当の衣笠で今日は国語担当の葛城の出番になったと言うわけだ。のんびりとした夏休みを計画していた彼は、職員室に現れるたびどんよりと梅雨空のような浮かない顔をしている。
 悠里は相変わらずClassXを受け持っているが、今年は去年の翼たちほど手間のかかる生徒はおらず、補習の日程もそれほど多くはない。今日も出勤しているとはいえ、補習の予定はなく一日事務的な作業に時間を費やしているだけだ。
「っていうことでクソ坊ちゃま! いつまでも長居しないでとっとと帰れよな! マイスウィートハニーの仕事の邪魔すんな!」
「わかっている。俺も用が済んだら出かけるところがある」
 呆れたように笑い、翼は肩を竦める。
「ううう……。じゃあオレは次の授業に行って来るよ、エンジェル〜……」
「い、いってらっしゃい、葛城先生」
 涙を拭きながら、しょんぼりと肩を落として葛城は教室を出て行き、悠里は苦笑しながら翼を見る。
「で、翼君。私に用ってなあに? 何かあったの?」
 資料を机の上でトン、と整えると、翼は「ああ、そうなんだ」と答える。
「先生にちょっと頼みがあってな。ここで話すのもなんだから時間を空けて欲しいんだが、今日の予定は? ……できれば、今日ちゃんと話がしたい」
 妙に改まったその物言いが気になるが、今日はきっちり定時で上がれるのは間違いなさそうだ。
「今日は何の予定もないわ」
「そうか。じゃあ、すまないが少し付き合って欲しい。勿論夕食付でな。俺は仕事の関係で今から親父の会社に顔出しをしなくてはいけないんだが、六時半頃には用も済む。それからでもいいか?」
 卒業後、翼は大学生活と平行して父親の事業の手伝いにも手を出し始めた。それまでは父親の後を継ぐことを快く思っていなかった彼だが、実際仕事を始めたら思いのほか彼の興味を惹かれたらしく、秘書の永田曰く、日々熱心に仕事の書類へと目を通すだけでなく、大学の勉強もよくこなしているのだとという。高校時代と比べると、まるで人が変わったかのようだ。
「ええ、構わないわよ。じゃあ大体七時頃に、場所は……」
 場所はどうしよう、と考えているとすかさず翼が口を挟む。
「駅前はどうだ?」
「うん、決まりね」
 笑顔で返すと、翼も「ああ」と嬉しそうに微笑む。
「とは言っても俺のほうが時間かかるな。先生、少し待たせるようだが平気か?」
「平気よ。少しぐらいの時間なら全然。仕事が終わったら駅前ふらふらしてるから」
「悪いな。それじゃ、また後で」
 そして本当に用件だけ告げて、翼は踵を返す。
 彼が職員室を出る間際、ちらっと顔を見せた永田が軽く会釈をして挨拶をする。おそらく今から父である真壁吉仲のもとへと行くのだろう。翼も学生なのになかなか忙しい身だ。
 誰も居なくなった職員室には冷房が程よく効いている。
 窓の外はじりじりと夏の日差しが校舎や校庭でなく世界を照らしているが、ここはまるで別世界のように涼しい。そんな一人の職員室で、悠里は妙に心を弾ませる。
 壁がけ時計が時間をさしているが、それでも自分の携帯を開いて確認してしまう。約束までにはまだまだ時間がある。けれど妙にそわそわする。
 翼との約束。お互いに仕事の後に時間を決めて会うなんて、まるでデートの約束みたい、とふふっと笑いを零した瞬間気づく。彼は元生徒なのになにを浮ついているんだろう、と。
 ――そ、そうよ、頼みごとがあるって言っていたじゃない。しっかりしなさい、悠里! 彼は元教え子。それも年下なのよ!
 ぴしゃり、と両頬を挟むようにして手をあてる。……痛い。結構痛い。
 だが、痛みも数秒。
 頬に両手をあてたまま、どうしても笑ってしまう自分がそこにはいた。



 翼と初めて補習をすることになった時、彼はとあるホテルのレストランを貸し切って補習をすると言っていた。
 滅多に来ることができないような高級レストラン。そして魅惑のデザート。これらに眩暈さえ覚えた悠里だが、今日連れてこられた場所も軽く眩暈をおぼえる場所だ。
 悠里も雑誌やテレビで見たことがあるが、ここは最近出来たばかりの若年層向けのフレンチレストラン。とは言ってもその値段たるやなかなかのもので、訪れる客はいわゆるハイクラスの面々。悠里も行けるものならいつか行って見たいと雑誌の特集ページを熱く見つめていた店だった。
 たしか予約なしでは入れないはずで、もっと言うならオープンしてまだ半年やそこらにもかかわらず、半年先まで予約でいっぱいという店だった。そんな店にふらっと立ち寄ることが出来るのだから、さすが真壁財閥の御曹司だけある。
 だが、以前の翼と違うところは、自分達以外にもテーブルにはそれぞれ客がいるということ。要するに貸切ではないのだ。卒業後も何度か翼とは食事をしているが、ここ最近では一般の客と共に食事をすることが多くなった。
 ――そうなのよね。翼君、前みたいにお店を貸切りにしちゃうっていうことがなくなったのよ。それが普通のことなんだけど、なんかやっぱり変な意味で驚くわ……。
 そんな悠里の驚きなど知りもしない翼は昼間学校に訪れた時とは違い、ダークグレーのかちっとした細身のスーツに身を包み、ウェイターと料理についてあれこれやり取りをしている。
 メインは肉がいいとか、それに合うワインを適当に一本頼むなどと、手馴れた感じでオーダーが進み、二人揃ってやっと一息といったところだが、レストランに着いてからというもの悠里は何もしてはいない。すべて翼まかせで運んで行き、慣れない雰囲気にひたすら緊張し通しなだけ。ただそれだけなのだが、気疲れするには十分だ。
「どうした先生? ひょっとしなくても、また恐縮してるのか?」
 可笑しそうに翼が肩を揺らす。こんなふうに笑われるとやはり一年も前のことを思い出す。
「当たり前よ。翼君と違って、私はこういう場所に慣れていないんだから。もうっ、言ってくれればちょっとちゃんとした格好したのに」
 真夏の盛りとあり、スーツではなく軽装――とは言ってもさすがにジーンズではなく、半そでのサマーニットのアンサンブルに膝丈の黒のスカートといういでたち。これといってどこもおかしくはないのだが、周囲の客は皆スーツ姿ばかりで、さらに気後れしてしまう。
 こんなことならデパートで買い悩んでいたワンピースを買っておくべきだった、とちょっとだけ後悔をする。
「大丈夫だ。自分が思っているほど人は自分のことを見ていないし、そう思っていれば別に気にもならない」
「た、確かにそうだけど……」
「ふむ。そんなに気になるのなら、やはり貸切にしておけばよかったな」
「それも困るっ!」
 慌てて否定すると、さらに可笑しそうに翼が笑う。
「困ったヤツだ。……なら俺だけ見ていろ。そうすれば気にならないだろう?」
 見つめる瞳がキャンドルの柔らかい灯りに甘美に煌めく。日本人にはない色素の薄い髪も瞳も、僅かに白い頬のラインも全てだ。
 翼はとんでもない金持ちの上に、とんでもない美形という言葉がついてくる。それは悠里もこの一年と少しの間で嫌というほどわかっているつもりだが、今夜は何かが違っているような気がしてならない。
 上機嫌とでもいうべきなのか。それとも雰囲気が柔らかいというべきなのか。なににしても悠里を見つめる瞳が優しく、とびきり甘いのだ。
 テーブルを挟んで、互いの顔が見える程度に落とされた店内の明かり。そして各テーブルにあるキャンドル。その灯りはゆらゆらと揺れて、まるで今の悠里の心を表しているかのよう。
 少し暗めの店内と、これから振舞われるであろう極上の料理。そして何より目の前には翼がいる。これ以上にないくらいロマンティックな演出に、乙女心を揺り動かさずにいられますか、といっそ叫びたいくらいだ。
 ――や、やだ。そう思ったらなんかすごくドキドキしてきた。相手は翼君なのに。教え子だった子なのよ。なのに……なのになんでドキドキするのよ、私ってば!
 二人きりになる機会など放課後の補習の時間を考えるとどれだけあったかわからない。今更緊張する必要もないし、胸をときめかせるなんて絶対にいけないことだと決め込んでいた。だが、今の状態は傍から見ればどうしたってデートをしている男女にしか見えないだろう。周りの客も自分達とそう年齢も変わらない客層だし、たいていがカップルのような雰囲気を醸している。
 悠里はごくっと息を飲み込み、気を落ち着かせるためにそばにあるグラスを手にし、それをぐっと煽る。冷たい水が喉を通り過ぎて行き、空っぽの胃の中におさまったところで、一つ息を吐いてから話を切り出す。
「とっ、ところで翼君、私に頼みがあるって言ってたよね?」
 声が上ずってしまったのはいただけないが、翼は「ああ、そうだな」と目を細める。そして少しだけ困ったようにため息混じりで言葉を紡ぐ。
「実は、来週の金曜日。つまり丁度一週間後の話になるんだが、とあるパーティーに出席しなくてはならなくなった。親父や永田からも必ず出席するようにと口うるさく言われてな……面倒な話だ。まあ、次期後継者をお披露目するにもいい機会なんだろうな。パーティーに出席するであろう面々も、政財界ばかりでなく各界の著名人ばかりだ」
「政財界に著名人……。す、凄そうね。別世界の話だわ」
 悠里がため息を吐くと、翼はくちびるに小さく笑みを浮かべ、ただ無言でそれに答える。
「別に出席すること自体は仕方ないことだし、毎度のことだからいい加減あきらめもついているんだが、今回は厄介なことにパートナーが必要らしい」
「パートナー?」
 悠里がそう返したところで、前菜が目の前に置かれる。鯛と旬野菜のマリネだろうか。細かく刻まれたオリーブと一緒に透明感高い金色のオイルに和えられている。形よく小さく盛られているそれを、翼はどうぞ、と掌を上に向けて食べるように促す。
 言われるがままフォークを手にし、悠里は瑞々しい野菜とスライスされた鯛とを器用に纏めて頬張る。まろやかで薫り高いオイルとしゃきしゃきとした野菜の触感が程よく、話の途中にも関わらず思わず「美味しい……」と感嘆の声を漏らしてしまった。
 素直な感想とはいえ、話の途中でまずかったかなと思ったのだが、翼は嬉しそうに笑みを浮かべ、悠里と同じようにフォークを手にする。
「それはよかった。手を止める必要はないから、そのまま聞いていて欲しい」
「ご、ごめんね」
「気にするな。……それでだ。さっきの続きだが、パートナーというのはいわゆる女性同伴というヤツだ。どうしても相手が見つからなかった場合は仕方がないが、そうなると後が面倒なんだ」
 黙って翼の話に耳を傾けていると、彼はそのあとの言葉を僅かに眉を顰めて呟く。
「おそらく親父がどこぞの由緒正しき家柄の令嬢とやらを俺に押し付けてくるはずだ」
「令嬢っ!? っ、げほっ! ……っく! けほっ、けほっ!」
 変に大きく息を吸ったら変なところに入ったらしく、悠里はむせてしまう。水を慌てて流し込んでも何度か咳込んだが、それもやがて収まりを見せる。
「おい、大丈夫か先生?」
 驚いたように翼は言うが、驚いたのはむしろ悠里のほうだし、大丈夫かと尋ねたいのも悠里の方だ。
「だ、大丈夫。私は大丈夫。それより、それっていうのは……つまり、どこかのお嬢さんを翼君がエスコートして、一緒に参加……って言うことよね?」
「まあ、その場凌ぎだろうがな」
 場凌ぎといっても、ドラマによくあるようにそれが実は二人を結びつけるきっかけということもある。
 大学生になったことだし、父親の事業にも手をつけ始めているとあれば、れっきとした社会人の一員だ。それに真壁財閥の後継者ともあれば、若いとはいえ縁談の一つや二つあってもおかしくはない。
 ――翼君が、他の女の人と……。ううん、おかしくないのよ。それが普通なの。これだけ素敵なんだし、家柄だってとても良いし。それが当たり前のことなのよ。なのに……なのにどうして私、胸が痛いんだろう。
 咳き込んだからではない。ただ、翼が他の誰かと一緒にいる姿を思い浮かべただけで胸の奥がちくっとする。楽しそうに、それも煌びやかな世界で微笑んでいる姿を浮かべるとどうしようもなく胸が痛くなる。
 ――やだな。なんかわからないけど、凄く嫌だ……。
「そう、なの。女の人と……」
「ああ。だがあの親父のことだ。おそらくその後もなんのかんのと理由をつけては俺の未来の嫁候補にでもするに違いない。一つおとなしく言うことを聞いてやると絶対にどこまでも付け上がるだろう。そうなるとさらに面倒くさい。……そこでだ。そんなメンドウなことにならなくても済む方法が一つだけあるんだ」
 最初は呆れたように笑っていた翼だが、その瞳が徐々に真剣なものへと変わり、まっすぐに悠里を捕らえる。
「……先生、俺のパートナーになれ」
「へっ?」
「パートナーになれと言っている。俺が先生をエスコートをしてやる」
「ちょっ……パートナーって、私……? えええっ!?」
 目を丸くして翼を見ると、彼は真剣な表情のまま悠里に頼む。
「いや……違う。パートナーになれ、ではなくてなって欲しい、だな。急で申し訳ない話だが、俺がエスコートしたいと思うのは……い、いや、こんな話を頼めるのは先生しかいないんだ」
「翼君……」
「去年のクリスマスのように、また俺と一緒にパーティーに出て欲しいんだ。あの時のように、俺と」
 小雪舞い散る夜にワルツを踊ったあの日。翼が用意してくれたドレスに身を包み、何度も彼の足を踏みつけながらも夢のようなひとときを過ごした。絵に描いたような王子様のような翼と、絵に描くまでもなく特徴のない一般人の自分。そんなちぐはぐな組み合わせだけど、年甲斐もなくこころを弾ませステップを踏んだ。
 そのふわふわと心まで舞い躍るようなひとときに思ったのだった。こんなに素敵なクリスマスはそうないだろうな、と。
 翼も今まで生きてきた中で一番のクリスマスだったと言っていたが、それは悠里だって同じだ。パートナーが翼だったから楽しく過ごせたのだ。
 でも、なぜ翼となら?
 それを考えたら開けてはいけない箱を開けてしまいそうで、教師として、なにより一人の女としても必死に考えないようにしていたが、どんな理由や理屈を超えても、結局は『彼だから』良かったのだという答えしか出てこない。 
 ――それが、もう一度。
 そう思うと訳もなく心が震える。
 けれど、高く舞い上がりそうになる心とは反対に、別の考えも沸いてくる。
 元教師なら、元教え子に変な気持ちは抱かないだろうから変な誤解もしないだろうし、あとあと面倒なことにもならないから適任なのだろう、と。
 大体、美貌もある彼のことだ、大学にも通っているのであれば容姿の美しい女性の一人や二人簡単に捕まるはずだ。なのに、わざわざ自分に声をかけてくるあたり、まさに『一番無難』な方法を選択しているのではないだろうか。
 自分に都合のいいようにパズルを組み立てるとどこまでも心が舞い上がるが、実際はそんな調子のいいことばかりではない。どう考えても、一般的にしっくりくるパズルしか成立しない。
 ――馬鹿みたい。そうよ、何勘違いしてるんだろ、私……。
 だが、勘違いと気づいたこの瞬間、どうしてまた胸が苦しくなるのか。それがわからない。
 どうして一般的な考えを選ぶと心が痛むのか。
 都合よく利用されているようで嫌なのか?
 ――ううん、そんなのじゃない。そんなんじゃないの……。よくわからないけど、何かが嫌なの。
「や、やだなー、どうして私なの。大学にも可愛い女の子たくさんいるでしょう? わざわざ私に頼まなくてもいいじゃない。私は翼君の元担任ですけど、何でも屋じゃないのよ?」
 胸の痛みを押し隠して精一杯明るく言うが、明るい声を出せば出すほど余計に心がきしむ。
「翼君なら、一声かければ山のように――」
「それじゃ意味が無いんだ」
 悠里の言葉を遮るようにして翼がはっきりと言う。
「それなら親父の言うとおりにするのとなんら変わりない。俺は……俺は先生がいいんだ。南悠里、貴女に俺のそばにいて欲しい」
 他の誰かじゃダメなんだ、と困ったように彼は笑う。
「銀児サンにこんなこと知れたら、また言われるんだろうな。お前は生まれたばかりのヒナか、ってな。でも落ち着かないんだ。先生がそばにいないと……落ち着かない」
 確かに生まれたばかりの雛、はたまた母親を恋しがる子供かといったところだが、不思議と悪い気がしない。なぜならそれは悠里も同じようなことを思っていたからだ。
 一年間いつも翼と一緒だった。彼にどうにか補習を受けてもらいたくて日々追い掛け回していたし、彼が補習を受けるようになった時には心が一歩近づいたような気がしてとても嬉しかった。毎日一緒にいたし、誰よりも近くにいた。だから、彼が高等部を卒業をし、自分のそばから離れていってしまうと実感したときには言いようのない寂しさがあった。
 ただそばにいたいと思う。その顔を毎日見ないと落ち着かない。
 ――不思議なの。どうしてなのかわからないけど、そう思っちゃうの。
 翼と同じ気持ちなのだ。
「まるで私は母鳥ね」
 曖昧な笑顔を見せると、翼も困ったように笑う。
「頼りない母鳥だがな」
「そんな頼りない母鳥に頼みごとをしているのはどこの誰かしら?」
「……Sorry」
 肩を竦める翼を見ながら、仕方ないか…と悠里は腹をくくりつつ、ため息を吐く。
「パーティーって……その、踊ったりしないわよね?」
「しない。立食形式の簡単なものだ」
「ちなみに、服装は?」
「ドレスコードは男性はブラックタイ、フォーマルだな。女性はドレス。ゲストがゲストだから夜でも割と堅めになっている」
「ど、どんなゲストなのよ〜! それにフォーマルドレス!? ……ううっ」
 聞けば丁度その時期に来日している某国王の次女をゲストとして開かれる、大使館主催のパーティーとのこと。フォーマルウエアも、豪華な来賓も、なるほど納得といったところだ。
 ――ま、またドレスなのね。クリスマスのときのドレスでも大丈夫かな。あのドレス、結局翼君は「それはもうお前のもだ」と言って受け取ってくれなかったのよね。だから私、今でも大事にクローゼットにしまってあるんだ。それに、なんていったってエクセスライトのドレスだし! 自分でなんて滅多に買える代物じゃないわ。
「また高速で百面相してるな、先生」
「し、してた?」
「ああ。眉を顰めたり、くちびるを尖らせたり。かと思えばニヤついたり。見ていて大層不気味だ」
「もうっ、翼君〜!」
「フッ。貧相な先生に無理をさせるわけがないだろう? ドレスもアクセサリーも、靴もすべて心配するな」
 可笑しそうに翼君が言うのを聞いて、悠里は頬を少しだけ赤らめ、肩を竦めて俯く。
「……ということで、改めて聞きたい。先生、俺のパートナーになる気は?」
 柔らかな表情。けれど心を射抜くような瞳。
 視線が絡んだ瞬間また胸が苦しくなる。真っ直ぐ見つめ返すことができず、慌てて逸らす。視線の先はかすかに揺らめくキャンドルの炎。
 その揺らめきはやはり自分の心のようで、ゆらゆらと細い炎が揺れている。なんとなく静観できずにそれからも思わず目を逸らす。
 妙に逸る心を懸命に抑えながら、悠里は小さく返事をする。
「……私で、よければ」
 ――一日だけ翼君のパートナーになるわ。
 そっと呟いた言葉に、翼は「Thank you」と嬉しそうに微笑む。
 彼のパートナーになろうと決意したのは、華やかな場所、豪華なドレス、煌びやかなアクセサリーのためではない。
 ただ彼の隣に立つことを望んだだけ。
 去年のあの日のように翼のパートナーとして。
 真夏のクリスマスを、もう一度。


 それからは代わる代わるテーブルに並べられるディナーに舌鼓をうちながら、翼は大学や仕事のこと、悠里は学校でのことや友達との話など、互いに話題を事欠かず、笑顔が絶えない食事となった。
 翼と二人きりでこんな風に――それも、同い年の友人たちと普段話しているかのようにいろんな話をしたのは初めてのような気がする。
 何より、誰かと一緒に居てこんなに楽しく時間を過ごせたのは久しぶりだ。たくさん笑ったし、翼もいつになくたくさん笑顔を見せた。それがまた何よりに嬉しかったのだ。
 学校でも彼は笑顔を見せていたが、B6の皆の前で見せていたのとはまた違う表情。それは教師と生徒という枠を超えた今、初めて見ることが出来たような気がする。
 今までだって多く話をしてきたはずなのに、何がどう違うのか。それはよくわからないが、彼の卒業を期に、何かが確実に変わったことを悠里は実感した。
 翼がオーダーしたワインはメインディッシュである鴨のローストにぴったりと合い、ついつい酒も進む。
 最初は未成年の前で飲むなんてと気が咎め、ワインがテーブルに運ばれた時は慌てて「今日はだめ。絶対にだめだから!」と言ったが、「俺は飲まない、というより車の運転があるから無理だ。安心しろ」などと翼に上手いように押し切られ、勧められるがままにグラスへと口をつけてしまった。そして気がつけば一本空けるか空けないかというところまで飲んでいたのだった。これには少々反省が必要のようだ。
「酒に強いことを初めて知った」
 店を出た後、帰りの車の中でハンドルを握りながら新発見だ、と翼は楽しげだが、ほんのちょっと酔いが回っている頭の中で、悠里は不思議に思えて仕方がないことが一つ。
 普段であればあれくらいの量はなんてことないはずなのだが、今日は随分と回りがいい。いつもより饒舌だと自覚しているし、幾分気持ち浮かれ気味だ。
「……変、なのよね」
「What?」
 前を向いたまま翼が尋ねる。
「あれぐらいの量なら、いつもは全然平気なのになぁ。……なんでだろぉ。むむ……少し酔った」
 恐ろしく座り心地のいいシートに身を深くうずめ、悠里は少し不貞腐れたように呟く。
 少しどころか結構酔っていると改めて思ったのはこの口調だ。翼の前では今までこんな風に話したことはなかった。拗ねたり怒ったりというのはある程度加減をしながらしていたはずなのに。
「そういう日もあるんじゃないか? 今日はたまたまなんだろう」
 楽しげに目を細める横顔がやけに大人びて見えて、胸を騒がせる。
「……そ、そうね。……うん」
 ――って、なんで翼君になだめられてるのかしら、私〜! なんか、凄く恥ずかしい……。
 ふい、と視線を逸らし前方を見つめると、前の車のテールランプがやけに眩しく感じられる。
 大通りから細い路地へと車は右折し、見慣れた細い路地へと入っていく。そうなるとアパートはもうすぐそこだ。
 スピードを緩め、完全にブレーキがかかったところで今日の楽しい一日は終わり。今度は急に寂しさを覚える。
 本当に変だ。
 ほろ酔い気分とはいえ、今日は気分の上がり下がりが激しい。離れがたい気持ちになるなんて自分自身に驚かずにいられない。
 翼と会う約束をしては心が弾み、彼が他の女性とパーティーに出るかもしれないと知れば気持ちは沈み、そして別れ際の今――このなんともいえない切ない気持ち。
 たった一人の人を前にして揺れるこの気持ちを何と言うか、それは悠里にだってわかること。けれどそれを認めてはいけないとずっと自身に言い聞かせてきた。卒業をし、大学生になり、社会人になっても、彼は元生徒だから。自分の教え子だった人だから、と。
 けれど、必死に押さえ込もうとしていた気持ちが日を重ねるごとに抑えきれなくなってきているような気がする。
 彼に会うたび。言葉を交わすたび。二人きりでいる時、それは特にだ。
 そんな風にして彼を思う気持ちを無理やり押し隠そうとする痛みと、別れ際の切ない思いを抱え、車を降りる際に精一杯の笑顔を見せる。
「今日は本当にありがとう。また家まで送ってもらっちゃった」
 けれど今回が初めてではない。彼が学生のときはバイクで。そして近頃では翼が自分で運転する車で。何度となく彼に送ってもらった。
「こっちこそ。急に誘って悪かった。……でも、とても楽しかった。先生といると時間が経つのが早く感じるな。……本当に、早く」
「……うん。私も楽しかったから、ホントにあっという間」
「ああ」
「う、うん……」
 お互いに言葉もなく、ただ静かなエンジン音だけが聞こえる。
 いい加減車を降りたほうがいいのかなと悠里が切欠を作ろうとしたとき、不意に翼が言葉を紡ぐ。
「あと一時間か……」
「え?」
 聞き返すと、翼はなんでもない、と笑顔を見せる。
「今日もあと一時間で終わるな、と思っただけだ」
「う、うん?」
 ――なんだろう?
 そう思い、僅かに首を傾げるのだが「明日も仕事なんだろ? 寝坊するなよ」と言われてしまってはドアを開けざるをえない。
「ドレスは週明けにでも届ける。それと先生」
「なあに?」
「太るなよ?」
 車を降りようと身体の向きを変えていた悠里だが、からかうような翼の言葉に、頬を膨らませて向き直る。
「失礼な! もうっ、絶対に太らないからね! それに、今は夏なんだからそう太ってたまるもんですか」
「言い切ったな。大した度胸だ」
 楽しげに笑う翼に、悠里は軽く睨むようにして言う。
「そうよ。ドレスが入らなくなったら困るし、それに……それに、翼君に迷惑がかかるもの」
「俺に?」
 目を丸くする翼に頷く。
「そりゃあ、私は凄い美人でもなければ見事なプロポーションもしていないけど、せめて「あんな子を連れて歩いて」って翼君が周りの人に言われないように頑張らなくちゃ。ちょっとでも綺麗に見えるよう、精一杯努力するね」
「先生……」
「翼君がびっくりしちゃうくらい当日は綺麗になってみせるんだから。今に見てなさい?」
 にっこりと笑って言うと、それまで目を丸くしていた翼がほんの一瞬切なげな表情を見せ、そして狭い車内で不意に身体を抱き寄せる。
 次に驚くのは悠里のほうで、あまりにも突然のことに言葉も出ない。
「……これだから、お前は」
 耳元で聞こえるかすかな声は「……バカ」と続けられる。
「今のままでいい。十分だ。いつも驚かされてるから、そのままでいい」
 そう言って身体を離すのだが、それでも息がかかるほど近くにある翼の端整な顔。瞬きもしないままただ呆然と見つめていると、その頬のラインが僅かに傾き、頬には柔らかい感触が。
 もう一度耳元で囁かれる声は静かだが、なぜかとても嬉しそうなものだった。
「今日は最高の一日だった。先生のおかげだな。……ありがとう。そして、おやすみ」
「お、やすみ……なさい」
 ぼうっとしたままのろのろと車を降りると、閉じたドアの向こう側で翼はくちびるに小さく笑みを浮かべ、車をゆっくりと走らせる。
 遠くなるランプの赤が曲がり角を曲がるまで悠里は見送り、自分もアパートの階段を上る。酔ったとはいえ、足元はしっかりしている。……大丈夫。まだ大丈夫だ。
 鍵を開けると部屋の中からはむっとするような嫌な熱気が流れてくる。外の方がいっそ涼しいくらいに感じる。
 部屋の明かりを点け、それからエアコンのリモコンに手を伸ばす。そして、ベッドにどさりと音を立てて倒れこんだときにようやく気付く。
 どきどきと早鐘のような鼓動と熱い頬。いや、頬だけではない。指の先からつま先まで、火照るように熱い。
 それは真夏の夜のせいだけではなく、軽く酔っているからでもない。原因は殆どが翼のせいだ。だけど素直にそれを認めるのが悔しい。
 今更だけど、これを恋と呼ぶ気持ちだと改めて気がつかされた。隠していた気持ちは、やはり恋。今では「元」がつくとはいえ、教え子に恋をしていた。
 一つ一つ新しい彼を知るたびに、教師として、担任として嬉しく思うという気持ちのほかにあったもう一つの感情に気づかないようにしていたのに、とうとう気がついてしまった。
 彼が卒業をして、寂しく思うと同時にほっとしたのは、無事にClassXの生徒を全員卒業させた安心感や、校長から言いつけられた使命を果たしたからだけではない。きっとどこかで思っていた。――もう『担任』でも『生徒』でもなくなる、と。
「……やだ、もう。……馬鹿っ」
 ぎゅっとシーツを握りしめ、一人呟く。
「好きなんじゃない、私」
 触れられた頬を手で押さえつつも、どうにも恥ずかしく、でも触れられた頬が悔しいくらい嬉しくて、淡いピンクのシーツに強く顔をうずめた。


 それから数日後。
 翼にどういう顔をしたらいいかと戸惑いながらも、彼が現れるのを密かに心待ちにしていたのだったが、彼もそれなりに忙しいらしく、自宅へとドレスを届けに来たのは翼ではなく秘書の永田だった。
「翼様より、南先生にお渡しするようにと預かって参りました」
 大小さまざまなケースを幾つも差し出された悠里は、面食らいつつもそれを受け取る。どうやらドレスや靴は一パターンだけでなく様々に用意されており、好きなものを選べというらしい。勿論、選ばれなかったほかのドレスは返さなくてもいいとのこと。
 突飛な言動は少なくなったとはいえ、翼のすることはやはり何事にもスケールが違う。用意されたドレスのそのどれもが高級有名ブランドのものだ。靴はフェガラモやノマロ、アクセサリーのケースにはヘンリー・ウィーンストンとある。それが一箱だけでなく、幾つもだ。このケースの山々、総額で一体幾らになるのか想像もつかない。
 ――さ、さすが翼君ね……! やり方が半端ないわ。でも、こんなに貰ってどこに来て行けというの〜!
「す、凄い量……。永田さん。わざわざありがとうございます。えっと……あの、よろしければお茶でもいかがですか?」
 わざわざドレスのために来てもらったのだ、せめてお茶の一杯と思ったのだが、永田は表情を和らげて首を振る。
「折角ですが、私もゆっくりとは出来ませんので」
「そ、そうですか。永田さんは勿論ですが……翼君も忙しいみたいですね」
 小さく笑うと、永田もええ、と返す。
「学生としても、真壁財閥の跡取りとしてもそのお役目立派に果たされていらっしゃいます。こうなることは最初から決まっていたとはいえ、ご自分から熱心に取り組まれるのと、嫌々やるのとでは意味も違ってきます。お父上の吉仲様と打ち解けられるのはまだ少しお時間がかかるでしょうけれど、今の翼様でしたらそれもそう遠いことではないでしょう。翼様を良い方向に変えてくださった南先生には、心からお礼申し上げます」
 深く頭を下げる永田に、悠里は慌てて顔を上げるように言う。
「ちょっ、永田さん顔を上げてください。私はただ、教師として当然のことをしたまでです」
「でも、今までどなたもその当然のことが出来なかった。けれど貴女は違います。あの翼様がこの私にまで「ありがとう」「すまない」という言葉をかけてくださるようになったのは、間違いなく貴女の影響があったからです。南先生なくして、今の翼様はありません」
 真剣な表情の永田に、悠里はどう返していいのかわからず、視線を彷徨わせる。
「そんな、大げさな……」
「大げさではございません。南先生が翼様を思う気持ちが、翼様を変えられたのです」
「翼君を、思う気持ち……」
 一瞬どきっとしたものの、永田の言葉を繰り返す。そんな悠里に、彼は去り際に少しだけ笑って言葉を残していく。――先生は、どうでしょうか。人は影響を受け合うものですから、と。
 閉じられたドア。そして山のように詰まれたケースとともに、悠里はしばらく玄関口に立ちすくんでいた。


 約束の当日。エスコートしてくれている翼の腕を思わずぎゅっと掴んでしまったくらい悠里は緊張していた。
 昨年末の聖帝舞踏祭も本格的なパーティーだったが、目の前に広がる光景とはやはりレベルが違う。髪も目も国際色豊かだが、それぞれ身に纏っているのは手に振れずしてもわかるような上質な生地のタキシードやドレスばかりで、遠くからでも品のよさがわかる人ばかりが、シャンデリア煌めく絢爛なホールに集っている。おまけにテレビや雑誌などで見る顔がちらほらとあっては緊張せずにはいられない。
 今更だがどうしてこんな場所にのこのこついてきてしまったんだろうと後悔もした。ドレスアップしても、いつもとは違うメイクや髪形をしても場にそぐわないような気がしてならない。時々細いヒールの足元をぐらつかせながら、悠里はつま先まで緊張させて足を進める。
「つ、翼君〜。私本当に居ていいの〜っ!? 変じゃない? 変だよね!? 庶民だもの、浮きまくりよぉ〜!」
 小声だが必死になって彼に問い掛けると、何をそんなに心配する必要がある、と翼は笑う。
「いつも『庶民で悪かったわね!』と胸を張るくせに、今日はやけに殊勝だな。いっそ楽しめばいいものを」
「だ、だって……」
 ひそひそ話をしながら、翼とともに挨拶に訪れる面々に軽く会釈をする。笑顔こそ浮かべているものの、それが自然なものに見えるかどうか悠里には自信がない。おそらくぎこちなく映って見えるのだろうと思うと、緊張に輪をかけて今度は気鬱になる。
「どこもおかしくないが、それでも心配か? ドレスも……よく似合っているし、その……」
「なに? なにか変!? はっきり言って! どうにかできるところは善処するわ」
 歯切れの悪い翼の言葉。
 向き直って問い詰めると、翼はふい、と視線を逸らして言いづらそうに呟く。
「馬鹿、そうじゃない。そうじゃなくて……その……つまりは綺麗だと、言ってるんだ。……今日は特別に」
「えっ」
 思わずまじまじと彼の横顔を見詰めると、その頬が僅かに赤く染まっているのがわかる。
「ま、まあドレスも最高のものだし、アクセサリーもSpecialな品だからな! 輝いて見えるのは……この真壁翼の隣にいるのなら、あ、当たり前だ!」
 フン、と息をつき、こんな所でも憎まれ口を叩く彼は相変わらずだが、頬を染め、言葉を詰まらせながらそれを言っても大した効き目はなく、逆に悠里の心を和ませるものとなる。
「……そう、ね。……そうよね。ドレスもネックレスもとても素敵なんだもんね。こんな素敵なものを本当にありがとう。なんか、お姫様にでもなった気分よ。翼君の言うとおり、確かに緊張ばかりしちゃ勿体無いよね。だって、こんな機会はきっともうないもの」
 大きく肩の開いた黒のドレスに合うように、レース状に広がるプラチナ製のネックレスにはオーバルやドロップカットのダイヤがびっしりとセッティングされている。分不相応と言う言葉があるように、それらは勿体無いくらいの品々で、悠里もそのことは十分すぎるくらいわかっているつもりだ。
 それになにより、隣に立つ翼だ。
 タキシード姿は以前も見たことがあるが、本格的な社交界でも堂々としている彼は、黒のピークドラベルのジャケットを見事に着こなし、ウイングカラーのシャツの白がノーブルさを際立たせている。すっきりとしたラインのスラックスは足の長さをさらに強調し、ストレートチップの靴先は傷一つなく艶やかな光を放つ。
 白と黒。誰にでも似合う色合いと服装なのだが、長身且つ均整の取れた体つきに恐ろしく映えて見え、絵になる美しさとはこのことなのだろうとうっとりため息をつきそうになる。
 けれど、そんな彼の隣に立つのも今夜だけ。もうこういう機会は二度とないだろう。
 ――そうよ、今日だけなんだもの。確かに緊張するけど、がちがちに固まっていても仕方ないわよね。だって、こんなにカッコいい翼君のパートナーなんだもの。一日だけど……好きな人のパートナーなんだから。
「えっと……改めまして、よろしくね翼君」
 軽く息を吸い込み、にっこりと笑みを向けると、翼は何か言いたげな表情をほんの一瞬だけ浮かべるのだが、睫毛を伏せてそれを消す。
「……こちらこそよろしく頼む」
 そうして彼はボーイからシャンパンを受け取ると、一つは自分の手に。そしてもう一つは悠里へと差し出す。
「あっ、翼君は飲んじゃダメよ? 未成年なんだから」
 そう釘をさすと、彼はぴくりと眉を上げるものの、「仕方ない」と静かに笑う。
 形だけの小さな乾杯をし、幾筋も小さな泡がゆらゆらと上っていくのを見つめては一口含む。
 冷えたシャンパンで喉を潤しながら、翼から離れに立っている招待客の説明を受ける。
 あそこに立つ聖帝の校長のようなハゲ具合の中年が某大手ゼネコン会社の会長で、その後ろにいる鼻がつぶれているような小太りがどこぞの代議士等々、紹介の仕方こそ多少難ありだが、意外や意外、彼は思いのほか顔覚えがいいらしく、次々に招待客の説明をしていく。
 笑ってはいけないと思いつつも、皮肉やジョークを込めてのその口調がなんとも可笑しく、その都度肩を揺らして耳を傾けていたのだが、不意に品のよさそうな中年の男性に声をかけられ、翼と共に振り返る。
 どうやら翼の父と仕事上深く関係があり、そして翼自身もその紳士を知っているようで、親しげに言葉を交わす。
 父親がらみの付き合いなど面倒だ、とか、どうせ自分など見ておらず、背後にある真壁しか見ていないと苦々しげに言っていた高校時代の彼からは想像もつかない姿だが、とんちんかんな日本語もなく、自身が関わっている会社のことを談笑しているのを傍らで聞いていると不思議な気持ちになる。
 ――凄い。なんか、うんと年上の人と話をしているのに、臆することなく堂々としてる……。それも、ちゃんと社会人としての会話が成り立ってるわ……。
 驚きと感心の眼差しでそのやり取りを見つめると、やがてはその男性も軽く挨拶をしてその場を離れていく。だがほっとしたのもつかの間、次は別の一組がやってきて、中年の男性は豪快な笑い声とともに新たなシャンパンを勧める。
 翼とともに悠里も冷えた新しいグラスを手にするものの、口をつけずにいると「若いかたは遠慮なさらずに」と勧められ、どうにもこうにも逃げられそうにない。
 大丈夫だろうかと翼にちらっと視線を移す。さらには忠告の意味も含めて軽く彼のジャケットを引っ張るが、翼はそんな悠里に対し、大丈夫だと言わんばかりに軽く一瞥してシャンパングラスへと口をつける。
 ――ちょ、ちょっと翼君〜!
 なに勧められるがままに飲んでるの! と大音量でにじり寄りたいくらいだが、さすがに人前にしてそれは憚られる。
 あとで絶対に文句を言ってやるんだから、と悠里はくちびるの内側を軽く噛み締めながら、談笑している翼の横顔を見上げたのだが、酒を勧められるのはその一度だけではなく、挨拶を交わす先々で繰り返される。勿論、悠里が突っ込みを入れる間も無いくらいのタイミングでだ。
 飲む量といっても挨拶程度にひとくち含む位だが、何度も繰り返されればその量も適度なものになる。彼がアルコールを口にするたび、悠里はパーティーを楽しむどころかそわそわと落ち着かない気持ちになる。
「それではお父上にも宜しくお伝えください。君のような後継者がいれば、お父上もさぞ御安心なされるでしょう。またお会いしたときにでもゆっくりと話ができればいいね」
「はい。ありがとうございます。またの機会に、是非」
 会話が一区切りしたようで、紳士的に軽く笑みを見せた翼の腕をすかさず取って、会場の端のほうへと引っ張っていく。
 ――よしっ、今がチャンス!
「お、おい先生? どうした」
 驚く翼を正面から見据え、悠里は頬を膨らませる。彼は卒業してしまったとはいえ、未成年者のアルコールを黙って見過ごすことなど、教育者としてもってのほか。
「翼君っ! いくらパーティーだからって、アルコールなんてダメじゃない。高校生じゃなくなっても、君はまだ未成年なんだからね! 許さないから〜」
 そう強く言い切って、翼の手にあるグラスを横取りする。翼はというと、幾度か目を瞬かせ、きょとんとした顔で悠里を見つめるばかり。
「な、なあに? 未成年の飲酒は禁止されていること、知らないなんていわせないわよ?」
「いや……そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、なに?」
「やっぱり気づいていないか……」
 ため息混じりに言う翼に悠里は眉を顰める。
「気づいていないって、それどういう意味?」
「残念ながら、未成年じゃなくなったんだ」
 小さく笑って翼は悠里の手からグラスを戻す。
「えっ?」
「誕生日。先週の十四日が俺のハタチの誕生日だったんだ。だからもう、俺も先生と同じ二十代っていうわけだ」
「先、週……? 本当に?」
 信じられない思いで翼を見上げると、彼は「ああ」と綺麗に微笑む。
「先生と食事した日があっただろ。ほら、今日のことを頼んだ日だ。あの日が誕生日だったんだ。お前、やっぱり知らなかったんだな?」
 仕方ない元担任だと翼は肩を揺らすが、それは咎めるようなものではなく、さらりと笑って逃してしまえるようなもの。だが、悠里は笑って返すことなど出来なかった。
 思い返せば、ワインのボトルがテーブルに届いたとき、翼はラベルにある生産年を見て驚いたような顔をしていた。あの時は大して気にも留めずに居たが、まさか誕生日に誕生年のワインが届くとは彼も思っていなかったのだろう。だから驚いていたのだ。
 それに別れ際に「あと一時間だな」とも言っていた。あれはあと一時間で誕生日が終わるという意味だったのだろう。何も言わないから気がつかなかったが、言われないと気がつかなかった自分は最低だ。
 ――なんで気づかなかったんだろう、私……!
 そんなことを思い出したと同時に、一瞬にして胸に大きな風穴が開き、そこにびゅうびゅうと冷たい風が通り抜けていくような気持ちになる。
 気づかなかった自分の馬鹿さ加減にも呆れるが、翼もどうして言ってくれなかったのだろう。あの日ひとこと「誕生日なんだ」と言ってくれればよかったのに。目の前で食事をし、いろんな話をし、たくさん笑いあっていた日だったはずだ。
 二十歳の誕生日という記念すべき日なのに、どうして彼は黙っていたのだろう。
「言ってくれれば……言ってくれればよかったのに。どうして? そしたら私、ちゃんとお祝いしたかった。折角の二十歳の誕生日なら、プレゼントも用意して――」
「プレゼントなら貰った」
「……え?」
「生まれてきた日に、一緒に先生と居られたというだけで十分だ。楽しい時間を過ごすことが出来たから、俺にはそれが最高のバースデープレゼントだ」
 だから他には何もいらないと微笑み、目元にかかった髪を軽く払う。その表情がとても大人びて見え、悠里はどきっとした。
 いつからそんな表情をするようになったのだろう。去年までの翼であれば、間違いなく不機嫌になっていただろうが、今ではこうして笑ってやり過ごせるようになっている。
 人というのはあっという間に成長してしまう。あっという間に成長して、『私のほうが年上なんだから』というちっぽけなプライドを軽く追い越してしまう。
「……ごめんね」
 小さく呟くと、情けなさが目頭を熱くする。
「気がつかなくて、ごめんなさい」
 お祝いをしたかった。
 せめて生まれてきたその日に「おめでとう」ぐらい言いたかった。大したプレゼントが用意できるわけでもないし、気の利いた言葉を贈れるわけでもないが、それでも大切だと思う相手にせめてお祝いの言葉を言いたかった。好きな人の生まれた記念すべき日に、たったひと言を。
「先生?」
「なんか、ちょっと悔しい……」
 気がつかなかった自分が、悔しい。
 俯きがちにそう言うと、軽く頭を引き寄せた翼が、額の辺りにくちびるを寄せる。
「その気持ちだけで、十分だ。どうしてもというのなら、来年はゴージャスに祝ってくれてかまわんぞ? 思い切り期待して待っててやるからカクゴしておけよ? いいな、庶民の『担任』」
 横柄な口ぶりだが、その声はとても優しく、しゅんと落ち込んでいる悠里を慰めてくれているのは明らかだ。
 うん、と悠里は頼りなく返事をしたものの気分はなかなか浮上しなかった。
 その後明るく振舞っては見たけれど、明るい話し声や楽しげな笑い声を聞くたび、そして煌びやかなシャンデリアが目に映るたび、心がどんどん切なくなっていくのを抑えられなかった。


「慣れない雰囲気に疲れたか?」
 少しだけ早く会場を後にし、永田が運転する車で送ってもらう帰り道、翼は気遣うように顔を覗き込む。
「そうね。なんか未だにちかちかと目が眩しいくらいよ。ほんと、別世界なんだもの」
 庶民には眩しいフラッシュだったわ、とおどけて肩を竦めると翼は可笑しそうに笑うが、彼も多少なりとも疲れているのか言葉数が少ない。
 金曜の夜は道も混み、車もなかなかスムーズに進まない。永田も翼や悠里を送ったあとすぐに吉仲の元へ戻らなくてはいけないこともあり、最初に翼をマンションまで送り届けてから、悠里のアパートへ向かうルートで行くと告げ、幾つか迂回をしてやっと翼のマンション前まで辿り着く。
 車を降りた翼は、窓越しに悠里を見て、その表情をやわらげる。
「幸い明日からSummer Vacationでよかったな、先生。ゆっくり休むといい」
「そうね。短い夏休みだけど久しぶりにのんびりするわ。……翼君、今日は本当にありがとう。そして――」
 ごめんねと続けようとしたのだが、それを遮るようにして翼が言葉を紡ぐ。
「礼を述べたあとに謝る必要はないだろ。むしろそれは俺の台詞だ」
「翼君……」
「Thanks,悠里。本当に、ありがとう」
 開いた窓枠にかけていた悠里の手を取り、その甲に恭しくキスをする。そして、悠里が何か言うよりも早く永田に車を出すように合図をする。
「あのね、翼く――」
 ゆっくりと発進する車の窓から慌てて顔を出す悠里に、タキシード姿の翼は「おやすみ」と最後に短く言う。
 ――何も言わせないなんて、ずるい……。ずるいよ。
「翼君! 待って。待っ……」
 生ぬるい熱帯夜の風が頬をかすめる。悠里を見送る姿がどんどん小さくなり、車のスピードもどんどん上がっていく。
 もう姿が見えなくなったところで仕方無しにウィンドウを上げるが、翼と別れたあとも気持ちがすっきりするどころかますます落ち着かなくなり、シートにじっと腰を下ろしているのが辛いくらい。
 何かがしたい。
 けれど何をしていいのかがわからない。
 ただ、じっとなんてしていられない。このまま何も出来ず、何も伝えることが出来ないまま家に帰りたくなんてない。伝えなくてはいけない言葉や思いがたくさん胸に溢れているのに、このまま黙って夜を過ごすことなんて出来ない。
 ――でも、なにが出来る? 何が出来るんだろう、私。ただこのまま別れるのが嫌で、何も出来ないのが辛くて、何も伝えていないのが切なくて……それで……それで――。
 ちゃんと「おめでとう」も伝え足りない。
 今日の「ありがとう」もまだまだ足りない。
 そしてもう一つ。気付いてしまった気持ちは、このまま仕舞っておくことなんて、ちょっと無理。
「……永田さん」
「はい、なんでしょう」
「あ、あの……まだ、少しだけお時間いただけますか?」
「南先生?」
 バックミラー越しの永田と目が合う。
「少しだけでいいんです。一箇所だけ寄り道をして、もう一度引き返してもらえませんか?」
 身を僅かに乗り出して永田に訴えると、彼は僅かに驚いたような表情を浮かべる。
「引き返す、とは……どちらへですか?」
 その問い掛けに返す言葉は一つ。伝えきれない思いを届けるべき人のものへ。
 ごめんね、もありがとうも、大好きよも伝えていない人のところへ。
「翼君の家です。エンパイアルージュまで、もう一度お願いします」


 深夜のコンビニエンスストアに、肩をむき出しにしたフォーマルドレス姿の女性が駆け込んできたかと思ったら、両腕一杯に缶ビールを買い込むなど、そうそう見られるものではないだろう。
 永田には「私が行きますので、車の中でお待ちください」と止められたが、今回ばかりはどうしても自分でやらないと気がすまなかった。自分でできる限りのことをさせてほしかったのだ。
 高級車の広い後部座席には大きな袋一杯の缶ビールと、その隣にはケーキの箱が一つ。そして緊張した面持ちの悠里を乗せて車はもう一度エンパイアルージュ前へと戻る。
「永田さん、こんなにお時間取らせてしまってすみませんでした」
 深くお辞儀をすると、永田は「いいえ、こちらこそ差し出がましい真似をしてしまい、申し訳ございません」と返す。永田が言う「さしでがましいこと」というのは、ケーキのことだ。
 悠里が買ったのは缶ビールだけだったのだが、翼のマンションへと戻る理由を伝えたら、「誕生日の仕切りなおしでしたら、ケーキは必需品なのではないでしょうか?」と彼は微笑み、心当たりのある店に何件も連絡し、どうにかして用意してくれたのだった。勿論、二十本のキャンドルも付けてだ。
 結局往復だけでも一時間近く費やしてしまい、すぐにでも吉仲の元へ戻らなくてはいけなかった永田に迷惑がかかってしまったのではと、内心ハラハラする。
「あの……翼君のお父様のところに戻らなくちゃいけなかったんですよね。永田さん、本当にお時間大丈夫なんですか!?」
 今更だが、やはりどうしても尋ねずにはいられない。心配げに尋ねる悠里に、永田は軽く頷く。
「大丈夫です。吉仲様には私以外の秘書もおりますので、その者にすでに連絡は取っており、対処済みでございます」
「そ、そうですか。よかったぁ……」
 ホッと胸をなでおろすのもつかの間。永田は静かに微笑み、マンションに入るよう促す。
「ご心配下さりありがとうございます。ですが南先生、少々急がれたほうがよろしいかと」
 時間を尋ねるとすでに十一時を過ぎている。下手をしたらまたタイミングを逃してしまう。
「あっ、はい!」
 渡されたケーキの箱と缶ビールが詰まったコンビニ袋を手に、ヒールを鳴らす。自分の足音しかないことに気がつき悠里が振り返ると、永田は車の前で悠里の背中を見送っていた。
「あれっ、永田さん? 一緒に来てくださらないんですか?」
 ホールに自分の声が響く。てっきり翼に顔でも見せるのかと思いきや、彼は首を横に振る。
「そんなことをしたら、翼様に一生恨まれます」
「えっ?」
「人の恋路を邪魔するほど、私も愚かではありませんよ。……先生、もし帰りの足を翼様に聞かれましたら、私はこれから仕事に戻らなくてはならないので対応できませんとお伝えください。また、代わりの者も誰も手が空いておりません、と」
「それって……」
 悠里が息を呑んで永田を見つめると、彼は真っ直ぐに悠里を見つめて言った。
「よって、南先生をご自宅までお送りすることは出来ません」
「な、永田さんっ!?」
 頬が一気に熱くなる。つまり、遠まわしではあるが永田は「泊まっていきなさい」と言っているのだ。
「以前……翼様の大学受験前日に言ったでしょう。先生とは長いお付き合いになりそうだと。そういう意味ですよ。先生も、今日ここまでいらしたのなら、それがどういう意味だかもうお分かりでしょう?」
 永田の言葉に悠里は息を呑む。
「いくら翼様の恩師である先生でも、翼様が望まないことに私も手を貸しはしません。ただ、あの方もお父上に似ていらして少々不器用なところがおありだ。ですから、今日は余計なおせっかいをさせていただきました。私から翼様への誕生日プレゼントは、先生とのお時間です」
 永田はいつも翼のそばにいる。真壁財閥の次期当主としての彼をサポートするために。それは翼の父の言いつけだけではなく、役目を越えて翼を大切に思う一人として。そんなふうにしていつも翼を見守ってきた人に手を貸してもらえたということが、悠里を少しずつ笑顔へと変えていく。
 翼や彼の父親を不器用と言うのなら、永田も同じではないかとさえ思う。
 今でこそ永田の気持ちを理解し、だからこそ「ありがとう」と言う感謝の言葉を述べるようになった翼だが、それまでは父の言いつけで自分を見張っている位にしか彼の献身的な姿勢を理解することが出来なかった。
 どんなわがままな言いつけでも聞いてきた永田を理解してやれなかった翼も翼だが、翼のことを次期後継者としてだけでなく、一人の人間として理解し、大切に思い、傍にいるということを翼に伝え切れなかった永田も不器用な人の一人だ。そう思うとちょっとだけ可笑しい。
 ――男の人って、みんなこうなのかな。
 悠里はふっと目元を緩める。
「永田さん」
「はい」
「それをそのまま翼君に言ったら、彼、とても喜びますよ」
 満面の笑みを永田に向けると、彼は一瞬目を丸くし、それから困ったように眉を寄せる。
「喜ばれる、というより……真っ赤になって怒られそうですが」
「ふふっ、それも不器用な翼君の愛情表現のひとつです! そうでしょう?」
「南先生……」
 困った顔のまま永田は微笑む。
「それじゃ、行ってきます。本当にありがとうございます、永田さん。今日のことは私、絶対に忘れません」
 そう言葉を残して再度頭を下げる。
 靴音を辺りに響かせて、インターフォンの前に立つと、背後では車の排気音が聞こえる。振り返れば、車の中から永田が軽く会釈をし、車を走らせる。
「ありがとう、永田さん」
 もう一度小さく呟き、躊躇いがちに最上階のインターフォンを鳴らすと、しばらくしてから翼の声が聞こえる。
「誰だ」
 愛想もそっけもない短い反応。悠里は息を吸い込んでインターフォンを見る。
「あの……南です。南悠里です」
「……先生? 何かあったのか? というか、永田はどうした」
 驚く翼の声に、悠里は次第に高鳴っていく鼓動を精一杯抑えながら言葉を紡ぐ。
「さっきまで永田さんもいたんだけど、ここまで私を送り届けてくれたらまた戻られたわ。……そ、それより、今からそっちに行ってもいいかな。渡したいものがあるの」
「渡したいもの?」
「そう、今日どうしても」
「……わかった」
 途中から緊張のあまり声が震えてしまうが、なんとか言葉にできた。待っていろ、という翼の言葉のあとすぐにドアのロックが解かれ、エントランスへと足を進める。 
 七十階までそれなりに時間がかかると思っていたエレベーターも、緊張で胸を高鳴らせている時に限って早くつくような気がしてならない。
 ポォン、という柔らかい音が鳴り、ドアが開けばフロア一帯は翼の家となっており、なんと彼はドアの外で待っていた。
「お前……その格好、家に帰ったんじゃないのか?」
 目を丸くする翼に、悠里は足を進めて近づく。そういう翼も、ジャケットこそさすがに脱いでいるものの、タイを外し、シャツのボタンもいくつか外したままの状態だ。
「うん。あの後、ちょっと……買い物をして、それで……どうしても翼君に渡したくて」
「買い物? こんな時間にか?」
 眉を顰める翼に、悠里はうん、と頷き、手に持っているコンビニの袋を差し出す。
「こ、これ! あの……先週私がたくさん飲んじゃったワインの代わりにもならないかもしれないけど、ちゃんとしたアルコールだから!」
「って、ビール!? お、おい先生! これを一人で飲めというのか!」
 何を考えている、と翼は声を裏返しながら驚きをあらわにしているが、悠里はかまわずその腕にぎゅうぎゅうと押し付ける。
「全部飲むまで、私、帰らないから! 絶対に帰らない!」
「What!? お前、人を何だと思ってる! 牛や馬じゃないんだぞ! こんな大量の缶ビールを空けるなど、なにバカなことを……って。――待て。……今、なんと言った?」
 押し合いへしあいと繰り返していた二人だが、翼の動きがぴたりと止まった瞬間、辺りは急に静かになる。がしゃん、と缶がつぶれるような音を立てながら幾つか缶が落ちていく。
 その音を聞くたび、悠里の鼓動が再び高鳴りだす。
「永田さん……がね、呼ばれても今日はもう、対応できないって。代わりの人もいないから、私を送ることができないって。……だから、その……その、ね」
 上手に説明をしようとすると浮かんだことをすべて伝えようとして上手く言葉にならない。
 それどころか、ちゃんと順を追って話そうと考えれば考えるほど頭の中が真っ白になっていく。
 そうなるとさらにドキドキが治まらなくなり、息も出来ないくらい。
 何を言い出すのか自分でも怖い。
 ――ああ、もう、何がなんだかさっぱりよ……!
 ぎゅっと目を瞑り、とりあえず浮かんだ言葉を素直に口にしていこう、と精一杯息を吸い込む。
「つっ、つまりは、誕生日を……やっぱりちゃんとお祝いしたかったの。翼君はいいって言っていたけど、私がちっともよくないわ! だって……やっぱり言いたいもの。お誕生日おめでとうって。生まれてきてくれて、良かったって。だって……翼君は、私の大切な――」
「大切な、元生徒だから、か?」
 僅かに掠れた声に思わず振り仰ぐと、そこには途方に暮れた子供のような顔をした翼がいた。
「……うして」
「え?」
「どうして、そんなにこだわる? ……教え子の一人だろうが。それもただのBirthdayだぞ? それともお前は教え子全員に同じことをするというのか? 人を期待させるなよ。頼むから……勘違いさせるな!」
 徐々にその表情を苦しげに歪める翼に、悠里は息を呑む。
「ちが……」
「何が違うんだ。何も、違わないだろう」
 絞り出すような声に、悠里は一歩足を踏み出して翼を真っ直ぐに見つめる。
「違う。……絶対に違う! みんなと一緒なんかじゃない。仕事が終わる時間に合わせて待っててくれるのを嬉しいと思うことや、二人きりで食事に行くことだってそう。……翼君が他の女の人と一緒にパーティーに参加するのを考えただけで、胸が苦しくなるなんて、翼君以外に思わないわよ!」
 半ば睨むようにして翼を見上げたまま、今度は悠里が少しずつその表情を崩していく。
 思っていることを一気に口にしてしまえば、感情があとから幾つも湧き出して止まらない。言葉でも足りない思いは涙となって零れ落ちる。
「なん……で気がついちゃたんだろう! とっくに好きになってたこと、このまま知らなければこんなに苦しくならなかったのに! 誕生日を忘れちゃってたこと、こんなに悔しいって……おもっ、思わなかったのに……っ」
 目元が熱いし、視界がぼやける。困惑している翼の顔も滲んでゆく。
「先――……悠里」
「知らないっ!」
「……頼むから泣くな」
 頬に触れる手の暖かさに余計涙が止まらない。
「な、泣いてないっ」
 意地を張るのは年上なのにみっともないとか、格好悪いというどうしようもないといった、最後のちっぽけなプライドのせい。
 ぐすっと鼻を鳴らして悠里は涙が溢れる目で翼を睨むのだが、彼は悠里の頬に手を当てたまま困ったように微笑む。
「涙で台無しになるぞ。……今日は俺が驚くほど綺麗になってやると言っていただろうが」
 その優しい声色のせいでもっと涙が出そうになるが、くちびるをぎゅっとかみ締めてそれを堪える。それを見た翼が、すっかり口紅が剥げ落ちてしまったくちびるに長い指を伸ばす。
「噛むな。傷つく」
 言って傾けた頬が近づき、そっと触れるだけのキスを落とす。一度触れては離れ、鼻先を合わせてはもう一度軽くくちびるを合わせる。
 少しだけ長く触れ合ったあと、僅かに顔を話した翼がため息でもつくように言葉を紡ぐ。
「言わないでおこうと思ってた。我慢をしよう、と。『いい先生』でいるお前を困らせないよう、せめてこれからは『いい生徒』でいようと。実際、お前には言葉では言い表せないくらい感謝をしているし、俺にとって最高の先生はお前一人だけだ。でも……」
 ずっと好きだった。
 言葉じゃ足りないくらい、とても。
 毎日その顔を見ないといられないくらい、お前が好きだ。
 ――そう掠れた声で囁いて、キスをする。ただ触れるだけのもどかしいキスを何度も。
「お前も俺と同じ気持ちでいてくれるのならいいと思ったけれど……」
 静かだが艶やかな声に、悠里は自らくちびるを寄せる。
「同じよ。好きだもの。最近になってやっと気がつくなんて遅すぎるけど、私は翼君が好き」
 言葉じゃ足りないくらいに、とても。――翼と同じようにしてそう囁き、見つめ合う。照れ隠しに笑みを浮かべるもののそれも短い間だけ。何度しても足りないキスをもう一度。
 翼の腕に捕まっているだけでは足りなくて、両腕をその背中に回そうとするのだけど、手に持っていたままのもう一つのものに気付き、慌てて体を離す。
「……あ」
「……What?」
 それでも額や頬にくちびるを落とす翼を見上げる。
「いけない、大事なものを忘れてた!」
 雰囲気を壊すような悠里の大きな声に、翼は眉を顰める。それこそ眉間に縦皺を刻んでだ。
「お前は……どうしてこんなときにフインキをぶち壊す」
「フインキじゃなくて雰囲気! って、前に普通に言えたじゃない〜」
「そんなのどうだっていい。それよりなんだ」
「そう、これよ、これ。ケーキがあるの」
 有名レストランのロゴが入ったペーパーバッグを持ち上げる。誕生日を祝うための、もう一つの大切なもの。
「Cake?」
「そう。これはね、永田さんが探してくれたケーキなの」
「永田が?」
 目を丸くする翼にふふっと微笑む。
「ええ。翼君と別れた後も、お父様のところには戻らないであちこち連絡をしてはケーキを取り寄せてくれたのよ。誕生日の仕切り直しには必要でしょうから、って。勿論、キャンドルもちゃんと二十本入ってるのよ?」
 凄いでしょう? と両手でバッグの底辺を持ち、翼のほうに向ける。それをまじまじと見ていた翼だったが、短く息を吐いて瞼を閉じる。
「……あいつも、馬鹿だな」
「ちょっ、翼君?」
「俺の周りはそろいも揃ってみんな馬鹿ばかりだ」
 悠里の手からバッグを奪い取っては、ドレスのウエストへと片手を回し、再び頬のラインを傾ける。
「だが、ちっとも悪い気がしない。むしろ……それが嬉しいと思う」
 けして派手ではない。
 驚くような高価なものでもない。
 心づくしの精一杯のものしか用意はできないけれど、それでも彼を笑顔に変えられるのであれば、それがなによりも幸せ。
 柔らかな感触が額へと移り、くすぐったさを感じながら悠里は小さく笑う。
「……まだ大丈夫かな」
「何が」
「日付、変わっていない?」
 そう尋ねると翼は不思議そうに悠里を見る。
「一週間遅れちゃったけど、ケーキを食べて誕生日のお祝いするのって、まだ間に合うかなと思って」
 二十本の小さなキャンドルに火をともし、高級ワインには遠く及ばないが腕一杯の缶ビールでお祝いをする。そして、一週間ほど遅れてしまったけれど、二十年前に生まれてきた愛する人に、愛の言葉で祝福を。
「キャンドルの火を吹き消すぐらいなら間に合うだろうな」
 そう言ってバッグを再び悠里に持たせ、自分は地面に一つ二つと転がっているへこんだ缶ビールと、大きな塊となっているコンビニ袋を拾い上げる。そして、空いた片手をしっかり繋ぎドアへと歩いていく。
「えっ、ケーキ食べないの? そんな、勿体ない……」
 折角永田さんが用意してくれたのに、と悠里がぼやくと、翼は僅かに口角を上げてこちらを振り返る。
「すぐにはダメにならん。それよりも先にするべきことがあるだろう?」
 その妙に艶のある笑みと声にドキリとしつつも、え? と目で問うと、悠里の肩に手をかけた翼はそのまま首筋の辺りに顔を寄せ軽く音を立ててキスをする。
「I want to get to know you better. CakeもAlcoholもその後だ」
 その言葉に耳まで赤くした悠里だが、その後観念したように息を吐き、くちびるに笑みを浮かべる。
 伝えたかった言葉と想い。
 それを真っ直ぐに伝えられるのは、今だ。
 これからのための、今がここにある。
「翼君、Congratulations on your 20th birthday. そして――」
 ――I love you.
これからも、いつまでも、たった一人のあなたに捧ぐ。



End.
2008.01.25-29UP
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