金色のコルダ2

親愛なる人へ【加地×香穂子】



「おーい、香穂ちゃーん!」
 正門前にたむろする人々が振り返るくらいの明るく大きな声で呼ぶのは、香穂子を唯一「香穂ちゃん」と呼ぶ男性。一年上級の火原和樹だ。
 ぴんと響くほどの音量は毎度のことなので香穂子は慣れてしまっているが、隣を歩く加地は転校してきてそれほど日も経っていないせいか、やはりまだ慣れていないらしく、目を丸くしては、遠くからこちらへと駆けてくる火原を見つめる。
「うわー……。火原さん、すごい声量だね。トランペットやっている分やっぱり違うのかな……」
「ふふっ、そうだね。遠くからでもこれなら火原先輩ってすぐにわかっちゃうよね」
 きょとんとする加地が可笑しくて、香穂子は小さく笑って彼を見上げ、それから火原にも「はーい!」とこれまた元気な声で返事をする。
「ねえ二人ともーっ、柚木見なかったーっ!?」
 まだ少し離れたところから尋ねられ、香穂子と加地は顔を見合わせる。
 少し考えるような互いの表情は、「見た?」「ううん、見てない」というやり取りが無言でなされ、火原の声量と比べれば劣るものの、香穂子も大きな声で「見てませんよーっ」と返す。
 それを聞いた火原は、キュッと派手なブレーキ音でも聞こえそうな感じで立ち止まり、それから「ありがとーっ! もし柚木を見かけたら、おれの携帯に連絡ちょうだい」と、ぶんぶん大きく手を振って、来た道をまた慌しく戻っていく。
「あらら……。また走っていっちゃった。ホント、いつも元気だなぁ」
 飛んだり走ったりという元気なイメージの火原。その彼の背中を目を細めて見ていると、隣に並ぶ加地が妙にぼんやりとした声で呟く。
「……火原さんって、日野さんのこと『香穂ちゃん』って呼ぶんだね」
「え?」
「あ……いや、そういえば、って気が付いただけなんだけどね」
 軽く肩を竦めて言う加地に、香穂子はにっこりと笑みを向ける。
「じゃあ、加地くんも呼んでみる?」
「えっ?」
「アンサンブルのメンバーだし、それにクラスでも席はお隣さんだから」
 縁があるもんねホント、と笑う香穂子の言葉を、彼はわからないとでも言うような表情を見せる。
「あ……、えっとね。火原先輩も最初は『日野ちゃん』って呼んでたんだよ。でも、コンクールの時によく練習に付き合ってもらってたら、あっという間に仲良くなってね」
「うん」
「あるとき、『親愛の情をこめて、いっそのこと香穂ちゃんって呼んでもいい?』って聞かれたの。勿論、私も名前で呼ばれることは全然嫌じゃなかったから、いいですよ、って返事をしたんだけど、それが今に至っているっていう感じかな」
 コンクールを通して知り合うことができた同学年の土浦や月森はもとより、一つ上の火原や柚木、下の学年の志水や冬海は今でも大事な友人だ。
 音楽と共にそばにあり、そして互いに高めあっていける大切な仲間。
 魔法のバイオリンが壊れてしまってもコンクールを乗り越えていけたのは、自分自身に負けたくないというのもあったが、同じ壁を乗り越えていくライバルが彼等だったからだ。
 暖かく見守り、でも時には厳しくも真っ直ぐで飾らない感想をくれる人たちがいたからこそ、負けたくない、頑張りたいと思った。
 そんな大事な仲間に親しく名を呼ばれるのは嬉しいことだと香穂子は思う。
 香穂子が皆を仲間と思っているように、相手にも自分を仲間として受け入れてもらったようで、心が温かくなる。
 そんな大切な仲間の中に新しく加わったのが、隣にいる加地だ。
「最初は音楽科の人たちとはまったく縁がなかったんだけど、コンクールがきっかけで知り合うようになって、一緒に練習したり、大きな一山を乗り越えて仲良くなってきたじゃない? だから、加地くんともこれからどんどんそういう風になっていけばいいなって思って」
「ああ、それで僕も火原さんみたいに親愛の情を込めて、『香穂ちゃん』って?」
「そうそう」
 コンクールの時から加地は香穂子のことを知っていたというが、香穂子は加地の存在すら知らなかった。
 勿論、学校が違っていたので仕方がないことだが、この秋に彼が転校してきたことにより、その存在を知ることとなり、さらには言葉を交わすだけでなく、コンサートを成功させるためのアンサンブルの仲間となった。
 そして今、練習後はこうして一緒に肩を並べては、星が一つ二つと瞬き始めた帰り道を共に歩いている。
 ひとつひとつばらばらだったパズルも、組み合わせていけば一つの絵になるように、加地との関係もコンクール参加者と同じように一つの絵になっていけばいいと香穂子は思う。
 その絵がどんなものになるかはまだわからないが、春のときと同じように、きっと音楽がこの関係を繋いでくれるだろうと信じている。
 妖精のリリが願っているように、音楽を愛する者の音色は、人に幸せを運んでくれるはず。
 時を同じく過ごし、たゆまぬ努力を続けている『仲間』同士なら尚のことだと信じている。
「親愛の情、か」
 薄く白い息を吐き出し、ため息のような声で加地は呟く。その声からは彼の感情を読み取ることができない。
 賛同か、それとも別の意見を持ち合わせているのか。
 頭一つ高い位置にある横顔を見上げ、香穂子は考えながら言葉を紡ぐ。
「例えば……。うーん、そうだなぁ……。――加地くんって、名前は葵くんっていうんだよね?」
「うん。そうだよ」
「じゃあ、いつか私も『葵くん』って呼ぶかもしれないよね。その方が呼びやすいっていう日だって来るかもしれないでしょ?」
「……えっ!?」
 面食らった様子で足を止め、まじまじと顔を見つめる彼の視線に、香穂子も心うちで驚き、そして少しだけ心配をした。
 ――や、やっぱり名前呼びって嫌なのかな。加地くん、凄く驚いているみたいだし。それにちょっと馴れ馴れしい、って思われちゃったかな……。
「……な、なんてね! えっと……その、例え話でも馴れ馴れしく名前で呼んじゃって、ごめんね」
 肩を竦めて謝ると、加地はそれまで目を丸くしていたのが嘘のように「全然! ホント全然! 日野さんなら大歓迎だよ」と嬉しさをその端正な顔に浮かべて一気にまくし立てる。
 これには今度は香穂子のほうが面食らう。
「あ、ありがと……。でも、あれだよね。名前を呼ぶのって、やっぱりちょっと恥ずかしいよね」
 足元では寒風に煽られて、落ち葉がかさかさと音を立てて舞い上がる。
 そんな中、香穂子はちょっと冷たくなった鼻の頭を指先で軽く掻いて、照れ笑いを浮かべる。
 加地もそんな香穂子を見て、少しだけ笑う。
「……うん。そう、だね。……僕もさすがに日野さんの名前を呼ぶのはちょっと恥ずかしいし。――あ、嫌っていう意味じゃないからね?」
 慌てて言う加地に、香穂子は了解です、と笑って答える。
「でも加地くんでも恥ずかしいって思うことがあるんだね?」
 冗談めかして言うと、心外だな、と彼は軽く肩を竦めて苦笑する。
「僕だって恥ずかしいって思うことぐらいあるよ。これでも一応ね。っていうか……あれ、日野さんにはそういうの伝わってない?」
 その問いかけに香穂子は小さく笑って「さあ?」と首を傾げて見せる。
「私、加地くんからの受信アンテナ曲がっちゃってるのかも。なにしろ加地くんってば、私のことを出会ってからずっと褒め続けてくれるんだもの」
 くちびるをきゅっと結び、悪戯っぽく加地を見上げると、ぱちぱちと目を瞬かせている加地と視線が合う。
「え……。日野さんのアンテナ曲げちゃうほど、僕、凄いこと言ってる?」
「自覚ない?」
「残念。まったくと言っていいほど無いよ」
「本当に?」
「本当、本当。僕、これでもマジだけど?」
 きょとんとした顔で言う加地の顔を香穂子はさらにじっと見つめ、彼もその視線をしっかりと受け止めては香穂子を見つめている。真顔で見つめ合うこと暫し。
 けれどそれは本当に短い間だけで、そのうち耐え切れないといったように、どちらともなくふっと息を漏らす。その息は次第に笑いへと変わり、互いの肩を揺らすまでになる。
「なんか、妙に可笑しいね」
「だね。思わずまじまじと見つめ合っちゃったし」
 そう言って互いに笑いあった後、香穂子はふう、と大きく息を吐いて言葉を紡ぐ。
「でも、アンテナ曲がっちゃってるのは本当かな。だって加地くん、未だに私の演奏を他の誰よりもたくさん褒めてくれるもの。それこそ恥ずかしくなっちゃうくらい。褒められることに慣れていない身としては、多く称賛の言葉をかけてもらうと恥ずかしくてすぐにアンテナ曲がっちゃうの」
 熱に弱いんだよ、と笑いながら言って、バイオリンケースを揺らす。照れ交じりに見上げた空は藍色で、幾つか星が瞬いている。
「本心だから仕方ないよ。止めようと思っても止められるものじゃないし、それに他の言葉を見つけようとするほうが難しい。日野さん、残念だけど諦めたほうがいいよ。だって君の奏でる音色は僕が知っている言葉では足りないくらい素敵なんだから。そばで演奏するのを躊躇ってしまうくらいにね」
 軽くウィンクでも飛ばしそうな勢いの加地に、香穂子は一瞬言葉を失う。
「うっ……。だっ、だからね、そういうことをすんなりと言っちゃうのが、私はちょっと恥ずかしいんだよ」
 じと目で背の高い彼を見上げると、加地は柔らかく微笑み返し、「ゴメン、ゴメン」と言う。
 ――加地くん、ゴメン、って言っても本気で思ってないよね。まったく、仕方ないなあ……。
 口ではごめんと言うものの、心から言っていないことは明らか。その様子からして、彼は今後も賞賛や絶賛、拍手喝采といった類のものを香穂子に送り続けることは間違いないだろう。
「でも、日野さん」
「うん?」
「いつか僕が君のことを名前で呼べるようになった時は……。照れずに呼べるようになるくらい親しくなったその時は――どうぞよろしく」
 そう言う彼は、伏目がちにして静かに笑う。
 端正な横顔に一瞬見とれつつも、彼の言葉にも胸が妙に騒ぎだすのを感じる。
 なぜなら、静かに、そして少し幸せそうに笑うその横顔は、友情や仲間といった関係を超えての意味合いのように思えてしまい、どうにも恥ずかしい。
 ――ヘンな意味じゃないってことぐらいわかってるけど……。わかってるけど、でも、なんか顔が熱くなる。
 指先でそっと頬に触れてみると、やはりとても熱い。
 今が冬でよかったと思わずにはいられない。これが夏の明るい夕暮れ時であったなら、頬に赤みが差していることぐらい簡単にわかってしまっていたはずだ。
 ――寒いのはちょっと苦手だけど、今が冬でよかった。暗くてきっと赤くなってるのなんてわからないよね。もしばれちゃっても、寒いからだってごまかせるし。……でも、元はといえば加地くんがドキッとするようなこと言うからだよ。まったくもう。
「……日野さん?」
 返事がない香穂子へと顔を向け、彼はそっと呟く。
「やっぱりだめ?」
 心配そうに顔を覗き込む彼に、香穂子はううん、と首を振って答える。
「じゃあ、その時は私も遠慮なく『葵くん』って呼ばせてもらうね。――勿論、親愛の情を込めて」
 その言葉のあと、彼はどういうわけか固まったまま暫く言葉を返してくれなかったのだが、ややあってため息のような声が耳に届く。
「……日野さんって、実は結構意地悪? 何気にさらっと凄いことを言ってくれるよ」
「え?」
「ううん、なんでもない。僕が勝手に困っているだけ」
 照れているとも困っているともつかない笑顔。それは香穂子が初めて見る笑顔だった。



End.
2007/05/23UP(訂正:2007/11/12)
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