金色のコルダ2

リトル・スター【火原×香穂子】



「あー、たっくさん歌った〜! 声変わりしたらどうしようかな」
 うーん、と伸びをしながら火原が言うと、すかさず友人が裏拳付きで突っ込みを入れてくる。
「もう十分声変わりしてるっつーの」
「それもそっか!」
 アハハ、と笑いながら軽くステップを踏む。
 放課後に音楽科、普通科を問わず気心知れた友人とでカラオケに繰り出したのだが、久しぶりにマイクを握ったこともあり、大いにはしゃいだ。
 一人でマイクを握りっぱなしというわけではなかったのだが、男五人も揃い、何時間もわあわあ声を上げていればどうしたって喉は疲れる。はしゃいで疲れるのは何も女子だけの特権ではない。
 ふう、と息を吐いて空を見上げれば、小さな星々が瞬いている。
 時間は七時。あたりはもう暗くなっていて、イルミネーションがちかちかと眩しく賑やかだ。
 ――うわ、もう暗くなってる。日が暮れるのって早いよな。
 時が経つことの早さに、すこしだけ物悲しさを感じるようになったのはここ最近のこと。楽しい一日であるなら、その楽しい気持ちを抱いたまま一日が終わるはずなのに、どうしてそういう風に思うようになったのだろう。それがなぜなのかわからないが、友人に「よかったらメシ食いにいこうぜ」と肩を叩かれたことにより、センチメンタルな気持ちはすっと薄れていく。
 ――まだ今日は終わってないもんな。自分で楽しまなくちゃ損ってね。
 そう自分に言い聞かせて仲間に尋ねる。
「なに食べる? おれ、結構ハラへったんだよね」
「うーん、ファーストフードは? あんま金ないしさ」
 長柄が頭を掻きながら言うと、興川が思いだしたように呟く。
「なら牛丼は? 少し先の店、オープンしたばっかだから今安いみたいだぜ」
「お、悪くないな」
「オレ大盛り!」
 生卵をつけるか、お新香をつけるかなどで盛り上がり、買い物帰りの主婦や、仕事帰りのサラリーマンの流れに沿って火原たちも歩いていく。
 ファーストフードならあと三十メートル、牛丼屋ならあと二十メートル歩いて道向かい側というところにさしかかったときだ。
 明るい音楽が鳴り響くゲームセンターの前で、靴ひもがほどけそうになるのに気づく。
「あ、ごめん、ちょっと待った。靴ひも結ばせて」
 火原がそう言うと、友人たちが足を止める。
 通行人の邪魔にならないようにして道の端に移動をしてしゃがみ込む。
 ――おれ、結ぶのへたくそなのかな。よくほどけるんだよな。
 きちんと結んでいるつもりなのだが、足下がおろそかなせいか、それとも雑なのかはわからないが気が付いたら結び目が緩んでいたりする。
 荷物が肩からずれた荷物が舗装された道上にゆっくりと落ちる。
 靴ひもを結う手にぎゅっと力を込める。落ちた荷物を手にして立ち上がろうとしたとき、ふと賑やかなゲームセンター中にあるUFOキャッチャーが目に映る。
「あれ……」
 ぎっしりと小さなボックスが詰まれているピンクの台は、日曜日に香穂子と一緒に出かけた際に遊んだ台だった。本来の目的はゲームセンターではなく、近くにある雑貨屋だったのだが、失敗して撮ったシールプリントの話で盛り上がり、結果リベンジしてみようか、ということになったのだった。
 先客がいたので、少しの間店内を見て回ったのだが、あれも楽しそう、これも楽しそうといろいろと巡り歩いているうちに、香穂子が「あっ、新しいのが入ったんだ。うわ〜、かわいい」と声を弾ませたのがUFOキャッチャーだった。
 厚めのプラスチック板に覆われた中にあるのは、人気のキャラクターが付いているオルゴール。愛くるしいクマのマスコットは香穂子の気を引くのには十分すぎる要素だったらしく、「チャレンジしてみます!」と生き生きと――且つ真剣な表情を見せていた。
 いつも明るくて元気な女の子と思っているが、小さなオルゴール一つで真剣になる姿は、思わず笑みを浮かべてしまうほど火原にはかわいく映った。
「取ってあげようか?」
「ううん、自分でやってみたいです」
 なんかやれる気がして、と意気込む香穂子を励まし、サイドからのチェックを買って出たのだが、香穂子の真剣な気持ちを裏切るが如く、オルゴールが入った小さな箱はなかなかアームに引っかかってくれない。二度三度と繰り返しても僅かに箱が浮くぐらい。
「うっわ惜しい! あーもう、このアームの先に接着剤でもつけたいくらい! そんなのダメだけど、わかってるけど、でもなぁ……」
 額を枠に押しつけんばかりにして火原が声を上げると、ふう、とため息をついた香穂子が、「悔しいけど、あきらめます」と残念そうに小さな笑顔を見せたのだった。
「香穂ちゃん……」
 そんな表情を見せられては、火原が頑張らない訳にはいかない。
 火原の中ではすでに、自分が見事に景品を取る、それを彼女にプレゼント、きらきらと輝く彼女の笑顔が待っている、という図式がしっかりと成り立っている。
「よっし! じゃあ香穂ちゃんの代わりにおれが取ってあげる。見てて、絶対君にプレゼントするから」
「せ、先輩?」
「まかせてよ。おれ、ゲームは得意なんだ!」
 とは言っても得意なのはシューティングや格闘系なのだが、この際それはさておきだ。どの位置を狙えば景品が一番動きやすいかというのを香穂子のそばで真剣に見ていたから、これは案外いけるかもしれない。
 ――取れる! 絶対に取れるはずだって。
 腕まくりでもしたい気分でコインを投入し、レバーを握るという作業を繰り返すこと十数回。
 途中、店員が取りやすいようにと景品の位置をかえてくれたが、それでも手に入れることはできなかった。
「火原先輩、あ、あのっ、もういいですよ!?」
「でもあと少し――」
「えっ、あの、ほ、本当に大丈夫ですから!」
 両替機に向かおうとする火原の腕を、香穂子の両手がしっかりと掴む。
「またいつか、です。そうしましょう、先輩」
 にっこりと笑う彼女を見て、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「ご、ごめんね……香穂ちゃん」
 しゅんとする火原に、香穂子は胸の辺りで手を振って恐縮する。
「そんな、わたしこそ! ここまでしてもらってすみません。たくさんお金使っちゃいましたよね……」
「そんなの別にいいよ。でもなぁ、あのクマ……」
 あと少しだったんだけどな、となおも惜しげにクマのキャラクターを見つめる火原に、香穂子は目を細めて言ったのだった。
「気持ちだけで十分です。小さいことでも叶えてくれようとした先輩の気持ちが嬉しかった」
「香穂ちゃん……」
「だから、もう行きましょう。どこかでお茶でも飲んで、いろんな話がしたいです。ね?」
 残念な気持ちはあるが、にこやかな顔を向けられてしまっては仕方がない。火原も気を取り直し、明るく返した。
「……うん。そう、だね。……そっ、そうしよっか!」
「ハイ! 先輩は何がいいですか? ケーキ、ファーストフード、パフェの中から選んでください」
 順番に三本指を立てて香穂子が笑顔で尋ねてくる。
「三択?」
「そう、三択」
「じゃあ、パフェ。……あっ、でも香穂ちゃんが食べたいものでいいよ」
 慌てる火原に、彼女は目を細め、軽く首を傾げる。
「いーえ。選択権は火原先輩にありますから」
「おれ? え、なんで?」
「パフェは私のおごりです。頑張って景品取ろうとしてくれたお礼ですよ」
「そんな、だってそれはおれが勝手に……」
 頼まれてもいないのに勝手に役を買って出て、そしてなにより肝心の景品を手にしていないのだ。
「ゆずりません。ダメです。たくさんお金を使わせちゃったもの。それに私もパフェが食べたいな〜って思ったから。ほら、噂のジャンボパフェ」
 少し前に香穂子とコンサートを見に行った帰り、近くにある喫茶店に寄ったことを思い出す。そこではジャンボパフェが売りらしく、あちこちのテーブルでよく見かけたのだが、それをオーダーしているのは大半がカップルばかりだった。
 興味はあるが、それほどお腹も空いていないという彼女は無難にミルクティーを頼んでいたが、いつかチャレンジしたいと言っていたし、香穂子とは別の意味で火原も二人で食べるというシチュエーションがとても気になっていた。
「香穂ちゃん、あれって本当に大きいけど……」
 言葉を濁す火原に、香穂子はにっこりと笑う。
「もちろん、二人で食べましょう。だって、あれを一人でなんて絶対に無理だもん。それとも先輩一人でいけますか?」
「えっ、おれだって無理だよ。三分の二ぐらいまではいけるけど、でもさすがにね」
 甘い物は好きだが、ジャンボパフェを一人で完食できる自信はない。苦笑混じりに言うと、香穂子は「じゃあ、やっぱり半分手伝ってくださいね」と満足げな笑みを浮かべる。
「あ、でも手伝ってくださいじゃまずいのかな」
「なんで?」
「だっておごりじゃなくなっちゃう」
 うーん、と難しい表情をする香穂子が可笑しくて、火原は声にして笑った。
「難しく考えなくていいって。一緒に食べるんだからさ」
 この言葉に香穂子はぱちぱちと目をしばたかせ、それからちょっとだけ照れたように首を傾げた。
「そうですね。一緒、なんですよね」
 えへへ、と笑う彼女の隣で、火原も同じように笑った。
 恥ずかしくて、でも凄く嬉しくて。妙に顔も耳も手も熱くなる。
 あと少しで手が触れそうなこの距離が、もどかしいくてくすぐったいけれど、でも彼女と一緒の時間はとても楽しい。たくさん嬉しい気持ちをくれる。時折不意にやってくる切なさには胸を締め付けられそうになるが、それも彼女を思うからこそだ。


「なんだよ、どうした? ってか、キャッチャー?」
 ふらふらとゲームセンターの中へと入っていく火原の後を、皆驚きつつもついてくる。
「うん、ちょっと欲しいのがあって。なあ、これってどうやれば取れる?」
 真剣に景品を見つめる火原に、友人たちはそれぞれに顔を見合わせる。
「は? こんなの興味あんの? オルゴールっておまえ、そういう趣味だったのか?」
 さすがにその視線に気がついたのか、火原は照れたように頭を掻く。
「ばーか。おれのじゃないよ。でも、ま、まあ……その、なんていうかな……」
 歯切れの悪い言葉に面々は再度顔を見合わせる。そして、全員がニヤリと笑みを浮かべる。
「……女だ」
 そんな彼らを見て、火原はしまった、と後悔するがそれはちょっと遅かった。
「ち、ちがっ……。ち、違うからな!」
「もろバレだって。ほら、なんていったっけ? 普通科の彼女! コンクールの時の子だって。火原、つい最近も一緒にコンサートやったよな?」
「だから、違うって言ってるだろ!」
 慌てる火原を尻目に、彼らは少し間をおいたあと、それぞれに顔を見合わせては笑みを浮かべる。「せーの」という小さな合図のあとに聞こえるのは男の声の四重奏。
「日野ちゃん!」
 びしっと指まで突きつけられ、火原は面食らう。
 ここまでお見通しだとヘタな隠し事はしないほうがいいのかもしれない。
 アイコンタクトといい、ぴったりと声が合うところといい、随分と気が合うメンバーだ。
「……からかうなよぉ」
 頭を掻いて呟く火原の背を、皆次々に叩いていく。
「まあまあ、照れるなって! かわいい日野ちゃんのために協力するよ。それに、火原のおめでた〜い春だもんな」
「な、なんだよそれ!」
「アハハ、まあまあ。……えっと、だな。多分向きもう少し手前に変えてもらうといいかもしれないぜ。店員呼べばやってくれるだろ。あとは、箱の上の蓋のあたり狙うといいかもしれないな。縁のとこ、ちょっとだけ蓋が浮いてるだろ? あそこにアームの先が少しでもひっかかればなんとかなる」
 割と真剣な面持ちで景品を見つめ、アームや角度なども見ている。彼らなりに火原を応援する気持ちはあるのだろう。
「向きと蓋、か。よし、やってみるぞ。あ、すみませーん!」
 手を上げて店員を呼び、景品の向きやら位置を変えてもらう。両替もしたし、準備万端だ。
 日曜日のリベンジとばかりに火原は腕まくりをするが、ふと気がついたことがある。
「……あれっ? そういえば、みんなメシは? 牛丼食べるんだろ?」
 友人の顔をぐるっと見ると、「いいからいいから」と笑って返されてしまう。
「でも、悪いよ。おれのことは大丈夫だからさ、みんなは店に――」
「店に行くのは火原がそいつを取ったあと。だから責任重大だぞ。手早く済ませろよ?」
「みんな……サンキューな!」
 嬉しくて青山の背中を包むようにして叩くと、彼は笑いながらキャッチャーを指差す。
「わかったら、ホラ、早くやれって。俺たちは腹が減ったんだって」
「りょーかい!」
 ――今度こそ、絶対。そして明日、香穂ちゃんに『ハイこれ!』って渡してあげよう。
 いつも元気な彼女の顔を思い浮かべる。
 一緒に居るだけで元気になる。いろんなことに気づかされたり、勇気をもらったりする笑顔。明るい彼女の性格はその音色にも現れていて、のびのびとおおらかで、そして聞いていると嬉しくなるような音だ。
 そんな彼女の笑顔をいつだって、毎日だって見ていたい。笑顔を作るモトというのがあるならば、自分もそのモトの一つになれたらどれだけ嬉しいことか。
 ――笑った顔、おれ本当に大好きなんだ。怒った顔も、ちょっと拗ねた顔も可愛くて好きだけど、でも笑顔が一番だよ。目を閉じて思い浮かぶ顔はやっぱり太陽みたいな明るい笑顔なんだ。
「取るぞ〜!」
「おおっ、気合入ってます、火原選手!」
「あったりまえ! サポートよろしく!」
 茶化す仲間にも気合の入った言葉で応え、目の前のオルゴールをきりっとした顔で真っ直ぐに見据えた。


「あっ、加地くん! よかった〜、加地くん居てくれて」
「え……火原さん? どうしたんですか、そんなに急いで」
 放課後の普通科二年の教室前。廊下を走るな、と何度か教師にたしなめられたが、それでも走ってここまでやってきた。
 目的は勿論、この手にあるオルゴールを渡すためだ。
 昨日はあれから仲間の協力もあってか三度目で景品を手にすることができた。本当に三度目の正直という言葉があるんだな、と妙に感心したが、苦労して手に入れたオルゴールを渡すにも、会いたいときに限ってオケ部の後輩に呼び止められたり、教師に呼び止められたりとなかなか思うように行かない。
 やっと自由になった放課後も、彼女の姿はどこを探しても見つからず、最後の頼みの綱とばかりに教室までやってきたのだ。
「うん、あのさ、香穂ちゃんどこで練習しているかわかるかな?」
 息を整えながら尋ねると、加地はわずかに目を丸くする。
「日野さん?」
 偶然加地に会えたからよかったものの、その教室に残っているものの姿は数人足らず。あと少しでも時間がずれていたらまたも空振りをするところだった。
「ちょっと大事な用があって……。さっきから探しているんだけど、どこ探しても見当たらないんだ。加地くん、何か聞いてる?」
 大きく息を吐いて尋ねると、彼は少し考えるような仕草を見せた後、そういえば、と何かを思い出したように呟く。
「最近ちょっと肌寒いから室内で練習しようかな、って言っていたような気が……。エントランスなんかはどうですか? あそこ、人が集ってにぎやかだから多くの人に聞いてもらうにはいい場所なんだ、って前に言ってましたよ」
「う〜ん、エントランスかぁ……。実はさっきも探したんだよね。でも、見つからなくて」
 一通り思い当たる場所には足を向けたものの、本人らしき姿はやはりなかった。
「そうですか。じゃあ、僕も日野さんを見かけたらすぐに連絡しますよ。今から練習しようと思っていたから、ひょっとしたらどこかで会うかもしれません」
 にっこりと笑みを向けられ、火原も明るく笑って返す。
「ありがとね。助かるよ」
 踵を返し、また来た所を戻ろうとする火原の背に、加地は少し声を大きくする。
「でも、火原さんのほうがきっと見つけるの早いかもしれませんよ」
 その声に振り返ると、軽く肩を竦めて彼は言う。
「ほら、愛の力っていうでしょ?」
 その言葉に最初は面食らった火原だが、昨日仲間に茶化されたこともふと思い出し、小さく笑みを返す。
「……だね!」
 今度目を丸くするのは加地のほうだった。
「さらっと言われちゃったな……」
 そう呟く彼に、「それじゃ、ありがとうね!」と明るい声を残す。
 ――愛の力、か。うん、そういうのって本当にあると思う。
 悪くないな、と心うちで納得しながらも廊下を駆け抜けた。
 そして加地にも言われたこともあり、一度立ち寄ったエントランスへと真っ直ぐに向かうと、少し前まではなかった人の輪がそこにはあった。
 お昼ほどの喧騒はないものの、ざわめくエントランスでひときわ艶やかな音色が火原の耳に届く。校内でのバイオリン演奏者は数多く居るが、この音色を奏でる者を当てる自信が火原にはある。
 ――見つけた。香穂ちゃんだ。
 人の輪に向かって足を進めると、その輪の中心に居るのはやはり香穂子で、時折まぶたを閉じたり楽しそうに目を細めたりと心地よさそうに演奏している。曲目は『ジュ・トゥ・ヴ』だ。
 華やかな曲目を好んで演奏する火原だが、こういう優雅さの中にも透明感がある曲も好みだ。奏者の解釈にもよるが、少しの切なささえ感じる音色に心をつかまれたような気持ちになる。ミスタッチが少ないので、随分と弾きこなしていたのだろう。
 魔法のバイオリンがなくても、彼女の音色は彼女だけのものだ。だってこんなに自分の気持ちを惹きつけてやまないのだから。
 ――頑張ってるよな、香穂ちゃん。どんどん上達してる。感心してるばかりじゃなくて、おれも、頑張らなくちゃ。
 この曲なら火原も参加ができる。
 香穂子の頑張りに負けないよう自分も練習しなくては、と耳を傾けながらも心うちで思うのだった。
 やがて演奏が終わり、感嘆の息と共に拍手が大きく沸き起こる。いつの間にか聴衆が増えていたようだ。
 そのギャラリーと拍手とに彼女は驚いたような顔をしていたが、そのうち照れくさそうに笑って一礼をする。
「上手いよな」「コンサート、聞きにいこうかな」などとそれぞれに小さな言葉を残しながら散っていく者たちの中、ケースにヴァイオリンをしまいこむ香穂子の背中に火原は声をかける。ただ声をかけるだけのことなのだがこの瞬間が最近はいつもくすぐったい。早く言葉を交わしたいと思うけれど同時に胸がドキドキして少しだけ苦しい。
「おつかれさま、香穂ちゃん」
「……火原先輩?」
「いい演奏聞かせてもらったよ。やっぱりここにきて正解だったかな」
 得した、と笑う火原に香穂子も満足げな笑みを見せる。
「少しミスがあったけど、でも気持ちよく弾けました」
 そして明るく敬礼をする彼女に、火原も同じように指先をぴんと伸ばして敬礼で返す。
「うん、しっかりそれが伝わってきました!」
「楽しかったなぁ。……でも、いつのまにかあんなに人がいたのにはびっくりしましたけど」
 照れたように肩を竦める彼女は、どうやら本当に聴衆の多さに気づいていなかったらしい。
「それだけ集中していたってことじゃない? いいことだよ、そういうのって。おれ、聴いてて香穂ちゃんワールドに引き込まれちゃったしね」
「ワールドですか? あははっ、ありがとうございます。ところで、先輩は? 今日はオケ部にでも顔出しするんですか?」
「ううん、今日はナシ。だから――……アレッ。……だからなんだっけ?」
「は、はい?」
「あっ! そうだ、おれ香穂ちゃんをずっと探してたんだっけ! 忘れてた」
 明るい香穂子の笑顔につられて火原ものんきに笑顔を浮かべていたけれど、ここまできた目的は別にあったのだった。
 手の中にあるものを彼女を渡すこと。それが一番の目的だったのにすっかりそれを忘れてしまっていた。
「私を?」
「そうそう! 実は今日の放課後にここ来るの二回目なんだよ」
「えっ、じゃあ行き違いになっちゃったのかな。私、授業が終わったら先生に呼ばれて職員室に行ってたんですけど、そのあと真っ直ぐにここに来たから」
「うわ、なんだ職員室だったのか……。それじゃ見つからないわけだ。でもよかった。やっと見つかった。……あ、えと、あのね、香穂ちゃん。その……なんていうか、おれ、君に渡したいものがあって」
「渡したいもの? なんだろう」
 きょとんとする彼女に火原は手の中にある小さな箱を差し出そうとするのだが、どうもさっきから視界にちらちらと写るものがある。
 何の気なしにチラッと視線を流すと、そこには昨日のカラオケメンバーがまるで団子のように仲良く揃っており、ぱくぱくと動かしているその口は「イケ!」「渡せ!」「告れ!」と好き勝手なことばかり言っている。まるっきり人事だ。
「……あ、あいつら〜」
「えっ? あいつら?」
 香穂子もさすがに気がついたのか、火原が向ける視線の先を見ると「あれっ?」と短い声を上げる。
「あそこに居るのって、火原先輩のお友達、ですよね……?」
 幾度か瞬きを繰り返す香穂子に、火原はうん、と困った顔で答える。
「昨日はすっごくいい友達だと思ってたけど。――コラ!」
 コラ、のところをひときわ大きくして言うと、友人たちは「うわ、やべっ!」と呟き、そして口々に「頑張れよ!」「ちゃんと渡せよ」「バイバイ、日野ちゃん」と残して慌てて去っていってしまう。その騒がしさに、周囲の人々は何事かと友人や火原たちを見る。
「何がバイバイだよ、まったく……」
「あはは、なんか楽しそうでしたね」
「あいつら、人事だからだよ」
「人事?」
「あ……。うん、その……か、香穂ちゃん!」
「は、はい」
 しゃきっと背筋を伸ばす火原に合わせて、香穂子も姿勢を直す。
「こう、手をだしてもらっていい?」
 自分の手を大きく開いて香穂子に差し出すと、彼女もそろそろと手を開く。
「ありがと。それじゃ、ハイこれ! 君にプレゼント」
 その手のひらの上に昨日のオルゴールの箱をぽんと載せる。ゲームの景品だから包装も何もあったものではないが、なんでもない日に何気なく渡す分にはちょうどいいだろう。
「せ、先輩!? あ、あのっ、これ……!」
 箱にしっかりとキャラクターの名前とオルゴールと明記されているから香穂子もすぐにわかったのだろう。大きく目を開いてはオルゴールと火原とを交互に見比べている。
「うん、この前のゲーセンで取れなかったやつ。すごく欲しそうだったから、どうしてもあきらめたくなかったんだ。受け取ってもらえる?」
 照れくさくて、恥ずかしくて、ちょっとだけ首を傾げて尋ねると、香穂子は一度頷いたあと、もう一度深く頷いた。
「もちろんですよ! でも先輩、取るの大変だったんじゃ……」
 一緒に挑戦したときなかなか取れなかったことを思い出したのだろう、気遣うように眉を下げて火原を見上げる。
「昨日、さっきの奴らと一緒に駅前歩いてたんだけど、そのときにちょうどそれが目に入ってね。三人寄れば文殊の知恵っていうより、五人寄ればっていうヤツだけどさ。そしたら、こないだがウソみたいになんとかなっちゃったんだ。なんと二回目で取れました!」
 ブイサインを作って笑う火原に香穂子は「わ、すごい!」と驚く。
「みんなには『オルゴール〜?』って冷やかされたけど、でもホント助かったって思った。すごかったんだよ、チームワーク。あ……、でもあっちだー、こっちだーって、男がわいわい騒ぎながら夢中になってクレーンゲームやってたんだから、傍から見たらうるさかっただろうなぁ」
 クレーンを動かしては声が上がり、失敗しても声が上がる。もちろん景品が取れたときは大はしゃぎだった。
 単なる馬鹿騒ぎになってしまったけれど、でもそれがとても楽しかった。
 好きな子のために必死になって景品を取ろうとしていたのが、いつの間にか仲間とも楽しめるものにもなっていたのだから不思議だ。
 楽しく、嬉しい気持ちは繋がっていくのだと実感した瞬間でもあったのだ。
「でも、香穂ちゃんに渡せてホントによかった。気に入ってくれるとすごく嬉しいよ」
「気に入らないわけないですよ!」
「ホント?」
「ホントです! すごく……すごく嬉しい」
 笑顔を浮かべ、大事そうに両手で箱を包む香穂子を見ているだけで幸せな気持ちになる。嬉しくなる。
 この笑顔が見たかった。
 喜ぶ顔、それが一番欲しかった。
 胸に小さくともる暖かな光は彼女がもたらすもの。この笑顔のためならいくらでも頑張れる。これからも頑張っていこうと思う。
「……よかった」
 目を細めて小さく呟く火原に、香穂子は「そうだ」と思い出したように手にある箱の蓋をそっと開く。
「確か、このオルゴールの曲って――」
 取り出したオルゴールの底にある螺子を数回巻くと、柔らかい音色が聞こえてくる。その曲名は火原もよく知っているものだ。
「うん、やっぱりそうそう」
「あ、『星に願いを』だね。おれ、この歌すごく好き」
「私もです。ボックスに小さく書いてあったのが見えたから、余計に欲しくなったんですよ」
「そうだったんだ。……へぇ、気がつかなかったな。これだったらおれも欲しかったかも」
 愛くるしいクマのキャラクターは自分にはちょっと可愛すぎるかもしれないが、このメロディーがあるなら話は別だ。第一、香穂子とおそろいならなんだって嬉しい。
「じゃあ、これ、せっかく取ったんだから火原先輩どうぞ」
 にっこり笑ってオルゴールを差し出す香穂子に慌てて首を振る。
「ええっ!? ご、ゴメン香穂ちゃん! おれ、そういう意味で言ったんじゃないよ。それはあくまでも香穂ちゃんのために取ってきたんだから受け取ってやって」
「でも……」
「おれだったら平気。またあいつらにサポート頼んで取ってくるから。ねっ?」
「……ハイ。じゃあ、お礼させてもらってもいいですか?」
「あのね香穂ちゃん、そんなに気を使わなくてもいいよ。これはおれが勝手にしたことなんだしさ」
 いつかと同じことを繰り返してるな、と可笑しく思うのは自分だけの秘密にしておくとしても、ささやかなことだから気を使わずそのまま受け取ってもらいたい。こういう小さなことしか彼女にしてあげることができないのだから。そう思う火原に対し、彼女はいたずらっぽく笑みを浮かべる。
「嬉しいって思ったから、その気持ちを少しでも返したいんです。ホントにたいしたお返しもできなくて申し訳ないくらいですけど……。その、よかったら受け取ってもらえませんか? 『星に願いを』」
「えっ?」
「私の演奏でよければ。火原先輩に一曲プレゼントです」
 照れくさそうに肩を竦める彼女は「間違えちゃうかもしれないけど」と小さく付け足す。
「香穂ちゃんの演奏……」
「はい。よければ弾かせてください」
 目を細める彼女のことをまじまじと見つめていたが、火原も少しの間を置いたあと、そっと笑みを浮かべて答える。
「――はい。お願いします」
「よかった! 了解です。ふふっ、待っててくださいね。今楽器を用意しますから」
 嬉しそうに背中を向け、鼻歌をうたいながら再びケースからヴァイオリンを取り出す彼女。
 不意にその細い肩を抱きしめたくなったけれど、大きく息を吸い込んでそれを必死に押し隠す。
 ――まいったな。おれ、ホントに香穂ちゃんのこと、好きだ。……好きで、胸が苦しいくらい。なんでもないことが特別で、幸せで、苦しいくらいだよ。
 嬉しいと思うことを彼女なりの形で自分に返してくれる。
 想う相手からの思いもしないプレゼントは、これ以上ないくらい幸せなもの。
「お待たせしました。よし――と」
 彼女がヴァイオリンを構えることにより、一瞬にして凛とした空気が流れる。音を作り出す指先、肘、肩とそれらの角度は絵になるくらいとてもきれいだ。
 そしてなにより緩くカーブを描く口元はどこか満足げに見える。
「嬉しい気持ちを分けてくれたたった一人の人へ。……聞いてください」
 When you wish upon a star. ――星に願いを。
 昨日より、今日より、もっとこの曲が好きになりそうな気がする。
 そしてもっと彼女のことが好きになる自分をはっきりと自覚したのだった。
 艶やかな音色はいつまでも心に残った。



End.
2007/06/07・16UP
⇒ Back to “OTHER” Menu