金色のコルダ2

7.5センチの距離【加地×香穂子】



「香穂〜、頼むから汚したり、ヒール傷つけたりしないでよね」
「もうわかってるって。気をつけますよ〜」
「絶対だからね!」
「はいはい、と。まったくもう、わかってますって。それじゃ行ってきまーす!」
 まだ少し貸し渋っている姉にこれ以上何か言われる前に、香穂子はスカートの裾を翻して玄関のドアを開けた。普段スカートはあまり穿くことはないのだが、足元がヒールなだけに今回は特別だ。
 そして姉に借りた靴を履いて向かうは臨海公園。今日は海の見えるあの場所で一日練習をする予定だ。
 コンサートまであと一週間と迫ったところで、もう一度ゆっくりと練習をすることは勿論、この履き慣れないヒールのある靴に足を慣らすためにも『練習』が必要だった。
 教会でのバザーコンサートの時に久しぶりにドレスを着るようになったときも、何日か前からヒールで歩く練習をしたがそれは今回も同じだ。
 いつも着慣れない服を着るのはやっぱり落ち着かないが、大きく肩が開いたものや、裾がふわっと広がるあの独特のデザインは、なんだかお話に出てくるお姫様のようで少しばかり嬉しくなる。お姫様というガラではないのだが、それでも余所行きのさらに余所行きといったあの衣装はやはり特別だ。
 それにあわせて、当然といえば当然だが、ヒールのある靴を履きこなさなくてはいけなくなる。
 いつもローファーや低いヒールのミュールばかりを履いているせいか、少し踵が上がると途端に足取りが頼りなくなるし、あのつま先辺りに重心がかかる感じがなんとも言えず苦手だ。
 春から夏前に行われた学内コンクールのときはリリがドレスも靴も用意してくれたが、どんなにサイズがぴったりでも、毎回必ず靴擦れをおこしたものだった。
 特にひどかったのが第一セレクションのときだった。
 大人数を前にして初めて演奏をするということもあり、気持ち的にも落ち着かずあたりをウロウロしていた。そのせいもあってか踵は勿論だが指先まで擦れてしまい、家に帰って入浴したときには、足元にお湯がかかるたび悶絶し、声にならない声を漏らしたものだ。
 あれは痛かったなぁ、と今でも香穂子は忘れそうになっているあの痛みを思い出しては渋面を作る。
 ああいうことがないよう、その後セレクションが近付く度に姉からヒールのある靴を借りて履きなれるための練習をしたのだが、今回は季節を置いての久しぶりの大舞台だ。
 教会バザーのときも実は少し靴擦れを起こしてしまったのだが、それほどひどくはならなかった。
 僅かに赤くなった程度で済んだからよかったものの、たとえ靴擦れでも痛みが走ればそちらにどうしても気がとられてしまい、演奏にも支障をきたすおそれがある。
 同じヴァイオリン奏者の月森には「ケガには気をつけるように」と言われたことがあるが、それは本当だなと香穂子も思うようになった。
 学内コンクールのときは個人演奏だったが、コンサートはアンサンブル形式であって、自分一人だけではない。自己管理により一層気を使っていかなくてはいけないから大変だ。
 ――舞台に出る前に転んで笑われちゃったら嫌だし。それに、靴擦れはもう勘弁してほしいよ。悶絶したくない!
 足元をちらちら気にしつつも無事にヒールに傷をつけることなく臨海公園までたどり着き、自分の中での指定場所となっている海へのせり出し場所まで真っ直ぐに向かう。
 まだそれほど人が多くない時間ということもあり、空いているベンチを半分だけ借りて荷物置き場所として使う。
 さすがに春や初夏の頃と比べると海風も冷たさを増しており、空気も僅かに張り詰めた感があるが、肺一杯に吸い込むと気分がリフレッシュするようなこの感じがとてもいい。
 軽く髪を揺らす程度の潮風も心地よく、バイオリンを構えると同時にくちびるには自然と笑みが浮かぶ。
 こうしてヴァイオリンを構えるまではコンサートでの曲を練習しようと思ったが、ふと気が変わった。
 暖かい日差しを浴びたら、明るく、華やかな曲が弾きたくなったのだ。それも、コンクールのときによくこの場所で練習をしたあの頃の曲を。
 ――指慣らしにこの曲はちょっと難しいけど、でも、なんかこういう曲を弾きたい気分なんだよね。パガニーニの『カンタービレ』。
 弓を構え、瞼を閉じる。
 軽く息を吸い込むのと同時に手を動かせば思っていた以上に滑らかに音があふれ出していく。
 ――……あ。なんか、今日はいい感じ。この音好きかも。
 気分に合わせて音が自然と跳ねていく。それがまた嬉しくて、さらに口元に笑みが浮かぶ。
 調子がいい始まりだと、その日一日の練習が妙にうまくいきそうな気がするから不思議だ。音が流れ、自分を包んでいくような感じがする。それが最後の一音を弾き終わるまで続いたのでとても気分がいい。
 静かに音が消えたところで弓を下ろすと、感嘆と拍手の音が幾つも聞こえる。見ると十人ほどだろうか、足を止め演奏を聴いてくれた人がいたらしく、「上手だね」とか「バイオリンってこんなにきれいな音がするんだね」と感心したように呟いている。
 その結構な人数に香穂子は驚く。
 さっきまで人はそれほど多くなかったはずなのにいつの間に集まったのだろう、と今更胸がドキドキする。
 賞賛の言葉はとても嬉しいのだが、気恥ずかしくて大きな声で「ありがとうございます」と言えない。けれど、今日はスカートを穿いてきたことをふと思い出す。
 折角のスカート姿なのだから、それらしくポーズを作ってみるのもいいだろう。
 頬を赤く染めつつも軽くスカートをつまみ、ぎこちなく挨拶をすると、さらに拍手が大きくなったような気がする。
 ――うわっ、返って盛り上がっちゃった!
「あ……。あのっ、え、えっと、ありがとうございました!」
 照れ笑いを浮かべながら頭を軽く掻き、徐々に散っていく背中を見送るのだが、皆が踵を返す中、立ち止まったままの足元が一つ視界に映る。
 たまに次の曲を待っていてくれるありがたい人がいるので、今回もそうなのかなと思ったのだが、足元すぐそばには楽器のケースらしきものがある。
 徐々に視線を上げてみると、なかなか顔にたどり着かない妙に背の高いその人物は、香穂子がよく知っている男性で、目を細め、満足そうな笑みを浮かべている加地の姿がそこにはあった。
「……あれっ、加地くん!?」
「こんにちは、日野さん。素敵な演奏をありがとう。しっかり聞かせてもらったよ」
 そう言って、再び拍手をくれる。
「あ、ありがとう、加地くん」
 首を軽く傾げて笑顔を浮かべると、加地はケースを手に持ち、香穂子のすぐそばまで歩み寄る。
「今日はここに来て正解だったな。昼間から日野さんの演奏を聞けるなんて、ほんとラッキー」
「加地くんもここで練習を?」
「うん。そうしようと思ったんだけど……」
「思ったんだけど?」
 鸚鵡返しに香穂子が尋ねると、彼はいたずらっぽい笑みを見せては肩を竦める。
「やっぱり、君の一ギャラリーで過ごそうかなー、なんてね」
「あ〜、それずるいなあ」
「え、だめ?」
「だーめ。私だって加地くんの演奏聞きたいもの」
 頬を僅かに膨らませてそう言うと、彼はより一層嬉しそうにしてありがとう、と呟く。
「あのさ、日野さん。もし迷惑じゃなかったら、一緒に練習させてもらってもいい?」
 加地の問いかけに、大きく縦に頷いて香穂子は笑う。
「もちろん! 今日はコンサートで弾く曲の練習をしようと思ってたから大歓迎だよ。いろんな箇所の微調整もかねて、是非お願いします!」
 迫るコンサートで選んだ曲は加地も演奏者の一人となっているので、それこそ願ったりというもの。お互いに調整しあいながら練習ができるであろう。
「ふふっ、やった。それじゃ、よろしくね、日野さん」
 荷物を置いている場所を加地にも提供し、彼もヴィオラを取り出しては調音を始める。
 確かめるようにして奏でられていく音をそばで聞きながら、その間香穂子は少しひんやりする潮風の心地よさに瞼を閉じて、彼からのオーケーサインを待った。

 コンサートでの曲は三曲。そのうちの二曲は加地との演奏がある。
 その二曲とも続けて流したあと、その後香穂子の楽譜を見ながらお互いの意見を述べてはまた練習を繰り返した。
 耳が良い分、加地は途中自分の演奏に納得がいかないようで、何度か「ごめん、ちょっといいかな」とストップをかけてはその箇所を演奏していたが、満足いく演奏ができたときにはとても嬉しそうな笑顔を見せた。
 そんな彼の姿をそばで見ていて香穂子は思うのだった。
 いつものスマートな笑顔ではなく、子供のようにぱっと明るく笑う顔と、彼の自身の音がやっぱり好きだな、と。
 彼は自分の演奏が好きではないと言った。
 出合ったばかりのころは「コンクール出場者と並んで演奏ができるレベルなんかじゃない」とも言っていた。
 けれど、彼の演奏は彼が思っている以上にいいものになってきている。
 ヴァイオリンを始めてそれほど経っていない香穂子がそれを言うのはおこがましいのだが、技術も上がり、難しい曲さえ弾きこなしている彼の演奏は本人が思うほど悪いものではなく、むしろハイレベルなものに仕上がってきている。
 清々しさの中にもどこか明るさがあり、軽やかだ。勿論、軽いといってもそれは悪い意味ではなく、良いほうの意味でだ。
 広く太く響く音にはどこか爽快感があり、悲壮さをあまり感じさせない。また、また重厚感ある曲では情感をたっぷり込めた音色が艶やかに奏でられる。
 かつてヴァイオリンを弾いていたこともあり舞台慣れもしているのだろうか、メンタル的な部分も全く問題なさそうで、むしろホールいっぱいに人が集まっている中で演奏するという、そう滅多に味わえない空間と雰囲気を楽しんでいるようにも見える。
 彼がもう少し早く星奏学院に転校していて、且つコンクール参加者であったならば、きっと上位に食い込んでいたことは間違いないだろう。
 午前中いっぱいで練習を切り上げ、お昼を食べる場所も決めた今、楽譜をまとめながら思っていることをぽつりと口にした。
「やっぱりもったいないなあ……」
「うん? なにが? ……あ、やっぱり練習が足りないとか?」
「ううん、そうじゃなくて。加地くんがもう少し早く転校してきていれば、絶対にコンクールで上位に入ってたのにな、って思ったんだ」
「……えっ、いきなりどうしたの!? っていうか僕がコンクールの上位って……?」
 香穂子の言葉に、楽器をケースにしまう準備をしていた加地の手がふと止まる。その声はとても驚いている。
「うん。加地くんの演奏とても上手だし、私は好きだよ。私以外の人が聞いても、きっとそう思うよ」
 華やかだし、人目を引くからきっとうんと人気もでたことだろう、と香穂子は思う。けれど、そんな香穂子とは対照的に加地は少し考えるような表情で呟く。
「僕だって惜しいって思うよ。……もう少し早く転校していればって。そうすれば、もっと君の音を近くでたくさん聞けたのに、って」
 ため息交じりでそう言う彼は本当に残念そうだ。
「うわっ、そ、それは〜……。あまり早くに出会っていたら、私の演奏なんてとてもじゃないけど聞かせられないよ。ホントにすごかったんだから……下手で」
 香穂子がヴァイオリンを手にするようになったきっかけはリリから渡された魔法のヴァイオリンがあってこその話だ。
 それまで弾いたこともなければ手に取ったことすらなかったのだから、そんな状態で加地に音を聞かれた日には、きっと彼は今のように自分を賞賛したりしないだろう。
 音も満足に出すことができなかったのは紛れもない事実だ。
「って、君はいつもそう言ってるよね。前に土浦に聞いても同じこと言ってたしなぁ……。でも、そんな状態から始まっても、今がこのレベルでしょ? やっぱり君はすごいよ。それに、僕が君の音を初めて聞いたときは、心臓掴まれたくらいすごい音色だったよ」
「それは、ヴァイオリンが特殊だったからじゃないのかな?」
 アハハ、と力なく笑う香穂子だが、加地はそうかな、と優しく目を細める。
「僕は、君が特別だったからとしか思えないんだけどな。だって、この場所で初めて君に会ったときのあの音は、僕に転校させるくらいの威力があったんだ。……本当に驚いたんだ。僕が思い、望んでいた音が急に降って来たんだから。……奇跡だと思ったよ、この耳に流れてくる音すべてが。最初は君が演奏している場所から少し離れたところにいたんだけど――そう、ちょうどあの親子連れがいるあたりからだったんだけど、次の音がはっきりと聞こえたときにはもうじっとなんてしていられなかった。集まっている人だかりの方へと足を伸ばし、他のギャラリーに混じって、心を奪われたように君の音に耳を傾けてた。あのときの興奮や感動は忘れられないよ、絶対」
 彼が語る人物が自分だなんて思えないくらいの褒め言葉に香穂子はただ頬を熱くした。
 いつも自分を褒め称えてくれる彼だが、やはり何度聞いても自分にはもったいないくらいの言葉の数々だ。
「加地くん、それ、本当に私……?」
 熱い頬を片側だけ覆い、瞼を閉じて尋ねると、「他に誰がいるの」と明るく笑い返されてしまう。
「言ったでしょ。僕、耳だけはいいんだって。上手に音を奏でる技術はなくても、聞き分ける耳だけは自信があるんだ。だから、絶対に間違えない。……それに、君の顔をしっかり覚えていたもの。こんな可愛い女の子が、この素敵な音を奏でているんだ、ってね」
「もう、本当かなぁ」
 さすがに照れくさくてこめかみの辺りを指先で掻いていると、加地は誇らしげに笑う。
「ホントだって。ほら、だって男ですから? そういうのちゃんと見てるって」
 審美眼にも狂いはないと思うよ、とちらりと斜めに香穂子を見下ろすその口角はにっこりと上がっている。
「素敵な音と、可愛い女の子。これが揃ったら絶対に忘れないよ。間違いなし!」
 ぱちり、と音を立ててケースを閉めてベンチから地面へとそれを落とし、彼は空いた場所に腰掛ける。そんな彼を香穂子はじと目で見つめる。
「加地くん、ナンパとか上手そう……。その巧みな話術に、絶対女の子ひっかかるよ……」
「えっ、なにそれ。……うわー、ちょっと、僕がこんなこと言うのって日野さんだけだよ?」
「本当かなぁ〜?」
「ええっ、ひ、日野さん!?」
「……疑惑の眼差し」
 ぎょっとしている加地にいたずらっぽく笑みを向ける。そして、香穂子も楽器を片付け終えたので、蓋をとん、と指先で軽くたたきながら加地を見下ろす。
 海からの風に煽られ、頬にゆるくかかる髪を何度か首を振って払うと、加地は少し眩しそうに香穂子を見上げて微笑む。
「……でも、本当だよ。実際、今日もすごく可愛いし、さ。私服でスカートなんて珍しいなって思ったんだけど、とても似合ってる。……言うの遅れてごめん」
「う、ううん」
 その言葉にどきりと胸の鼓動が高鳴る。
 音楽以外に彼から面と向かって褒められるとどう返していいのかわからない。
 さっきから『可愛い女の子』を連発されているものの、どうも社交辞令のような気がしてあまり真に受けていなかったのだが、照れたように、一つ一つ言葉を紡いでいく様子に、一気に全身の血が首から上に集中しそうだ。
「それに、演奏してるときもいつもより視線がちょっと上がったから、なんかどきっとしたよ。今日はヒール履いてるんだね」
「うん。姉から借りてきたの」
「そうなんだ。――なんか、大人っぽいなって思った」
 足元を見られていることにより、さらにかっと顔が熱くなる。
「あっ、あの! あんまり見ないでね。恥ずかしいから」
 もじもじと足踏みしながら言うのだけど、加地は笑ってばかりで取り合ってくれない。
「ごめんごめん。でも、見ないほうが難しいかな」
「もうっ、加地くんっ!」
 数歩近付いてその肩を叩こうとするのだけど、慣れない靴を履いているせいか、つま先が石畳の継ぎ目に軽くひっかかってしまう。
「うわっ」
「日野さ――」
 あっ、と思ったときには前につんのめった状態で、このままだと間違いなく転んでしまう。
 けれど足を踏ん張ることもできないまま、傾いていく身体をただ強張らせていると、咄嗟に伸ばした加地の腕が香穂子のウエスト辺りを掴まえ、なんとか転倒は免れる。
「ちょっ、大丈夫、日野さん? どこもぶつけてない? 足は平気!?」
 すぐそばで聞こえる加地の声に香穂子は黙ったまま頷く。
 ウエストを支えてもらわなかったら間違いなくこの両手は地面へとついていたはずだし、膝だって強くぶっていただろう。間一髪というところだ。
「加地くん、ほんと助かっ……」
 助かったよ、と言葉を続けようとしたが、顔を上げた瞬間言葉を失う。
 顔が近い。
 それも、隣の席で見ている距離など比ではないくらいの近さ。
 息がかかるこの距離に、加地も驚いたように目を丸くしている。
 それによくよく気がつけば、左手は彼の肩を抱きしめるような形になっているし、もう片方はといえば思いのほかしっかりしている肩の上についているような状態。
 それに腰の位置だ。はっきり言ってこれは間違いなく彼の膝の上に乗っている。
「……ご、ごめん。……重い、よね」
 驚きすぎて頭の中が真っ白になる。半ば呆然としているが、この体勢、この状況を頭のどこかで判断しているのか、無意識に言葉が紡がれる。
「いや、平気……だけど」
「うん……」
「……その、大丈夫?」
「……うん」
「ほんとに、どこも打ってない?」
「平気、みたい」
「そっか……」
「うん」
「えっと……そ、そろそろ、行こっか」
「……そ、そうだね」
 お互いに目をぱちぱちさせながら何事もなかったようにのろのろと姿勢を整える。
 ――今のはなんだったんだろう。今のこの距離はなんだったの!?
 深く考えれば頭が沸騰しそうで、だからと言って一人で大騒ぎしては加地に変に思われてしまう。第一彼は何でもなさそうな顔をしているように見える。
 今のことは考えないように。そう何度も言い聞かせるようにして心の中で呟く。
 そして、一呼吸置いたあと二人ほぼ同時にケースを持つ。香穂子は真っ直ぐに背筋を伸ばし、加地はベンチから腰を上げて、目元にかかっている髪を軽く払う。
 二人立ち並ぶと、練習時はあまり気付かなかったこの身長の差がとても気になり始める。少し前に加地はいつもより視線が上がったと言っていたが、それは確かに当っている。
 ヒールの踵は7.5センチと姉は言っていた。当然二人の身長差もそれだけ縮まるのだが、たった7センチと半分で随分と違うように思える。
 こうして並んでみて、香穂子は改めて気がついた。
「やっぱり、近いね」
「え?」
「踵が浮いた分、なんだか加地くんが近く感じるな、と思って」
 ボンヤリと呟く香穂子の言葉に、加地は少し間をおいて照れたように笑う。
「さっきも、十分近かったけどね」
「う、うん」
 小さな返事のあとに広がるのは無言の空気。
 互いにどう出るかを伺っているようにも思えるこの空気。それを最初に崩したのは加地だった。
「なんか、照れるね」
「え……加地くんも?」
 驚いて彼を見上げると、困ったように小さく笑われてしまう。
「当然。僕、そんなに冷静沈着タイプじゃないよ? だって今、緊張してもの凄く手が熱いし。冬なのにカイロみたい。触ってみる?」
「アハハ、ホントに?」
「ホントだって」
 差し出された手のひらをそっと指先で触れると、彼が言うように本当に暖かい。
「わ、ほんとだ暖かい!」
「でしょ?」
「うん」
「あ、と……日野さん」
「はい?」
「さっきからずっと緊張してるんだけど、それをさらに延長させて聞くね。……もし、君の迷惑じゃなかったら、このまま手を繋いでもいいかな。ほら、足元危ないっていうのもあるし……」
 この場所で君と手を繋いで歩けたら、すごく幸せだから。――そう加地は呟く。
 視線を上げると、伏しがちな彼の目は軽く触れ合っている手のひらを見つめている。香穂子は少し黙っていたが、加地の手のひらに触れたまま小さく返事をする。
「うん。お願いします」
 少し顔を上げた加地が、目を細めて笑い、それからそっと香穂子の手を握る。
「……あっ。もし、知ってる誰かに何か言われたら、そのときは転ばないように手を引いててもらっただけって言えばきっと大丈夫だから。誤解されたら、そう言ってくれていいからね」
「えっ?」
 思わず短く声を漏らすと、加地は優しい笑顔を浮かべたまま肩を竦める。
「だって、君に迷惑かけちゃうでしょ。だから、適当な言い訳をつけてもらってかまわないから」
「加地くん……」
 ――私、別に迷惑だなんて思ってないのに。それどころか、こうして一緒に練習ができて嬉しいと思っているくらいなのに。
 一緒に音を出している間、ずっと楽しかった。心地よいメロディーを、居心地のいい人と一緒に奏でることができる。それがどんなに贅沢なことか。
 ――加地くん、わかってないなぁ。誤解されて困るようだったら、手なんて握らないよ。
 そう心うちで呟いては小さく笑い、香穂子は繋いでいる手をぎゅっと握った。
 彼らしい気遣いをありがたいとも思うが、その気遣いはきっと必要ない。
「日野さん?」
 驚いたような声の加地に、笑顔のまま「行こう」と一歩踏み出す。
 隣を歩く彼の顔を見て言うのが照れくさいので、真正面を見つめたまま呟く。
「私ね、前のコンクールのときから変に度胸がついちゃったんだ。だから……少しぐらい誰かに何か言われたって平気。言い訳なんてしないよ」
「でも、それじゃ――」
 彼の言葉の続きは、言われなくても簡単に想像できる。
 だから、香穂子は敢えてそれを遮った。
「いいの、これで」
 これでいいの。
 もう一度呟いて、いつもより気持ち近い加地の顔を見上げる。
 何か言いたげな表情で彼は口を開きかけたがそれをやめ、代わりに繋いでいる手にそっと力を込める。
「……ありがとう」
 そのとても暖かい手に包まれていると心まで暖められていくような気がして、なんだかとてもくすぐったい気持ちになった。
 太陽が一番高く昇るこの時間。潮風は少し冷たいけれど、火照った頬を冷やすにはちょうどいい。
 頼りない足元も、こうして手を繋いでくれる人がいるならば平気だ。
 実際、「おやすみなさい。また月曜日に学校でね」と笑顔で別れを告げるまで、加地はよろけた香穂子のことを何度も支えてくれた。
 それはこの一日だけの話ではなく、コンサート本番直前でも繰り返されたものだから可笑しなものだ。
 支え、支えられてはがこの一週間で何度あっただろう。顔を見合わせては噴きだし、小さく肩を揺らした。
「何度もごめんね。いつも支えてくれてありがとう」
 笑いながらも香穂子が言うと、どういたしまして、と彼は目を細める。
「君が転ばずに済むのなら何度でも。それが僕の役目なら光栄だよ。…………と、そろそろ時間みたいだ。日野さん、いい演奏をしようね」
「うん!」
 曲目がアナウンスされ、場内がさらにざわつく。
 こつ、とヒールを鳴らし、つま先を向けた先にあるのは光が射す場所。それを見つめるのはたくさんのギャラリー。
 ヒール7.5センチよりもうんと高いこの舞台で奏でるメロディーは、何度も二人で練習した曲だ。
 目を合せ、どちらともなく頷き、そして歩き出す。
 三度目のコンサートを成功させるために。



End.
2007/07/02UP
⇒ Back to “OTHER” Menu