新しい楽譜を手に入れた。
今の技術レベルではやっとのことで一通り弾ける程度のものだが、あと二週間もあればなんとかものにできるだろう。
香穂子はそう見込み、手に入れてからそう時間もたっていないこの楽曲をコンサートで使う一つにしようと思った。
毎日少しずつ、そして何度も同じ曲を繰り返し練習していくうちに、新しい楽譜も書き込みでどんどん空白が埋まっていく。
音楽知識が追いついていかない分、「もっとテンポよく」とか「なめらかに」とわかりやすいようにしか書き込むことができないのだが、多少格好が悪くても、人前で疲労するのは楽譜ではなくて演奏だ。少しでも練習を重ねて習熟すればいいだけのことで、そのために自分なりの言葉で書き添えられた楽譜はとても大切なものの一つだ。
大切なヴァイオリンと楽譜を手に、自分なりに少しずつでも前に進めればいいと自分を励ます毎日。
今日も練習室の予約をし、ほぼ籠もりきりの状態で練習を重ねた。
途中ひょっこりと顔を出し、練習に付き合ってくれた森からは「ホント頑張ってるね。日野さんだったらこんな難しい曲でもなんとかなっちゃいそうな気がするから不思議」とにっこりと笑みを向けられ、気持ちがぱっと明るくなったけれど、そんな彼女もやがては用事があるからと帰っていった。
それからどれくらい経っただろう。
腕も疲れてきたこともあり、ここら辺にしておこうかと息吐き、肩を回したときだった。
袖口からちらっと見えた腕時計の針が、信じられないところをさしていた。それどころか小窓の外はすでにすっかり暗くなっており、空には瞬くものさえ見え始めている。
それらを見た瞬間、香穂子は肩を回すのをぴたりとやめた。
血の気が引き始めるのを感じながらも、腕時計で再度時間を確認した後、それでも目に映った時間が信じられず、今度は携帯のサブディスプレイを見る。
時計の針が進みすぎている。きっとそうに違いない!――そう思いたかったのだが、残念ながらアナログ、デジタル共にほぼ同じ時を刻んでいた。それを見て一気に全身の血の気が引いた。
「うそっ! ちょっ、どうしよう!? かっ、加地く……一緒に帰るって約――。……ええっ、嘘でしょう!?」
――どうしよう。私、ちょっと遅くなるって連絡もしていなかったよ!
加地と一緒に帰る約束を、あろうことかすっかり忘れてしまっていた。それどころか遅れるという連絡さえもしていない。練習に没頭していたとはいえ、それは香穂子の事情であって、加地の知るところではない。
「どうしよう……」
一瞬にして頭が真っ白になり、その後妙に練習室の中をうろうろしてしまうが、無駄にそうしてばかりもいられない。
とにかく今できることといったら荷物をまとめて正門前まで急ぐこと。
たとえ加地が帰ってしまったとしても――いや、この時間だ、もう帰ってしまっていて当たり前なのだが、それでも『まさか』があるかもしれない。
――まずは落ち着いて! そして……とっ、とにかく急がなくちゃ!
浅く息を吸い込み、それから慌てて楽譜を片付ける。
急いでいるときに限って手元がおろそかになるようで、何枚もはらはらと楽譜を落としてしまったが、それを手早く拾い集め、フォルダに差し込む。
今日は夕方から冷え込むと天気予報では言っていた。実際、お昼頃の暖かさは時間が経つにつれてどんどん低くなっていき、練習室に籠もる前から、やけに冷えると思っていた。
――まさか、だよね。加地くん、いくらなんでも一時間も待ってないよね。
星が瞬く時間帯。学院内に残っている生徒の姿もまばらだ。
そんな中、香穂子は練習室を出てから棟内を駆け抜ける。コートを着る時間さえも惜しかったので、荷物と一緒にコートも掴んで白い息を弾ませた。
ヴァイオリンのケースを持ったまま全力疾走するこの姿を、同じヴァイオリニストの月森に見られたら間違いなく嫌な顔をされるだろうが、このときばかりは仕方がない。
――ごめん。……ごめんね、加地くん。
何度も心うちで謝りながら頭に浮かぶのは、自分を見つけては嬉しそうに笑顔を見せる加地の顔ばかり。
こういう笑顔が簡単に浮かぶ分、彼は今でも自分を待っているような気がしてならない。
どんなに時間が過ぎても待っていてくれるような気がするのだ。
だから余計にこの足が急ぐ。少しでも早く約束の場所に辿りつきたい一心で香穂子は構内を走り抜ける。
『もしよかったらこれから帰りは一緒に帰らない?』と加地が少し緊張した面持ちで微笑み、香穂子を誘ったのはつい最近のこと。
共にコンサートの練習で帰りが遅くなることもあるし、何より寄り道をしながら少しの時間でも一緒にいられるのなら嬉しいと加地は言ったが、それは香穂子も同じこと。彼の誘いがどれほど嬉しかったか。
即答で「うん」と返事をするのがちょっと恥ずかしくて、でも嬉しい気持ちはどうしても隠せずに声が少し上ずってしまった。舞い上がっているのがとても恥ずかしくて頬が熱くなったが、加地があまりにも嬉しそうに笑うから、香穂子もそれにつられて肩を揺らしたのだった。
その約束をしてからそう何日も経たないうちにこんなことになるなんて。
遅くなるときは遠慮しないで連絡してね、と彼が言っていたのにもかかわらずこれだ。
熱心に練習をしていたといえばそれまでだが、でもどうして気づかなかったんだろう。
こんなことならいっそ携帯のアラームでもかけておけばよかった。そんな風にさえ悔やんでしまう。
途中石畳につま先が引っかかり、かくん、と膝が落ちそうになるが、なんとか体勢を立て直し、再び走り出す。
ゆるく左に曲がると徐々にファータの像が見え始める。
灯る明かりに映し出されて見えるのは、遠くにある人影が二つ、三つほどだが、遠目でもそれは加地のものでないことがわかる。
でも、たとえ彼の影ではないにしても、それでも香穂子はスピードを緩めず走り、ファータ像の手前あたりでやっとその足を止める。
何度も肩で息をつきながら辺りを見回すが、こんな時間というのもあり、やはり加地の姿はない。
それどころか自分以外にここにいる者はなく、しんとした辺りにやけに自分の呼吸音が大きく聞こえる。
――……いない。やっぱり、帰っちゃったよね。……っていうか、当然だよ。だってこんなに寒いし、それにいくら加地くんでも一緒に帰るだけで、一時間も待ってなんていないよ……。
大きく息を吐き、がっくりと肩を落とすと、かろうじて腕に引っかかっていたコートが重たげな音を立てて石畳の上に落ちる。
彼の姿があったらあったで申し訳ない気持ちになるのに、その姿がないとこんなにも落胆してしまう。
なんとも自分勝手な話で情けなくなってくる。
――明日、ううん、ちゃんと今日電話して謝ろう。きちんと謝らなきゃ。
「……ごめんね加地くん。本当に、ごめん」
小さく呟き、膝を折ってコートを拾うと、小さく砂を踏むような音が聞こえる。
辺りには人気がないし、どうせ自分のものだろう。そう思い、妙に重く感じる膝に力を込めて立ち上がると、香穂子がいる場所の像向かい側、校舎側から見ると死角になっているところから、こちらを伺う姿がそこには一つだけあった。
それはまさしく加地で、香穂子は目を丸くして彼を凝視した。
「加地くん!?」
「え……。って、日野さん?」
驚く声が二つ重なる。
「嘘……。もう、帰っちゃったかと、思ったのに」
まだ収まらない息で切れ切れに呟き、信じられない思いで彼の顔を見つめていると、彼は手にある文庫本を鞄にしまいながら、僅かに照れたような笑みを小さく浮かべる。
「ちょっと遅いな、と思ったときから本を読んで待っていたんだけど、気がついたらこんなに時が経ってたんだね。ハハッ、自分でも驚き。……でも、よかった」
「え?」
「君の姿に気づかないまま本読んで見過ごしていたら、笑えない話だったから」
そんなことしたら君のファン失格でしょ? と冗談めかして肩を竦める。
「そんな……。私こそきちんと連絡もしないまま待たせちゃって、本当にごめんなさい」
申し訳ない気持ちでいっぱいになり深く頭を下げると、加地の慌てた声が耳に届く。
「ちょっ、日野さん? うわ、頭なんて下げないでよ。待ってたって言っても、ホラ、たかだか一時間だし。ねっ?」
いつものように、「なんでもないよ」といった感じでにっこりと笑う加地に、香穂子は下げていた頭を勢いよく上げ、思わず彼ににじり寄ってしまう。
「たかだかって……一時間も、だよ!? 十分すぎるよ! ――こんな寒い中たくさん、それこそたくさん待たせちゃったのに……!」
せっかく拾い上げたコートをまた落としてしまうが、それを拾いもせずに加地を真っ直ぐに見つめる。
もっと怒ってもいいのに。約束を守らなかったのは自分なんだから、怒られたってしかたがないのに。
そう強く言いたいのは責められるべき側の香穂子の方だった。
回りに人がいるならば、香穂子の姿は背の高に彼に掴みかからんばかりの勢いに見えるだろうけど、そんな香穂子に対し、加地はやんわりとした口調で、そしてなぜか嬉しそうに目を細める。
「……でも、君は来てくれたから。こんなに鼻を赤くして、それにホラ、おでこも全開にして、息せききって駆けてきてくれたじゃない」
そう言ってそっと前髪に触れる。撫でるようにして髪を梳く指が額に少し触れる。その指がとても冷たくなっていることに香穂子は気がつく。
「加地くん……」
「だから僕は嬉しいんだ。寒いのなんて忘れてしまうくらい。第一、寒いのは日野さんのほうじゃないの?」
ぽん、と香穂子の肩を軽く触れ、落ちているコートを拾い上げる。指先の冷たさを感じさせないような、まるで寒くないとでも言うような口ぶりだ。
「コートも着ないで出てきたら風邪ひいちゃうよ。……もっとも、それだけ一生懸命僕のこと探しに来てくれたって思ってもいいのかな」
自分で口にした言葉に、ちょっと図に乗りすぎかもねと冗談ぽく笑い、そのあとコートと引き換えのようにして、「貸して」と香穂子の鞄へと手を伸ばす。どうやら彼はコートを着てもらいたいようだ。
実のところ、練習室を出てからずっと走りっぱなしだったので体は十分温まっているのだけど、無言で「着なくちゃだめだよ」と示されてしまっては仕方がない。
コートへと袖を通し、それから「ありがとう」と言って加地から鞄を受け取る。
「よし、と。それじゃ、帰ろうか。星がとても綺麗だからこのままどこか散歩でもしながら、って言いたいところだけど、それはまた今度にしようね」
そう言って、ファータ像の台座元に立てかけてある鞄を手にし、加地は先に歩き出そうとするが、その背中が離れてしまう前に香穂子は手を伸ばし、彼の腕の辺りをそっと掴む。
「日野さん? どうかしたの?」
その問いかけに香穂子は無言で首を横に振る。
「……なにかあった?」
「ううん。……そうじゃないの」
――違うの。ただ、ちょっと苦しいだけなんだ。加地くんが優しく笑ってくれるから。なんでもないよ、大丈夫だよ、それより日野さんのほうが、っていつも気遣ってくれるから、その優しさが嬉しくて、暖かくて、胸にちょっと切ないんだよ。……遅刻しちゃったから、余計に。
本を読んでいて時間を忘れてしまったと彼は笑ったけれど、そうさせてしまったのはほかならぬ自分だ。
さっき少し触れた手でわかるように、彼の手が冷たくなるくらい待たせてしまった。
なのに、こうして優しく笑ってくれるから、その笑顔が胸に痛い。
「ごめんね」
「えっ?」
「手、とても冷たくなるまで待たせちゃって、ごめんなさい」
「……あ。え……っと、知らなかった? 僕、結構手先冷たいほうなんだよ? ほら、よく言うでしょ、手が冷たい人はこころが――」
軽く振り、明るく言う加地の言葉を遮るように、香穂子は後ろから彼の肩口へとそっと自分の額を押し付ける。
「日野、さ……」
――ほらまた。いつも加地くんはそうやって気を使ってくれるんだから。もう……優しいのにも程があるよ。
あまり優しくしないで。
甘やかさないで。
その優しさが胸に甘く優しく、そして、まるで自分だけが彼の特別のような錯覚を起こしてしまうから。
どうかその優しさで自分を油断させないように、つけ上がらせないようにしてほしい。
額に当たっているジャケットの冷たさに申し訳なさを感じ、もう一度だけそっと呟く。
「本当にごめん。次からは遅くなるときはちゃんと連絡するね。だから……また一緒に帰ってくれる?」
彼は優しいから、きっとこんな風に尋ねたら「勿論だよ」と笑顔で言ってくれるに違いない。けれど、それを言わせてしまうのがとても辛い。
本当は嫌になってしまっていたらどうしよう、と暗い方へと考えてしまう。嫌なのに「いいよ」と言わせてしまってるのでは、と。
思い上がりも甚だしいかもしれないが、自分が願うことにより、無理に笑顔を作らせてるのではないかと思えば思うほど、胸の奥が辛い。
そんなことを考えながらぎゅっと瞼を閉じると、深いため息のような声が聞こえる。
「……実は、ちょっとだけ心配した」
「うん……」
随分と待たせてしまったのだから、それは当然のことだろう、と香穂子は思った。
「一緒に帰ろうっていう約束、日野さんの中で本当は重荷だったりして、って」
「ええっ!? 重荷って、そんなこ――」
驚き、顔を上げようとするが、「ごめん、もうちょっとだけそのままで聞いて」とやんわり制される。
「でもね、肩で何度も息をしながら、ちょっと泣きそうな顔で立っていた君を見て思ったんだ。ああ、本当に約束を守ろうとしてくれてるんだって。僕は、それだけでも十分すぎるくらい幸せな気持ちになったんだ。他の誰でもなく、君が僕を探してくれてるっていうそれだけで、とても嬉しくなった。少しぐらい寒いのなんて、日野さんを見て一瞬で忘れたよ。……あと、今こうして僕に触れてくれているっていうだけでも、本当に幸せで、頭の中がいろいろ追いついていかないくらい」
「か、加地くん……」
言葉にされると急に恥ずかしくなる。どんどん顔が熱くなっていくのを感じ、押し付けていた額を慌てて離すと、加地は残念そうな顔を見せる。
「残念。暖かかったのになぁ……」
「ご、ごめん。あっ、えっと、そ、そうじゃなくて! ……あ〜、もう」
軽く加地を睨むのだが、ただ笑って返されるばかり。
「日野さん。もう一度だけ」
「えっ?」
「もう一度だけ僕に贅沢をさせてくれる?」
それまで香穂子が額を押し付けていた場所を指差す。
冗談ぽく、さらには無邪気に笑う加地に、香穂子は目を丸くしたが、その後すぐに肩を竦め、小さく笑う。
「えっと……。恥ずかしいから、もうだめ」
「はぁ……。日野さん、つれないよ」
「だ、だって……」
苦笑する加地の言葉があったからではないが、香穂子はふと辺りを見渡す。
もう一度同じことをやってほしいといわれても雰囲気が変わるとなかなか気分的にも難しい。……が、肩以外のぬくもりなら分けてあげることができる。そう、辺りに誰もいない今ならばそれができる。
相変わらず正門前には自分達以外に誰も居ないが、念には念を入れて確認をする。
目を凝らし、校舎からも人がやってくる気配がないことを確認した後、荷物を左手に持ち替え、もう一方の空いた右手を軽く握り締める。
――自分から手を繋ぐのって恥ずかしいけど……でも、人がいないなら、いいよね。
少しでも彼の手が暖まればいい。
自分のこの手で暖まるなら、いくらでも彼の手を包みたい。
彼にとってそれが贅沢かどうかは別としても、冷えた手に暖かさを与えることぐらいなら香穂子にもできる。
ずっと待っていてくれた彼に、せめてものお詫びの気持ちと、彼を特別と思う気持ちが届きますように。
――ホントに凄く恥ずかしいんだけどね。
その羞恥心を振り切るために小さく息を吸い込み、思い切って口を開く。
「あの、加地くん。……左手をちょっとだけ貸してもらってもいい?」
「左? うん、いいよ」
はい、と差し出された手のひらに、香穂子は握り締めたままの自分の手を乗せ、それからゆっくりと開く。
「ひ、日野さん? ――えっ、どうし……」
少し冷たくなっている大きな手のひらを包み込むようにして握ったあとは、握手をしているようなこの手の向きを変えるだけ。
「ご、ごめんね。その……誰も見てないから、いいかな……なんて思ったんだけど」
手を繋いでもいい? と聞くのが一番早いのだけど、ストレートに尋ねるのにはちょっと恥ずかしい。だからいっそのこと直接行動に移してみたのだが、それでもやっぱり恥ずかしい。
「迷惑、かな」
「とんでもない! そんなのあるわけないって!」
どんどん頬に耳に、額にまでも熱が集まっていく。
熱い頬のままちらりと加地を見ると、彼は何も言わずにただ目を丸くしているだけだったが、ふいに顔を逸らしたあと足元へと向けた。そして、目元にかかる髪を払うようにして顔を上げ、星空を仰いでは笑みを浮かべる。
「……やっばい。マジで嬉しくて顔が笑う」
どうにかなりそう、と小さな声で一気に言うその言葉の通り、嬉しそうに目を細めて上を向く横顔を見ていたら、香穂子もつられて笑顔になる。
こんなとき、可愛い台詞の一つでも浮かぶのならよかったのだけど、恥ずかしくて、でも嬉しくて、実のところ加地以上に気持ちが舞い上がっている今ではこれが精一杯の言葉。
「加地くん、ホントに手が冷くなっちゃったね。私と比べてみるとよくわかるよ」
――ああ、そうじゃないよね、ここは。なんでもっと違う言葉が言えないのかな……!
色気も可愛げもないこの言葉にしゅんと項垂れたくなるが、スキルがないから仕方がない。恋も音楽も発展途上というところだ。
「冷たくて構わないよ! こうして日野さんと手を繋げる理由が一つできるなら、もう全然!」
そう言って、繋いでいる手を気持ち高く持ち上げては笑顔で香穂子の顔を覗き込む。
「それとも、君は嫌?」
目をやんわりと細め、首を傾げてこちらを見る。その答えを彼自身でもよくわかっているはずなのに敢えて尋ねるのだから言うしかないだろう。
「……さあ、どうでしょう?」
――ごめん。ちょっと、意地悪かな?
そう思いながらもふふっ、と香穂子が笑って空を見上げると、「やっぱりつれないなぁ……」と加地が大げさに肩でも竦めそうな口ぶりで言うが、相変わらずその横顔は嬉しそう。
「……嘘。ちっとも嫌じゃないよ?」
「ホントに?」
「うん、ホント」
「そっか、良かった!」
幸せそうな彼の笑顔に、そっと思うのだった。
――ごめんね、加地くん。次からは、寒い思いをさせないようにするね。なるべく待たせないように気をつけるから。
白い吐息を見送りながら瞬く星と嬉しそうなその横顔とに約束をする。
けれど、こうも思うのだった。もしまたその手が冷たくなったときは、いくらでもこの手で暖めてあげたい、と。彼が好きだと言ってくれる音を奏でるこの手で。
二人手を繋げば、きっと今みたいに少しずつ暖かくなるはずだから。
そんなことぐらいしかできないけれど、それでも彼が喜ぶのであればいくらでもそうしたい。
――そう思うようになったのは、いつからだろう。
気がついたら、いつのまにか気になっていた。
隣にいる彼を、気がつけば――好きになっていた。ずっとこの手を繋いでいたいと思うくらいに、好きになっていた。
End.
2007/06/29UP(訂正:2007/11/12)