金色のコルダ2

The Sun - 太陽に近い場所 -【加地×香穂子】



 屋上へと向かう階段の途中だった。
 ばたばたと上から足音が聞こえてきたので、香穂子は左側へと移動をしたのだけど、その足音は踊り場に差し掛かったときにぴたりと止んでしまう。
 不思議に思い顔を上げると、自分と同じく普通科の制服の女子が立っていた。
 顔は知っているけれど名前が思い出せない。
 誰だっけ。たしか5組。土浦君と同じだったような。――そう香穂子が考えていると、彼女は口元をきりっと結び、なぜかきつい視線を香穂子に向ける。
 コンクール出場者に選ばれたときは数え切れないほどの音楽科の生徒にこういった視線を向けられたが、コンクールも、そして四度にわたるコンサートも終わった今、こういう風に視線を向けられることは珍しかった。
 ひょっとしたら自分以外の誰かが背後にいるのかも、と振り返ったものの、やはりそこには誰もおらず、この上から下の並びにいるのは彼女と香穂子の二人だけだった。
「あ、あの……?」
 どうかしたの、と尋ねるよりも先に彼女は再び歩き出す。いや、歩き出すというよりも駆け出すといったほうがいいくらい。
 行動の不自然さに呆気にとられつつも、彼女が近づいてきたときは、その勢いのよさにさらに危険を感じ、体を引いて通り道を大きく開けてやったつもりなのだが、どういうわけか彼女は香穂子を目掛けて駆けてくる。
 え、どうして。そう思った瞬間、すれ違いざまにどん、と肩がぶつかる。
 一瞬眉を顰める程の肩の痛みに、彼女が自分を快く思っていないことがはっきりとわかった。きつくこちらを見ていたのはやはり気のせいではなかったのだ。
「い……っ」
 階段を踏み外しこそはしなかったものの、少しだけよろめいてしまう。
 短く呟いた言葉がさらに彼女の気に障ったのか、さらに鋭い視線を向けられる。
 間近でみるととてもかわいらしい顔立ちをしている。肌の色は白く、手足がすらりと長い。セミロングの髪はゆるく巻かれていて、きれいな栗色をしている。グロスをわずかに乗せているくちびる。小さくてもすっと筋が通った鼻。どのパーツもとても作りがいいのだが、唯一違和感があったのはその瞳だ。
 いつもであればきっとその大きな瞳は凛と輝きを放っているのであろうが、今は違っていた。
 わずかに充血し、そして零れんばかりの涙が目元ぎりぎりのラインで震えていた。
「え……」
 ――泣いて、る……?
 その大きな瞳に釘づけになっていると、彼女は眉間に縦じわを刻んで香穂子を見据える。その瞬間、こらえきれなくなった涙が一粒ぽろっと零れ落ちていくのが見えた。
「ね、ねえ、どうし――」
 恐る恐る伸ばしかけた手。それは彼女のどこにも触れることなく払われてしまう。
「……らないでくれる」
「えっ?」
「触らないでって言ったの!」
 震えた声が大きく響き、そして再び彼女は階段を駆け下りていく。
「えっ……。ええっ!? ち、ちょっと、なんなの……?」
 わけがわからずただ彼女が通り過ぎていった方向を見つめていたのだが、耳に届くのは小さくなっていく足音だけ。
 昼休みにも時間の限りがあるし、いつまでもここでぼうっとしていても仕方がない。疑問は多々残れど、とりあえず気分転換にと思っていた屋上を目指すほかない。
 ――なんか、ちょっと傷つくよ……。そりゃあ、知り合いでもなんでもないけど、あんなに露骨ににらまれるようなこと、私してないはずなんだけどな。……あーあ。なんでかなあ。
 体当たりされた肩の辺りをさすりながら、重い足取りで階段を上る。
 好きなものが詰まったお弁当を食べ、そしてデザートも食べた。ご機嫌のランチタイムだったのに、少しだけ気が滅入る。
 少し重いドアを開き、一気にぱっと差し込んできた金色のまぶしさに目を細める。
 手でひさしを作り正面を見据え、それからベンチがある方向とは逆のほうへと足をむけようとすると、不意に空から声が降ってくる。
 柔らかく、男性にしては透明感がある声。その持ち主に香穂子は十分覚えがある。
 風見鶏が設置されている高所を見上げると、手すりに両肘をかけてこちらを見ている加地葵の姿がそこにはあった。
「かーほさん。やあ、君も息抜きに来たの? よかったらここにおいでよ」
 明るい声で手招きする彼は太陽をバックに微笑んでいる。
 柔らかい目元。穏やかな笑顔。
 だけど妙に違和感を覚えるのは気のせいだろうか。どことなくその笑顔が硬いような気がする。いつもはもっとこう、ぱっと明るい笑顔のような気がするのだが。
 ――気のせい、かな?
 そう思いながらもひさしをつくったまま彼に笑顔を向ける。
「一緒に息抜きしてもいい?」
「もちろん!」
「やった」
 ほんのりブルーだった気持ちが少し明るくなる。靴音を弾ませて階段を上ると、笑顔で彼が待っていてくれた。
「香穂さん、お昼ちゃんと食べた?」
「うん、し〜っかり食べた! デザートとしてプリンも食べちゃったよ」
 薄い腹部をさすりながら香穂子は小さく舌を覗かせる。
「いいよね、食後のデザートって。あれはまさに至福のときだよ」
「だよね! 今度学食のデザートメニューにアイスクリームとか入らないかなあ」
「あ、それいい! 夏とか最高じゃない」
 ね! と互いに笑いながら話をしていたのだが、「さーて、っと」という短い掛け声と共に、加地は仰向けになって寝転んでしまう。
 天気がいい日に彼は決まってこの体勢を取るのだが、そのくちびるからはリラックスのそれとは別の、妙に深いため息が漏れる。
 疲れているのか、それとも切ないのか。
 瞼を閉じているためどういう意図があっての嘆息なのかはわからないが、やはり最初に感じた違和感は気のせいではないような気がしてならない。
 寝転んでいる彼の隣に腰を下ろし、加地の顔をそっと覗き込む。
「……なにかあった?」
「え?」
「ため息。それに、なんか表情硬いよ。ちょっと無理してる」
 いつも一緒にいるからなのか、それとも彼に恋をしているからなのか。――多分そのどちらもなのだろうけど、明るい笑顔に隠された、小さな心の揺れぐらいは見抜けるようになっていた。
 時に彼は場を和ませるため、そして、空気を重くさせないために無理にポーカーフェイスを作り場を盛り上げようとする癖があるのだが、小さな無理やごまかしの類は、香穂子には通じなくなってきている。
「香穂さんの気のせい。なにもないよ」
「本当?」
「うん、本当」
 瞼を閉じたまま柔らかく笑みを浮かべている。あくまでもしらを切りとおすらしい。
「なら、私が先に言っちゃおうかな。…小さな愚痴を聞いてくれる?」
「いくらでも聞くよ」
 そう言う加地の隣に、香穂子も同じようにして仰向けになって寝転がる。
 陽はちょっと眩しく、瞼の裏に太陽の丸い残像が残るくらいだが、軽く手のひらをかざして日差しを遮る。
「さっきね、すっごく可愛い女の子ににらまれちゃったんだ。おまけに勢いよく突進されちゃったから、少し肩をぶつけちゃった。私、その子のこと、顔を知ってるぐらいで、名前とかよく知らないんだけど、なんか彼女は私のことを知ってるみたいで……」
 何かしたのかな、私、と呟く香穂子に、加地は「いやな税だけど、それって、ひょっとしたら有名税かもしれないね」と困ったように呟く。
「有名税? って、そ、そんな税金払うほど有名じゃないよ!?」
「そうかなあ? 香穂さんのこと知らない人のほうが少ないんじゃないの? この学院のちょっとした有名人だもの」
「そ、そんなことないって」
 ウィンクするように片目だけで香穂子を見て加地は笑うが、それを言うなら加地だって同じだと香穂子は思う。
 めったにない普通科への転校生というのはもちろんだが、共に四度にわたるコンサートを乗り越えたことから一気に知名度が上がったことは確かだ。
 だが彼の場合、コンサート云々がなくてもきっと多くの人にその名が知れ渡っていたに違いない。
 なぜならその容姿は何よりも目を引くからだ。端正な顔立ちと均整の取れた体格。手足が長く姿勢もいい分、制服を着ていても妙に様になっている。ただでさえ人目を引く容貌なのに、より一層それを際立たせるのは彼の持つ華やかな雰囲気だ。
 明るく社交的なのは勿論、物腰は穏やか。おまけにスポーツ万能、成績だって上位ランクという、これでもかというくらいの高評価の人物だ。
 はっきり言って目立つ。
 人柄はもとより、その容姿だけでも十分すぎるくらい目立つのだ。
 そんな彼がこの学院に転校してから五ヶ月が経とうとするが、いったい何人の女子に恋心を打ち明けられたのか。
 香穂子が知る限りではラクロス部のマドンナを筆頭に勇猛果敢な女子が五人ほどいる。
 また、親友の天羽菜美がご丁寧にも彼が告白されるたびにそれを教えてくれるものだから、回数さえもしっかりと把握してしまっている自分に妙な切なさを感じてしまう。
 そんな気持ちを知ってかしらずか、天羽は「でもさ、知っといて損はないでしょ。あんた余計なちょっかい出されないようにちゃんと牽制しておきなよ〜? 加地くんは香穂一筋だからわき目も振らないけど、それでも話は別。加地くんの彼女はあんたなんだからね、もうっ」とのんびりしている香穂子に釘をさすのだが、人の想いにはストップをかけられないことを誰よりも自分自身がよく理解しているために、なんとも応えようがない。ただ曖昧に笑ってごまかすだけだ。
 ――牽制って言ってもねえ……。好きな気持ちって、どうしようもないんだよね。誰と付き合っていようがなんだろうが、好きなものは好きなんだもの……。
 ため息を吐きながらそんなことを思ったのだが、そこでふと気がついたことがある。
 彼に振られた女の子が次に取る手段。それは彼女というポジションにいる香穂子への敵対心だ。
 こちらに敵意を向けられてもお門違いなのだが、すっきりおさまらない気持ちはどこにも向けようがないのだろう。振った本人ではなく、彼の想い人である香穂子にきつい視線が向けられることしばしば。
 そう、思い起こせばそうだったのだ。
「……あ」
 短く声を漏らしてくるりと顔だけ向ける香穂子に、同じようにして加地も顔だけを向ける。そして、無言で香穂子の言葉を待つ彼にぽつりと呟く。
「加地くん、ひょっとして、誰かに呼び出されてたりした? 例えば……また告白された、とか……」
 この言葉に彼は目を丸くする。
 言葉に詰まっているのを見ると、間違いないだろう。それもただの呼び出しではなく、きっと告白の類。彼の表情を見て、ああ、やっぱり、と香穂子は確信する。加地の表情が気持ち堅かった訳。そして、階段で会った同級生女子の自分に対する視線の鋭さ。それは線で繋がった。
 彼を呼び出したのは、階段で出合ったさっきの彼女に違いない。きつく香穂子に当たったのは、加地の返事が彼女の意に添わなかったからだ。
 どこにも切なさのぶつけようがない分、偶然ばったり会った香穂子――いわゆる『彼の彼女』向けられたのだ。なんとも切ないとばっちりだが、こればかりは仕方がないのかもしれない。
「……当たってる?」
 この問い掛けに、彼はちょっと困ったように小さく笑った。
「あ……と。…………うん、当たり。どうしてそう思ったの?」
「……なんとなーく、かな」
 少し拗ねたように言うと、彼は慌てて体を起こす。
「香穂さん、でもね、あのさ!――」
「うん、わかってるよ」
「えっ?」
 わかってるけど、ちょっと拗ねてみたんだ、といたずらっぽく笑顔を見せると、彼は言葉を詰まらせて香穂子をまじまじと見つめる。
 少し考えるようにして黙っていたのだが、もう一度ゆっくり寝転び、ややあって深いため息混じりに静かに語り始める。
「……告白されて嬉しいって思うけど、でも、僕はその気持ちには応えられないから、申し訳ないっていう気持ちのほうが大きくなる。気持ちは一つしかないから他には絶対に向くことはないし、かといって自分に都合のいいことばっかり言って、いい人のままでいるものずるいじゃない? だから、伝えられた思いをはっきりと断るのって、やっぱりちょっと辛いよね。断られた側のほうがもっと辛いんだろうから、こんなこと僕が言えたものじゃないんだけどさ。いっそのこと、この背中に『香穂さんに永久売却済み』って大きく書いてあればいいのになあ」
 真剣な面持ちで突飛なことを言うものだから香穂子は思わず笑ってしまう。
「あ、笑い事じゃないよ。僕、これでも真剣なんだから」
「ごめんごめん。モテるのも大変なんだね」
 肩を揺らしてそう言うと、加地は「そのままそっくり返してあげたいよ」としょげた声で言う。
「あーあ、香穂さん、知らないの?」
「なにが?」
「僕も結構白い目で見られてるんだよ」
「モテすぎて?」
「違うよ。人気があるのは僕じゃなくて、君。君のことだよ、香穂さん」
「……は?」
 今度体を起こしたのは香穂子のほうだった。音楽科の生徒たちから白い目で見られることはあったが人気があるというのは初耳だ。いったい何がどのようになって評判がとどいているのやら。
「コンクールで優勝したことから始まり、この前のコンサートで結局は理事長の学院分割化を撤回させた要因の一つになってるじゃない? だから一部ではちょっとしたヒーローならぬヒロインってわけ。特に下級生に多いかな、君のファン」
「ファ、ファンって、何言って……」
 柚木や加地ならわかるがどうして自分なんだろう、そう思うそばからみるみる顔に熱が集まっていく。
 好意的に思われていることには悪い気はしないが、それを面と向かって言われると気恥ずかしさのほうが圧倒的に上回る。
「音楽棟のほうを歩いてると聞こえてくるんだよ。『あの人だろ、日野先輩の……』とか『ふーん、べっつにたいしたことないじゃん』って。そりゃ僕はちっともたいしたことないけど、本人がいるにも関わらず聞こえるように言うのってなんか複雑だよね。なにより度胸あるよ、一年って」
 息を吐き、それとも僕って弱そうにみえるのかな、とも言う。
 香穂子もいままで散々言われてきた言葉なので加地の気持ちがよくわかる。
 『ああ、あの人でしょ、普通科の』『なんで普通科の人がコンクール参加者なの』『理解できない』といった言葉の数々がどれほど心にちくちくと刺さったか。今でこそ聞こえよがしに言う者の数は大分減ったが、コンクールに参加したばかりのころは音楽棟に行くたびに肩身の狭い思いをしたものだ。
「でも……ちょっとだけ嬉しいこともあるんだよ」
 嬉しそうに目を細めて香穂子を見る。
「うん? なに?」
「『日野先輩の彼氏』っていうのが聞こえると、すごく嬉しくなる。素敵で贅沢な称号をどうもありがとうってね」
「か、加地くん?」
 香穂子の彼氏――それは本当のことなのだが、彼が嬉しそうに笑うのを見ると胸の奥がくすぐったくなる。
「だから、香穂さんも信じて欲しいな。僕が好きなのは君だけだよ。他の誰に想いを告げられても、僕には香穂さんだけ」
 眩しそうに自分を仰ぐ彼の言葉に、さっきから妙に鼓動が騒ぎ出す。
「……ヴァイオリンの音色があるから、好き……?」
 この問いに、彼は首を横に振る。
「ヴァイオリンは僕たちが出会うきっかけ。君の音に、演奏に心をとらわれてしまったのは勿論だけど、君がどういう女の子なのかを知り始めたときから、僕は君を好きになっていた。……二度も君に恋したんだ」
 こんなことってそうそうないよね、と笑う横顔に香穂子は胸を高鳴らせる。
 自分にはもったいない言葉。
 歯が浮いてしまいそうな甘い台詞。
 でもどうしてこの人はこんなにたくさん自分を贅沢にさせる言葉を言うのだろう。
 ――これだから、好きって怖いんだ。どうしようもなく胸が締め付けられて、苦しくて、ドキドキが止まらなくなるんだよ。
「……はぁ。もてる人を彼氏にすると大変」
 ――好きになりすぎるともっと大変。
 それは言葉にはしなかったけれど、心うちでそう呟く。
 『彼は大丈夫』とわかっていても、告白をされたと知ると相手の女の子に小さな嫉妬心を感じたりする。その女の子が可愛ければ尚のことだ。ただそれを表に出さないだけ。香穂子にもちっぽけでもプライドというのがある。ばかみたい、と自分に笑いたくなるときもあるが、それでもたった十七年しか生きていないのだからまだまだ大人になんてなれやしない。音楽だけでなく、恋愛の面でも自分自身に対するステップアップは必要で、そしてまた容赦なくアップダウンの激しい毎日が繰り広げられそうだ。この彼のそばだと尚のこと。
「ホント、大変だよ」
「もうっ、加地くんのことだよ」
 軽く頬を膨らませて彼を見ると、困ったような笑顔で問いかけてくる。
「僕!? ……じゃあ、僕はお払い箱かな。君から少し離れた方がいい?」
「えっ……」
「だって、君を困らせるのが僕は一番辛いから」
 離れる? お払い箱? そんなことできやしないってば。そう香穂子はくちびるの内側を軽くかみ締める。
 いつもそっと自分を支えてくれるのを不思議に思っていた。どうしてこの人はいつも自分を励まし、そして味方になってくれるんだろう、と。
 裏があるわけでもなさそうだし、だからといって彼に助けられ、支えてもらえるような何かをした覚えがまるでない。でも、いつも演奏をほめてくれて、そして香穂子の音が好きだと言ってくれる人。
 そんな彼のことがいつのまにか気になりだし、そして気がつけばその想いは恋へと変わっていた。
 クラスでは隣の席にいるのにも関わらず、遠くにその姿を見つけるとつい目で追ってしまう。
 また、自分を見つけた瞬間その明るい笑顔を向けられると、この胸がどんなに苦しくなるか、この人は知らない。
 指先や肩が触れただけでもそこから電気が走るのを、きっと知らないだろう。
「……加地くん。それ、意地悪だってこと、知ってる?」
 少しだけ拗ねて見せて、その片方の頬をそっと彼の制服の胸の辺りへと押し付ける。目を閉じると制服越しに彼の鼓動が伝わってきそうな気がする。暖かい鼓動、生きている証の鼓動。
「香穂さ――」
「……もう、無理」
 そばにいたい。
 支えがないと立っていられないわけではないけれど、彼の存在はいつの間にかこんなにも大きくなっていた。
 自分を包む優しさと暖かさ。それを彼は教えてくれた。
「加地くんがいなくなるほうが、困るよ」
 耳が熱い。こんなに好きでさっきから胸が苦しくなるくらい鼓動が高鳴っている。
「それは……どうしてか聞いてもいい?」
「加地く……」
「聞かせて、香穂さん」
 彼の胸に頬を当てたまま、小さく応えた。
「好き。加地くん」
 ――大好き。
 もう一度そっと呟くと、彼は手のひらで目元や額など顔を半分覆い隠すようにして言う。
「……これが夢なら覚めないで欲しいよ」
 頬を離し、代わりに顎をのせて彼の表情を伺うのだが、大きな手に隠れてしまって見ることができない。
「夢じゃないよ?」
 顔を覆ってしまっている彼の目には映らないだろうが、にっこり微笑むと、加地はその首を軽く振る。
「うん、わかってる。わかってるから、今、すごく嬉しくて幸せすぎて、情けなくなってるこの顔を君に見せたくないんだ」
 いつもはさらっとスマートなことを口にする加地が、今自分が発した言葉によりそのペースを乱している。
 そう簡単に見られないであろうその反応に、香穂子は目を細める。
 ――どうしよう、もっとドキドキしてきた。なんか……なんか、こういうのってちょっと意地悪したくなるっていう気持ち……少しわかるかも。
「ふふ。なら、もう一回言おっか?」
「ダメ。ホントは何度だって聞きたいけど、今は心臓止まりそう」
「うーん、それは困るなあ。さっきも言ったけど、加地くんがいなくなっちゃったらすごく困るもの」
 ゆっくりと身体を起こし、手の甲の間から自分を見上げる加地に肩を竦めて見せる。冗談めかして言う香穂子に、加地は参りましたとでも言うように口角だけを上げて笑みを作る。
「もったいのうお言葉でございます」
「いやなに、当然のことを言ったまでよ」
 声色を変えて言う香穂子に合わせ、加地は顔を覆っていた手を外し、ゆっくりと上半身を起こす。
 近くなった視線。
 互いに見つめ合っては、「へーんなの」と肩を揺らして笑い合う。
 空を仰いで尚も笑う彼の名を香穂子はそっと呼んでみる。
「加地くん」
「うん? なに?」
「大好きだよ」
 瞬間、ぴたりと笑いを止めた彼が目を丸くしてこちらを見るが、その目はやがてやんわりと細められていく。
「……言ったでしょ、言葉にされると心臓止まるって」
「じゃあ、どうすればいいの?」
 首を傾げて香穂子は笑う。
 言葉がだめなら次はどうすればいい? ――その答えは口にせずともわかっているけど、瞳でそう尋ねてみる。
 太陽の光に暖められたコンクリート。そこに触れている二人の指先が躊躇いがちに重なる。
 触れる肩先。
 近付く頬のライン。
 日に透けて金色に輝く彼の髪の向こうでは、太陽が二人を見つめている。
 ぎこちなくくちびるが触れ合ったときも、その後照れくさくて額を寄せて小さく笑い合ったときも、じきに桜を咲かせる季節を呼ぶ暖かな光は、太陽に近い場所で寄り添う二人をそっと包み込んでいた。
 ――春はまだまだ、これから。



End.
2007/07/13UP
⇒ Back to “OTHER” Menu