金色のコルダ2

温もりを、半分【柚木×香穂子】



 屋上に上がったところで気がついた。
 耳に聞こえるこの音色は柚木のものだ、と。
 加地ほどではないが香穂子にも聞き分けられる耳がある。
 本当だったら屋上で練習でもしようかと思っていたところだが、随分と心地よさそうに吹いているようなので、自分はさらに上まで上がらず、下のベンチでそっと聞いていようと思っていた。
 ふう、と浅く呼吸をしてまぶたを閉じる。
 柔らかい音色は胸にそっと広がっていく。
 滑らかでスマート。そしてそつがない流れ。評論家のように気の利いた言葉は浮かびやしないが、香穂子なりに彼の演奏だと確信できるものがすべてそろっている。コンクールのときは幾分軽やかに聞こえた音色も、ここ最近に至っては深みが増したように思える。
 ――なんて柚木先輩に言ったら、生意気だ、って絶対に怒られるけど。
 口角を上げる表情を想像しては小さく肩を竦め、唇にそっと笑みを浮かべた。
 今日は日差しが暖かく、そして風もゆるやかな一日だ。
 午後も差し込む日差しに教室が暖かくなっていたくらいで、隣の席の加地とは『眠くなっちゃうね』とひそひそ声をひそめて笑ったものだ。
 けれどそれは昼間だけの話で、夕方になるとさすがに晩秋の肌寒い空気が感じられる。冷えた空気が夜空をつれて降りてくる、とでもいうべきだろうか。屋上に来るとそれは身にしみるほど。
 吹く風は少し強く、そして冷たく感じる。
 ――コートでも着てくればよかったかな。でも、コートってごわごわしてちょっと弾きづらいんだよね。
 でも襟元から入ってくる風の冷たさにはぶるっと身震いをしてしまいそうになる。これでは練習どころじゃないだろう。
 じっとしていてはきっと指先も冷たくなってしまう。けれどこの席を離れるのはちょっと惜しい。
 上に居るであろう柚木のほうを見つめてはふう、と息を漏らす。もう少し音色を聞いていたい。顔を見ることができなくても、そばに居るだけで違う。
 こんなに近くにいても話しかけないのは、彼の邪魔をしたくないからだ。
 調子がいいときは好きなように思う存分やらせておくのが一番いい。心行くまで音を楽しめる時間というのは、コンクールやコンサートといった間近に控えたものがあるときはなかなかないものだ。楽しむことは大事だとわかっていても、どうしてもこなさなくてはいけない義務感というのが先に生じてしまう。
 だから調子の良い時はそっとしておくのが一番。火原のように大勢で盛り上がることが好きなタイプなら別だろうが、柚木の場合はおそらく違うだろう。
 おとなしく楽譜でも見直しておこう、と香穂子がバッグを開けたときだった。
 不意に視界に写るのは空から舞い降りてきたであろう白い紙。はらはらとゆっくり降るそれは、香穂子の足元すぐそばに落ちた。拾い上げてみるといくつか書き込みがしてある楽譜で、どうやら途中のページのものらしい。
「あれっ?」
 見上げてもここは屋上。ただ茜色の空が広がるばかりだ。
 となると、だ。
 振り仰ぎ上の階を見てみると、手すりからわずかに身を乗り出し、驚いたような表情を見せている柚木がそこにはあった。
「……日野――さん」
「柚木先輩。これ、ひょっとして……」
 拾い上げた楽譜を掲げる。
「それは僕のだよ。風に飛ばされてしまって驚いたよ」
 髪を押さえ、困ったように笑う。おそらくページをめくるときに風がいたずらをしたのだろう。
「他は大丈夫ですか?」
 ここは屋上。広場や正門前ならまだしも、高いところから飛ばされてしまっては回収できない可能性もある。運よく香穂子が一枚拾ったものの、他はどうなのだろう。
「ああ、大丈夫だよ。ちゃんといい子にしていてくれたみたいだ」
 穏やかに笑う柚木の手には数枚楽譜が収められていた。
「よかった」
 安堵し、香穂子は階段へと向かおうとするが、ふと柚木に手で制される。
「ああ、いいよ。僕が行く。日野さん、君はそこで待っていて」
「えっ、でも練習中なのに……」
 気になって語尾を濁すと、穏やかな笑みのまま突然口調と声色を変えて柚木が言う。
「いいから。お前もおとなしくいい子にして待ってろ。まさか楽譜より軽く飛んでいくなんていうのはないだろう? すぐ楽器を片付ける」
 髪をなびかせ、柚木は手すりから姿を消す。
 ――せ、先輩、人が居ないってわかったら変身したよ……。すごい変わり身の早さ……。
 今更だがきょろきょろとあたりを見渡す。柚木が口調を変えるくらいだから当然人はいなかったのだろう。その点香穂子よりも柚木のほうが何倍、いや何十倍も抜かりはないはずだ。
 妙に落ち着かない気持ちで待っていると、やがてケースとフォルダを持った柚木が階段を降りてくる。
「楽譜、ありがとう」
「いえ。……でも、びっくりしちゃいました。いきなり降ってくるから」
「俺も油断した。随分と強く吹いてきたと思ってはいたんだが」
 香穂子の隣に座り小さく笑う。さっきまでおろされていた髪は一括りにしているが、幾筋か頬にかかっている。
「集中していたから、気づかなかったとか?」
「そうだね。今日は調子がいい。こんな時間になるまで気づかずに夢中になっていたよ」
 空を見上げた柚木につられ、香穂子も同じように視線を上げる。
「もう音楽はできない、と引導を渡されてからの方が心から楽しめるなんて可笑しなもんだ。それに、家のことが大分落ち着いてきたとはいえ、まだ不安定な状況には変わりないのに、それでも俺はこうしてフルートを演奏している。それも調子が良いというんだから笑えるね。案外、俺は家に固執していないのかもしれない」
「そんな……」
 ――気になっていないわけ、ないじゃないですか。
 そう思ってはいるものの、ふっと自嘲的に笑う横顔に、香穂子はなんて声をかけていいのかわからなくなる。
 確かに心地よく演奏ができることはすばらしいことだ。けれど、それが限られた僅かな時間の中でのひと時となるならば、手放しで喜ぶことは難しい。誰しも時には限りがあるが、『音楽を楽しむ』時間は彼にはそれほど多く残されていない。それは最初から決めていたことだ、と柚木は言っていた。
 けれど自ら判断して決意することと、意図せず流れに沿わなくてはいけないのとでは意味合いがまるで違ってしまう。彼の場合、最初は前者であったが、それが彼を取り巻く環境のせいで、この最近で後者へと変わらざるを得なくなってしまった。
「……ああ、おまえがそんな顔することないさ。そういう顔をさせるために言ったんじゃないよ。打たれたことがなかったからわからなかったが、俺は案外打たれ強いのかもしれないな。……まあ、そりゃ最初は動揺したさ。言葉には出さずとも、揺るがないと信じて疑いもしなかったものが派手に動かされたんだからね。なんだかんだ言っても俺もまだまだ若いし、第一、世間からみれば苦労知らずのお坊っちゃんだ。でも、今は不思議と落ち着いている。自分でも驚くほどにね。音楽の道も閉ざされ、柚木の家も不安定だというのにね。なんなんだろうな、これは」
 空を見ていたその横顔が香穂子を見る。目を細めるその様子は本人が言っているようにとても落ち着いており、穏やかにも思えるくらいだ。
「こんな俺を、君は冷たいと思うかい?」
 穏やかに問いかけてくる柚木に首を振る。
「冷たいだなんて、そんな! ちっとも思いません! だって、先輩すごく辛そうだった。コンサートのとき、音楽が好きだって、先輩心から言っていたじゃないですか!」
 『亡き王女のためのパヴァーヌ』――この曲を演奏したいとあの時柚木は言い、そのメロディーを奏でた。
 そして音楽を愛していると。
 あの柚木の音色は本当に美しかった。伸び伸びと思う存分音楽を楽しんでいた。何より本当に冷たい人間はおそらくあの場で愛を語りはしないだろう。
 自分の弱みだって口にしたりはしないはずだ。
「ああ、確かに言ったね。でも結局は自分のことだけだろう、俺が口にしていたのは。家の心配より、あのときは音楽の――自分のことばかり考えていた」
「それでも……それでも、ご家族のために、お家のために愛している音楽をやめようと決意したでしょう?」
「仕方がないから、と言ったら?」
 試すような瞳が真っ直ぐに香穂子を見つめる。
 どこか冷ややかで、でもなぜか熱さを感じるその視線。温和な雰囲気で日ごろはかくしているのかもしれないが、彼の感情の振り幅は意外に大きいのかもしれない。ただ、それを外に出さずに上手くコントロールできるすべがあるから周りには知られていないだけなのだろう。
「仕方がないといっても、心から愛しているものを自ら手放すのは、なかなかできるものじゃないって、私は思います。だって……私たちまだ高校生なのに……。大人でも難しいことだって、私、なんとなくだけどわかります。だから……だから、仕方がないとか、自分のことだけとか、どんな理由であれ、それを全部含めても柚木先輩は冷たくなんかないですよ。その……そのっ、絶対冷たくなんてないです!」
 つたない言葉を並べている、と香穂子は思った。語彙も少なく、また人生における経験が乏しいゆえ上手く言葉では言い表せないけど、でも少しでも思いが伝わるように必死になって紡いだ言葉たちだ。
 ――伝わればいい。気持ちがちゃんと伝わってくれるなら、それでいいの。バカだって笑われてもかまわない。
 真っ直ぐに柚木を見つめると、彼の瞳が一瞬揺らいだように見えた。
「……お前、本当にバカだね」
 ふっと笑って視線を逸らす柚木。ああやっぱり、と思ったが急に恥ずかしさがこみ上げてくる。頬や耳に熱が集まる。
「わ、わかってます! 絶対にそれ言われると思いました」
「でも、そのバカな子の言葉を嬉しいと思っているんだから、俺もそろそろヤバイらしい」
「えっ……」
「バカな子ほど可愛いって、本当だね」
 楽しそうに笑う声に驚き、まじまじと柚木を見るが、ふと気づくことがあった。
「あ、あのう……先輩? さっきから随分バカバカ言ってますけど……。一応私だって傷つくんですよ?」
 わずかに唇を尖らせて言うが、それはさらりと聞き流されてしまった。
「そう?」
「そうって……もう、柚木先輩!」
「なら、その傷を癒してやる責任が俺にはあるよな。違うか?」
 妙に艶めいて見える笑みに、香穂子は思わずたじろぐ。
 時々言葉が乱暴になったり、態度が随分と横柄になったりするが大分慣れてきたと自分では思っていた。けれどこの表情だけはだめだ。ちっとも慣れやしない。
 ――絶対に裏がある言葉だし、言葉に詰まる分、余計に楽しまれるのだってわかってるけど……わかってるけど、でもだめなんだってば。
 ますます頬が熱くなっていく。
 上手く言葉だって返せないからただ柚木を見つめるばかりだ。
「そんなに期待されたら、ますます何かしてやらなくちゃならなくなるぜ?」
 可笑しそうに噴き出す柚木に、今度は全身が羞恥でかっと熱くなる。
「け、けけ結構ですっ! それに、期待なんて、し、していませんから!」
「なんだ、つまらない奴だな。もっと楽しませてくれたっていいのに」
「つまらなくていいです」
 思い切り頬を膨らませ、上目遣いに睨むと、柚木はそれを見てただ楽しそうに笑った。
「さて……と。結構星が見えてきたな。こんなところで長居していたら体を冷やす。ほら、いい加減帰るよ」
「あ……はい」
 空を仰げば星が幾つか瞬きはじめている。言われてみれば結構時間が経っていることに気がつく。
 手先だけでなく足元からもひんやりとし始め、柚木に言われたことによりさらに寒さが増して感じられる。コンサートがまだ控えているので、体調を崩したら事だ。自己管理も忘れてはいけない。
「ま、なんとかは風邪をひかない、というからお前に限っては大丈夫だと思うが」
「柚木先輩」
 そう怒るなって、と笑う柚木に非難の目を向けるが、心うちでは本当にそうかもしれない、と香穂子も思ったりした。それはそれでいいのか悪いのか。少し切なさを感じる部分でもある。
 ――いいですよ、だ。私は前向きに考えるもの。馬鹿でもいいから健康第一。
 自らに言い聞かせ、うん、と小さく頷くが、不意に穏やかな声に名を呼ばれる。
「香穂子」
「はい?」
「今度はちゃんと声をかけるんだよ。息を潜めて聞いていなくたって構わないんだ」
「……わかっちゃってました?」
「わかるよ。大体お前、気配を消すのが下手なんだ。今まで俺に何回見つかったと思ってる?」
「それもそうでした」
 小さく舌を覗かせて肩を竦める。立ち聞きの類は大体柚木に見つかってしまっているのが不思議だ。
「仕方のない奴だ。気が向いたら、リクエストを聞いてやるから今度からはこそこそ隠れるんじゃないよ」
 隠れているつもりはないのだが、声をかけなければ結局そう見えてしまうようだ。なら次回からはその言葉に甘えた方がいいのだろう。
「えっ……。リクエストって、それ本当ですか?」
「ああ」
 嬉しい言葉に香穂子が表情を明るくすると、対照的に柚木はちょっと困ったような顔をする。そして手を伸ばしては香穂子の手をそっと包みこむ。
「だから、こんなに手を冷やすんじゃない。……本当に馬鹿なんだから」
 暖かい手のひらに包まれ、安堵を覚える。
「すみません……」
「せっかくだから、このまま暖めてやるよ。お前の家に着くまでね」
 包んでいた手を離し、今度は繋ぐようにして持ち変える。
「ゆ、柚木先輩! 人に見られたら……」
 人に見られたらどうするんだろう、と香穂子はハラハラする。
 この姿を見たら泣き崩れてしまいそうな者達の姿が簡単に浮かぶので、香穂子はとても慌てるのだが、柚木はまるで気にしていないようだ。
「俺がそんなヘマをするとでも?」
 眉を上げて柚木は妖艶に笑う。どこからそんな自信が湧いてくるのだろう、と思うがそれでも妙に納得できる言葉なのだから凄い。
「……確かに」
「それに、こうして掴んでいれば、楽譜のように風に飛ばされたりはしないだろう?」
 びゅう、と風に煽られる香穂子の髪を見つめては、そっと目を細める。
「私、そんなに軽くないですよ」
「知ってる」
 ――即答。……なんかくやしい。
 内心そう思うが、不貞腐れる隙を与える間もなく言葉を続けられる。
「でも、掴んでおきたい手なんだ、俺にとっては」
 手放したくないんだよ、と真摯な眼差しで柚木は言う。
 人望もあり、信頼も厚い彼がこの手を望む。
 望まずとも大体のものが手に入りそうな彼の手は、自分のこの小さく何も持たない手を望んでいる。
 大切な人に大切とされること。
 そんな奇跡はきっと長い人生の中でもそう多く起こりはしないだろう。
 たった一人に望まれること。
 そこから溢れる幸せ。
 それは繋いでいるこの手から伝わってくる。
「……どこにもいきませんよ、私」
 ――あなたのそばがいいから。時々意地悪だけど、それでもそばにいたいから。
 その言葉に、彼はとてもきれいに微笑んで言った。
「そうしてくれると、助かる」
 繋いでいるこの手は、とても暖かかった。



End.
2007/06/05UP
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