VitaminX

頬にキス【翼×悠里】



 B6のみんなと一緒にランチをとるようになって数ヶ月。
 山田さんの作るお料理はどれも美味しくて、コンビニのお弁当は勿論、学食のAセットなんて足元にも及ばない。
 というか、グランドプリンセルホテルののシェフを務めていた人の味を、コンビニ弁当と天秤にかけること自体が間違っているんだろうけど、哀しいかな、庶民の私のレベルでは身近にあるコンビニ弁当ぐらいしか比べるものがぱっと浮かばない。
 とにかくどんな味にも敵わないくらいとても美味しいということだけは確か。
 そんな特上のランチを残なんてもってのほかで、私は毎回しっかりと頂いてしまっているんだけど、ここ最近スカートのウエストが少しきつくなったのは、けして気のせいではない。
 お風呂上りにこっそりとメジャーでウエストを測ったら、なんと二センチも増えていたのだ。
 そのときの私のショックといったら、一気に冷水の中にでも突き落とされたかのようで、メジャーを握り締める手がプルプルと震えてしまったくらい強い衝撃を受けた。
 悪戯ばかりしている清春君を筆頭に、大小問わず何かとトラブルを起こすB6メンバーを毎日追いかけているから、ランチのカロリーと彼らを追い回している消費カロリーは程よくつりあっている、などと信じたかった私の甘い考えは粉々に砕け散ってしまった。
 ――こうなれば、ダイエットよ! それしかない! やるのよ悠里!
 狭い脱衣所で決意を胸に秘めた私なのだけど、毎日振舞われる彩りも鮮やかな豪華ランチを目の前にして、庶民が逃げ切れるわけもなく、悲しいかな今日もフォークとナイフを動かすランチタイム。なんだか一句読めそうなくらい。ああ、なんか切ない。 
「なぁ、先生。……メシ、泣くほど美味いのか?」
 恐る恐る声をかけてきたのは一君。
 優しい気遣いをありがとう。確かに凄く美味しいわ。美味しすぎるのよっ!
 けど、涙が滲むのは美味しいだけじゃなくて、悲しいからなの。誘惑に弱い自分が悲しい。ううっ……。
 この真鯛のムニエルといい、茸のチーズの風味がたまらないリゾットといい、ソース一滴、焼き加減ひとつにしても絶妙。二十四年も生きてきたけど、大奮発したってこんな美味しい料理食べたことがない。
 こんなの目の前に差し出されたら、なけなしの根性と忍耐なんて吹っ飛んでしまう。
「美味しいわ。凄く美味しい……! 泣きたくなるくらいっ」
 ぐっとフォークを握り締める私を見て、一君は些か引き気味だ。
「そ、そっか。つーか先生、頼むからそれ、投げんなよ?」
「投げません」
「セーンセ、ゴハン足りないからってハジメ食べちゃ駄目だよ? ハジメなんて筋肉質でちーっとも柔らかくないし、食べたってポペラ筋張って美味しくないからねっ?」
「悟郎、そのフォロー微妙……」
「えー、だって本当のことじゃん」
 だからってゴロちゃん食べちゃだめだよ、と悟郎くんは悪戯っぽく舌を出す。
「あーもう。二人とも大丈夫よ、いくら私でも人は食べません!」
 軽く頬を膨らませると、悟郎くんは「ヒャハッ、本当かなぁ。なんかコッワーイ!」と肩を竦め、一君に至っては「大丈夫って言われると逆に怖ぇ……」と神妙に呟く。怖いとは何よ、もうっ。
 それからは皆いつものように騒いだり、くつろいだり、続けてのんびり食事をしたりとそれぞれ好き勝手にお昼の時間を過ごしたんだけど、私は淹れて貰ったお茶を飲みながら思わずにはいられない。
 ――はぁ……。君たちのように育ち盛りはいいわね。どんなに食べたって全部エネルギーになって消えていくんだから。私なんて、どんどん蓄積されていくばかりなのよ〜!
 美形で、スタイルも良いなんて羨ましい限りだ。その輝くばかりの容姿に、多少のお馬鹿っぷりぐらい目を瞑れ……。瞑れ、る……うーん、やっぱり瞑れないけど、それでも羨ましい。
 でも羨ましがってもいられない。
 今のこの調子じゃランチを抜くことなんて絶対に無理だろうから、朝と晩の食事を制限するしかないか。山田さんに食事の量を減らしてもらうことも考えたけれど、B6の皆に量がいつもより少ない、なんていうのがばれたら思いっきりからかわれるに違いない。それこそ清春君になんて何をされるかわかったものじゃない。
 だから皆の目に見えないところで努力しなくちゃ。
 食事だか果物だか記憶は曖昧だけど、朝、昼、晩を「金・銀・銅」に例えてどうのこうのって聞いたような気がする。これってカロリーのこと……よね、きっと。もしそうだとしたら私は「ノーメダル・金・銅」で釣り合いをつけるしかなさそうだ。
 もうそれしか道はない。とにかくここで気を抜いたら、一気に転落なんだから。
「なァに、眉間にシワ寄せてンだァ、ブチャ」
 気づいたらすぐ目の前に清春君の顔があった。っていうか、目の前はテーブルなのよ、どうしてこんな所に君がいるの! 何よりその顔近づけすぎなの!
「わっ! ちょ、ちょっと清春君、降りなさい!」
「何度呼んでも返事を反応がねェから心配してやったンだろ。それとも何かァ、美味いメシ食ったから、放心してるってか? ボケッとしてっとコブタになるゼー? ヒャハハ、ブチャイクでコブタ! サッイアク!」
「むっ!」
 ――人が気にしていることを!
 絶対にコブタになんてならないんだからね。見てらっしゃい。
 増えたウエストを、絶対に戻してやるんだから!
 コブタになんて誰がなるもんですかっ。

 それから私は毎日朝食を抜き、夕飯はご飯とおかずの量を半分に減らし始めた。
 真夜中におなかは空くんだけど、グゥグゥとおなかが鳴る音はその分ウエストのお肉が減っている音と思えば心地よさに変わる。
 おなかの音が鳴るたびにほくそ笑んでしまう自分がちょっとだけ怖いけど、自宅で一人ぼっちのときなら誰にも気味悪がられない。
 なにより、僅かではあるけど食費の節約にもなる。うん、一石二鳥じゃない。
 だけど、さすがに悪戯ばかりする清春君を追いかけるには、エネルギー不足のようで、ここ最近どうも息切ればかり。今だってゼイゼイ言って止まらない。
 運動不足の上にエネルギー不足とあってはさすがにガス欠もするかぁ……。
「……っ、き、清春、君〜っ! ま・ち・な・さ〜い!」
「ブチャ、カラダ重ッそうだな! マジで太ったんじゃねェの?」
「う、うるさいな! 乙女に太ったっていう言葉は失礼よ」
 お願いだから無邪気に毒を吐かないでほしい。心にぐさっとくるのよ、その一言!
「ハッ、乙女ェ? そんなトシしてンのか、オマエ。つーか太ったのは図星かよ。ケッサクだぜぇ、ヒャハハハハ! 捕まえられるもんなら捕まえてみやがれ、コブタのブチャイクチャン」
 そう言って清春くんはあっというまに私の前から姿を消してしまう。
 そもそも俊敏で俊足な清春君に敵うわけもなく、私はどんなに全力で走っても清春君の背中を見つけることすら出来なかった。
 時間は丁度お昼時間に入ったばかり。清春君の向かう先は間違いなくバカサイユなんだけど、さっきから私は息切れが酷くて思うように身体が動かない。
 この校舎裏からバカサイユまではそんなに離れていないのに、どうしてか足が重い。
 確かにスピードを出して追いかけてはいたものの、おなかも空いてるからそれほど力も出なかった。
 地面を蹴っているはずなのに、どうも足がふわふわと浮くように軽く感じられたのは実感してる。
 気のせいかな、と思いたいんだけど、なかなか息が整わないこの状況はやっぱりちょっと変だ。
 ダイエットの影響? とは言っても、断食している訳じゃないんだけどなぁ……。
 お昼はしっかり食べている訳だし、夜だって少量とはいえちゃんと食事を取っている。何になんでだろう。足元からすーっと力が抜けていくような感じ。
「っ、はあっ、……はあっ」
 荒い息が止まらない。
 ちょっとこれ、普通じゃない。いつもの息切れとは全然違う。
 足を止めてから少し経つのに、息は荒いまま。まるでちょっとした発作のよう。それは抑えようとしても、どうにもならないくらい酷くて、私はどんどん戸惑うばかり。
「……っ」
 校舎の壁に手をついて立ち止まると、今度はなんだか吐き気までしてきた。そうなると今度は徐々に恐怖感が増していく。
 ――やだ、なに。なんなの……?
 鼓動がうるさいまま視線を上げると、目に映るのは白みがかった冬空に柔らかく輝く太陽。眩しいくらいのはずのそれが少しずつ翳り始め、ついにはあたりがちかちかして見える。
 それは雲がかかったからではなくて、私の視界がおかしせい。テレビの砂嵐のように視界がざらつく。
 動悸が激しい。息も整わない。気持ち悪い。なんか凄く怖い。
 こんなこと今までなかったのに。
 壁に手をついたまま、堪え切れずにずるずると崩れ落ちると、背後から私のことを呼ぶ声が聞こえる。だけど、とてもじゃないけど返事なんかできやしない。
 本当に苦しくて、なりふり構わず済むのなら、いっそのこと倒れこみたいくらいよ……。
「先生? ……っておい、どうした担任? そんな所で何をうずくまって――」
 たまに私を「担任」と呼ぶのは、たった一人。
「つば、さ君……。ちょっと、気分が……」
 悪くなっちゃったみたい、と言いたいのに、これ以上何かを言葉にしようとすると吐き気が強くなる。
 こめかみを伝うのは汗なのだろうか。
 そういえば指先はこんなに冷たいのに、手のひらはやけに汗ばんでいる。
 今私がどういう顔をしているのかわからないけど、間違いなく顔色悪いんだろうな。それだけは簡単に想像がつく。
「どこか痛いのか!? どうしたんだ!」
 肩を抱かれ、こめかみの辺りに翼君の胸が当たる。
 それがなんだか凄くほっとして、荒かった息が少しずつ収まり始める。
「うう、ん。ただ、ちょっと眩暈がして……気持ちが悪く、なっちゃって……」
 貧血かなぁ? と何とか気力を振り絞って笑って見せたんだけど、馬鹿! と大きな声で怒鳴られてしまった。
「担任、自分で立てるか?」
「今は、ちょっと無理……かな。少しここでじっとしてればきっと、平気」
 とは言ったものの、ちょっと平気じゃないかも。だって、座ったままの状態でもかなり辛い。
「何を言っている! 悪化したらどうするんだ。保健室……いや、ambulance――待てよ、到着を待つより永田に車を回してもらったほうが……」
 ヒエッ、そ、そんな大げさな!
「だっ、大丈夫、そこまで酷くないから! せめて保健室にして」
 強く言った後、またくらくらした。どうにもこうにも使いものにならない自分が悔しくて涙が出そうになる。
「……わかった。ただ、どうしても駄目そうなときは絶対に病院だ。いいな!」
 いつになく真剣な、それこそ怖いくらいの表情で翼君は早口で言い、私の脇の下へと腕を回したかと思ったら、なんと一気に私を抱き上げたのだった。
「ちょっ……」
「Shut up! 舌を噛むぞ」
 抵抗など許さない、というオーラを全開にして、翼君は私を抱き上げたまま一気に走り出す。
 人ひとりを抱えたままでも十分重いはずなのに、彼は必死になって校内を走り抜ける。
 途中何人もの生徒が私たちを振り返ったけれど、私はこんな調子だから言い訳なんかしている余裕など全く無く、翼君に至っては外野などまるで眼中にないという風だ。
 後々まで好奇の目で見られることを思うと気が重くなるが、翼君の腕の温かさと、私を気遣う言葉を耳にした瞬間、人の目などどうでもよくなってしまった。
「待ってろ、すぐに着くからな。絶対に大丈夫だ」
 ――大丈夫だ。
 その言葉がなぜだろう、とても安心する。
 私は苦しくて返事を返せずにいたけれど、その代わり彼の制服のジャケットをぎゅっと握り締めたのだった。


「胸の痛みがないとするなら、これは明らかに食事摂取の不足と急激な運動からくる低血糖の症状よ、南先生。おそらく十五分も横になっていれば、元通りケロッとするでしょうけど、食事は規則正しく適量を摂取して、程ほどの運動を心がけること。気分がよくなったら必ず食事を摂りなさいな」
 うっ、低血糖!
 確かに言われて見ればそのままの症状じゃない〜! ほ、本当に情けない。絶対に朝ごはん食べていないのが悪いんだ。おまけに全力疾走なんて……。
 私は心底情けない気持ちになった。そんな私に保健医は小さなチョコレートを渡して「意識はしっかりしているみたいだから、もう大丈夫ね。それじゃ、私も低血糖にならないように、しっかり昼食を摂ってくるわね〜」と朗らかに言い残し、姿を消してしまった。
 保健室のベッドはすべて空いており、白い壁、白いベッド、アイボリーのカーテンというほぼ白に近い空間に取り残されたのは、ベッドに横たわっている私とすぐそばにいる翼君のみ。
 翼君は綺麗な顔に苛立ちを隠しきれないまま口を開く。
「まったく、この学校の教師は面倒見がいいのか悪いのかわからん! 病人を置いて出て行くとは呆れた話だ」
 ベッドのすぐそばにある椅子に腰掛け、長い足を窮屈そうに折りながら、翼君は保健医が出て行ったドアのほうを睨む。
「でも、段々良くなって来たのは事実だし、それがわかっているから席を外したのよ。それに、翼君も看ていてくれるから安心したんじゃないのかな」
 小さく笑うと、翼君はその表情を少し和らげる。
「そ……そうか? ――いや、そうだな! そうに違いない。俺がついているなら校医が安心するのも当たり前だな! ヒャクニンリキといったところだ。お前もドロ舟に乗った気でいてくれて構わないぞ」
「……ぶくぶく」
「What?」
「ドロ舟じゃ沈んじゃう」
「……う。よ、余計な反応を示せるくらいなら、大分よくなったんだろうな」
「うん、さっきより全然」
 実際、校舎脇でしゃがみこんでいたときよりも体調はよくなっていて、激しい動悸や息切れ、吐き気、冷や汗はほとんど治まった。
 ただ、ちょっとだけまだ目が回るから横になっているだけ。
「それより、ありがとうね、翼君」
 寝て言うのが申し訳なくて、少しだけでもと体を起こそうとするんだけど、翼君はぎょっとした顔で慌てて私の両肩をベッドへと押しつけた。
「って、起きるな! まだ顔色が良くないだろ。なあ、先生……本当に大丈夫か」
 心配そうに眉を寄せて私の顔を覗き込む彼に、私は笑顔を見せた。
「うん、もう少ししたらきっといつも通りだから。心配かけてごめんね? それに、ここまで運ぶの重かったでしょう?」
「重くなどない。そんなこと気にするな」
 ため息を吐きながら翼君は呟く。
「でも……ここ最近でちょっと太っちゃったみたいだし」
「ハァ……、まったく、痩せる必要がないヤツほどウエイトを気にするって言うのは本当みたいだな。抱き上げたとき全然軽かったのに何を言うか。――って、まさかとは思うが、調子が悪くなったっていうのは、お前……」
 翼君は何かに気づいたようにハッとした表情を浮かべ、それからみるみる内に眉間に縦皺を一つ、二つと刻んでいく。
 うっ。……こ、怖い!
 美形が睨むと怖さが二倍、三倍へと膨れ上がる。翼君の顔があまりにも怖すぎて、私は布団の端を掴んではじりじりとたくし上げる。
「だ、だってウエスト二センチ大きくなったのは深刻なんだからね! 山田さんのランチはとても美味しくて、残すなんてもってのほかだし、だからと言って夜全然食べないわけにもいかないし。そうなると、必然的に朝食を抜かすしかないじゃない」
 その挙句にフラフラし、生徒にお姫様だっこをされて保健室行きとは、本当はとても情けない。
 翼君に反論する権利なんて、本当はないんだ。
「……馬鹿かお前は」
 掠れ気味の声が聞こえる。
「えっ?」
「大馬鹿だと言ったんだ!」
 その真剣そのものといった大きな声に私は思わずびくっと肩を上げてしまったんだけど、驚いたのはその声だけじゃなかった。
 彼は私の手を取り、大きな両手で包むように、そして祈るようにして自分の額へと押し付けたのだった。
 僅かに覗き見える翼君の目はぎゅっと瞑られていて、それこそ悲痛なくらい。見事なカーブを描く頬も、シーツで反射する白に縁取られ、私の心をぎゅっと掴んだ。
 彼が、今にも泣いてしまうんじゃないかと思ったの。
「青い顔をしてうずくまっているお前を見たときの俺の気持ちが、わかってたまるか……っ。苦しそうに息を吐き、額びっしりに汗を浮かべているのに、手はとても冷たくて――冷たくて……っ」
 震える声から、彼の気持ちが痛いほど伝わってくる。
 そうよ。そうだったんだ。私を見つけてくれたときから翼君は真剣に心配してくれたのに……。
 なりふり構わず私を抱えて校内を走ってくれたというのに、元の原因がウエストを減らしたいからなんて言ったら、翼君だって怒るよね。
 ごめんね、翼君。
 少しでも痩せたいから食事を減らす、なんて無茶な計画を立てて、挙句、勝手に体調を悪くしたのは私のせい。
 すべて自業自得なのに、生徒である翼君に迷惑をかけた。
 本当に、馬鹿だ。
 ――ごめんなさい……。
「ごめんね、翼君……」
「頼むから、心配をかけるな。この手はいつでも暖かいものなんだと、俺に教えてくれ。……もう、大切なものを失うのは、絶対に嫌だ」
 頼む、と言ってもう一度私の手をぎゅっと握り締めた翼君を見て、私は思い出したのだ。
 失うことの辛さを、彼は誰よりもよくわかっていたんだった、って。
 そして、お金では決して手に入れることが出来ない「大切な何か」を一度失ったら、それはもう二度と帰ってこないということも。その切なさや辛さも、翼君はよく知っているんだった。
 幼くして知ってしまった悲しい出来事。お母さんが亡くなってしまったことだ。
 そばにある大切な存在を失ってしまう。そんな悲しみを、彼はもう味わいたくはないのだろう。……ううん、そんなの私だって絶対に嫌よ。
 大人になった今でも、大好きな家族や友達を死と言う別れで失うのなんて、絶対に嫌。避けられない道だとしても、それはうんと先であって欲しいもの。けれど、翼君は幼い頃に永遠の別れを知ってしまったんだ。それも、一番大切な人を亡くすということで。
 父親にも殆ど会うことができず、周りの大人は皆彼のお父さんの存在ばかりを気にするばかりで本当の意味で彼に接する人などいなかった。そんな環境の中での唯一の救いがお母さんだったんだ。
 かけがえの無い大切な人だったのに。
 翼君の気持ちを考えると、思わず涙が出そうになったけど、私は敢えて明るい声を出した。
 泣くことは簡単。彼に同情することだって私はできる。けれど、それじゃだめな気がした。
「やだな、翼君。大げさよ〜! 私がそんなに弱いと思う? 確かに今日は翼君に迷惑かけちゃったけど、庶民は強いのよ? ちょっとやそっとじゃ壊れないんだから! なんていったってClassXの、そう、B6の担任なんだから!」
 そして、私の手を握り締めたまま、額へと押し付けている彼に笑顔を向けた。
 きっと今まで彼は何度も何度も祈ってきたのだろう。こうして手を組み、ひとりで何度も。
 けれどそれは一度もかなえられることがなかった。
 叶えたい願いは、一度も聞き入れられることはなかったのだ。
 でも、それは遠い昔の話。私は大丈夫。ちゃんとここにいるから。
「……だから、大丈夫よ」
 どこにも行かないわ。
 小さな子供でもあやすように、その髪をそっと撫でた。
 心配をかけてごめんね。嫌なことを思い出させて、ごめんね。大丈夫。私は、どこにもいかないね。
 そして、髪をなでていた手をそのまま彼の手に重ねた。まだ温かみの戻らない指先だけど、そうせずにはいられなかった。
「少し冷たいな」
 小さく笑う翼君に、私は頷いた。
「女性は基本的に冷え性だっていうじゃない」
 冗談めかして言うと、翼君はやっと顔を上げてくれた。
「じゃあ、暖かくなるまで、こうしてお前の手を包んでやる」
 そう言って、翼君はその形のいいくちびるを躊躇うことなく私の指先に押し当てたのだった。
 これにはさすがに私も驚く。っていうか、驚かないほうが変。
 だって指先とはいえ、これは立派にキスされて……って、場所っ! そ、そういえばここは学校、保健室じゃない! 指先がどうのとかのレベルじゃない。
 わっ、忘れてたわ!
「つつつつばさくんっ! だっ、だめっ! 暖めんでもいいっ!」
 彼の手の上に乗せた自分の手を慌てて離し、その手でバシバシと大きな手を叩いたのだけど、翼君はちっとも離してくれない。
「何をそんなに鼻息荒く興奮している。今度は本当に倒れるぞ」
 だとしたら翼君のせいよ!
「ほら、おとなしくしてろ。……って、顔色が戻ったみたいだな。ん? 血の巡りがよくなったのか、妙に赤いぞ。よし、このまま握り続けてやる」
 そう言って見せる表情はそうめったに見られるものじゃないくらい、甘く優しい極上の笑み。間近で発せられるその美しさに、私は目がくらみそうになる。
 ――なんでこんなにカッコいいのかしら。いやいやそうじゃなくて。わーん、カオが赤くなったのは恥ずかしいからなの! 気づいて、いや、だめ。気づかないで気づいて頂戴っ。
 カッと頬が熱くなり、そしてさらには頭がぼうっとし始めたときだった。
 傍から見ればさぞかしロマンティックな場面。けれどその場に似合わない程の大きな音が、私の空っぽの胃袋から派手に奏でられた。そう、ぐうう、という大きな腹の虫が鳴ったのだ!
 ――いやああ! 今の、ナシっ。無かったことにして欲しい! っていうか、どうしてこんなときにおなかが鳴るのっ!?
 できることなら布団をがばっと被ってうずくまりたいくらいだけど、片手をしっかり翼君に握られてしまっているからそれが叶わない。
 ううぅ、恥ずかしいっ。凄く恥ずかしいんですけどっ!
 どうとも動きがとれずにただ羞恥で身体を熱く燃やしていると、それまで呆気に取られていた翼君が、突如派手に笑い出したのだった。
「クックックック……。ハーッハッハッハ! 今の聞いたぞ、先生。凄い腹の音をな。アハハッ、今まで聴いたことも無い大音量だ!」
 それを大音量で言わんでもよろしい!
「ふ、不可抗力よっ!」
「それはわかっている。俺だって腹が減っているからな。だがしかし、今のは……今のっ――クッ」
 握られている手からも、翼君がまだなお笑い続けているという震動が伝わってくる。
 ああ、どうしてこういう運命なんだろう。翼君にはいろんな意味でたくさん笑われている気がするの。
 瞬君のライブの時だって、肩こりのツボで派手に笑われたし、それに今回も。
 でも、今回のは仕方がないわよね。だって、本当におなかが空いているんだもの。仕方のないことなのよぉ!
「も、もう、いい加減手を離してくれる? 食欲も湧いてきたし、気分だって元通りに戻りました! さあ、ランチを食べにバカサイユに戻るわよっ」
「ん? ああ、そうみたいだな。食欲が戻れば、もう大丈夫だろう。よし、じゃあ遅いランチを食べるとするか」
 そう言って翼君が制服のポケットから取り出したのは携帯電話だった。
 どこへかける気なんだろう。
「永田、俺だ。今からランチを二つ、保健室まで運んでくれ。担任の体調が良くなかったので今は保健室にいる。……ああ、もう大丈夫のようだ。けど大事をとって保健室で食事を摂ることにする。すまないが、急ぎで頼む。担任の腹が再び派手に鳴り出す前にな」
 最後に余計なひと言を付け足して翼君は電話を切った。
「皆には……B6のほかの皆には絶対に言っちゃだめよ」
「ああ、腹が鳴ったことか?」
 眼鏡を押し上げ、目じりを軽く拭う翼君を軽く睨む。
「今も言うんじゃありません!」
「わかった、わかった。言わないから安心しろ。その代わり口を開け、先生」
 ――えっ、口?
 どうして、と尋ねる隙もなく、翼君は長い指先で私の顎を捉え、反射的に薄く開いたくちびるに人差し指を押し込んできた。
 そのあまりに突然すぎる行動に驚き、そして軽くとはいえ前歯で彼の指を挟んでいることに気づき、私は慌てて口を開いたのだけど、その瞬間口の中にポン、と何か固形の物体が入り込んだ。
「ふ、ふばさふんっ!?」
「安心しろ、さっき校医がくれたチョコレートだ。腹の足しにもならんだろうが、気休め程度に食べておけ」
 うん……確かに甘い。ちゃんとチョコレートの味がするわ。
 それに、おなかが空いているから、なんだかとても美味しい。
「そんな目で見ても、オカワリはないぞ」
 だれがそんなことを言ったのよ。第一、オカワリって、私は犬じゃありません。
「残念ながら本当にチョコレートはもうない。だが、確かテイケットウと校医は言ったよな。少し前の俺だったらさっぱり理解できなかった言葉だが、チノウを得た今では違う」
 知的そうに眼鏡が輝いたところまではよしとする。でも、それを言うなら知識や常識よ。チノウじゃありません!
「テイケットウ、equal、低い血糖値のことだ!」
 誇らしげに笑う翼君に私はちょっと驚いた。
「そう、当りよ!」
「フン、簡単だ。……で、だ。先生は今、糖分が低いんだろう? 要するに、甘さが足りない」
 微妙に当ってるんだけど、なにかが違うんですが。
 それに、なんか、翼君の顔が近い……?
「糖分が足りないのなら、与えてやってもいいぞ。……チョコレートとは違う極上の甘さを加えてな」
 低く艶のある声が耳元すぐそばで聞こえたかと思ったら、頬には柔らかい感触が。
 チュッ、という音付きのそれは、頬へのキス。
 そう、キスだったのだ!
 「頬に」だけど、キスっ。
 指先なんて、目じゃないわ!
「つっ、つつつっ、翼っ、翼君ッ〜!? 今、何したのー!」
「Kiss、だ」
 ネイティブな発音で偉そうに言うな!
「フフン。頬になんて挨拶だろう? それとも挨拶でないKissを先生はごショモウなのか?」
「い、いいいいいりませーん! いらんっ、本気でいらないっ!」
「ゴウジョウな担任だ。そんなに顔を赤くして、何を期待している?」
「期待なんてしていません」
「本当か?」
 低く囁かれる声。そして間近で甘く煌めくのは色素の薄い瞳。
「うっ、ほ、本当よ?」
 本当に期待なんてしていないわ! だって、生徒からのキスを期待する教師がどこにいますかっ。
 確かに翼君はテレビで見るアイドルの男の子よりもかっこよくて、スタイルが良くて、お金持ちで、にくったらしいほどわがままで傲慢で、さらにちょっとばかりおバカさんだけど、そのくせ実は優しくて、実は誰より気遣いがあって……って、そうじゃなーい!
「フォローしてどうするの、私ってば!」
「……心の声とやらは丸聞こえだぞ、担任」
「なっ!?」
 可笑しなヤツだ、と笑う声。
 高校生のクセに、なんて艶のある声なんだろう。
 ああ、なんでもいいからとにかくお願い。
 私の中の理性とモラルが崩壊しないうちに、どうかその綺麗な顔を離して頂戴!


 後日、というより翌朝から六時きっちりに玄関のチャイムが鳴り響き、「真壁翼様からのご依頼でお届けにあがりました」と、真壁財閥御用達のレストランから引き抜かれたシェフが用意した、極上のブレックファーストが届けられるようになった。
 これは体調を崩してうずくまっているのを翼君に見られてしまったときから、半ば決められてしまった運命のようなもので、私のダイエット作戦は失敗という二文字で見事に終わりを告げたのだった。



End.
2007.12.19UP
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