VitaminX

嵐が来る【翼×悠里】



 十九歳は大人なのだろうか。
 それともまだ子供なのか。
 繋ぐ手は自分の手を大きく包み込むくらいなのに、見上げる横顔は胸が痛くなるくらい切なく悲しい色を浮かべている。泣くのを懸命に堪えている少年のようにも見えるから不思議だ。
 絶対に手に入れることができない何かを、遠く、遠く見つめるその瞳や心には一体何を写しているのだろう。
 やけに静まりかえった校舎の中で、悠里と翼は手を繋いだまま窓の外をただ見ていた。
 どれぐらいそうしていただろうか。時間はわからない。
 強い雨足と、木々を大きく揺らす風、暗い空の色をただ黙って見つめていた。この手を繋いで。
 幼い頃は嵐に怯えたと翼は言う。
 窓ががたがたと揺れる音。
 風の泣く声。
 そして打ち付けるような強い雨。
 それは幼い子供からすれば十分に恐怖心をあおる物だろう。ましてや広い家に一人でいる時ともなればなおのこと。
 誰を呼ぶでもなく、でも誰かにいて欲しくて必死になって誰かを呼び探しても誰もそばにいてくれなかったという、幼い頃の彼の気持ちを思うと、胸が締め付けられるように苦しくなる。
 母親や父親。誰か――誰も彼のそばにいなかったのだろうか。
 どうして甘えたい盛りの子供を一人にしていたのか。
 自分なら絶対にそうはさせないのに。昔を思い出すだけでこんなに切ない表情をさせたりなんかしないのに。
 見えない誰かに強く当たりたい気持ちにさえなるが、今はただこうして彼の手を握っていることしか出来ない。
 時間を取り戻すことはできないが、彼のそばには必ず誰かがいることを伝えたい。
 大切に思っている人が、少なくとも一人はここにいると。
 広い校舎の中、二人以外誰もいないこの場所で、自分だけは今この時、誰よりもすぐそばにいると伝えたい。
 探さなくても、すぐそばにいる。
 ――隣にいるから、と。
 祈るような気持ちで思っていると、視界には遠くにある木々の枝が大きくしなるのが映る。
 それに何気なく目を奪われていると、隣に立つ翼が静かに言葉を紡ぐ。
「いつまで降るんだろうな、雨」
「……うん。多分、夜までは降り続けるかもしれないね」
 悠里がそっと言葉を返すと、翼は小さく息を吐いて微かな笑みを浮かべる。
「俺たちを学校から出さないつもりなのか、まったく」
「ふふっ。それだけしっかり勉強しなさいっていう意味なのかもよ?」
「天候まで担任に味方をするとは」
 柔らかく目元を緩める翼に、悠里は同じように優しく微笑み返す。
「教師の熱意は天気をも操るっていうところかしら」
「たいした気合だな」
「まかせなさい。そして……さっそく補習よ!」
 手を繋いでいない片方の手を腰に当てて悠里は声高らかに言う。
「やはりそうきたか。まあ、おとなしく言うことを聞いてやる」
 いつになく素直な翼に内心驚きつつも、腰に当てた手を外し、声のトーンを柔らかく落とす。
「――といいたい所だけど……今日はやめましょう」
「え?」
「外が気になって、私も落ち着かないから」
 気になっているのは外の天気だけではないけれど、もう一つの原因をあえて言う必要も見当たらない。
 ね? と肩を竦めてそう言うと、翼は幾度か瞬きを繰り返したのち、再び窓の外へと目をやる。
「折角ここまで出てきたのに、なにもしないのか? 濡れミミズになってまでわざわざ来たんだろう?」
「また間違う。濡れネズミ! もうっ。……それはさておき、たまにはこういう日があってもいいと思うの。外の天気はきっと神様がこう言ってるのよ。「少しだけゆっくりしなさい」って。だから、そういう時は素直に甘えちゃおう」
「学校に来てゆっくりするのか。変な話だな」
 苦笑する翼に悠里は首を縦に振る。
「そうよ。だって、結局二人だけみたいなんだもの」
 そう言って、しん、と静まり返っている廊下を左右交互に見渡す。
 おそらく校内には本当に人がいないのだろう。悠里の元には何の連絡も届いていないが、次第に強くなる雨風や交通機関の運行状況を考えれば、当然といった所だろうか。帰りの足を失ってまでわざわざ来る必要はないだろう。
 悠里もここまで来たはいいが、帰りをどうするかが問題だ。電車はおそらく止まっているだろうから、時間をかけてバスを乗り継いでいくか、大きな出費になるがタクシーに乗って帰るかのどちらしか方法はない。
「おい担任。他の教師から何の連絡もないのか? どう考えてもこれは……休み、だろう」
 廊下の奥へと目をやりながら翼はため息混じりに言う。
「う……、やっぱり、そう思う?」
「当然だ! まったく、帰りのことも少しは考えてから来るんだな」
 思い切り呆れ顔で翼は言うが、それなら翼はなぜここに来たのだろう。いくら永田に車を出してもらっているとはいえ、わざわざこんな酷い雨の日になぜ学校に出てくるのか。
「……なんだ?」
 眉を跳ね上げて翼は悠里を見下ろす。
「そう言う翼君は? みんな来ないかもしれないってわかっていたのに、どうして来たの?」
「そ、れは……。き、気が向いたからだ! のん気な担任はおそらく、いや、間違いなく後先省みずにやってくるだろうと見越してわざわざ出てきてやったまでだ」
 どうだ、この気遣い? 流石だろう! 心行くまで感謝感激されてやる、といつものように自慢げに翼は胸を張るが、少し前までの切なげな表情を思い出すと、これは間違いなく強がりだろう。
 ――ひょっとして、一人で家にいるよりはましだと思ってくれたのかな。学校ならきっと……私がいるだろう、って。だから来てくれたのかな。……でも、まさかね。いくらなんでも、それは自惚れが過ぎるわよね。
 ふと浮かんだことを打ち消すようにして軽く頭を振る。
 いくらなんでも、それはないだろう。都合よく自分勝手にこじつけているだけだ。
「担任。……おい、聞いているのか?」
 不機嫌な声が耳元すぐそばで大きく聞こえたので、悠里は思わずはいっ! と声を上げて返事をするが、顔を向ければ驚くほど近い距離に翼の顔があることに気がつく。その距離といったら、息がかかるほどだ。
「うわっ! わっ、わわわっ!」
「驚くくらいなら最初から人の話をちゃんと聞いていろ」
 だからと言って造形の美しい顔を間近に寄せないでほしい、と悠里は心の中で甲高く叫ぶが、どことなく悔しさが残るのはなぜだろう。
「わ、わかったから!」
「本当か?」
「本当よっ! って、……ああっ! ちょっ、翼君、あれっ!」
 じりじりと後ずさりしながら翼から逃げようとするが、そのとき一際大きな風でも吹いたのだろうか、遠くにある木派手に折れていくのが見えた。元々若く細い幹だったとはいえ、風の力で木が折れ曲がるのを初めて目の当たりにし、悠里は激しく動揺する。
「WHAT!?」
 耳元すぐそばで大きな声で叫んだせいか、翼は顔を顰め、僅かに肩を竦める。
「あ、あああれ! きっ、木が折れたっ!」
「木ぐらい折れるだろう。それより近くでわめくな! うるさいっ」
「簡単に折れてたまるかっ! 木よ、木! 風で折れるなんてそうあってたまるもんですか。ほらっ、あそこ」
 興奮気味に言ってから気がついたことといえば、繋いだ手のほうで外を示したことぐらいだろうか。
 随分と長い間手を繋いでいたことをここで改めて思い出す。
 木が折れたことは勿論だが、この手にも驚く。そして、目を丸くしているのは悠里だけでなく、突然繋いでいた手を持ち上げられた翼も同じのようだ。
「……あ」
 互いの口から漏れた言葉は同じで、繋いだ手に視線を落とすタイミングも同じ。けれどすぐに離しはしない。
「ご、ごめんね、いつまでも握ってて」
 先に謝ったのは悠里で、それからそっと手を離そうとしたのだが、握っていた手を緩めた瞬間、思いもしないほどぎゅっと手を掴まれ、再び目を丸くする。
「ちょっ――」
「このままでいい」
「翼、く……?」
「誰か人が来るまで、別にいいだろう」
 儚げに微笑まれてしまっては強く振りほどくなんてできない。それに、悠里自身も離れがたいと思ったのは事実だ。
「……じゃあ、このままで」
「ああ。……しかし、随分と派手に折れたな」
「えっ?」
「あれ」
 そう言って、悠里がしたのと同じように翼も繋いだ手で遠くを指す。
 彼のほうが身長が高い分、繋いだ手をわかるように高く掲げる感じになり、今置かれている状況がなぜか突然恥ずかしくなる。
「う、うん」
「本当に止むのかと不安になってくるな、これじゃ」
 顎を上げた彼の視線を追うようにして悠里も目をやると、バケツを派手に返したような雨が激しく窓を叩く。それは少し前よりもうんと強くなっている。
「帰りどうしよう……。こんなんじゃ外歩けないじゃない。この調子じゃ学校に泊まるようかな……。ハァ」
 繋いだ手を妙に意識し始め、熱くなった頬を気にしながらも、自宅に帰れるかどうかを真剣に悩む。
 バスを乗り継いで帰るよりもこのまま職員室である程度時間をやり過ごした方がよさそうな気がする。第一、明日は土曜日で学校は休みだ。嵐の後は決って晴れ間が覗くので、たまにはこんな風にして過ごすのもいいかもしれない。夜はさすがに怖いが、たくさん灯りをともし、ここぞとばかりに職員室にあるテレビをつければきっと怖くなんてないはずだ。
「本気で言ってるのか?」
 驚いたような翼の表情に悠里は苦笑いを浮かべる。
「これじゃ帰れないもの」
「じゃあ、俺も付き合ってやるか。担任と一緒なら一日学校にいても楽しそうだしな。いい暇つぶしだ」
 どうせならバカサイユまで移動するか、と勝手に話をすすめている様子からすると、彼はどうやら本気らしい。
「えっ!? ええっ!?」
 これ以上ないくらいに目を見開いて翼を見つめると、彼は派手に吹き出し、肩を揺らして豪快に笑い始めた。
「その顔、お前、やめろ! 苦しいっ! ハトが豆大福でも食っているような顔だぞ」
 腹を抱えてまだ笑い続ける翼はとても珍しいが、笑っている原因が自分となると話は別だ。おまけにまた言葉を間違えている。
 ――失礼な! っていうかそんなに私って丸い顔してるの!? ……ハッ。いやいや、そうじゃない。そうじゃなーい!
「ハトが豆大福なんて食べないわよっ! わ、わらうなっ」
 頬を膨らませて見上げると、彼は「Sorry」と言うがまだまだ笑いが収まりそうにない。
 ――……むかつく!
「もうっ、翼君は早く永田さんに迎えに来てもらって帰りなさい!」
「なぜだ?」
「なぜだじゃないでしょ! こんな天気なんだから帰るのは当――」
 帰るのは当然、と続けようとしたのだが、それは不意に握られた手の強さと、彼の言葉によって遮られてしまう。
「女一人を放って帰れるわけがないだろう、馬鹿」
 力強い手。
 真剣な瞳。
 そしてそこに浮かぶのは、少し前までの辛く切なげな色ではなく、甘く艶やかな一筋の光。
 それを『少年』や『子供』で片付けるには些か無理がある。
「今度は、俺がそばにいてやる」
 小さくそっと笑い、まるで囁くように呟いたその声は、やけに響いて聞こえる。

 それは静かな校舎の中で。
 
 なにより、悠里の心の中で。



End.
2007.12.11UP
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