VitaminX

Eveの勇気【翼×悠里】



「えっと、玉ねぎと人参はうちにあったから大丈夫。……あっ、肝心のカレールーがないんだ!」
「は? ……お、おい、待て」
 慌てて私についてくる翼君。私たちが今日訪れた場所はなんと地元の商店街。それもスーパーだ。
 お金持ちで、欲しいものは常に何でも手が入るという翼君と、雑多で人も多い商店街とはまったく無縁のようだけど、商店街に興味を示したのは翼君のほうで、今度行ってみたいと彼は言っていた。
 そして、気も早く翌日にでも『商店街初体験・庶民ツアー』と派手に名づけられたそれは決行されるはずだったのだけど、当日になって気まぐれを起こした翼君は、商店街でなく海外へと私を連れ出そうと企み、なんと自家用ジェット機に無理やり乗せたのだった。
 行き先はモルジブ、プーケット、それともモナコかと平然と翼君は言うのだけど、祝日でも連休でもない私がそう簡単に学校を休めるはずもなく、目的地を無理やり熱海に変更させ、事なきを得たのはつい最近のこと。
 翼君は随分と……それはもう、最高にご機嫌を斜めにして不貞腐れていたけれど、私だって社会人として職務を簡単に放棄するわけにはいかないの。翼君たちB6の生徒を卒業させた後も私は聖帝学園の教師なんですから!
 そんなこんなで予定がずれてしまった商店街初体験・庶民ツアーは、日を改めて本日決行されることになった。
 明日は土曜日で休みだし、今月のお給料は今日支給されたばかりだから私にとってはタダの花金ではなく、スーパー花金といったところだ。
 そんな花の金曜日に、ステキな恋人と一緒にいられるなんてもっと最高。海外も確かに魅力的だけど、私は一緒にいられるならどこだっていいの。今だってとても幸せなんだから。
 スーパーでデートなんて本当に庶民じみているけれど、このお手軽さ、チープ加減が私の心をより一層弾ませる。
 高級レストランで食事をして、夜景の素敵なスポットへ出かけるのも乙女心を掻き立てるにはもってこいのシチュエーションだけど、自宅で手料理を食べてもらうっていうのはまた違ったときめきがある。
 なんかこう、いかにも『恋人同士』っていう感じがするのよね。
 『うっかり熱海旅行』の時、旅館の女将に、新婚さんと呼ばれたのとはまた違うむず痒さが胸の奥に生まれる。
 ――ふふっ、手作りとは言ってもカレーライスだけど、それでもこういうのって、嬉しいな。ずっとやってみたかったのよね〜。
 私はどうしてもニヤけてしまう頬を指先で押さえながらも、メーカーが違う三種類程の固形のカレールーをかごに入れる。
「そんなに使うものなのか? 食べるのは俺とお前の二人だけだろう」
 訝しげにかごの中の物を見る翼君に、私はうん、と返事をする。
「確かに二人分だけど、市販のカレールーを幾つかブレンドするとまたちょっと味が違うの。それに、固形のルーが余ってもきちんと保存しておけば、すぐにはダメにならないから案外持つものなのよ」
「そうなのか。……というか、本当に大丈夫なんだろうな」
「大丈夫、大丈夫。任せなさい!」
「……うっ。イマイチ、いや、イマヒャク信用しかねる。ハァ……本気で作るつもりなのか」
 眉間に皺を寄せて翼君は言うけれど、さっきから何度もそれを繰り返している。
 夕飯を作ってあげると提案した時も、「クッ! い、いい! わざわざ作らんでも、外で食事をすればいいじゃないか」とか、「今日は仕事の後だし疲れているだろう? 無理はするな」と妙に気遣いを見せては断ろうとしていた。
 学生だった時もそうだけど、どうしてそんなに手料理を拒否するんだろう。確かに見た目は多少黒いかもしれないけど、味の評判はいいのに。
「むっ。カレーなんて初歩も初歩、いくら私だって失敗しませんよーだ」
「だ、だが……なぁ。前例が前例なだけに――」
 はっきりとわかるくらい表情を曇らせる翼君をスルーして、私は足を進める。
「さあて、あと必要なものは〜っと」
「聞けっ!」
 ふんだ、聞かないわよ。
 そもそも、商店街ツアーのオプションとして「私の部屋でのんびり過ごす」を付けた時点で手料理も含まれているの。そりゃ確かに手料理の件は翼君には言っていなかったけど、そういうものなんです! ……まあ、それは置いとくとして、今は買い物と夕飯のメニューに専念しなくちゃ。美味しいものを作ってしまえばこっちのものだし。
 とはいえ、メニューがカレーだけじゃあまりにも質素すぎるかな。今のところかごの中にはカレーの材料しか入っていない。
 ――うーん、やっぱりサラダぐらい必要よね。ポテトサラダはお弁当に作って持っていったことがあるから、今日はマカロニサラダにでもしようかな。
 そう小さく呟いた言葉に、翼君はやけに素早い反応を見せた。
「い、いらんっ。どうしてもと言うならレタスをちぎって盛るだけで十分だ! ドレッシングは市販のものにしろ。けして作ろうとするな。俺は新薬などいらんっ! ……いいか、絶対に人体実験するなよ」
「私は製薬会社の研究員じゃないってば」
「似たようなものだ。いや、それより極悪だ!」
「むかっ!」
 ビシッと指を突きつけなくてもよろしい。
 それになによ、顔を引きつらせて言うことないじゃない。
 というか、手作りのドレッシングっていう手もあったのよね。言われて気がついたけれど、それもいいかもしれない。
「ちっともよくないっ! 悠里……た〜の〜む〜から、お前はカレーにだけ専念してくれ!」
 なぜか目を剥いて翼君は言う。そのあまりの迫力に、私はたじろがずにはいられなかった。
 まったくもう、どうしてそんなに怒るのよ。まだなにもしていないじゃない。ふんっ!


 往生際の悪い翼君は、買い物が終わって家に着き、夕飯の準備を始めても、お抱えシェフの山田さんを『Super Visorとして呼ぶ』と言って聞かなかったのだけど、今日は永田さんも居ないし、携帯も取り上げちゃったから連絡のしようがない。
 まるで見ていないテレビのチャンネルを何度も何度も変えては、翼君は仏頂面のままでカレーが出来上がるのを待っていたんだけど、テーブルに並べられたものを見て、その表情は一変する。
「……今日はイカ墨を入れなかったのか?」
 いつも入れてません。
「Fantastic! なんと、Riceも白いぞ!」
 それぐらいで明るく顔を輝かせないで!
「メインも黒くない……。いや、多少黒みを帯びているが、かろうじて人の食い物だと識別することができるぞ。刺激臭もない」
 Miracle、と感心したようにして目の高さまで皿を持ち上げ、くん、と匂いまで嗅いでいる。いったいどんなのを想像してたんだろう。
「だから言ったじゃない、カレーぐらい作れるって。味見もしたから大丈夫です。ホラッ、熱いうちにどうぞ召し上がれ」
 スプーンを差し出すと翼君はそれを受け取り、恐る恐るカレーを掬う。
 口に入れる瞬間、ぎゅっと目を瞑ったことは敢えて突っ込まずに置く。なぜなら、彼の口から思っていた通りの言葉が零れ落ちたからだ。
「悔しいが……美味い。しかし、食べ慣れない味のカレーだが、庶民のカレーはこういうものなのか?」
「えっ、何がどう違うの?」
 驚くのは私の番。
 ごくごく一般的な味だと思うんだけどな。辛すぎず甘すぎず、丁度いい味に仕上がっているはずなのに。作る家庭によって多少の味やら具やらは変わったりするけれど、驚くような差はないと思うのよね。
「エスニックはたまにしか食わんのだが、もっと香辛料の香りがするというか……、具も殆ど無くてPaste状だった気がする」
 なるほど。
 カレーって言うと翼君の場合は本格的なカレーのことを言うのね。
 確かに、一般家庭で作るカレーは香りもそんなに強くないし、具だってちゃんと溶けずに形を残している。玉ねぎや人参がダメな子供ってたくさんいるけれど、カレーで克服しちゃう子も少なくないのよね。
「日本でカレーっていうと、大体はこんな感じなの。具がちゃんとあって、香りも辛さもそこそこ。食べやすいようになっているのよ。本格的なカレーとはまたちょっと違うけどこれはこれで食べられる味だし、簡単に作れることもあって、私は結構好きよ」
 目を細めて笑うと、翼君も「そうだな。悪くない」と表情を和らげる。
「前に作ってきた弁当は……その……た、確かにアレだが、このカレーは安心して食べられる。好きなものの一つに加えてやってもいいくらいだ」
 そう言って美味しそうに食べてくれるのが本当に嬉しくて、私はちょっと泣きそうになってしまった。それに、褒めてもらえるのってなんて嬉しいんだろう。それだけでも翼君の株がこれ以上にないくらいアップして、後先何も考えずにすむのであれば「大好き」と言いたいくらい。
 恋人に褒められるのって、やっぱり特別。すごく嬉しいな。
「えへ。えへへっ」
「悠里、不気味に笑うな。気色悪い」
 もう、なんとでも言って。今なら全部スルーできちゃう。
「……What!? なんだこのLeafは。く、食い物に木の葉が入っているぞ!?」
 ああ、それは香り付けの月桂樹よ。やだ、取り除くの忘れちゃった。
「待て。今口の中が変にねっとりしたぞ。ぐっ、なんだこの味の強い固形物は!」
 あれっ? きちんと溶けているって思ったんだけど、まだルーが溶けきってなかったのかな……。いけないいけない。
「Onionがどうしてこんなに繋がっているんだ! スプーンに乗り切らないなんてありえんぞっ!」
 そう言って翼君が頬をひく付かせながら指したそれは、きちんと切れることなく見事に繋がった玉ねぎの塊。その大きさ、普通の玉ねぎの四分の一くらいあるかも。
「あ、あれっ? 作ってる時は気づかなかったんだけど……おかしいなぁ。繋がっちゃったのかな」
「んなわけあるかっ! 分裂や溶解することはあっても結合するなどありえん!」
「翼君、そんな難しい言葉よく覚えたね。なんか感慨深いものが……」
 絵本の桃太郎を読んで漢字を覚えようとしていた去年を思い出すと、信じられないくらいの進歩よ。そもそも平均点九点のラインから、たった一年で最高学府の東都大学に合格したっていうこと自体が本当に凄いことなのよね。
「フン、誰に物を言っている? 去年一年でどれだけ勉強したと思っているんだ。この真壁翼にかかれば日本語の一つや二つ――って、今はそんなことどうだって構わん! 今の俺には補習など必要ないが、お前にはたっぷりと受けてもらう必要がある。でないとお前の手料理を食べさせられるたびに俺は自分の体の心配をしなくてはならん! 明日から山田の元で料理の基礎からみっちり修行してこい!」
「ふ、ふんだ、わかったわよ。いちいち目くじら立てる翼君には、もう作ってあげないんだから!」
「何だと!? そ、それは……悔しいような……いや、でも喜ぶべき所なんだよな、ここは。――だがしかし……っ」
 神妙な面持ちでブツブツ言っている翼君を尻目に、私はカレーを頬張る。
 だいたいね、翼君は細かい突っ込みが多いのよ。
 月桂樹が入っていたら除ければいいし、カレールーの塊ぐらい溶かしちゃえば全然大丈夫だし、玉ねぎが繋がっていても、解しちゃえば普通に食べられるでしょ。
 ――って言ったら、もっと怒られそうだから止めておくけど。第一に私がちゃんと気づいていればよかったんだ。悪かったのは、やっぱり私なのよね。……うん、それはちゃんと謝ろう。
 私は時折ちらっと翼君を見ながらスプーンを動かす。
「そ、そんなチクワのような目で見ても、ダメだからな」
 それを言うならチワワ! お願いだから同じ間違いを繰り返さないで〜! ……って、そうじゃないのよ。多少のミステイクぐらい目を瞑ろう。今は突っ込んじゃダメ。まずはちゃんと謝るのが私の今するべきこと。
「……翼君、ごめんね」
 私の言葉に、翼君はうっと言葉を詰まらせる。
「次からはちゃんと気をつけるから」
 だから機嫌を直して、とそっと言うと、翼君は視線を逸らしながらちょっとだけ不貞腐れた子供のようにぼそぼそと呟く。
「多少の難はあったが……その、不味いという意味じゃないからな」
「……本当?」
「本当に美味いと思う。言っておくが、お世辞などではないからな」
 心なしか頬が赤く染まっているように見える。それに、一生懸命言葉を選んでくれているのがわかる。
「きつく言った俺も悪かった……と思う。……Maybe」
「翼君……」
 傲慢で我儘で、いつも驚かされることばかりだけど、非を認め、謝るべきところはきちんと言葉にして謝るのが、彼の意外な一面。それは学生の時に気づいていたけれど、この素直な面を見せられると胸の奥が軽く締め付けられたようになる。
 ほんのり甘くて切なく、愛しい気持ちが溢れてくる。
「い、いい加減もう食べるぞ。食事が冷める。お前もさっさと食え!」
 この春まで私は翼君は私の生徒だったから、卒業と同時に恋人になったと言ってもどこか照れくさくて、ちょっぴりぎこちなさを感じたりもしたけれど、二人で過ごす空気を少しずつ変えるのは、きっとこういう小さな時の積み重ねなのだろうと私は思う。
 怒ってケンカして、拗ねたり、謝ったり、笑ったり。
 そんな風にして、きっと変わっていくんだろうな。
 翼君だけが変わっていくんじゃなくて、私も一緒に。


 それにしても、時間なんてあっという間。
 食事を済ませたあと後片付けをして、翼君の大学生活のことやお父様の仕事の手伝いのこと、そしてB6のみんなの話などをしていたらあっという間に時間が過ぎてしまった。
 夜の十一時。終電など関係ない翼君は、それまでさして時間を気にすることもなく過ごしていたけれど、さすがにこんな時間ともなれば気になるのだろう、腕時計へと目を移し一つ息を吐いた。
「早いな、もうこんな時間か。明日は三時にまた迎えに行く」
「あ、うん。でも、駅前で待ち合わせでも平気よ?」
 今日だけでなく私たちは明日も会うことになっている。平日でも翼君はヒマを見つけてはしょっちゅう聖帝へと足を運んでくれているんだけど、やっぱり休日ほどは長く一緒にいられないから、連休は大半翼君と待ち合わせて一日を過ごしている。
「多少の回り道ぐらい大した事はない、気にするな。それより寝坊するなよ。俺が着いても寝ていた時には特製スピーカーで叩き起こしてやるからな」
 ニヤッと笑って翼君は脱いでいたジャケットを手に取り立ち上がる。お願いだから近所迷惑だけはやめて欲しい! ……というか、私も絶対に早起きしておかなくちゃ。翼君なら本当にやりかねないもの。
「ちゃんと起きます、起きてみせます」
 頬を膨らませて靴を履く背中を見つめると、振り返った翼君は小さく笑う。
「ああ、そうしてくれ」
 別れ時の一瞬の笑顔には、いつも甘さと切なさが混じっている。ただでさえとても綺麗な顔立ちをしているのに、その表情に寂しさが影を落とすからぞくっとするほど魅惑的で、それは私の心を掴み、より一層別れがたいものにする。
「悠里、See you tomorrow」
 くちびるにキスをして残した言葉。――悠里、また明日。
 そう、また明日会えるのよ。
 だから、寂しくなんか……寂しくなんかないのに。
 今度は頬にキスをしてドアを開けた翼君のジャケットを、私はなぜか咄嗟に掴んで引っ張ってしまった。その弾みで翼君はドアに頭をしたたかに打ち付けてしまい、ごん、という鈍い音が響く。
 ――うわっ、絶対に怒られる!
「お〜ま〜え〜っ、何のつもりだっ!」
 打ったところを押さえ、それこそ般若のような顔で翼君は振り返る。美形は怒っても美しいけれど、出来るならその表情をゆがめないで欲しい。怖い、怖すぎるのよ!
 私はただ……ただ、引き止めたかっただけなのよ。一緒にいたかっただけなの。
「うぎゃっ、ご、ごごごごめんなさい! つ、つい」
「ついもクソもあるか! それよりも、なん――」
 多分、なんなんだと続けられるはずであった言葉は、いつまでも翼君のジャケットを握っている私の手に視線が落とされたことによって途切れる。
 私もその視線に気づいて慌てて手を離すけれど、翼君は驚いたように目を見開いたあと、からかうようにして笑う。それもポーズをつけてだ。
「フッ。なんだ悠里、そんなに離れたくないのか? どうせまたすぐに会えるというのに、仕方のないヤツだ。俺のことが恋しくてたまらないんだろう。まぁ、仕方がないよな。なんていってもまばゆいほどの美形で、しかも賢く、とんでもない金持ちの彼氏ともあれば――」
「……うん」
「は!?」
「明日また会うのに、どうして別れちゃうのかな……と」
 年上のクセに、何を甘えたことを言っているんだろうって自分でもわかってる。殆ど毎日のように顔をあわせているのに、なに子供じみたことを言ってるんだろう、って。
 でも……そばに居て欲しい気持ちは、どうしていいのかわからない。
 例えすぐに会えるとわかっていても、どうしようもないのよ。――寂しくなるの。
 変よね、教師と生徒だったときはこんなこと無かったのに。翼君のことを、一人の男の人として好きだと気づく前までは、こんな気持ちになるなんて無かったのに。
「その……本当に、帰っちゃうの?」
「悠里?」
「あ、あの! こっ、こんな時間だし、夜も遅いし、電車もそろそろ止まっちゃうだろうしっ、でも明日は休みで……その……その、えっとね!」
 あぁ、私ってばなに言ってるんだろう。支離滅裂、自分でも何がなんだかさっぱりよ。
 ただひとこと、『帰らないで』って言えばいいだけなのに。なのにどうしてこの口は素直に言ってくれないの〜!
「俺は電車には乗らない。バイクで来たんだからな」
「そ、そうよね!」
「だからどんなに遅くなろうと関係ない」
「う……」
 翼君の声が耳元すぐで聞こえる。
 気がつけば、いつの間にか私は壁にぴったりと背中を押し付けているような状態で立っているし、翼君にいたっては私を囲むようにしてその両腕を壁についている。
「言え」
「翼、く――」
 くちびるが触れそうなほど顔が近づき、妙に甘く艶やかに輝く瞳が二つ、私を真っ直ぐに見つめている。眩しいのは、玄関にボンヤリとさす灯りではなくて、それを背にしている翼君の瞳だ。
「どうして欲しいか、ちゃんと言葉にして言え。そうすれば、お前の願いはなんだって叶えてやる。服や靴や宝石も、空に輝く星さえも手に入れることができる。――愛しいお前のために、この俺に出来ることは全部やってやる」
「私、は……」
 私が欲しいのは服でも宝石でも、遠くに輝く星でもない。
 もっと身近なもので、すぐ目の前にある。
 翼君にそばに居て欲しいだけ。夜も朝も、隣に居て同じ時間を刻んで欲しいだけなの。
「どうしても言えないというのなら、再びLectureしてやりたいところだが、あいにく、お前を取り囲んでいるため手が塞がっている」
 だから早くしろ、と形のいいくちびるが動く。
 卒業式のあの日から私たちの関係は急に近くなったけれど、私はまだ翼君の全部を知らない。
 手もつなぎ、愛の言葉を囁き、キスだってするけれど、それだけではわからないことがたくさんある。
 それを今夜知ることが出来るのだろうか。熱海の夜に知ることが出来なかったことを、今日――。
 一緒に居て欲しい、そばに居て――それは最後のフェンスを越える言葉。
 私は高鳴る鼓動を抑えきれないまま、少し乾いたくちびるを動かす。
「……帰ら、ないで」
 今日は私のそばに居て。
 二人でいられる時間をあと少しだけ……もう少し、贅沢をさせて。
 何ものにも変えがたい時間――好きな人と長い夜を越えられたとき、きっと私はこの世の誰よりも幸せになれる。
 だから精一杯の勇気を振り絞って、もう一度想いを言葉に乗せて呟く。
「そばにいて、翼君」



End.
2008.01.06UP
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