金色のコルダ2

雪よりも綺麗なもの【加地×香穂子】



「はい、日野さん。熱いから気をつけて」
「ありがとう、加地くん」
 ふわりと湯気立つペーパーカップを差し出すと、日野さんは嬉しそうに目を細めて両手で受け取る。
「本当にお金、いいの?」
「うん、今日付き合ってくれたお礼」
「やった!じゃあ、遠慮なく頂きまーす」
 ――っと、その前に手袋を汚さないようにしなくちゃ、と彼女は言う。日野さんの手にはさっき買ったばかりの手袋がはめられている。白いモヘアの手袋。それは彼女が一目ぼれした手袋で、一緒に見て回った店で彼女は懐事情を考慮しながらも、「やっぱり欲しい!」と思い切ってレジへと運んだ物だった。
 ――うん、やっぱり彼女にとても似合っている。
 指先が一つに丸くなっている手袋で、カップを包むようにして持つ彼女は贔屓目無しでもとてもかわいらしくて、僕はさっきからどうしても目が離せない。
 本当は何度だって「可愛いよ」と褒めたいんだけど、言うたびに彼女は「大げさだよ」とか「手袋がね?」とはぐらかして取り合ってくれない。僕が褒めすぎなのだろうか。これでも精一杯控えているつもりなんだけど。
 そんなことを思いながらカフェラテを口に含む。ふう、と息を吐けば、風が流れるほうへと一緒に白い吐息も流れていく。今日は雪が降るかもしれないと朝の天気予報で言っていたけれど、この寒さではやはり本当にそうなるかもしれない。
 あまり長くここにいたら、海風もあるし身体を冷やすかな。十日後にはクリスマスコンサートも控えているし。
 ここまでみんなをまとめながらも頑張ってコンサートに取り組んできた彼女。一生懸命で、真っ直ぐ。そんな頑張り屋の彼女の体調が崩れでもしたら僕は悔やんでも悔やみきれない。とはいえ、あと少しだけ一緒に、と願わずにはいられない。
 イルミネーションはとても綺麗だし、海に面した場所にいるだけでも心が落ち着く。隣に日野さんがいて、そんな素敵な景色を分け合っているのだと思うと、嬉しくて、楽しくて、本当に贅沢な時間を過ごしているな、と僕は自分の置かれている状況に思わず酔ってしまいそうなくらいだけど、彼女はどうなんだろう。
 迷惑――ではないと思うし、でも散々はぐらかされているから、凄く嬉しい……というわけでもない、かな。
 なかなか本当の気持ちを見せてくれない人だけど、困ったことにそこがまたいいと思ってしまう。
 隣に立つ彼女へと視線を移してみると、日野さんは、小さな子供のように目を輝かせてカップの中身を見つめて、ねえ加地くん、加地くんと僕の名を呼ぶ。
「どうしたの、日野さん?」
 不思議に思って尋ねると、丸い指先でカップを指差して彼女はとても嬉しそうに笑う。
「みて、これ。ハートが二つ! いつも一つなのに、今日は二つあるんだよ。なんか凄く嬉しい」
「……あ、そう言われてみれば」
 確かにスチームミルクがのせられるときに自然と出来るハート型のそれが二つ並んでいる。特に気に留めもしなかったけど、こういうのって女の子ならではなんだろうな、やっぱり。
「でしょ? かっわいい〜!」
 明るく声を弾ませて、でも勿体無さそうにカップに口をつける彼女の横顔を見て僕は思う。
 可愛いのは君だって。絶対に。
 コーヒー一杯でこんなに君を笑顔に出来るなら、僕は何度だって奢ってあげる。それこそ、一生分。
 それを言ったらきっと君は「一生分はいらないかも」と苦笑するんだろうけど(そして僕の胸はちょっとだけ痛む)、それでもかまいやしないよ。僕がそうしたいんだ。
「は〜。暖かいのを飲むと、凄く落ち着くね。寒い中で飲むと幸せを感じるよ。イルミネーションも綺麗だし、最高」
 ふう、と息を吐いて、彼女はまたひとくち含む。
 笑顔の横顔は僕の心を暖かくする。
 僕の手にあるカフェオレよりも、さっき買ったばかりの僕の手にある手袋よりも、君の笑顔が一番。
 そばで君が笑ってくれているなら、それだけで心が温かくなる。
「……んっ? なに、加地くん。じっと見て。……あっ! ひょっとして泡が口についてる、私!?」
 慌てた顔で日野さんは「んっ」とするようにして、くちびるを合わせているが、彼女の口元には何もついていない。ただ僕が見つめたくて見つめているだけ。
 幸せをかみ締めたくて、どうしてもその笑顔を見つめてしまう。
「ううん、ついてないよ。ただ、美味しそうに飲むなと思って。見ているほうが嬉しくなるような顔をしていたから、つい。……ふふっ、おごり甲斐があるよ」
「うーん、なんかちょっと恥ずかしいなあ。それに、ちゃんとした見立て役になってなかったから、奢ってもらっちゃって返って申し訳ないというか……。しっかり飲んでいて今更言うのもあれだけど」
「そんなことないよ。これ、凄く気に入ったし。素敵なのを選んでくれてありがとう」
 僕は片手をぱっと広げる。彼女が――というか二人で選んだ手袋は今僕の手を包んでいる。
 ――そう、そもそもどうして彼女と寒い中、臨海公園でカフェラテを飲むようになったかだ。
 少しだけ練習を早く切り上げた放課後。一緒に帰ろうと日野さんを誘っていた僕は「良かったら買い物に付き合って欲しいんだ」と思い切ってさらに誘ってみたのがきっかけだ。
 寒いから手袋が欲しいんだけど、素敵なのが欲しいから、一緒に見立てて欲しくて。――さりげなくそう言えたと思うんだ。
 確かにいい手袋があれば欲しいなと思っていたのは本音。けれど、そんなに急ぐ買い物ではなかったし、実際去年使っていたものでもまだ取っておいてある。
 見立てて欲しい、というのはあくまでも口実。本当はただ日野さんと一緒にいたかっただけで、買い物に付き合ってというのは僕のただの我侭だ。――ただ一緒にいたい。でも、みんなと大勢でではなくて、二人で。
 彼女はそんな僕の我侭など知らず、優しい笑顔で「うん、私でよかったら」と承知してくれた。
 それがもう嬉しくて、思わず口元が緩んでしまったのは僕だけの秘密で、ちゃんと普通に笑って見えるかどうか実は少しだけドキドキした。
 イルミネーションが綺麗な駅前通りを歩いているときは勿論だけど、クリスマス一色のディスプレイがされている店内を日野さんと歩いて、あれがいい、でもこれもいいと一生懸命……それも楽しそうに選んでくれる彼女の横顔を見ているだけで心が弾む。
 楽しくて、幸せで、正直、このまま時間が止まってくれたらどれだけいいかと思ったくらいだ。
 だから、手袋一つを決めるのに、少し時間をかけすぎてしまった。彼女はきっとこんな風に僕のことを思ったんじゃないのかな。――かなり物にはこだわるタイプ? と。
 でも、時間をかけて探し、日野さんに選んでもらったこともあって、僕のお気に入りの一つが増えた。日野さんのおかげだ。
 だから彼女の手にある二つのハートが描かれている一杯は僕の奢り。……とか言って、これも一緒にいられるための口実なんだ。
 本当は君の手にある手袋は、僕が代わりにプレゼントしたかったんだけど、「だーめ。これは私が自分で買うから」と断られてしまった。もっと甘えてくれてもいいのに……なんて思うけど、仕方がない。僕たちは恋人同士ではないんだから。
「この手袋、大事に使うね。ほんとにありがとう」
 僕のお気に入りはこの手袋だけじゃない。
 彼女の音色を初めて耳にしたこの場所。
 彼女の音色。
 彼女がくれた襟元にあるマフラー。
 好きなものはどんどん増えていく一方で、そして好きになる気持ちも抑えられようがないくらい高まっていく。
 ――どこまで彼女を好きなんだろう、僕は。
 自分のこの想いに苦笑したくなるくらいだけど、とにかく彼女が好きでしかたがない。
「うん、私もこの手袋大事に使うんだ」
 そう笑って、彼女は丸い指先を二度ほどお辞儀させた。
「クリスマスコンサートまであと少しだし、手も暖かくしておかないとね。――加地くんもね?」
「うん、そうだね。……ほんと、あと少しなんだよね、クリスマスまで」
 僕が彼女のためにできること。ヴィオラを弾き、共に一つの曲を奏でること。
 学院の分割化を考える大人の勝手さと、それを阻止するためのコンサートに、生徒みんなの期待が一気に寄せられている。日野さんの細い肩に、皆それぞれ勝手にいろんな事情を乗せていくし、そのことに対し僕は軽くいらだちさえ感じるけれど、当の本人、彼女は強い。「大変だけど、やるしかないよね」と笑う。
 躓き、悩み、落ち込み、焦りだってあるはずなのに、それでもくじけない彼女に僕がしてあげられる事といったら、一つだけ。彼女のために、ひいては自分のためにヴィオラを弾くこと。その一つだけしか僕にはない。だって、彼女の喜びは僕の喜びなんだ。
 彼女の音に合うように何度も練習をし、皆と音を合わせるたびに、自分の実力を思い知り、人並みにあるプライドとやらは傷だらけだけど、僕ができるたった一つのことを守るために、最善を尽くすつもりだ。
 僕の理想とする音を奏でる君のために。
 だれより愛しい君のために。
 僕を……僕の音を必要としてくれる君のために。
 たった一人の君だけに、僕は――。
「……僕も、頑張るよ」
「え……」
「出来ることを、精一杯頑張るから」
 ――頑張る、か。
 僕は心の中でふっと苦笑する。
 一番苦手だった言葉なのに。頑張れば何でも報われるかと言うなら、誰だって救われているさ。だからこの言葉が苦手なんだ。どんなに尽くしても叶わないことだってある。願っても、祈っても、無駄なことなんて世の中にはたくさんあるんだ。
 でも……それでもこの言葉しかないなんて、滑稽な話だ。これ以上ないくらいに頑張っている君に言うのも変だけど、今の僕にはこれしか浮かばない。なんて気が利かないんだか。ほら、彼女だって目を丸くしている。
「……加地くん」
「ごめん。……僕にはそれしかなくて」
 なんとなく格好悪くて肩を竦める僕に、彼女はとても嬉しそうに笑う。
「ううん。……ううん! それだけで、その気持ちだけで十分だよ。私も、頑張る。――たくさん頑張るね! なんか今、凄くやる気が出た!」
「日野、さん?」
なんで君はそんなに嬉しそうに笑うの。

 何がそんなに君を笑顔にしたの。

 鼻の頭や頬をほんのり赤くして、白い息を吐いて、でも、凄く嬉しそうにえへへ、と笑ってる。
 ――なんで……?
 笑顔のまま、首を傾げて僕を見上げる君に、僕も笑顔を作って見せたものの、何がなんだかさっぱりわからなかった。
 君の笑顔のわけはなに?
暖かい手袋……でもないし、ハートが二つ乗ったカプチーノ(それはもう崩れてしまったけど)、でもない。

 ――だとしたら、なんだろう。

 何度も目を瞬かせる僕に、突然日野さんの「あ!」という声が届く。
「えっ!?」
「加地くん、これって、雪だよね? 雪が降ってきたよ」
 見て、見て! と彼女は空を仰いで声を弾ませる。
 見ると、紺と灰色を混ぜたような暗い空からは、粒の大きな雪が舞い降りてくる。
 湿気を含んだそれはとても大きく、まるで空から羽が降ってくるかのように見える。
 ふわり、ふわり舞い降りては、僕のコートや日野さんの頭上にそっと溶け落ちていく。
「あ……、そういえば今日は雪が降るかもしれないって天気予報で……」
 空を見上げながら僕が言うと、彼女も同じように空を見上げて言う。
「うわー、十二月でも雪が降るんだね。ホワイトクリスマスなんて、雪も降らないだろうしあまりないんだろうな、なんて思ってたけど、ない話じゃないんだね」
「みたいだね。……っていうかさ、結構粒が大きいから、髪が濡れちゃうよ?」
 溶けた雪が彼女のコートできらきらと光っている。髪に肩に、頬に落ちる雪はイルミネーションを映して金色に光る。
「平気。これぐらいまだ全然! それより、この冬初めて見る雪だもの、もうちょっと見ていたいな」
 僕を見る彼女。
 「ね?」と同意を求める瞳をただじっと見ていたけど、そんなふうにして見詰め合っている二人の間にも雪は静かに舞い落ちる。
 一際大きな雪の粒。それは僕たちが見つめる中、日野さんの手にあるカップの中で静かにとけていく。
「……あ」
 白い泡を見つめる二人の声が重なる。
 そして、もう一度視線を合わせたあと、僕たちは意味もなく笑いあった。
「なくなっちゃったね」
 日野さんはとても嬉しそうだ。
「うん、そうだね」
 楽しそうな日野さんの笑顔を見て、僕もなんだか嬉しくなってくる。正直、笑いながらも何が楽しいのかよくわからないけど、でもなんか笑ってしまう。
 彼女の笑顔も眩しいし、イルミネーションだって綺麗だ。海が見える公園に、まるで用意されたように雪は降っているし、なんか妙に出来すぎている。
 ――シチュエーションだけ盛り上げてくれるよ、まったく。
 好きな女の子の手さえ握れないし、想いだってまだ伝える勇気がないのに。僕は誰に言うでもなく、そして誰に恨み言を言うわけでもなく空を見上げた。そのときだった。
 突然僕の頬に触れる手がある。それは妙にふわふわしていて暖かい。
 ――おまけに、白い?
 驚いて顔を戻すと、日野さんが笑顔で僕の頬に触れている。白いミトン。それは彼女がとても気に入ったと言って買ったものだ。柔らかいのはそれのせい。
 ――え。……ええっ!?
 衝撃が強すぎると人間、言葉を失うものだと、僕は初めて気がついた。
「ここ、今凄くきらきらしてたから、思わず触っちゃった。雪がついてたの、気づかなかった?」
「あ……う、うん。全然」
「髪も結構濡れてるよ?」
 彼女は笑って手を伸ばしてくるけれど、僕ははっと我に返り、慌てて自分の髪へと触れた。
 これ以上触れられたら、困る。君に触れられた部分が熱を帯びている。
「だ、大丈夫だよ、日野さん。……それより、君の髪も結構濡れてきてるから、やっぱりそろそろ帰ったほうがいいかもしれないよ? 風邪を引いたら大変だ」
 弱気を優しさにさりげなくすり替えて僕は笑顔を見せる。内心、ドキドキして大変なのに。ほんと、情けない。
 彼女の服や髪についた雪さえも払ってあげることが出来ないくらい臆病なんて、男としてどうなんだろうって思ってしまう。
 本当は……ちょっと触れてもいいかなと思っているくせに。季節が作ってくれたこのシチュエーションとタイミングとに乗ってしまっても、悪くないのかな、なんて頭のどこかでは思っているのに。
 でも実際は全然駄目で、凄いね、綺麗だね、と笑顔を輝かせる君の隣を歩くだけ。ただそれだけでも心が舞い上がる簡単な僕は、きっとどんなにいい場面でも見送ってしまう役立たずのバッターのよう。
 けど、仕方がない。僕は、ただこうしているだけで幸せなんだ。彼女の隣を歩き、同じ景色を見ることができるだけでも僕は嬉しくて、楽しいんだから。
「……ふふっ、今日は凄く楽しかった」
「えっ?」
 気持ちが言葉になってあふれてしまったのかとどきっとしたけど、今のは僕の声じゃない。
 驚いて隣を歩く日野さんを見ると、彼女は独り言でも呟くようにミトンの手を合わせて笑う。
「明日も頑張ろうっと」
 そして「誘ってくれて、ありがとうね、加地くん」と言う。
 ダメ押しだと思った。
 ねえ、ひょっとして、君を笑顔にしたもののひとつに、僕も入っているのかな。だとしたら――やばい。マジで嬉しい。
 彼女の頬を柔らかく照らすイルミネーション。金色に光る髪や睫。とても嬉しそうな笑顔。それを見て、役立たずのバッターは思うんだ。二人が手袋をしていなかったら、寒さを理由にその手を繋いで帰ることができたかな、と。
 ――でも、もっともらしいどんな理由をつけても、やっぱりだめかな。
 イルミネーションを見る振りして彼女の横顔をこっそり見ている僕では、きっと空振り三振。
 対日野さんだと、徹底的に僕の負け。

 駅につく頃にはもう雪はやんでいて、彼女と別れた後に僕の目に焼きついているのは、髪や肩できらきら光る雪よりもきれいに輝く君の笑顔だけ。そう、君の笑顔一つ。



End.
2007/11/07 加地企画【fleur】様への投稿作品
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