見送りはいい、と言っていた月森くんだけど、そんなの、みんなが聞き分けるわけないでしょ。
私だって無理なんだから。しばらく会えないんだから、そんな無理言わないで。
ねえ、時が経つのって早いね。
コンクールで初めて出合って、夏がすぎて、秋がきて、コンサートもすぎてしまったんだもの。
もう、桜の季節になるよ。
私たち、3年生になるんだよ。
時間なんてあっという間。
ついこの前、この学院に入学したばかりのような気がするもの。
それに、月森くんが日本を旅立つ日がもう来ちゃったよ。
私、泣かないって決めたから、みんなと一緒にここに来たんだ。
たくさんの人が溢れる空港。国内線とはまた違うんだね。
ここに来るのは初めてだから、思わずきょろきょろしちゃったけど、そんな私に月森くんは笑うんだ。
「余所見をしているとぶつかる」と。
そして、先ゆくみんなの後ろでこっそり手を繋いだよね。
いつもは人目があるからあまり手をつながなかったのに、今日は珍しいね。
そう私が笑ったら、「嫌なのか?」って少し心配そうな顔をした。
やだな。違うよ。そんなんじゃないよ。
嬉しいに決ってるよ。
でもね、今こうして手を繋いでしまうと、手を離したときの切なさが胸に強く残るような気がして、なんか……ちょっと怖いんだ。
「向こうって、寒いの?」
「まだ寒いと聞いた。春というなら、日本より遅いな」
「そっか」
「ああ」
そんなそっけない会話を何度か繰り返し、私たちはこの空港での最後の別れのために立ち止まる。
「月森くん、向こう行っても元気でね! あっ、なんか面白いことがあったら必ず報告してよね! ネタは天羽菜美までよろしく!」
天羽ちゃんの元気な声。
順番ずつに短く挨拶をして、最後に金澤先生が困ったように頭を掻きながら呟く。
「まあ、あれだ、お前さんのことだから心配はないと思うが、身体には気をつけるんだぞ。あー、あと、音楽に邁進するように。ま、これも俺が言うまでもないか」
金澤先生の言葉に、みんながおおっ! と沸き立った。
「わー! 金やん、なんか先生らしくない!?」
「うるせー。お前ら俺を何だと思ってんだよ」
「グウタラ教師!」
「ぐうたらはいらねえっての!」
即答した火原先輩の頭を腕で抱えてロックする先生に、みんなは大きく笑う。
そんな明るい光景に彼は笑顔をほころばせ、それからご両親の方へと向き直る。
「向こうに着いたら連絡します」
「ええ。何時でも構わないから、連絡をちょうだい。蓮、気をつけて行って来てね」
「お前自身の音を、楽しんできなさい」
穏やかに笑うお父さんの言葉に、月森くんは目を細めて返事をする。
「……はい」
そして、私へと視線が向けられる。
ありったけの笑顔で言うよ、私。決めたんだから。笑顔で、って。泣かないって。
「……またね! 行ってらっしゃい」
でも……なんてなんてありきたりな言葉なの。
もっと言いたいことあったのに。
電話してね。
メールを送るね。
時間があったら、返事をしてね。
月森くんに限ってはないかもしれないけど、でもほら、一応。――可愛い女の子に目移りしちゃだめだよ。
…そういおうと思ってたのに。
なんで言葉が出てこないんだろう。
私、いつもみたいにちゃんと笑ってるのに。
なんか……なんか胸の奥が痛い。
苦しくて、苦しくて、上手に言葉が出てこない。
「香穂子、少しの間離れてしまうけど……君も身体に気をつけて」
「うん。月森くんもね」
「ああ。あと、練習を怠らないように」
「はいはい、月森先生! 了解です。私なりにできることを精一杯するから、安心して」
――精一杯頑張って、あなたに届くように、私は頑張るよ。
その言葉を押し隠し、冗談めかして敬礼をすると、月森くんは困ったように笑った。
それから、何か言いたそうに口を開いたけれど、なかなか言葉を発してくれず、私はちょっとだけ首を傾げた。
「月森くん?」
「……ああ、すまない」
「うん、なに? なにか心配事?」
練習だったら頑張るよ、と肩を竦めると、そうじゃない、と彼は私を見る。
「――声が」
「え?」
「いや、もっと、何か話してくれないか」
話がよく飲み込めずに目を丸くしてると、少し照れたように彼は呟く。
「君の声を聞きたいんだ。――向こうに言ってしまったら、この明るい声が届かないから」
――やだ。
なにいいだすの。
本当に会えなくなっちゃうみたいじゃない。
――我慢してるのに、泣けてきちゃうでしょ。
意地悪。
やっぱり君は優しくないよ。
ひとりで羽ばたいてしまう君は、ずるい人。
ばか。
大ばかよ。
「ばかっ!」
「……え?」
「ばかって言ったの! もうっ、そんなこというなら嫌っていうくらい、毎日電話してやるんだから! 朝だって、夜だって寝てるときだって関係なく、声が聞きたい、話がしたいって思ったら、迷惑かえりみずに電話してやるんだからね!」
一気にまくし立てて言う私に、「嬉しいが……それはちょっとだけ困るな」と月森くんは笑顔を浮かべている。
「でもね」
「ん?」
「でも……いつだって、繋がってるんだから。だから、大丈夫だよ」
声が届かない日も、大丈夫。
ねえ、大丈夫だよ。
だって言ったよね。
私たちは音楽で繋がっているって。
私がヴァイオリンを奏でるたびに、距離も時間も越えて君のところに届くはず。
風に乗り、太陽の空の下でも、月夜の晩でも、遠くに住む君のところまできっとこの音色は届くよ。
君の音も、私に届く。
だから、大丈夫。
「そうだな。君の言うとおりだ」
言って、私の手を取る。
暖かな手は、すっぽりと私の手を包む。
そのときだ。
搭乗時刻が迫っているアナウンスが聞こえてきた。柔らかいアナウンス。あいかわらずざわついている空港内。
「……時間、だね」
「ああ」
短く言葉を交わす私たちに、金澤先生が申し訳なさそうに声をかける。おとりこみ中すまんが、そろそろ時間だぞ、と。その言葉に、彼はまた皆のほうへと視線を向け、幾つか言葉を交わす。
多分「行ってらっしゃい」「元気でね」「がんばれよ」といったものだと思う。
私の耳には、周りの雑音に混じって自分の鼓動が妙にうるさく聞こえていたから、その内容がよくはわからない。
一通り挨拶を交わした後、小さな荷物を一つ手にして彼は行く道を遠く見つめる。
この一瞬の間。
無言の空気。なんだろう、これ。すごく、切ない。
「それじゃ、また。……行ってきます」
困ったように笑い、それから、凛とした目でそういった。
そして、ぐるっと皆の顔を見渡したあと、視線が絡む。
胸が妙に苦しいくせに、わたしはちょっとした癖のように口角をにっと上げて彼に答える。
すると彼は、少し長く瞼を閉じ、それから小さくくちびるに笑みを浮かべ、靴音を慣らす。
不思議。
この背中がもっと遠くなったら、しばらくは顔も見れないなんて。
嘘みたいだよね。
今度は棟が違うとか、家が離れてるとかじゃないの。
地球がぐるっと回る距離なんだって。
びっくりだよね。
朝が来る時間が違うんだって。
なんかさ。
なんか――そんなの実感湧かないよ。
実感湧かないくせに、なんか苦しいよ。
変な話だよね。
ここでお別れしたら、今度は幾つ季節を越えたら会えるのかわからないの。
そんなのって、あり?
そんなことをボンヤリ思いながら、すらっとした後ろ姿を見送っていると、彼の足取りがふと止まるのがわかった。
「あれ? 月森?」
「なんだ、忘れ物か? あの月森が!?」
みんなが笑いながら「なにやってんだよ」と戻ってくる彼に声をかける。
そんな彼らの前を通り過ぎ、私の前で月森くんは立ち止まる。
「月――」
「しっ!」
彼に声をかけようとした火原先輩の口を手で押さえたのは、多分天羽ちゃん。そのやり取りが月森くんの後ろ、視界の端で、かろうじて見えた。
「月森、くん? どうしたの?」
驚く私に、彼はさっきと変わらない凛とした目で言う。
「すまない。――忘れ物をした」
「えっ?」
短い声を上げる私の肩を掴み、彼はその頬のラインを傾ける。
おおっ!と背後で皆の湧き上がる声が聞こえたと思ったら、その瞬間くちびるに軽く温かいものが触れる。
それはとても軽いキスで、まるで挨拶をしているみたいなキス。
まだそんなにたくさん交わしていない口付けは、まるでテレビの中のドラマのよう。
「――香穂子」
彼は囁くように私の名を呼び、小さく笑った。
「行ってきます」
そして、今度はもう立ち止まらなかった。
それはドラマじゃなくて、リアルに起きている事実。
『キスミー・グッドバイ』――ちょっとした挨拶の言葉を思い出す。
このキスは、二度と会えないさよならのキスじゃなくて、「行ってきます!」と朝元気に出かける挨拶のようだ。
行ってきます。
行ってらっしゃい。
それはただいまとお帰りを言うための最初のキス。
旅立つあなたがくれたものは、小さな挨拶。
いってらっしゃい。
私たちは互いを失うことなくわかれる。
そう、長い長い人生のなかのほんのひととき。
長いロマンスの中で、ほんの少しの間のセンチメンタルを味わうだけよ。
またね。
ここで待ってる。
私らしく、君を待ってるね。
「蓮く……」
だからお願い。
「私」、泣かないで。
彼の背中を最後までちゃんと見送るんだから。
だから、泣かないでね。
新しいそのドアを開けるまで。
次に会えたときは、今度は私からキスをするんだから、泣かないで。
キスをして、ぎゅっと抱きついて、そして言うんだ。
「おかえりなさい」って。
だから、笑顔でね。
「行ってらっしゃい」
この恋は、続いていくの。
海を越えても。
ちょっと切ないけど、でも続いていく二つの想い。
ヴァイオリン・ロマンス――そう、この名の下に。
End.
2007/07/08UP